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勇者にならなかった少年③ ~語りはじまる場所~

 森の朝は、いつもより少しだけやわらかかった。

 木々のあいだから差し込む光は、まるで昨夜の焚き火の残り香のように、どこかあたたかさを帯びていた。


 ミルカの小屋には、静けさが満ちていた。

 小さな鍋のなかで湯が沸きはじめる音が、ゆっくりと時間を刻む。窓辺の花に朝露が宿り、小鳥の声が遠くで重なった。


 カイは、椅子に腰かけたまま、ひざの上で指を組んでいた。

 目は開いているが、焦点は定まっていない。考えごとをしているというより、何かが“芽吹く前の静寂”を感じているようだった。


 「今日は、ことばが出てこない日かしら?」


 ミルカの声は、問いというより挨拶のようだった。


 カイは少しだけ視線を動かして、かすかに笑った。


 「……昨日、たくさん話したので、なんだか、変な感じです」


 「変?」


 「体が……軽くなったようで、でもどこか……空っぽになったみたいな。いや、違うな……空いたところに、何かが入りかけてるような、そんな感じ」


 その言葉に、ミルカは微笑を浮かべた。


 「空いた場所があるから、あたらしい何かが入ってこられるのよ。……語りって、そういうものだと思うわ」


 カイは、頷きかけて止まった。

 頷くというより、言葉で返したくなっている自分に気づいて、少し戸惑ったのだ。


 「昨日……話してるとき、自分の中に“別の自分”が起きてくる感じがしました」


 「どんな?」


 「話してる“俺”を、どこかで見てる“俺”がいて、その“俺”が……“お前は本当にそう思ってるの?”って聞いてくる」


 ミルカはうん、と短くうなずいた。


 「大事な声ね。その“もうひとりの君”は、正直でいようとする力でもあるから」


 「……はい。でも、あいつ、けっこう手厳しいです」


 「ええ、最初はそうね。でも、だんだん柔らかくなるわ。あなたが、ちゃんと向き合い続けるかぎり」


 カイは思わず、鼻を鳴らして小さく笑った。

 笑いながら、なぜか喉の奥が熱くなる。

 そんな自分に気づいて、目を伏せた。


 「……昨日みたいに、話すことがあるわけじゃないんです。でも、……なにか、話したいことがある気がして」


 「それは、“語りたい”じゃなく、“語られるのを待っている”声かもしれないわね」


 カイは顔を上げた。

 その言葉が、胸の奥でぴたりとはまる音がした。


 「……小さいころ、母さんに絵を描いて渡したことがあるんです。……そのとき、母さん、すごく喜んでくれて……」


 言葉が、自然に口からこぼれた。

 止めようとする力も、準備しようとする構えもなかった。

 カイの声は、記憶の底から掘り出されるような、ほのかな熱を帯びていた。

 それは、語りが“始まってしまった”瞬間だった。

 焚き火はすでに消えていたが、ミルカは茶を温めながら、言葉に寄り添うように頷いた。


 「何を描いたの?」


 「……森の中の木と、空。それと、母さんの顔も」


 カイは、指先を胸元で組みながら、すこし笑うように目を細めた。


 「うまく描けたかどうかは、よくわかりません。でも、母さんが“きれいね”って、何度も言ってくれたんです。壁に貼ってくれて……それ見てるだけで、なんか嬉しかった」


 そのときの空気のぬくもりまで、思い出しているかのようだった。


 「村の他の子たちにも、絵を描いてって言われるようになって。地面に枝で動物を描いたり、空の雲をなぞったり……自分でも不思議だったけど、描いてるときだけ、全部が静かになったんです。頭の中も、体も、心も」


 「……全部が静かに」


 ミルカは、そっと繰り返した。


 「はい。……“無”になってたのかもしれません。でも、ただ空っぽなんじゃなくて、自分の中の何かが、外とつながってる感じがして……」


 言いながら、カイの視線は小屋の床に落ちた。

 手元を見つめるようにして、両手の指を組みなおす。


 「描いてるあいだ、自分の手が、世界のどこかをなぞってるような感じがしたんです。自分の中の色や形が、地面に、紙に、現れていく。……それを人が見て、笑ったり、感心したりすると、自分の中の何かが届いた気がして……」


 カイは、そこで一度言葉を切った。

 言葉が出るのを待つのではなく、言葉が進みすぎないように、立ち止まったようだった。


 「……だから、嬉しかったんだと思います。褒められたからじゃなくて、描いてるときの感覚が……“ちゃんと生きてる”って思わせてくれるような感じで」


 ミルカの表情が、かすかにゆるんだ。

 まるで、その言葉を待っていたように。


 「それは、きっと“語らずに語っていた”時間ね」


 カイは、眉を寄せた。


 「……語らずに?」


 「絵を描いていたあなたは、“絵”という形で、自分の内側を誰かに渡していた。それが語るということよ。自分のまなざし、自分の感じた美しさ、自分だけの世界。それを誰かに見せるって……勇気のいること」


 その言葉に、カイの喉がわずかに動いた。

 だが、目は逸らさず、ミルカを見ていた。


 「……でも、父さんには、“くだらない”って言われたんです」


 言いながら、声が少し低くなった。

 目の奥に、ほんのわずかな曇りが浮かぶ。


 「“そんなことで人は守れない”“戦えない男に意味はない”って。……村の男たちも、笑ってました。“女の子みたいな遊び”って」


 ミルカは何も言わなかった。ただ、茶の湯気がゆらゆらと昇るのを見つめながら、耳を傾けていた。


 「だから、描くのをやめました。剣を持った。……誰かを喜ばせることじゃなくて、誰かに勝つことが大事だって思った」


 カイの手が膝の上で、ぎゅっと握られる。


 「でも、今思うんです。あのとき俺が感じてた“喜び”って……誰かからの評価じゃなくて、“描いている自分”が好きだったんだって」


 その言葉に、ミルカはゆっくりと頷いた。


 「その気づきは、あなたの語りが“他人の声”から“自分の声”になった証ね」






 「……でも、それでも時々……」

 カイは少し視線を落として、笑うような、恥ずかしそうな顔をした。


 「紙の端とか、地面の砂とかに、つい何か描いてしまって……。剣の訓練の合間にも、他の子たちがふざけてるときに、俺は枝でこそこそ……。誰にも見られないように、ささっと。……バカみたいですよね」


 ミルカは静かに微笑んだ。


 「バカだなんて。……むしろ、それがあなたを守っていたのかもしれないわね」


 「守っていた……?」


 「描くことを完全に捨てきれなかったあなたは、“自分”を手放さずにいた。周りに従うふりをしても、心の奥に、自分だけの世界を持ち続けていたのよ。それが、あなたを壊さずに保ったの」


 カイは言葉を失ったように黙りこむ。

 その目は、焚き火の跡にあった黒い灰を見つめていた。


 「……あのころ、夢を見たんです」

 ぽつり、と呟くように。


 「すごく広い場所で、俺は一人で絵を描いていて……それを、遠くから誰かが見てるんです。その人の顔はわからない。でも、あたたかい目をしていて、俺はその人に見てもらいたくて、もっと描くんです。何度も、何度も。空も、動物も、光も」


 ミルカは、そっと茶を差し出した。

 カイは受け取って、一口だけ含む。


 「……その夢だけは、何度も見たのに、誰にも話したことなかった。……話す意味もないと思ってたから。そんな夢、現実にはなんの役にも立たないし、誰かに話したらまた“甘い”って笑われると思ったから」


 その言葉の奥にある痛みを、ミルカは感じていた。


 「あなたが思っているよりも、その夢は大きな意味を持っていたと思うわ」

 ミルカは言った。


 「たとえ夢であっても、“見られている”という感覚は、あなたの魂が“誰かとつながっていたい”と願っていた証。描くことで、あなたは世界と対話していたのよ。それを止めたとき、あなたは……自分と切り離されてしまった」


 カイは、手にした茶碗を見つめたまま、小さくうなずいた。


 「……それ、わかる気がします」

 声はかすれていた。


 「剣を持ってから、強くなったような気がした。でも、何かが抜け落ちていった。勝てても、褒められても、心のどこかが、いつも……空っぽだった」


 ミルカは黙って聞いていた。

 そして、ゆっくりと手をのばして、カイの前に、一枚の紙と細い筆を置いた。


 「……描いてごらんなさい」


 カイは驚いたように顔を上げた。


 「今ここで……?」


 「そう。上手くなくてもいい、下書きでも、思い出でも、夢の断片でも。……“自分の目で見たもの”を描いてみて」


 カイの指が、紙に触れる。筆を握るその手が、わずかに震えていた。

 だが、深く息を吸って、静かに筆を走らせる。


 最初はぎこちなかった線が、少しずつ、柔らかさを帯びていく。

 まるで、思い出と一緒に、手の感覚も戻ってきたかのように。


 しばらくの間、小屋の中には筆の音しかなかった。


 カイが描き終えたとき、彼の目には、涙がにじんでいた。


 「……こんなふうに、自分の手が動くなんて、思ってなかった」


 「覚えていたのね、あなたの中の“語り方”を」


 ミルカは、カイが描いた紙を見つめた。

 そこには、子どものころに描いたという“森の中の木”と“空”が、確かに息づいていた。





 カイは、描き終えた絵をじっと見つめていた。

 火が消えかけているのにも気づかず、紙の上に広がる風景に、幼い日の気配を探していた。


 「……変ですね。何も変わっていないのに、何かがすごく変わった気がする」


 「あなた自身が、変わったのよ」

 ミルカの声は、ふんわりとした毛布のようにやさしかった。


 「……ミルカさんは、どうしてこの森に?」


 カイの問いに、ミルカは一瞬だけ視線を落とし、薪をくべながら静かに口を開いた。


 「昔、私は“人の話をきく”仕事をしていたの。……話を聞いて、読み取って、必要があれば助言もして。そういうことを、長くやっていたわ」


 「……」


 「でもね、ふと気づいたの。私はずっと、他人の物語ばかりに耳を傾けていて、自分のことは、ほとんど語ってこなかったんだって」


 ミルカの声には、どこか遠くを見るような響きがあった。


 「だからここに来たの。森の静けさの中で、自分を取り戻せたらと思って。でも……まだ全部は戻ってきてないわ。きっと、今も探している途中」


 「……」


 「あなたの気持ち、少しだけ、わかる気がするの。誰かの役に立とうとするうちに、自分の声がどこかへ行ってしまう。そんなふうに感じたこと、あるもの」

 カイはうつむき、そして笑った。


 「俺よりずっと立派ですよ。でも……ちょっとだけ、わかる気がします。誰かのために頑張ってるつもりが、自分のためには何もしてなかったって、気づいたときの、あの、がらんとした感じ……」


 沈黙が、二人を包む。

 だがその静けさは、痛みをはらんだものではなかった。






 薪がはぜる音が、ふいに大きくなった。カイはその音に驚いたように目を瞬かせ、今ようやく、絵を描いた手の感触がまだ自分に残っていることに気づいた。


 カイの指先が、描き終えた紙の端をそっと撫でた。


 「なんで、やめたんだろうな」


 小さな声だった。


 「“そんなのは遊びだ”って言われて、剣を持つ方が正しいって思って……いや、思いたかったのかも。認められたかったんだ、父親にも、村の男たちにも」


 ミルカはゆっくりとうなずいた。


 「誰かの期待に応えようとする気持ち。それ自体は、とても優しいことよ。でも、優しさが過ぎると、自分がいなくなってしまうこともあるの」


 「……」


 カイはしばらく黙っていた。だが、炎の影が彼の頬に揺れるたび、その目が少しずつ澄んでいくのが、ミルカにはわかった。


 「描いてるとき、楽しかったんです。ただ楽しくて。色を重ねていくたび、違う世界が手の中にできていくみたいで。……その世界を、誰かが喜んでくれるのが、うれしかったんです」


 ミルカは、そっと薬草茶を差し出した。もう一杯、と言葉にせずとも伝わる仕草で。


 「それは、あなたの“語り”だったのかもしれないわね」


 「語り……?」


 「言葉じゃなくても、人は語れるものよ。絵で語る人もいれば、歌で、舞で、あるいは沈黙で語る人だっている。カイが描いていた絵は、あなたの心の一部だった。きっとそれは、ずっと、あなたの中に生きているの」


 カイは、自分の描いた風景を見つめた。


 「でも……あの頃の絵、もう描けない気がする」


 「今のあなたが描く絵は、きっと“今のあなたの物語”になる。過去と同じじゃなくていいの。むしろ、変わっていることが自然なのよ」


 沈黙が、また訪れる。


 でもそれは、確かな繋がりをはらんだ、あたたかな静けさだった。






 朝の光が、静かに森を染めていた。


 鳥のさえずりがかすかに聞こえる。夜が終わり、また新しい一日が始まる。その当たり前の繰り返しが、今のカイには、どこかまぶしく感じられた。


 「そろそろ……行きます」


 カイは背負い袋をまとめながら、少し照れたように言った。


 ミルカはうなずき、扉の前でカイを見送る準備をした。何かを引き止めるようなそぶりは一切ない。ただ、穏やかに、その背を見守ろうとしていた。


 カイは扉の前で立ち止まり、ふいに振り返った。


 「また……来てもいいですか?」


 ミルカの顔に、やわらかな笑みが浮かんだ。


 「ええ、もちろん。いつでも、おいで」


 その瞬間、カイの顔がふっとほころんだ。昨日よりも、ずっと晴れやかに。目はしっかりと前を見ていた。


 そして彼は、少しだけ声を張って言った。


 「カイじゃなくて……本当の名前は、カイルって言います。……でも、カイって呼ばれるの、実はけっこう好きだったんですけどね」


 ミルカはその言葉に、驚いたふうも見せず、ただやさしく微笑んだ。


 「カイル。いい名前ね。あなたの旅が、いい風に恵まれますように」


 「ありがとうございます」


 カイル――ミルカがカイと仮に呼んだ少年は、森の小屋をあとにした。


 扉が静かに閉まる。


 ミルカはしばらく、その扉を見つめていた。


 そして彼女は、棚から小瓶を取り出し、新しい一日の支度を始めた。

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