勇者にならなかった少年② ~止まっていた時間~
焚き火の小さなはぜる音が、間を埋めるように響いていた。
カイは、ミルカの問いにすぐには答えなかった。
「それは誰の期待だったの?」というひとことが、胸の奥で鈍く反響している。
父の期待。村の目。自分が応えるべきだと信じていた声の群れ。
「……たぶん、全部です。父さんの、村の人の……それに、自分の」
カイがしぼり出すように言った。
「でも、“自分の”って言っていいのか……よくわかりません。誰かが望んだものを、いつのまにか、自分の望みにしてただけで……本当は、最初から違ったのかも」
ミルカは何も言わなかった。
言葉は差し挟まず、ただ、彼の苦しみが出口を見つけるのを待っていた。
「剣を握ってるとき、怖かった。振るうたびに、“違う”って思ってた。……でも、止められなかった。やめたら、父さんが悲しむから」
声が少しだけ震えていた。
その震えを、カイ自身は隠そうとしなかった。
「選ばれなかったとき、いちばん怖かったのは……父さんの顔を見ることでした。だから、見なかった。目を合わせなかった」
カップの縁に目を落としながら、カイは言葉をつなぐ。
「それで、逃げた。家にも帰らず、道をそれて……森に向かって。気づいたら、ずっと歩いてて……」
そのとき、焚き火の火がぱち、と小さくはぜた。
「……俺が森を歩いてるあいだに、“あの戦い”があったって、あとから聞きました」
ミルカのまぶたがわずかに動いた。
「戦い?」
「うん。魔物が、村の外れに出たらしくて……選ばれた勇者の一団が、討伐に向かったって。でも……」
そこで、カイの声が途切れた。
「……でも?」
ミルカが静かに問いを重ねた。決して急かさず、ただ、扉をそっと押すように。
「……その中に、俺の友達がいた。……一番の親友。……選ばれた子」
ミルカは、言葉の先を急がない。
カイはしばらく沈黙したあと、ようやく、続けた。
「……帰ってこなかった。彼は、帰ってこなかったんです」
焚き火の音が遠くなる。
部屋の空気が、ほんの少しだけ重くなったように感じられた。
「あとから、誰かが言ってた。“立派だった”“最後まで戦った”って。……でも、俺は、何も知らない。見てない。……俺は、そのとき……ただ、森をさまよってただけで……」
ミルカは、わずかに身を乗り出す。
言葉はまだ続くか、否か——その判断を、カイに委ねた。
「……俺は、そばにいなかった。何もできなかった。俺は……何をしてたんだろうって……何のために、剣を振ってきたんだって……」
ミルカの瞳が揺れた。だが、表情は崩れない。ただ、耳を澄ますように、目の前の少年の語りに向き合っていた。
「……そうか。君は“戦わなかった”のではなく、“戦えなかった”わけでもなく……ただ、“そこにいなかった”のね」
カイは小さくうなずいた。
「そう。“そこにいなかった”だけ。でも、それが……いちばん怖かった。逃げたって思われるのが。裏切ったって思われるのが」
そして、ぽつりとこぼした。
「——自分でも、自分を、裏切った気がした」
*
カイの声が途切れると、小屋の中には、焚き火のかすかな音と、外を撫でる風の気配だけが残った。
ミルカはすぐには口を開かず、ただ、深く呼吸をして静かにうなずいた。
彼女の気配が変わらないことが、カイにとっては唯一の救いのようだった。
「カイ」
やがて、ミルカはごくやわらかい声で名前を呼んだ。
「あなたが“裏切った”って思っているその瞬間に……あなたの中に、もうひとりの“あなた”がいたのではないかしら」
カイは顔を上げかけ、そして、また伏せる。
ミルカは続ける。
「悲しんでいた“あなた”。動けなかった“あなた”。それを遠くで見ていた、もうひとりの“あなた”がいたんじゃない?」
カイは息を詰めたまま、答えない。
だがその肩はわずかに揺れ、拳が膝の上で強く握られる。
「たとえば……あなたが“逃げた”と責めるそのとき。ほんとうは、“そこにいたら壊れてしまう”自分を、守ろうとしていたかもしれない」
その言葉が、カイの中の何かを突いた。
「……守る?」
その言葉だけが、反射のようにこぼれ落ちる。
「……俺は……守れなかった。誰も。……あいつのことも、父さんの期待も、村の誇りも」
ミルカはゆっくり首を振った。
「守れなかった、のではなく——守りたかったんじゃない?」
言葉の響きはやさしいままだった。だが、その奥には、鋭さもあった。
カイはまぶたをきつく閉じる。
「……そうだよ。守りたかった。みんなの期待を。父さんの笑顔を。あいつの未来を……」
その声は、かすれていた。けれど、はじめて何かがこみ上げるような熱を帯びていた。
「でも、全部……できなかった。だから、全部、自分のせいなんだって、思ってた……」
ミルカはわずかに前に身を乗り出し、そっと問いを差し出した。
「——それを、誰かに言えたことはあった?」
カイは、はっとして顔を上げた。
その瞳は赤くにじんでいたが、涙はこぼれていない。まるで、涙になるにはまだ重すぎる感情を抱えているかのようだった。
「……ないです。誰にも。……言っても、わかってもらえないと思ったし……そんなこと言ったら、もっと……ダメになる気がして」
ミルカは、ふっとまぶたを閉じた。
「よかったわ。今、ここで言ってくれて」
その一言に、カイはまた視線を落とした。
「……言って、いいんですか。こんなこと。言ったら、誰かを責めてるみたいで……それもイヤで……」
「責めることと、語ることは、ちがうわ」
ミルカははっきりとそう言った。
けれど、声は冷たくなかった。むしろ、芯のあるあたたかさがあった。
「自分の痛みを、ただ“見る”こと。……それは、誰かを悪者にすることではなく、自分に触れるということなのよ」
その言葉に、カイの肩から少しだけ力が抜けた。
「……でも、まだ……言えないことが、たくさんあります」
「いいの。言えないことは、まだ“そこにある”って気づけたら、それで」
ミルカの笑みは、まるで湯気のようにやわらかかった。
「……ここは、そういう場所だから」
*
焚き火の炎が、再び静かなリズムでゆれていた。
ひとしきり語り終えたカイの肩は、わずかに上下していた。浅く、速い呼吸。語ることで軽くなるはずのものが、むしろ重く胸に沈んでいるようだった。
ミルカはその様子に気づいていた。
だが、あえて目をそらさず、まなざしをやわらかく保つ。
「……あなたが、そのとき感じていたのは、“裏切った”という思いだったのね」
カイは頷きかけて、途中で止まった。
頷いてしまえば、何かが決定的になってしまいそうで、怖かった。
「……わからない。でも……あいつが死んだって聞いたとき、俺の中でなにかが……止まった気がした。もう、進めなくなった」
「“止まった”のね」
ミルカはその言葉を静かに繰り返す。
部屋に風が流れる。窓の隙間から入り込んだ一筋の風が、カイの髪をわずかに揺らした。
「……あの日から、俺、時間が動いてないみたいで。……逃げてきたことも、何もできなかったことも……」
言葉がつかえる。けれど、ミルカは遮らない。
その“つかえ”さえも、語りの一部だと知っているから。
「みんなは“仕方なかった”って言ってた。誰も俺を責めなかった。なのに、俺だけが……ずっと、自分を責めてる」
「それは……なぜ、だと思う?」
問いかけは、鋭くもやさしい。
心の奥に差し込む光のような声だった。
「……俺だけが、“止まってる”から、です」
カイが吐くように言った。
「時間が止まってるから、あの時のまま、俺はずっと“なにもしなかった”やつで……他の誰かが前に進んでも、俺は、あの場所にいる。あの森の中に、まだ、いるんです」
その言葉に、ミルカの目が少しだけ伏せられた。
「……それなら、今、こうして語っている君は、“どこ”にいるのかしら」
その声に、カイは目を見開いた。
「……え?」
「もし、君の“全部”が、あの森に置いてきたままなら……今、こうして私に語っている“君”は、一体どこから来たの?」
問いは、やさしく、しかし確かな重みをもって響いた。
カイは思わず言葉を失い、口を開けたまま、言葉を探した。
「……そんなの……わかんない。……でも……」
「でも?」
ミルカは、あえて続きを催促しない。ただ、目を細め、少しだけ首をかしげる。
その空白の動きが、カイの言葉を引き出す。
「でも、こうして話してると……“今の自分”が、どこかにちゃんといる気がして……」
「それが、止まっていた時間のなかで、“動き出してる”ということかもしれないわね」
静かな声だった。
炎がまた、小さく揺れた。
「“動き出してる”……」
その言葉を、カイは小さく反芻する。
自分の中に残っていた“凍りついた何か”に、少しずつあたたかさが差し込むような感覚。
「……時間って、勝手に進んでいくものだと思ってた。でも、俺のは……止めたの、たぶん、俺自身だったんだ」
ミルカは、ほんのわずかに目を見開いた。
それは、カイが初めて、“自分自身のことを、自分の言葉で定義し始めた”瞬間だったから。
「それに気づいた君は、今、どこにいるのかしら」
カイは俯いたまま、少し考えるように黙った。
そして、火の揺らぎを見つめながら、ぽつりとつぶやいた。
「……もしかしたら、“戻ってきてる”途中、なのかもしれないです」
*
「……もしかしたら、“戻ってきてる”途中、なのかもしれないです」
そう言ったあと、カイは火の揺らぎに視線を落としたまま、しばらく黙っていた。
ミルカは、その沈黙を大切にするように、カップをそっと手に取った。
冷めかけていた茶に少しだけ口をつける。動作は静かで、流れるように自然だった。
「カイ。いまの言葉、とても大事に聞いたわ」
ミルカは、あえて“よく言ったね”といった言葉を使わなかった。
それは評価ではなく、彼自身の中から出てきた言葉だから。
「……でも、どうしてこんなに苦しいんでしょう」
カイがぽつりとつぶやいた。
「戻ってきてる」なんて、前向きなことを言ってしまった直後なのに、胸が張り裂けそうだった。
「“語る”って、あったかくなることだと思ってた。でも……話すと余計、痛いです」
ミルカは目を細めた。
その目には、深い共感と、慎重な選択が浮かんでいた。
「それはね、カイ。……語ることが、“触れずにいた痛み”に光を当てる行為だからよ」
「光を……」
「ええ。痛みは、光のなかでこそ、はっきりと形になるものなの」
ミルカは両手でカップを包み込むようにして、言葉を続けた。
「それまでは、ただ“重くて冷たいもの”として、胸のどこかに沈んでいるだけ。でも、語った瞬間、それは輪郭を持つ。……そして、“あなたの一部”として、存在を認められるの」
カイは、ミルカの言葉をじっと聞いていた。
それは難しい話ではなかったけれど、自分の内側に置くには、ほんの少し時間が必要だった。
「……じゃあ、これも……“俺のもの”なんですか?」
「ええ。痛みも、混乱も、語りにくさも……全部、あなたのものよ」
ミルカの声は、まるで布団の重みのように、カイの肩にそっと乗った。
逃げ場をふさぐようでいて、不思議とあたたかい。
「でも……受け取りたくないときは?」
カイの声はかすかに震えていた。
「それでも、“ここにある”と気づいていることが、いちばんの始まりなのよ」
ミルカのまなざしは、まるで夜の空に浮かぶ星のように穏やかだった。
カイは、焚き火の明かりに照らされた手の甲をじっと見つめた。
その手は震えていた。けれど、逃げ出すような気配はもうなかった。
「……俺、話してよかったんでしょうか」
その問いは、まるで“もう一度勇気を確かめる”ような声音だった。
ミルカはうなずいた。
「ええ。話すことは、心に火をともすこと。……それが、たとえほんの小さな光でも」
それを聞いたとき、カイの肩からふっと力が抜けた。
体全体が、ようやく「そこに在る」ことを許されたように見えた。
「……じゃあ」
ぽつりと、カイが言った。
「たとえば……これからも、少しずつなら、話していってもいいですか?」
その言葉に、ミルカはゆっくりとほほえんだ。
まるで長い旅の始まりに立ち会った案内人のように。
「もちろんよ。……それが、この場所の役目だから」
*
それからしばらくのあいだ、ふたりはほとんど言葉を交わさなかった。
けれど、その沈黙はもう重苦しいものではなかった。
焚き火のあたたかさが室内に静かに広がり、窓の外では夜風が梢を鳴らしている。
ミルカは、炉の脇で沸かしていた湯を注ぎ足しながら、新たにもう一杯のハーブティーを淹れた。
カップを差し出すと、カイはすこし戸惑いながらも、それを受け取った。
「……あったかいです」
カイがそう言ったのは、茶の温度だけではない気がした。
胸の奥が、ようやく少しだけほどけはじめていた。
「夜は、冷えるから」
ミルカは短く応じた。
その声音には、“気づいているよ”という静かな了解が込められていた。
カイはカップの湯気を見つめながら、ぽつりとつぶやいた。
「……眠れるかな、今夜」
「眠ってもいいし、眠らなくてもいいのよ」
ミルカは、焚き火を見ながら答えた。
その言い回しは、これまでも何度かカイが耳にしたものだった。
「ここでは、“そうしていい”ということが、たくさんあるのね」
カイの口調は、まだおそるおそるだったが、その中にほんのわずかだけ、冗談のような気配が混じっていた。
ミルカはそれに笑った。
「ええ、たくさんあるわ。“怒ってもいい”“黙ってもいい”“忘れていてもいい”。そして、“また思い出してもいい”」
その言葉に、カイはふっと目を伏せた。
肩が少し下がり、体全体が椅子にもたれかかる。
まるで、ようやく重心を預けても大丈夫だと、体が判断したようだった。
「……この場所は、本当はどこなんでしょう」
カイがぽつりと問いかけた。
「現実なのか、夢なのか、わからなくなることがあります。……こんなふうに人と話せるなんて、思ってなかったから」
「そうね。わたしも、時々そう思うわ。——でも、たとえここが夢でも、“君がここにいる”という事実は変わらない」
「夢でも?」
「ええ。たとえば、夢の中で誰かに助けられた記憶が、現実を変えることがあるでしょう? だったら、それは現実よ」
その言葉に、カイは目を閉じた。
言葉ではうまく表せないが、なにかが静かに腑に落ちた気がした。
焚き火の火は、やわらかく燃えていた。
その前で、カイはしばらくの間、カップを抱えたまま微動だにしなかった。
やがて、彼の体がすこし傾いた。
椅子の背にもたれかかり、まぶたがゆっくりと閉じる。
眠ることを選んだわけではない。
だが、もう何かを守らなくていいと体が判断した瞬間、人は自然と眠りに落ちる。
ミルカは静かに立ち上がり、そっと薄い毛布を棚から取り出した。
歩みは静かで、音ひとつ立てない。
眠りかけたカイの肩にそっと毛布をかけると、彼は微かに眉を動かした。
けれど目を開けることはなかった。
そのまま、小屋の中に静かな夜が訪れる。
ミルカは炉のそばに戻り、彼に背を向けずに腰を下ろす。
焚き火の光が壁に、椅子に、そして眠る少年の頬に、あたたかく揺れていた。
*
翌朝、小屋にはやわらかな光が差し込んでいた。
東の空に低く漂う雲のあいだから、朝の陽が静かに射し、窓辺の鉢植えの花を照らしている。
夜の冷え込みは遠ざかり、室内には焚き火の名残のあたたかさがまだ残っていた。
カイは、まぶたをゆっくりと開けた。
毛布が肩にかかっていることに気づき、目だけを動かしてあたりを見渡す。
ミルカの姿は、少し離れた棚の前にあった。
朝の茶を淹れる準備をしているのだろう。身じろぎひとつせず、淡々とした手つきで、薬草を選び、湯を沸かしていた。
気配に気づいたのか、ミルカがふとこちらを振り返った。
軽く目を細めて、小さくうなずく。
「おはよう」
その言葉に、カイは体を起こし、目をこすった。
「……おはようございます」
声はかすれていたが、昨夜までの硬さはなかった。
まるで、深い眠りから帰ってきたばかりのような、やわらかな声だった。
ミルカはそのまま、茶を二つ分淹れると、ひとつのカップを持ってきてテーブルに置いた。
「眠れた?」
「……はい、たぶん。よく覚えてないけど、すごく静かだった」
ミルカはうなずいた。
「それなら、よかった」
しばらくふたりは、カップを持ちながら言葉を交わさなかった。
沈黙はまだあったが、昨日とはまったく違っていた。
“言わなければならない”という焦りも、“何かを隠している”という気配もない。
カイはふと、自分の指先を見つめた。
ほんの少しだけ、力が抜けていることに気づいた。
そして、ミルカの顔を見た。
「……ミルカさん」
「なあに?」
「……話してもいい、って昨日言ってくれましたよね」
「ええ。いつでも、どこからでも」
カイは、しばらく言葉を探すように目を伏せた。
そして、言った。
「……質問、してもいいですか?」
ミルカは少し目を見開いたあと、にこりと微笑んだ。
それは“ようやく来たわね”とでも言いたげな笑みだった。
「もちろん」
「……ミルカさんは、どうしてこんな場所で……ひとりで、待ってるんですか?」
その問いに、ミルカはすぐには答えなかった。
カップを持つ手を少し止め、視線を火の炉へと向ける。
カイは、あっと思って口をつぐんだ。
——聞いちゃいけなかっただろうか。
——これは、まだ聞くには早すぎたのでは。
けれど、ミルカはそっと首を振った。
「ありがとう、カイ。……“聞いてくれた”ことが、嬉しいわ」
それは、心からの言葉のようだった。
問いに答えることよりも、“カイが問いを持った”という事実を、ミルカは大切にしている。
「ねえ、カイ。……“誰かに問いかける”って、とても勇気がいることなの。だから、あなたが今その言葉を選んだこと、それだけで意味があるのよ」
カイは、何も言えなかった。
けれど、胸の奥に、何かが灯ったような気がした。
「……じゃあ、そのうち答えてくれますか?」
カイがそう言うと、ミルカはまた笑った。
「ええ。そうね。そのうち、きっと」
小屋の外では、森の木々が静かに揺れていた。
朝の風が、今日という一日を告げている。
語られなかった言葉も、まだ触れていない記憶も、この小さな場所の中で、少しずつ“誰かの声”になっていく。