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“君といると、だめな人間になる”──じゃあ、私が間違ってたって言うの?

 曇天の空の下、しっとりと濡れた落ち葉の絨毯を、金の馬車が静かに進んでいた。

 馬車の扉が音もなく開くと、まず従者が一歩前に出て、無言のまま扉に手をかける。その後に続いて姿を現したのは、一人の若い女だった。


 その髪は陽光を閉じ込めたような金糸で、見事な縦巻きに結われていた。

 艶やかな黒のドレスには銀糸の刺繍が施され、揺れるレースの手袋の指先が、空気すら拒むようにきりりと揃えられている。


 女の名は、セシリア・フォン・リューネ。

 大陸東部の名門、リューネ伯爵家の嫡子にして、近く女伯爵として家を継ぐ運命にある貴族令嬢である。


「……ここが、そう、なのね」


 森の奥深く、ひっそりと建つ小さな小屋。

 魔法の気配は感じない。結界も結印もなく、ただ草木と苔に包まれていた。


 セシリアは鼻先で息をつき、横に控える従者に目をやった。


「開けなさい」


 命じられた従者は無言でうなずき、扉に手をかけた。


 ぎい、とわずかに軋む音とともに、扉は内側に開かれた。

 その向こうには、薄明かりのなかで揺れる焚き火と、一人の女が静かに立っていた。


 その女は、歳も姿も読みとりがたかった。

 ただ、その佇まいにはどこか、人の過去と未来を両方見てきた者だけが持つ、静かな力があった。


「お入りなさい」


 言葉は柔らかいが、招かれるというよりは、見透かされていたような感覚だった。


「……ふん。簡素なものね」


 セシリアは中へと足を踏み入れた。

 従者は無言のまま後に続き、扉を閉める。


 小屋の中は、整ってはいたが、あまりに質素だった。

 壁には棚が並び、乾燥させた薬草や書物が静かに鎮座している。炉には火がくべられ、温かな空気が漂っていた。


 セシリアはぐるりと部屋を見回したのち、椅子に視線を落とす。


「……椅子くらいは用意してくださるのね」


 無言の女は、静かに手で席を示すのみだった。


 セシリアはその態度にわずかに眉をひそめつつも、椅子に腰を下ろし、背筋を伸ばしたまま、足を組んだ。

 背後に控える従者は、ひとことも発せず、ただ壁際に佇んでいる。


「名をお聞きしても?」


 セシリアの問いに、女はやや首を傾げたあと、穏やかに口を開いた。


「私はミルカと申します。人様からお話を伺い、お手伝いをしている者です」


「まあ、それで“魔女”と呼ばれているわけね。……よろしいわ。あなたが何者であろうと、わたくしには関係のないこと」


 目の前に置かれたのは、温かなハーブティーだった。

 茶器は質素だが清潔で、香りだけは妙に馴染み深い。だがセシリアは、それに手をつけようとはしなかった。


「わたくしは、“お願い”があってここを訪ねたのです。……あなた、“問題を解決する魔女”なのでしょう?」


 炎の揺らぎだけが、小屋の空気を満たしている。


 その沈黙を、セシリアが破る。


「ならば、わたくしの話をお聞きなさい。正当な、理由があっての訪問です。……他人の愚かさによって、わたくしは多大な損害を被りました」


 その声音は澄んでいて、冷たい。

 だが、その奥に何か、触れてはいけないほど細いものが張りつめているのを、ミルカだけが気づいていた。





「侯爵家の三男でしたの。名は、カミル・ベルトラン。家柄は申し分ありませんが──お分かりになります? 三男という立場が、どれほど都合の良い“婿候補”であるか」


 セシリアはゆっくりと言葉を紡ぎながら、唇にかすかな笑みを浮かべた。


「わたくしの家は女伯爵の系譜です。婿を取り、家を継ぐ。そのために、子どもの頃から礼儀も教養も、剣も政も、すべて学んできました」


 その目は遠くを見ていた。だが、その“遠く”は未来ではなく、痛みすら感じない過去だった。


「ふさわしい相手を迎えるために。家を辱めぬように。……当然でしょう? わたくしが努力を惜しんだことなど、一度もありません」


 炉の火がぱち、と静かに弾ける。


「けれどあの方は、まるで違った。名家に生まれながら、何の焦りもなかった。“自分には役割がないから”とでも思っていたのでしょうね」


 セシリアは茶を一口も飲まず、器の縁を指先でなぞった。


「最初の頃は、わたくしも手を貸しました。“伯爵家の者としての自覚を持ちなさい”と助言し、書簡の文案を添削し、剣の構えにまで目を配りましたわ。わたくしは、彼が変わることを信じていました。少なくとも、信じたふりをするには値したのです」


 口調はあくまで冷静だったが、その内側で、何かが強く張り詰めている気配があった。


「それが、ある日突然、婚約を破棄したいと申し出てきたのです。理由は──なんでしたかしら。“心が離れた”とか、“あなたにふさわしい自分ではいられない”とか……」


 セシリアは一瞬、言葉を探すように目を細める。


「……甘ったれた言い訳ばかりでした。わたくしの“正しさ”が、息苦しいですって。滑稽でしょう?」


 ミルカは、まだ一言も口を挟まない。ただ、手元の茶器に静かに湯を注いでいた。


「それからしばらくして、彼が“庶子”の娘と逢っていると聞きました。名もなき下級貴族の娘。舞踏会でたまたま話したのがきっかけだったそうです。わたくしとの婚約を終えたその足で、そちらに向かったとも」


 その瞬間、セシリアの声がほんのわずか震えた。


「わたくしは捨てられたのです。努力も誇りも、すべて意味がなかったと、あの男はそう言ったも同然です」


 沈黙。

 ようやく、ミルカが口を開いた。


「……それで、あなたはどうしたいのですか?」


 その声音は、まるで「それだけを待っていた」とでも言いたげに、穏やかでまっすぐだった。


 セシリアは、視線をミルカに向ける。

 あの穏やかな目を、正面から射抜くように。


「後悔させたいのです、あの男を。わたくしを手放したことを、一生悔やむように──魔法であっても構いません。あなたに、それができるのであれば」





 ミルカは、セシリアの言葉にすぐには応えなかった。

 静かに茶を一口ふくみ、焚き火のはぜる音を受け止めるように、目を伏せたまましばし沈黙を保っていた。


「……それが、あなたの願いなのですね」


 低く、柔らかい声。感情の色は薄いが、否定でも承認でもなかった。


「願い? ええ、そうでしょうね。“お願い”という体裁で訪ねてきたのですもの。けれど実のところ、これは当然の“報い”を求めているだけです」


 セシリアの口調はますます鋭さを増していた。

 だが、その語尾には、少しだけ自嘲が滲む。


「わたくしは誇りを持って生きてきました。何もかも背負って、選ばれた人間として──誰かに迷惑をかけた覚えなどありません」


 ミルカは、炉の火に小さな枝を一本、静かにくべた。


「では──なぜ、彼は去ったのでしょうね」


 セシリアは一瞬、表情を止めた。


「それは……」


 口元が引き結ばれる。まるで、その答えはとっくに知っているのだと言わんばかりに、瞳の奥が揺れた。


 だが彼女は、すぐに背筋をさらに伸ばし、顔をわずかに傾けた。


「あなた、わたくしに“落ち度”があるとでも? 努力してきた者が報われず、怠け者が慰められる世界など、わたくしは認めません」


 ミルカは、ただ静かに聞いていた。


「そもそもあの男は、自分の劣等感に耐えられなかっただけ。わたくしが正しかったからこそ、逃げ出したのです。責任感も誇りも持てない人間に、“わたくしの隣”は務まりません」


 火がぱちりと大きくはぜる音に、セシリアの声が一瞬かき消された。


「……けれど」


 その声は、ほんのわずかに細くなっていた。


「最後に、彼が言ったのです。“君といると、僕はずっと……だめな人間になる”と」


 ミルカはまばたきもせず、ただ聞いていた。


「あなた、そんな言葉を言われたことがありますか? 努力してきた人間に向かって。“だめな人間にされる”などと……それが、どれほど失礼な言葉か、わかっていない」


 セシリアの声音は震えていた。怒りではない、何か別の感情が、胸の奥から溢れそうになっている。


「わたくしは、彼のためを思って──」


 言いかけて、言葉が途切れる。


「……彼が、わたくしを見ていなかったことだけは、確かです」


 その言葉のあとには、沈黙しか残らなかった。





「あなたは……何も言わないのですね」


 セシリアの声には、冷たさではなく苛立ちがにじんでいた。

 これまで一度も、彼女の語気が“揺れ”に転じたことはなかった。だが今、その芯が崩れかけている。


「わたくしは依頼をしに来たのです。“問題を解決する魔女”と聞いて。あなたが人の心を操る術を持っているなら、どうして黙っているのです?」


 ミルカは、湯の入った茶器を両手で包み込むように持っていた。

 その仕草すら、まるで何かをあたためているようだった。


「魔法で心を変えることは、できません」


 その言葉は、静かで、あまりにも率直だった。


「……は?」


 セシリアの眉が跳ね上がる。


「では何のために、あなたは“魔女”などと呼ばれているの? 心の傷を癒やすとも、運命を導くとも、人々はそう言っていたわ。まさか、話を聞くだけの者を魔女と呼ぶとでも?」


 ミルカはわずかに微笑む。

 だが、それはセシリアを嘲るものではなかった。


「言葉が、魔法になることもあるのです。

 誰かが心にしまい込んでいたものが、ことばになるだけで、ほんの少し変わることがある。わたしのしているのは、せいぜいそれくらいです」


「……それで人の人生が変わると? あなた、ずいぶんと楽観的なのね」


 セシリアは冷笑を浮かべたが、その目だけは真剣だった。


「あなたのような“静けさ”で、あの男のような人間が、何かを思い知るとでも?」


「彼に思い知らせることが、あなたの望みですか?」


 ミルカの問いは、静かな語調だったが、火花のようにセシリアの怒りに火をつけた。


「……あなたは、本当に人の話を聞いているの? わたくしがどれほどのものを背負い、積み上げてきたか、わかって言っているの?」


 声が震える。炉の火がぱちりと爆ぜる。


「努力してきたのは、わたくしよ。彼を支え、育てようとしたのも、わたくし。

 それを“思い知らせたい”と願って、何が悪いの!?」


 ミルカは一切動じず、茶器をそっと置いた。


「悪いとは言っていません」


「じゃあ何? 赦せとでも? 弱さを抱きしめてやれと? わたくしは、彼に“君といると、だめな人間になる”って言われたのよ。努力したわたくしを見て、彼は潰れると? その程度の男だったのよ!」


「……そう思い続けてきたのですね」


「ええ、そうよ! 彼が逃げたのは、わたくしが“正しかったから”。正しさが重かったのなら、それは彼が弱かっただけ。わたくしが悪かったわけじゃ──」


 ふと、言葉が続かなくなる。

 炉の火の音だけが、呼吸の隙間を埋めていた。


「でも、あなたと話していると、わからなくなってくるの」


 セシリアの声がわずかに落ち着いていた。

 激しさの底に、ようやく現れるものがあった。


「あの男に後悔させたいと思っていたのに、今では──」


 言葉が途切れる。


「……どうして、あんな言葉を、言わせてしまったのか。そのことばかりが、頭に残っているのです」


 ミルカは、ゆっくりと頷いた。


「それが、“本当の問い”なのかもしれませんね」





 炉の火が、さきほどまでよりも穏やかに揺れていた。

 音も静かになり、薪の芯だけが赤く光を帯びている。


 セシリアは座ったまま、静かに目を伏せていた。


「……彼が去ってからも、ずっとあの言葉が残っているのです。“君といると、だめな人間になる”──何度思い返しても、腹立たしくて仕方がない」


「怒っているのですね」


「ええ、怒っていますわ。わたくしを“だめにする存在”だと言ったのです。あんな侮辱があって?」


 ミルカは間を置いてから問う。


「傷ついてもいますか?」


 セシリアは視線をずらした。口元がわずかに引き結ばれる。


「……あの言葉は、わたくしの努力を否定したのです。

 正しくあろうとしたこと、ふさわしい人間であろうとしたこと、そのすべてを」


 炎が静かに揺れる。


「彼が、わたくしを支配されているように感じたのかもしれません。“導かれる”ことと“見下される”ことを、区別できなかったのでしょうね」


「あなたは、導こうとしていたのですか?」


「当然ですわ。彼が相応しくなるように、わたくしは力を尽くしました。

 ……それでも彼は、努力そのものを重荷にしたのです」


 ミルカは問いかける。


「努力しない人を、どう思いますか?」


「……嫌いです。甘えているとしか思えません。逃げて、怠けて、泣き言ばかり」


 少し呼吸が乱れた。


 ミルカの声は変わらない。


「彼も、そう見えていたのですね」


 セシリアは返さない。だが、わずかに瞳を伏せる。


 しばらく沈黙があった。

 そしてふいに、セシリアがぽつりと語り始めた。


「……七歳で舞踏礼法を始めて、十歳で政務文書の素読。剣も、学問も、言葉の選び方も、わたくしは“失敗をしない”ために身につけてきました」


 ミルカは頷かず、肯定も否定もしない。ただ火の音に耳を澄ませるように聞いている。


「“家”のためでした。女であっても、いいえ、女であるからこそ、家を継ぐ者として恥じぬように。“ふさわしくあること”が、わたくしの存在理由でしたから」


 その言葉に、嘘はなかった。

 誇り高くあろうとする者だけが持つ、凛とした声だった。


 セシリアは続けた。


「それが、わたくしの軸でした。たとえ誰かに好かれずとも、称賛されずとも──努力だけは、裏切らないと信じていたのです」


 ミルカが、少しだけ顔を上げた。


「その努力は、誰かに見ていてほしかった?」


 セシリアは一瞬黙り、そして目を伏せた。


「……はい。誰かに、わかってほしかったのかもしれません。

 “あなたは正しい”と。“あなたの在り方には意味がある”と、そう言ってほしかった」


 炎が、ふっと揺れた。


「だからあの言葉は……“わたくしの全部”を否定されたように感じたのです。“だめな人間になる”というその一言が、積み上げたすべてを崩してしまった」


 ミルカは、ただ静かに言葉を受け止めていた。

 否定もせず、慰めもせず、逃げるような目を向けることもない。


 その沈黙のなかで、セシリアはもう一度、ゆっくりと口を開いた。


「……彼のことを、軽蔑していたのかもしれません。

 鈍くて、愚かで、理想からは遠い人だった。わたくしが期待することさえ、重荷になってしまうほど」


 その声は怒りではなく、少し乾いていた。


「でも、本当に蔑んでいたのは……あの人ではなく、ああいう“あり方”だったのかもしれません。

 何の責任も背負わずに、ただ生きている人間の、あの気楽さに──羨ましさを覚えたのかも」


 ミルカは、その言葉にも、何も言わなかった。

 ただ、火がその瞬間だけ、少し高く揺れた。






 沈黙が、あたたかいものに変わっていた。

 あれほど張り詰めていたセシリアの背は、今はわずかに傾いている。


 炎は細く揺れていた。語ることも問いかけも尽きた空間には、ただ静けさだけが満ちていた。


 やがてセシリアが立ち上がる。


「……長居をしましたわね。あなたの“魔法”とやらは、不思議なものです」


 ミルカは何も答えなかった。ただ微笑むでもなく、そっと一礼を返す。


 セシリアはドレスの裾を整え、背筋を伸ばす。

 出てきたときと同じように、威厳のある立ち姿だったが、その表情には、はじめにはなかったやわらかさがあった。


「わたくし、まだ何も赦せてはいません。けれど──」


 言葉を選びながら、ゆっくりと口を開く。


「まずは、わたくし自身の怒りを、もう少し丁寧に見てみようと思います。

 それがどこから来たのか、どうしてわたくしを突き動かしたのか……“正しさ”の仮面を、少しだけ外して」


 ミルカは静かに頷いた。


「あなたの問いは、わたくしを困らせました。でも……思いもよらない景色を見せてもくれた。

 魔法は使わなかったけれど、魔女と呼ばれる理由は、少しだけわかった気がします」


 ミルカはただ最後に、ひとことだけ口にした。


「また迷いの時が来たら、おいでなさい」


 セシリアは、わずかに口元を綻ばせた。

 それは、ほんとうに小さな、けれど誇りを手放さない人だけができる微笑だった。


 小屋の扉の前に立つと、そこには従者が静かに待っていた。

 彼は無言で、いつものように扉に手をかけようとする。


 だが、セシリアはふと、彼の手を制した。


「……けっこうよ。今日は、わたくしが開けるわ」


 従者は何も言わず、ただ一歩下がった。


 セシリアは自ら扉に手をかける。重くはない。ただ、初めて触れるその木の感触に、何かを確かめるように。


 扉が、静かに開いた。


 そして、出て行こうとしたそのとき、彼女はふと後ろを振り返る。


「ありがとう」


 それは誰に向けた言葉だったのか、ミルカにもわからなかった。

 だがその声は、確かにここを訪れたあの少女のものとは違っていた。


 森の風が、金の巻き髪をふわりと揺らす。

 その背中を、ミルカはしばらく見つめていた。



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