第1話「はじめての依頼」
ギルドの掲示板前には、朝早くにもかかわらず数人の冒険者たちが集まっていた。
熟練の者は仲間と談笑しながら依頼を選び、新人らしき若者は真剣な目で一枚一枚を見比べている。
掲示板は古びた木枠に紙が重ね貼りされており、角がめくれたり、押しピンが曲がったりしていた。いくつかの紙には「済」の印が斜めに朱で書き込まれている。
その一角に、僕――アルフ・ブライトンもいた。
昨日、冒険者として登録したばかりの僕にとって、これは初めての本物の仕事になる。
(……さて。どれなら僕でもできそうか)
掲示板には戦闘、採集、清掃、配達……多種多様な依頼が並んでいた。中には「小屋の修理補助」や「老犬の散歩」なんてものもあって、冒険者という言葉から想像していたような華やかさはない。
目に止まったのは、一枚の紙。
《市場裏のスライム掃除》──報酬六十G。Fランク。条件は「単独行動可」「簡単な戦闘が可能であればよい」。
(スライム掃除……戦うっていうより、掃除だよな。これなら、僕でも……)
紙をそっと抜き取り、受付に向かう。
ミーナさんがすぐにこちらに気づき、静かに微笑んだ。
「依頼、決まりましたか?」
「はい。これを」
紙を差し出すと、ミーナさんは確認しながらうなずく。
「市場裏ですね。気をつけて。スライムの粘液は滑りやすくて危険です。駆除のあとは足元に気をつけて清掃してくださいね」
「……はい。ありがとうございます」
「それと、スライムゼリーを持ち帰るつもりなら、保存袋を持っていくといいですよ。受付で貸し出せます」
僕は深くうなずき、貸し出された保存袋を腰袋にしまった。
緊張で少し手が汗ばんでいる。喉の奥が乾き、呼吸が浅くなっているのを自覚しながら、僕は静かにギルドを後にした。
初めての依頼。初めての戦い。
自分の足で選んだ一歩を、後悔しないように──そう願って。
* * *
市場の裏手は、朝の陽が差す表通りとは打って変わって、薄暗く湿気を帯びた空気が流れていた。
木箱が積まれた隙間からは酒場の笑い声や、かすかな魚の匂い、そしてどこか腐敗したような臭気が漂ってくる。
地面には濡れた紙くずや果物の皮、使い古された麻袋が散らばり、ところどころに水たまりが残っていた。
踏むたびに足音が吸い込まれ、異様な静けさを際立たせる。
(……ここか。雰囲気は最悪だけど、スライムにとっては居心地がいいんだろうな)
足元を注意深く見ながら進むと、やがて光を反射するぬめりの痕跡が現れた。
木箱の陰、水路の近くに、それはいた。
直径三十センチほどの半透明の球体――スライム。
「……いた。まずは、1匹目」
僕は棒を構え、息を殺す。心臓の鼓動が耳に響くほど速くなり、喉がひりつく。
スライムは反応してゆっくりと振動し、這うように近づいてくる。
半透明の体の中心で、ぼんやりと光る核が脈打っていた。
ぬるぬるとした粘液が地面に広がっていく。
(落ち着け……狙うのは核……!)
一歩、踏み出す。棒を振る。──スカッ。
粘液に滑って命中が甘く、逆に弾き返されてバランスを崩す。
「うわっ……っ、ぬるっ……」
粘液が跳ね、ズボンにべっとりと付着した。
反射的に後退し、足元の紙くずに滑ってさらによろける。
背中に木箱の角が食い込み、息が漏れた。
スライムの体が一瞬持ち上がる。
(跳ぶ、か……!?)
とっさに横に転がる。地面すれすれに粘液の飛沫が通り過ぎた。
冷や汗が背を伝う。
「っ……もう一回……!」
棒を突き出す。粘液が飛び散り、核にヒビが走る。
(あと一発……!)
三度目の攻撃。振り下ろすと同時に核が砕け、ぐしゃりという鈍い音とともにスライムが崩れた。
ぬめりとともに生臭い臭気が広がる。
(……思ってたより、全然しんどい)
息が上がり、手は震えている。手のひらには汗と粘液、緊張の名残が残っていた。
二体目。こいつはさきほどより素早い。足元に滑るように迫ってきて、何度も棒の間合いから逃れようとする。
「っ……今度は逃がさない……!」
壁際に追い込む。足を踏ん張って低く構え、棒を短く持ち直す。
一撃、二撃。ようやく三撃目で命中。
核を貫いた感触と、跳ね返る衝撃に腕がしびれた。
最後の1体。
水路脇の斜面に潜んで動かない。石を投げて誘い出すが、しつこく引っ込もうとする。
音を立てて気を引き、なんとか狭い範囲に誘導。
その瞬間、足が滑った。
「っ……あぶっ──!」
棒を地面に突き刺して体勢を維持。背中には水路。下手をすれば落ちる。息をのむ。
(講習で言われた通り……こんな状況もあるって)
持っていたハンカチを棒の先に巻き付け、粘液で滑らないよう滑り止めを作る。
「……頼む、これで決まってくれ……っ」
狙いを定める。核が見える。振り抜いた。
──鈍い破裂音。粘液が四方に飛び散り、核が砕けた。
その場に膝をつく。肩が上下に波打ち、息が喉で引っかかる。
「……なんとか、やった……」
だが依頼は終わらない。粘液の清掃が残っている。
貸し出された雑巾と水桶を取り出し、ひたすら拭く。
石畳の間に入り込んだぬめりは、なかなか落ちない。匂いも強烈で、思わず鼻を押さえる。
「これ……戦うよりキツくない……?」
地味で、重労働で、臭い。
けれど──これが生き延びるということなんだと、どこかで納得している自分がいた。
* * *
全身に粘液の臭いをまとったまま、ギルドに戻った僕は、受付に依頼票とスライムゼリー入りの保存瓶を差し出した。
「お疲れさまです、アルフさん」
ミーナさんは書類を確認しながら、ふと僕の姿を見て目を細めた。
「……ずいぶん、頑張ったんですね」
その一言が、妙に胸に刺さった。
誰にも見られていなかったはずの戦いの跡。泥とぬめり、汚れきった服。
それでも、何かをやり遂げたという証だった。
「……一応、全部倒しました。清掃も……たぶん大丈夫、です」
「報酬は六十G、スライムゼリーの処理報奨で+五G。あとは、ゼリー一個分の素材を保存瓶で保管済みですね」
ミーナさんは手際よく記入を終え、銀貨と銅貨をまとめて僕の手に渡す。
小さく息をつき、そしてほんの一拍、視線を落としてから、静かに言った。
「初めての依頼、無事に終わってよかった。……危険がなかったとは思ってません」
僕は思わず目を見開いた。その声は穏やかだったけれど、どこか張り詰めた緊張が含まれていた。
「次は、今回の経験を踏まえて依頼を選んでくださいね。アルフさんは慎重な方だから、大丈夫でしょうけど」
その言葉の最後に、ほんのわずかに信頼の色が混じっていた。
──この一言のためだけでも、頑張ってよかった。
ギルドを出ると、朝の光が街を包み、石畳はまぶしく反射していた。
どこかのパン屋から、香ばしい香りが漂ってくる。
街のざわめきの中、僕は静かに呟いた。
「戦っただけじゃない……ちゃんと、やり遂げたんだ」
棒を杖のように肩に乗せながら、ほんのわずかに背筋が伸びる。
初めての依頼は、小さな勝利。
けれどその実感は、今までの人生で感じたどんな成功よりも確かなものだった。
* * *
雑魚寝宿に戻ると、夕方の光がすでに窓の外を朱に染めていた。
宿の食堂では、安価な夕食──パンとぬるい野菜スープが机に並べられていた。
席につき、パンをちぎって口に運ぶ。
味はほとんどない。でも、不思議と悪くなかった。
(あのスライムの臭いを吸い続けたあとだと、何でもごちそうに感じるな……)
食堂の隅では、他の冒険者たちが冗談を言い合いながら食事をしている。
その声が心地よい喧騒として耳に残った。
僕は静かにスープをすする。熱くも冷たくもない味。
それでも、今の僕には十分だった。
食後、自分の寝床に戻ると、鞄から保存瓶を取り出した。
ゼリー状の透明な塊が静かに揺れている。
(これが、初めての報酬か……)
他人が見ればただのスライムの残骸。
けれど僕にとっては、命がけで手に入れた証だった。
棒を壁に立てかけ、服を脱ぎ、泥と粘液のついた部分を布で拭う。
手のひらにはうっすらと棒の感触が残っていて、心地よい疲労が腕に溜まっていた。
(……これから、どれくらい続けられるだろう)
不安はある。でも、それ以上に、今日一日を生き延びたという確かな実感があった。
狭くて固い寝床に体を横たえると、すぐにまぶたが重くなっていく。
木の棒が壁に立てかけられ、保存瓶は枕元に置かれた。
「明日は……どの依頼を選ぼうかな」
誰に聞かせるでもなく呟いたその言葉が、思いのほか自然に口から出たことが、自分でも少しだけ嬉しかった。
そのとき、遠くから犬の遠吠えが微かに聞こえてきた。
外の世界は動き続けている。
だが、今の僕には、この静かな一夜で十分だった。
こうして、冒険者としての最初の一日が、ゆっくりと──けれど確かに、終わっていった。
※この作品はカクヨムで先行公開中です。
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【ステータス変化】(前話 → 今話終了時点)
筋力熟練度:6 → 17(+11)
感覚熟練度:0 → 11(+11)
精神熟練度:0 → 12(+12)
持久力熟練度:7 → 15(+8)
所持金:182G → 234G
(内訳:報酬60G、素材報奨5G、夕食−3G、宿泊−10G)
装備変更:─
スキル開花:─
アイテム取得/消費:スライムゼリー保存瓶+1