鵜が奪う水面の記憶
夕暮れの川面は、まるで誰かの吐息のようにゆらいでいた。
古い橋の下、黒い影が一羽、すっと水面を切り裂くように浮上する。鵜――この地域では漁師に飼われるはずの鳥だが、首に縄はなく、野生のそれとも違う、不気味な静けさをまとっていた。鳥は、じっとこちらを見ていた。橋の上から見下ろしているはずの私より、はるかに深いところを覗き込むような目で。私の視線の先、川底に沈む影がゆっくりと揺れた。
それは流木でも、石でもない。もっと人の形に近いもの――水死体。
「……また、見つかったのか」
背後で声がした。振り返ると、濡れた長靴を引きずるように歩く男がひとり。地元の消防団の団員で、捜索に駆り出されたらしい。
「これで、何人目ですかね」
「今月で三人目だ。変な流れでもできてるのかもしれんが……どうにも腑に落ちん」
男はため息をつきながら、川に目を落とした。私ももう一度、橋の下を覗く。しかし先ほどの鵜の姿は、いつの間にか消えている。まるで、沈んでいた“それ”を導いたあと、役目を終えたように。
「あんたも気をつけなよ。夜の川は、何を連れてくるかわからん」
そう言い残し、男は泥の匂いを引きずって暗がりへと歩き去っていく。恐らく遺体を川から引き上げるべく道具を取りに行ったのと仲間に連絡しに行くのだと思う。
私はしばらく動けなかった。川面は静まり返り、ただ水音だけが規則正しく響いている。それでも私は確信していた。
あの鵜は――ただの鳥じゃない。
この川で起きている不可解な失踪と死の“前触れ”だ。そして、私がこの町に戻ってきた理由も、もう逃げられない位置まで迫っていた。あの消防団員が言った通り、夜の川は、本当に何を連れてくるか分からない。だが、私にとっては、何も連れてこない静かな川面の方がよほど恐ろしい。それは、全てを飲み込み、何も語らない「無」の記憶のよう。水鳥も飛び跳ねる魚もいない夜の川というは、私が目を背けてしまうほどに恐ろしいものなんです。
私は橋のたもとから離れ、濡れた石畳を踏んで町の中心部へ向かった。この町、水ノ沢は、三方を山に囲まれ、その水脈のすべてがこの鵜飼川に流れ込むことで成り立っている。豊かな漁場であり、同時に、古くから「水神様の贄」を囁かれる土地でもあった。元々私はそうした伝説を記事にするべく来たわけですが、まさかこんな事になるとは。ついでに事件も追ってこいなんて無茶ぶり言われちゃったんだ。
町の明かりは、郷愁を誘うというより、ただ淋しい。十年ぶりに戻ってきた故郷は、シャッターが下りた店が増え、川底の泥のように澱んだ空気が漂っていた。
私は、町の外れにある古びたアパートの一室を借りていた。鍵を開け、冷たいフローリングを踏む。荷物は小さなトランク一つ。後々最低限の荷物がここへ届く予定にはなっていますが、今はとにかく記事の完成が最優先。机に置いたノートパソコンの画面に、白紙の原稿ファイルを開く。カーソルだけが、点滅していた。
――筆が進まない。書きたいことは頭の中にあるのに、指が動かない。キーボードに手をかけたまま、ぼんやりと窓の外を見る。二階の角部屋からは、すぐそこに鵜飼川が見える。さっきまで騒がしかったパトカーのサイレンが遠ざかっている。ああ、後で警察から聴取されるのかと思うと筆が走らない。
「鵜……」
私はスマホを取り出し、検索窓に「水ノ沢 鵜飼」と打ち込んだ。かつて、この川は養殖の鵜飼で有名だった。だが、現代では保護の問題や漁師の高齢化で廃れて久しい。だけども川にいる鵜は大半が漁師の管理下にあり、首輪を付けられているのが一般的とされている。だが、今日見たあの鵜には、確かに首輪がなかった。だけど野生の鵜ではない、と本能的に感じた。
いくつかのサイトをスクロールするうちに、ある個人ブログに行き当たった。地元の歴史研究家が書いたものらしい。
「水ノ沢の鵜飼は、通常の漁法とは異なり、鵜に「魂の綱」と呼ばれる特別な木綿の糸を首ではなく足首に結びつけていました。これは、鵜が水神の使いであり、魚ではなく、水面に映る「記憶」を捕らえるためだとされています......水ノ沢の鵜飼が廃れたのは、愛護団体の苦情や漁師不足だけでなく、一部の漁師がこの漁法の流出を恐れ、あえて業界から身を引いたからと言われています。」
私は背筋にぞくりとした感覚を覚えた。魂の綱。真実を捕らえる鳥。いくらなんでも馬鹿馬鹿しいと考える人が大半だが、この情報をみて、私は、今日の鵜が何かを探ろうとする意志を持った存在に見えた。まるで、この町の「歪み」を暴こうとしているかのように。
パソコンを閉じ、トランクの底から、古びたICレコーダーを取り出した。これこそが、私がこの町に戻ってきた真の理由。これのために編集部へ水ノ沢の伝説を推すのは結構大変だった。レコーダーを再生する。ざらついたノイズの後に、一人の男の声が響いた。私の兄、真一の声。彼は一年前、この町で失踪し、未だに見つかっていない。
「――あいつら、また来る。あの黒い影が、俺を、見つめてるんだ。俺、もう逃げられないかもしれない……」
途切れ途切れの声。恐怖に歪んでいるのがわかる。
「足首に……縄がついてた。あれは、養殖の鵜じゃない。あれは、俺を……」
次の瞬間、何かが水面から現れるような大きな音。そして、しばらくもみ合いらしき音ののち、お兄ちゃんの叫び声が響いた。
「見るな!俺の…俺の、記憶を食うな――!」
そこで録音は途絶えていた。私はレコーダーを握りしめた。兄が最後に言った言葉。そして、川底に沈んでいた水死体と近くにいた首輪のない鵜。あの鵜は、ただ死者を導いているのではない。
人間の中にある真実.....つまり秘密、後悔、あるいは罪が刻まれた「記憶」を、引きずり出して食らっているのではないか?そして、その「記憶」を捕食された人間は、意識を失いただの事故として処理される水死体として川底に沈む。憶測だらけで非科学的だとわかっていても、心臓が早鐘のように鳴り止まない。もっと調査を進めなければ。
私は窓の外、暗い鵜飼川の方へ視線を向けた。窓の外、川の方角は闇に沈み、どこまでが山裾でどこからが水面なのか判別できなかった。その境界の曖昧さが、まるでこの町全体を覆う“何か”の輪郭のように思えて、私は思わずカーテンを閉じた。レコーダーは、まだ手の中で微かに震えている気がした。
――「水面の記憶」。
それはこの町では、昔から禁忌として語られてきた言い伝えだった。幼い頃、祖母が布団の中で私たち兄妹へ囁くように話してくれたことがある。
「水はな、人の顔も、人の罪も、よう映す。けんど、重すぎる罪を映しすぎると、向こうから“引きずられる”んよ」
あの時は、ただの古い迷信だと思っていた。だが今は、兄の震える声が、その迷信を否定しようとはしない。
深夜二時。 眠れないまま時が過ぎ、気づけば私は、トランクの脇に置いていた別の封筒へ手を伸ばしていた。このレコーダーと封筒は、どちらも突然差出人不明で私の元へと送られてきた。私はレコーダーの中身を確認して愕然とした。この時、既に兄は行方不明になっていた。心当たりが全くなく、もう諦めかけていたそんな時期。だからこそこの手掛かりは、私にとって運命のようだったのです。
茶色い封筒の角は折れ曲がり、そこに油じみの黒い指跡が残っている。封を開けると、中には一枚の写真。
水ノ沢町立図書館の裏手、川に面した小道で撮られた、兄の最後の写真。兄の顔は強張り、何かを背後に気にするように振り返っている。そしてその水面には……兄の影とは違う“もう一つの黒い影”が映っていた。
人の形をしているようで、していない。輪郭は滲み、鵜の長い首のようにも見えた。私は写真を裏返した。兄の字で、震えた線のメモが残されている。
「“うつるまえににげろ”」
逃げる?誰から?何から?封筒の中には、もう一枚紙が入っていた。折りたたまれており、開かないと中身が見えないが、文字が細かく書かれていることがおぼろげに分かる。一体何が書いてあるのだろう....?
中身を開こうとしたその時、レコーダーが勝手に再生を始めた。だが、そこから聞こえてきたのは、兄の声ではなかった。
『かえせ』
一言。短く、低く、湿った声。まるで喉の奥から絞り出すような音だった。そして、ふっと再生が止まった。あれは兄どころか、人間の発声でもなかったように思う。私は呆然としながらも、すぐに別の恐怖に襲われた。アパートの玄関で、ガリッ……ガリッ……と何かが引っ掻くような音がした。硬直したまま耳を澄ますと、今度は水滴の落ちる音が連続して聞こえる。私の目の前で水滴が落ちる。外を見ても、雨など降っていなかった。
ドアの前に立つのは誰か、兄ではないはずだ。私はそっと立ち上がり、玄関までの暗い廊下を見つめた。引っ掻くような音は止んだ。代わりに聞こえるのは、規則正しく床に落ちる「ポタ、ポタ、ポタ」という水滴の音。暗い廊下の至る所で雨漏りのような雫が所々落ちていた。電気がつかない。心臓が、耳の奥で激しく打つ。
私は意を決して懐中電灯を点け、一歩踏み出した。ドアに近づくにつれて、音は大きくなる。私は壁伝いにそっと移動し、玄関の隅に立てかけてあった、折り畳みの傘を掴んだ。華奢なアルミ製の柄が、唯一の手持ちの武器になるのかも?
「誰……」
喉が張り付いて、蚊の鳴くような声しか出ない。
返事はない。ただ、水滴の音がリズムを刻む。その音は、まるで川底で石を転がすような、冷たく、生命力の無い響きだった。突然、雨漏りが止む。そして、静寂。息を詰める。
玄関のドアノブが「カチリ」と、ごくわずかに動く音がした。鍵はさっきかけたはずだが、開けられてしまった?私は傘を強く握り締る。不意に、兄の写真の裏に残されたメモを思い出した。
「“うつるまえににげろ”」
映ると言えば、水面に映る「記憶」。人間の目に映るものではないらしいが、顔が映るように、自分自身の深層心理すら映っているのかもしれない。さっき調べてわかったことだが、鵜はとても目が良いらしい。すると、ひょっとしたら私たちには見えない記憶が見えているのかもしれない。
そして、先ほど聞こえたボイスレコーダーの言葉。
『かえせ』
ひょっとしたら、私の目に見えない何かは、私から記憶を奪い取ろうとしているんじゃないか?なんの記憶を?そこまで考えて、私は、もう一度写真に目を落とした。図書館裏の川面。兄の顔の横に映る、人の形に近い、鵜の首のような黒い影。その時、一つの可能性が、冷たい水のように脳裏を駆け巡った。
水ノ沢の鵜は、魚ではなく人間の記憶を食べるという都市伝説。祖母の”重すぎる罪を映すと、引きずられる”という言い伝え。もし、私の兄が、かつて犯した、あるいは隠していた誰かの“罪の記憶”を、鵜に喰われる前に、預かっていたのだとしたら?だとしたらドアの外に立つ者はその「記憶」を取り戻しに来た、何者か。
私は意を決し、傘の柄を握り直した。もう逃げられない。兄の失踪も、連続する水死体も、そして私がこの町に持つ因縁も、全てこの玄関の向こう側にある。私は逃げも隠れもせず、玄関に立ち尽くす。静寂の中、施錠されていたはずのドアが、ゆっくりと内側に開き始めた。
冷たい、川の匂いが流れ込んでくる。泥と藻、そして微かな魚臭さ。闇に浮かぶ、その影は「人」の形をしていた。だが、その輪郭は揺らぎ、まるで水中で見ているかのようにぼやけている。
男性――いや、女性? 区別がつかない。ただ、全身から、絶え間なく水が滴り落ち、床に小さな水たまりを作っている。
そして、その顔。
目鼻立ちは曖昧だが、口元が不自然に大きく裂け、まるで何かを丸呑みにしようとするかのように開いていた。その暗い口腔の奥で、黒い影が微かに動いているのが見えた。それは、まるで鵜が獲物を喉の奥に押し込める時の、あの冷たい動き。
影は、私を見つめている。いや、正確には私が左手に持つ封筒の方を見ている。まさか....写真と一緒に入っていたあの紙のことじゃ?
「ワ……タ……シ……ノ……」
水音のような、濁った、人の声ともつかない音が、影の裂けた口から漏れ出た。
「…ナマエ……ハ……スズキ」
名を名乗った。なぜ? 私の思考は完全に停止してしまい、その場から一歩も動けない。影の体が、床の水たまりを濡らしながら、一歩、私へ歩み寄る。ずるり。濡れた革靴が床を滑る音。私は少し引いた。また一歩。その足がフローリングに触れた瞬間、水たまりが生き物のように広がった。湿りを帯びた冷気が部屋の奥まで押し寄せ、私の肌に鳥肌を刻む。
「……キオク……カエセ……ワ……タシ……スズ……キ」
影の喉奥で、黒い塊が蠢く。それは人間の声帯では決して生まれない、水底の泡が弾けるような音を混ぜていた。手に握った傘が、かすかに震える。怖い。
こんな化け物を相手にしているなんてとても信じられない。いままでこういうオカルトじみたものは今までいろいろ取材してきたが、怪奇現象に真っ向から立ち向かうのは初めてだ。頭から滴り落ちる水は、ただの水ではない――濁りを帯び、どろりとしている。まるで、川底の沈泥そのものを引きずってきたようだ。ひょっとしたら.....さっき見たあの水死体が、ここまで来ているのではないだろうか?
影が再び一歩踏み出す。そこから、床が、壁紙がじわりと腐食していく。湿気が異常な速さで広がり、この部屋全体が川の底へ沈んでいく錯覚に陥る。湿気が広がり、雨漏りが多発。
壁一面に水滴が染み、木枠の窓は歪み、窓硝子は水圧を受けたように細かくヒビ割れる。息をするのも苦しい。肺に入る空気が、まるで川底の冷たい水だ。心臓が鼓動するたび、冷気が血管を通って全身を這いずり回るよう。耳の奥に、水のせせらぎがこだまする。私は後ずさりした。だが影は、無表情――いや、顔の輪郭すら曖昧なまま、首を傾けた。
その仕草は人間に似ていた。
「…ナ……マエハ……スズキ」
しかしその瞳だけが、鵜のように黒く深く、光を吸い込んでいた。その瞳は、明らかに左手へ向けられている。
「カ……え……セ……」
私の呼吸が浅くなる。影の足元の水たまりが突然大きく波打ち、私の足元を掴むように広がった。冷たさが足首にまとわりつき、まるで生き物の手のように締め付けてくる。それに驚いて、私は尻もちをついてしまった。向こうの右手がこちらに伸びてくる。
「やめ……っ!」
私は傘で右手を突き刺す。
だが――傘の先が影の手のひらに触れた瞬間、水の底を突き刺さった時のような抵抗が返ってきた。手が痺れるほどの冷気が傘を通じて逆流する。影の裂けた口が、にたりと広がった。その動きは人の笑みではない。喉の奥で蠢く黒い影――それはまるで鵜の首のように伸び縮みしていた。
「カエサナケレバ……オマエ……ノ……」
影が囁く。
「……キオク……ヲ……」
その瞬間だった。影の背後――開いたままの玄関の外に、黒いものが落ちてきた。
羽ばたきすら見せず、静かにそこへ降り立ったのは――一羽の“鵜”だった。
首に縄はない。代わりに、足首に薄墨色の木綿が巻き付いている。“魂の綱”というやつなのかな?そして、鵜の黒い目が私を見た。
いや――左手の封筒を見た。影の存在よりも、鵜の方が上位にあるのか、影は鵜が現れてからピクリとも動かない。そう理解するより早く、鵜はくちばしを開いた。その奥には、果てのない闇が渦巻いていた。
「……カエセ。サイゴノ、ケイコク」
はっきりした声。これはあのボイスレコーダーの声だ。ただの鳥の鳴き声とは異なり、水面下に響く共鳴音のように、アパートの部屋全体を揺らした。それは、声帯からではなく、川底の霊脈から直接送られてくる命令のようだった。影の足元の水たまりが、私の足首の湿気を増していく。
「“うつるまえににげろ”」
このままでは、この水溜りに顔が、私の記憶が映り込む。もし写ってしまったら、私の記憶が吸い込まれてしまいかねない。大きな罪を犯した覚えはないが、向こうから見て今の私は罪人なんだろう。鵜はゆっくりと頭を傾けた。その動作だけで、腐食した壁の匂いが強くなる。
「…これ、これでしょ!」
私は迷いを捨て、封筒の中からあの紙を取り出し、中身を見ることなく、思い切り鵜に向かって投げつけた。
「これは返す!だから、お兄ちゃんを返して!!」
私自身の恐怖を振り払うための叫びだった。封筒が宙を舞った瞬間、影と鵜の動きが、同時に止まった。
影はまるで糸が切れたように硬直し、その裂けた口が開いたまま停止する。
一方、鵜は羽ばたきもせず、黒い体が滑るように前方へスライドした。水溜りに波紋が広がる。私は立ち上がれなかった。腰が抜けてしまって。鵜のくちばしが、封筒を空中で正確に捉える。紙が破れる乾いた音と同時に、鵜の口から「ゴボッ」という、水を含んだような低音が響いた。封筒の中身が、鵜の喉奥へと吸い込まれていく。
その瞬間、影の輪郭が一気に鮮明になった。水たまりの輪郭が縮み、腐食していた壁紙の黒ずみが薄れる。影は、記憶が戻った人間のように一瞬立ち尽くし、私を見た。
その目には、恐怖と安堵、そして深い後悔の念が入り混じっていた。私は呆然と見守った。影の存在は今役目を終え、鵜の支配から離れた。それはつまり、彼の破滅だ。
力を失ったように、その場で水のように崩れ落ちた。水たまりはそのまま蒸発するように消え、何も残らない。
鵜は、静かにくちばしを閉じた。その黒い瞳は、一瞬だけ私を見据える。その冷たい視線には、「もう用はない」という明確なメッセージが込められていた。そして、鵜は羽ばたきもなく、玄関の闇の中へと消え去った。水音も、摩擦音も、何も残らない。全身の震えが止まるのを待った。
すべてが一瞬の悪夢のようだった。だが、目の前には、影の体から滴った泥水が残した、汚れたフローリングの跡が、現実の証拠として残っていた。結局お兄ちゃんの行方は分からなかったが、あの影の最期の姿が頭を離れない。
お兄ちゃんもあの影のように、水死体となって川底に沈み、泥人形として使い捨てられたんだろうか。自分の意識すら残らず、ただ他人の命令に従う操り人形として。このまま恐怖に飲まれていたら、お兄ちゃんを救えない。まだ失踪の真実が全て明かされたわけじゃない。お兄ちゃんがあの記憶をだれから受け取ったのか、記憶に含まれる罪はなにか。まだ謎は多く残ってる。
兄の最後の写真が撮られた場所、水ノ沢町立図書館の裏手の小道。その場所には、川の水流を調整するための古い水門があったはずだ。
兄はそこで、誰かの「水面の記憶」を手に入れた。もうそこへ行くことしか手はない。私は立ち上がった。深夜二時を過ぎているが、もう眠ることはできない。
水ノ沢町立図書館の裏手、水門。私はコートを羽織り、懐中電灯と傘、そして兄の最後の写真をポケットに押し込み、アパートの鍵を閉めた。
今、川は最も深い闇に沈んでいる。だが、その闇こそが、私の探している真実を映し出す唯一の「水面」なのだ。私は、夜の町へと踏み出した。目的地は、町の外れにある、古びた図書館だ。
夜の水ノ沢は、風すら止んでいた。街灯が落とす光は頼りなく、まるで水面に浮かぶ蛍火のように揺れている。私は懐中電灯のスイッチを入れ、図書館へと続く小道を急いだ。
アパートを出た瞬間から、何かが後ろをつけてきている気配があった。だが、振り返る勇気は出ない。図書館に近づくと、湿った木の匂いが強くなった。私は息を潜め、図書館の脇道へと足を踏み入れた。兄の写真と同じ構図が目の前に現れる。川沿いに続く細い石畳。その奥で、古びた水門が濁った川水をせき止めていた。
そして――水門の前に辿り着き息を整えようとした。その瞬間、背後で、ざくりと土を踏む音がした。振り返るより早く、背後から羽交い締めにされ、地面に倒された。唇を手で押さえられ、叫び声すらあげることができない。腕が鉄のように硬く、まるで生き物ではない何かに拘束されているようだった。私の耳元で、ざらついた低い声が囁いた。
「……おおっと、静かにしてね?騒いだら川に沈んでもらいますよ?」
背広姿の男。ライトグレーのコートを着て、ネクタイを締めている。よく見るサラリーマンっぽい格好だが、妙にスーツが綺麗すぎる。
「……夜更けに散歩...って様子ではなさそうだな、お嬢さん?」
振り絞って私は叫ぶ。男の手に力が籠もる。
「ちょっと待って!なにが目的か知りませんけど、あなた一体何者なんですか!?私のこと家からつけてたみたいですけど」
男は肩をすくめて笑った。
「おっと、バレてましたか。なら話は早いね、真一の妹さん」
その言葉を聞いた瞬間、私は血の気が引くのを感じた。なぜ名前を知っているのか?どうやってここまでつけてきた?私の兄への執着とこの町の水面の記憶が、この男を呼び寄せたのか。
「……お兄ちゃんが、どうなったか知っているんですか?」
男は一瞬、意味ありげな笑みを浮かべた後、何も答えず私を離し背を向けた。この男が兄の失踪に関係していることは確実だ。耳元で、冷たい風が揺れた。
「まず私は殺人犯、です」
その言葉を聞いた瞬間、私の心臓が跳ねた。殺人犯? ここで自供することに意味があるのだろうか。何を企んでいる?そしてなぜ私を追っている?彼はゆっくりと振り返った。その顔には、恐怖ではなく、奇妙な達観が浮かんでいた。
「と言っても、誰を殺したか半分忘れてるんだけどね。私の罪の記憶が半分ほど、真一に抜き取られちゃったんですよ」
彼は、狂っているのではない。確かに何かを失った者が放つ微かな濁りを目に宿している。私の胸に、恐怖よりも先に混乱が広がった。なぜ兄が?
「どうしてそんなことを.....」
「二ヶ月前の深夜、私が川岸を調査してた彼を殺そうと揉みあってた時、あの鵜に襲われた。こんな田舎にあんなのがいるなんて思わなかったよ。お兄さんは鵜に関してもっと探求を深めるべく命懸けで僕の記憶を半分奪い、調査を進める中でここへたどり着いた」
そう言って、鍵を私の手に押し付けた。私の頭は真っ白になり、震える指でその鍵を受け取った。兄が残したもの。それが何であれ、確かめなければならない。私もお兄ちゃんも記者として、隠された真実を暴くという使命を持っている。特に今回の件に関しては、かなり因縁めいたものを感じる。私は、自分の心の奥底にある微かな恐怖を押し殺し、兄の意思を継ぐことを決意した。
「ここへ入れば、君もきっと“戻れなくなる”。真一もそれを悟ったから、入る前に鍵を私に渡したんでしょう」
私は、鍵を握りしめた。震えは収まらない。けれど、後ろを振り返るわけにはいかない。背後の男は、何も言わず、ただ私を見つめているだけだ。私は彼が言うことが正しいのかもしれないと思い始めていた。でも、ここで怯んでいては、永遠に兄の行方はわからないままだ。
「ありがとう。だけどあなたは警察に通報させてもらう。ここから出たら、最初にすることはそれ」
震える声でそう告げると、男はゆっくりと頷いた。
鍵を差し込み、力を込める。水門の古い鉄扉が、錆びた悲鳴を上げてゆっくりと開いていく。そのわずかな隙間から、濁った川水と、湿った土、そして強烈な鉄の匂いが噴き出してきた。
懐中電灯の光を差し込むと、水門の向こう側は、川の水位よりも一段低い、人工的な空間になっていた。その奥に、棚らしきものが見える。湿った空気の中に漂うのは、魚の死骸のような生臭さと、腐敗した金属の混じった複雑な匂い。それはまるで、川底に長年積み重なった「秘密」そのものの香りだった。コンクリートで固められた小さな空洞で、普段は水没しているのだろう。しかし、今は水門が閉じたことで、わずかに水が引いて、ぬかるんだ床が露呈していた。その中央に、兄の探していたものが、雑然と積み上げられていた。古いものから新しいものまで、多数の帳面があった。
これらが兄の行方を突き止める鍵であることに疑いはない。私はページをめくり、その内容に目を通す。
昭和五十年六月:海城山丈雄 (供物: 「恥」 )
平成三年八月:鴨川厚保子 (供物: 「嫉妬」 )
これは罪を犯した人物の名前と抽象的な罪状。記憶を奪い取られると、詳細な記憶を書物などでも残すことができないというわけなんだろうか。名前以外の情報がここにはなにも書かれていない。さらにページをめくると、私の兄の名前を発見した。
令和六年四月:高橋真一 (供物: 「欲」 )
最後の日付は今年の春先、ちょうど彼が失踪したあたり。私は心臓がドクンドクンと音を立てるのを感じた。私は理解した。この町は、住民の「記憶(罪や業)」を鵜に差し出すことで、安定を保っていたのだ。実際ここに記載されている名前はどれもニュースや新聞で聞いたことがない。きっと大きな罪を犯したことも忘れさせていたことになる。そして、兄、真一が奪った「水面の記憶」は――
令和六年三月:梶本智彦 (供物: 「傷害」 )
彼の罪は傷害だった。それ以上の情報は何もないが、この名前は後々活用することになりそうだと考えた私はその部分を破り、ポケットにしまう。その時。水門の背後、つまり外側の川面が、轟音と共に激しく波打った。
「ミツケタゾ……!」
水門の隙間から、黒い影が飛び込んできた。それは、一瞬にして目の前にいた。
鵜。黒い目が、私を貫く。帳面を見ると、最後の行の下に、インクの濃い文字で、まだ新しい名前が書かれていた。その記述を見て、私は衝撃を受けた。
令和六年五月:高橋愛子 (供物: 「欲」)
お兄ちゃんと同じ罪状。私の記憶が狙われているんだろう。
「ヨコセ……オマエノ……キオク……」
今、鵜が発した声は、この帳面に記録された、無数の死者たちの、重く濁った集合体のような声だった。記憶を取り込めば取り込むほど、この鵜の力は増すのだろう。どうやってこの状況を打開できるだろう?
私は必死に考える。今私が持っているものといえば、懐中電灯と携帯とさっき破り取った名前ぐらいしかない。よくよく考えたら、なんで名前が残ってるんだろうか。記憶を飲み込むことでその人物の意思を、他者や書物からの情報を、消し去る力を持つこの鵜が、名前を消さないなんて不自然だ。まさか……それが弱点なんだろうか。そうだ。かつてこの鵜は地元の人々に活用された 鵜飼の 鵜なんだ。あの足首に付けられた“魂の綱”だって人の手によって付けられたものだし、きっと弱点がある。それがこの名前なんだ。
「食べたいのね....私の記憶が」
私は震える足に力を込め、一歩、鵜の正面へ進み出る。
「なら……対価を払ってもらわなきゃ」
その時、不思議と恐怖はなかった。恐怖はなかったが、冷や汗が止まらない。心臓の鼓動も爆発寸前。それでもこの方法は確信を持って成功すると考えているからこそ、堂々と振る舞うことができるのだ。鵜は、じっとこちらを見た。
「……ナニ?」
「あんたが喰えるのは.....人の中身、記憶だけ! 名は体を表す。人の体は飲み込めない.....」
鵜は、はじめて明確な「恐怖」をその瞳に宿した。
「ヤメロ……ソレハ……ソレハ……イケナイ……」
私はサッと駆け出し、名前の書かれた切れ端を握り渾身の力を込めて、鵜の大きく開いた喉の奥、渦巻く闇に向かって叩きつけた。切れ端が鵜の喉に命中した瞬間、鵜の体から、水蒸気が激しく噴き出した。それは川の水ではなく、人々が忘れた「記憶」が、熱を持った魂として蒸発するようだった。鵜は、鳥の鳴き声とも、人の悲鳴ともつかない絶叫をあげた。黒い羽毛が燃え尽きるように白濁し、その体が水のように崩れていく。
川の流れが、ゆっくりと静まり始める。
私はその場に立ち尽くした。一か八かの賭けだったが、上手くいってくれた。真実を明かし、あの鵜から人々の記憶を解放したのだ。
私の体はすでに限界を迎えていた。
心臓は今にも破裂しそうなくらい早く打っているし、手足も痺れて感覚がないくらい疲弊している。膝から力が抜け、その場に座り込んでしまった。
翌朝。水ノ沢町に、前例のない「川の氾濫」警報が発令された。水門は昨夜の衝撃で半壊し、水が町へと流れ込んでいた。しかし、それは濁流ではない。
流れていたのは、大量の鵜の死骸。この日水ノ沢の鵜は一匹残らず川に沈み、水ノ沢の鵜飼文化は事実上終焉を迎えた。鵜飼を生業としていた数少ない漁師たちは口々に「伝統が終わった」と嘆いたが、多数の住民はこの出来事に対して関心を持たず、川の氾濫さえもすぐに記憶から消えた。
水ノ沢町は、自らの罪の記録が川によって洗い流された後、急速に変わっていくだろう。町の秘密はもう、川底に沈んでいない。それは、町中の泥の中に散らばっている。
「兄さん、もう、この水面には全てがありのまま映るから」
私は、懐から兄の写真を取り出し、水門の奥の暗闇へと投げ込んだ。写真は濡れた石畳を転がり、やがて沈んでいった。静寂だけが、残された。最後に水門の残骸を見つめると、朝日が反射した川面は、どこまでも澄み切っていた。
もう、誰かの吐息のようにゆらぐ不穏な影はない。ただ、静かな水が、この町に残された「真実の記憶」を映し出していた。
私は、水ノ沢を後にした。もう二度と、鵜の影を見ることのない場所へ。




