第53話「孫と呼ばれたひよっこ」
朝の空気はまだひんやりとしていて、石畳には露が残っていた。
アルフは槍を背に負い、王国軍の駐屯所へと足を運ぶ。正門の前には槍を携えた兵士が二人。胸当てに陽光が反射し、まだ始まったばかりの一日を告げている。
「おや、坊主じゃないか」
門番の一人がにやりと口角を上げた。
「朝っぱらから訓練に参加しに来たのか? 感心だな」
「いえ……ザイランさんに用があって」
アルフが真面目に答えると、兵士は「あぁ」と納得したように頷く。
「なら訓練場の方にいるはずだ」
「……年寄りは朝が早いからな」
からかうように囁くその声に、相棒の兵士まで肩を揺らした。
アルフは少し気恥ずかしさを覚えながらも、軽く頭を下げる。
「ありがとうございます」
門をくぐり抜けると、広い敷地に朝日が差し込み、兵舎の影が長く伸びていた。
まだ胸の奥が落ち着かない。──今日こそ、師匠に聞きたいことがある。
その思いを握りしめ、アルフは訓練場へと足を進めた。
* * *
訓練場に近づくと、砂塵を蹴立てて走る兵士たちの掛け声が響いてきた。木剣を振るう者、腕立て伏せで汗を流す者──朝日を浴びる訓練場は活気に満ちている。
その端に、腕を組んで立つ老人の姿があった。
鋭い眼差しと背筋の伸びた立ち姿。ザイランはすぐにアルフへ視線を寄越す。
「……少しはマシじゃが、歩き方からしてまだなってないのぉ」
「歩き方?」
思わず問い返すアルフに、ザイランは鼻を鳴らした。
「軍人も冒険者も、死ぬほど歩くことになる。疲れず長く、そして腰も膝も潰さずに済む型、武芸といっしょじゃ……いちいち言われなにゃわからんか」
アルフは言葉に詰まり、視線を落とした。せっかく聞きたいことがあって来たのに──。
ザイランはわずかに顎をしゃくり、近くを走る兵士たちを示す。
「口を動かす暇があったら、足を動かせ」
「えっ……」
返事をする間もなく、ザイランの眼光に押され、アルフは慌てて列に飛び込む。
砂を蹴って走り出すと、兵士たちの掛け声が一層大きくなる。
「お、坊主か? お前も物好きだな!」
「隊列崩すなよ、ついてこい!」
「はぁっ、はぁっ……!」
必死で食らいつきながら、アルフは心の中でぼやいた。
(聞きたいことがあるのに……どうして、こうなるんだ)
息を切らせながらも足を動かす。汗が頬を伝い、朝の冷え込みを忘れさせるほど体は熱くなっていった。
* * *
走り込みを終え、訓練場の端で膝に手をつきながら息を整える。
汗が滴り落ち、肺が焼けるように熱い。アルフはやっとの思いで呼吸を整え、ザイランへと近づいた。
「はぁ……はぁ……師匠……!」
「しゃきっとあるかんか! なんのために鍛えておるのじゃ」
淡々と返すその声に、アルフは苦笑を浮かべるしかなかった。
本題を切り出そうと口を開いた、その時。
「──師匠、ご無沙汰しております」
張りのある声が訓練場に響いた。
振り向くと、鮮やかな緋色の外套を翻す長身の男が歩いてくる。鋭い眼差しと銀のメッシュが混じる整えられた黒髪、腰には光を帯びた長剣。
兵士たちがざわつき、自然と道を空けた。
「……シュラード」
ザイランが小さく名を呼ぶ。
「王都で少し有名になった酒を手に入れましてね。お口に合えばと思い、お土産に」
軽く笑いながら差し出す瓶を、ザイランは鼻を鳴らして受け取った。
「ふん……途中で出て行った奴に師匠呼ばわりされる謂れはないわ」
「相変わらずですね」
シュラードは気にした様子もなく、どこか余裕を漂わせて笑った。
その後、二人の会話は自然と王都の情勢に移る。
「……最近は中央も妙にきな臭いです。王都も物流が変わってきています」
「辺境は静かそうに見えて、風は確かに吹き込んでいるのぉ」
意味深に言葉を交わす師と元弟子。アルフは言葉を挟めず、ただ二人を見ていた。
やがて、シュラードの視線がこちらをとらえた。
「君は?」
アルフが答えるより早く、ザイランが鼻を鳴らした。
「ひよっこすぎて弟子とは呼べぬ。孫みたいなもんじゃ」
「……孫……」
アルフは肩に力が入り、思わず拳を握りしめた。嬉しいような、情けないような、複雑な感情が胸をかき乱す。
シュラードは目を細め、じっとアルフを見た。
「なるほど。確かにまだ、漸く歩き始めたヒヨコのようだ」
(……やっぱりそう見えるのか)
悔しさに胸が熱くなる。だが同時に、目の前の男の存在感に抗えないものを感じていた。
「師匠に気をかけてもらえるなんて運がいい。厳しいだろうが……頑張れよ」
「……はい」
アルフは思わず返事をした。だが心の奥底では反発が芽を出していた。
(師匠の元を出て行ったアンタに言われたくない……!)
そんなアルフの胸中を知ってか知らずか、シュラードは余裕の笑みを浮かべ、剣の柄に手を置いたまま歩み去っていった。
* * *
夜。ノネズミ亭の喧噪の中、木のテーブルに突っ伏すようにしてスープをすすっていたアルフは、ため息をついた。
目の前には焼き上がった肉と黒パン。香ばしい匂いも、今は妙に味気なく感じる。
「らしくない顔してるな」
隣に腰を下ろしたザックがジョッキを拭きながら、からかうように言った。
「……そんな顔してますか」
「一丁前に悩んだ顔してやがる」
ザックは軽く笑い、磨き上げたジョッキを並べていく。
アルフはパンをちぎりながら、胸の奥のざわつきを思い返す。
(……大先輩に励ましてもらっただけなのに。勝手に憤慨して、何をやってるんだ、僕は)
師の元を出て行ったシュラードに嫉妬して。
自分が「孫」と呼ばれた嬉しさを素直に受け取れなくて。
ただ空回りして、情けなくなっているだけだった。
視線を落とすアルフに、ザックが肩をすくめて言う。
「よくわからんがな。ま、よく働き、よく寝ることだ」
不器用なようで、どこか的を射た言葉だった。
アルフは思わず笑い、深く息を吐いた。
「……そうですね」
スープを飲み干すと、ほんの少しだけ胸の重さが軽くなった気がした。
酒場のざわめきは変わらない。
だがアルフの胸には、まだ複雑なざわめきが残っていた。
せっかく巡ってきた幸運な機会を、ただ感情に振り回されて無駄にしてしまった。
──次こそ、きちんと話を聞いてみたい。
そう心に刻むと、酒場の喧噪は明日への一歩を促す鼓動のように響き始めていた。




