勇者にならなかった少年① ~傷と沈黙~
風が梢を揺らしていた。深く茂る森の奥、木立のあいだから差し込む光はやわらかく、午後のひとときを優しく照らしていた。
その小屋は、森のなかにひっそりと建っていた。石と木とでつくられた、ごく質素な建物。けれど、花が植えられた鉢が窓辺を飾り、扉には手入れの行き届いた真鍮の取っ手がついている。そこがただの住処ではなく、「誰かを迎え入れる場所」であることを感じさせていた。
扉が、かすかにきしんだ。
ミルカは椅子から静かに立ち上がる。薬草の整理をしていた手を止めて、振り返る。扉の向こうに立っていたのは、ひとりの少年だった。
やせた肩。ほこりまみれの上着。泥のついた膝。ぼさぼさの髪が目にかかって、顔がよく見えない。
「こんにちは」
ミルカはやわらかい声でそう言った。急がず、深く息をして、相手を見つめる。
少年は返事をしない。声をかけられた瞬間、ぴたりと動きを止めた。まるで逃げるか、入るか、どちらか決めかねているようだった。
「ここは安全よ。……もし、疲れていたら、少し座っていかない?」
沈黙が続く。
ミルカはもう一歩だけ近づいて、扉のそばに置いてあった椅子をぽんと軽く叩いた。「ここが空いてるわ」
ようやく、少年が足を動かした。恐る恐る、といった調子で、一歩。そしてもう一歩。足音もなく、小屋の中へと入ってきた。
光の差す窓際。椅子に腰をおろした少年は、背を丸めて座った。手は汚れており、袖で拭いたような痕がある。
ミルカは、あたたかいハーブティーの入ったカップを差し出した。少年は目を伏せたまま、それを受け取った。口をつけることはない。両手で包みこむようにして、じっと抱えている。
しばらく、沈黙。
ミルカは、何も言わない。少年の横顔を見つめながら、自らも椅子に腰をおろす。背筋は伸びているが、どこか力の抜けた姿勢。まるで「ここにいることそのものが、あなたの選択でいいのですよ」と語るようだった。
少年の喉が、かすかに動く。けれど、言葉は出ない。
ミルカは微笑んだ。まなざしにはやさしい光が宿っている。
「……名前、聞いてもいい?」
その問いに、少年は肩をすくめる。
ミルカはしばらく待ったが、少年は答えなかった。
ミルカはゆっくりと頷いた。「じゃあ、ここでは仮の名前をつけましょう。……たとえば、“カイ”。いい?」
少年は何も言わなかったが、わずかに視線が動いた。否定ではない。
ミルカは再び頷く。「ようこそ、カイ」
その名を受け取った少年は、何も言わず、ただカップの中の液体を見つめていた。
*
カップの中の液体は、まだ湯気を立てていた。けれど、カイは口をつけようとしなかった。ただ、そのぬくもりだけを両の手に感じているようだった。
ミルカは、黙っていた。
しばらくの間、小屋の中には風の音だけが響いていた。屋根を撫でるようなその音に、カイの肩がわずかに上下する。呼吸が浅く、時折、喉の奥が鳴った。
「……ここに来たのは、偶然だったのかしら?」
ミルカの声はやさしく、問いかけというよりも、ひとりごとのようだった。
カイは、応えない。けれど、その肩がふと揺れた。否定とも肯定とも取れない、わずかな反応。
「それとも、どこかへ向かっていたのかな」
また、沈黙。
ミルカはそれ以上追わなかった。ただ、目を細め、静かに息を吐いた。手元にある小さなノートのページをめくりながら、彼女は次の言葉を選ぶように、ゆっくりとした間を取った。
「私は、ミルカ。……ここで、話を聴く仕事をしてるの」
カイのまぶたが、ほんのわずかに上がった。けれど視線は合わない。
「誰かに、何かを話したいと思ったとき。……あるいは、話すことなんてない、って思ってるときでも。ここは、それでかまわない場所」
ようやく、カイの唇がかすかに動いた。
「……話すことなんて、ない」
その言葉には、疲労と諦めと、まだ言葉にならない何かが混じっていた。
「そうね。話さなくても、わかることもあるもの」
ミルカはほほえみを浮かべたまま、身じろぎひとつしなかった。
「でも……」カイがぼそりとつぶやく。「話さないと、何もわからないって、みんな言う」
「……“みんな”って?」
問いが返された瞬間、カイの体が強ばった。視線が動き、手のひらがぎゅっとカップを握りしめる。
「……うちの人たち。村の、大人。……父さん」
絞り出すような声だった。カイの目元に、かすかな光が滲む。けれど、それを見せまいとするように、顔をそむけた。
ミルカは、そっと言葉を継ぐ。
「……お父さんは、あなたに何を望んでいたの?」
沈黙。
その問いは、まるで息を呑むように、空気の中で静かに漂っていた。
カイは答えなかった。けれど、答えようとする気配だけが、小屋のなかに漂っていた。
ミルカは、急かさなかった。
ただ、あたたかいまなざしで、少年の「まだ言葉にならない声」を見守っていた。
*
カイの唇が、何度か動いた。けれど言葉にはならなかった。
「……あのとき、選ばれたのは、別の子だった」
ようやく落ちたそのひとことに、ミルカはわずかにうなずいた。
「そうだったのね」
カイは視線を伏せたまま、両手のあいだにあるカップを見つめ続けている。指先が細かく震えていた。
「父さんは……ずっと言ってた。おまえは剣の才があるって。ちゃんとやれば選ばれるって。だから……がんばった」
その声には、過去の自分に向けるような、悔しさと困惑がにじんでいた。
「けど、だめだった。選ばれなかった。……村の人たちも、みんな、期待してたのに」
ミルカはそっと、手元に置いていたノートを閉じた。
「あなた自身は、どうだったの?」
静かな問いかけだった。けれど、カイの肩が大きく揺れた。
「……なにが?」
「勇者になりたかった? そのことを、どう思ってた?」
その瞬間、カイは目を見開いた。まるで初めて聞かれた言葉のように。
「……わかんない」
ぽつりと、カイが言った。
「やらなきゃいけないって思ってた。みんなが……そう言うから。でも、剣の稽古……苦手だった。ずっと。息が切れるし、手が痛くなるし、怖いし」
ミルカの目が、やわらかく細められた。
「それでも、がんばったのね」
「がんばったよ……」カイは、泣きそうな顔で笑った。「がんばって、がんばって……それで、だめだった。だから、ぼくは、だめなんだと思った」
涙は落ちなかった。ただ、声だけが震えていた。
ミルカは、ゆっくりと背もたれに体を預けた。口元には変わらず静かな微笑みが浮かんでいる。
「“だめ”って、誰が決めたのかしら」
その声に、カイは顔を上げかけて……また、そっと伏せた。
*
ミルカは、さりげなく椅子の背もたれに体を預けた。重心の移動に合わせて、彼女のローブが静かに揺れる。焚き火の光が、淡くその輪郭を照らしていた。
「……村から、遠くまで来たのね」
そう言ったあと、しばらく言葉を継がず、ミルカはカイの返答を待った。沈黙は否定ではない。ただ、少年の呼吸の揺らぎを見守っていた。
カイの手が、ひざの上でぎこちなく動く。拳を握っては、すぐに開いた。
「……来たかったわけじゃない」
ぽつりと、硬い声が落ちた。
ミルカは、小さくうなずいた。相手の言葉を奪わぬように、音もなく。
「足が……勝手に……森のほうに向いてて。気づいたら、道がわからなくなってた」
彼は言いながら、自分の靴を見下ろした。泥にまみれ、かかとの糸がほつれている。旅支度というにはあまりにも衝動的で、荷も軽装すぎた。
「じゃあ、ここに来たのも偶然?」
「……わからない。でも、なんか……こういう場所があるような気がしてた」
「ふうん」
ミルカはそう相づちを打つと、すぐには次の言葉を続けなかった。彼女のまなざしは静かで、どこか深い湖のように澄んでいた。
「カイ。あなたは、ここに“何をしに”来たの?」
一瞬、カイの肩がわずかに跳ねた。
「……わからないってば」
「そう。わからないのね」
ミルカは優しく繰り返すと、ふと視線を落とした。湯気の立つカップを両手で包むようにして持ち上げ、口をつける。その所作は静謐で、居心地のよい間を部屋に満たしていく。
「……でも、何かが『嫌だ』とか、『つらい』とか、思ったから歩き出したんじゃない?」
カイは答えない。ただ、彼の喉が、ごくりと動いた。
しばらくの間があった。焚き火の木が、パチンと音を立ててはぜた。
「……剣、選ばれなかったんだ」
ようやく搾り出すように言った彼の声は、さきほどよりわずかに低かった。
「勇者、ってやつになれるはずだった。ずっと、目指してたから。父さんも……村の人も……俺がなるって、思ってた」
「あなた自身は、どうだったの?」
ミルカは、真正面から問うことを避けなかった。
その問いが、カイの心に静かに波紋を広げた。
「……俺も……そう思ってた。ずっと、そう……」
声がかすれる。
「でも選ばれなかった。友達が……選ばれた」
「そうだったのね」
ミルカは目を伏せず、淡い微笑をたたえたまま、うなずいた。慰めの言葉ではなく、ただ彼の痛みに寄り添う動きだった。
「それで、全部わかんなくなった。何してたんだろうって。なんで剣ばっか、やってたんだろうって。あいつのほうが……強かったのか、って」
カイの手が、再び拳を握る。指先が白くなるほどに力がこもる。
「でも、ほんとは……」
その先の言葉を、彼は飲み込んだ。
ミルカは言葉を挟まなかった。ただ、少しだけ体を前に傾け、目線を合わせる。
「……ううん、まだ言えない。なんか、うまく言えない」
「いいのよ。言葉は、あとから見つかるものだから」
ミルカの言葉は、毛布のようにあたたかだった。
*
ミルカは静かに湯を注ぎ足すと、壺を元の位置に戻した。その動作はまるで舞のように滑らかで、音ひとつ立てなかった。
「……あなたが“勇者になりたい”と思ったのは、いつからだったの?」
カイは一瞬だけ息を呑んだ。
「……ずっと、前から……たぶん、小さいころ……父さんが、“おまえがきっと選ばれる”って、何度も……」
彼の声が消える。視線は炉の中の、揺れる火のひとすじに落ちていた。
「父上の期待は、大きかったのね」
ミルカの言葉は、包み込むように柔らかかった。しかし、その穏やかさは、カイの胸をまたざらつかせる。
「でも……俺、選ばれなかった」
低い声でそう言ったとき、彼の肩がわずかに震えていた。怒りなのか、悔しさなのか、それとも別の何かか。ミルカは言葉を挟まない。ただ、彼の沈黙を受けとめた。
「そのとき、どんな気持ちだったの?」
カイは眉を寄せた。拳をぎゅっと握りしめる。口を開きかけて、閉じる。そのまましばらく動かず、ようやく絞り出すように答えた。
「全部……なくなったと思った」
「全部?」
「……俺の価値とか、生きてる意味とか……父さんの期待も、村の人の言葉も、剣の稽古も……それが全部、もう意味ないって……そう思った」
その言葉に、ミルカは静かに頷いた。彼の目を真っすぐに見て、言葉をかける。
「あなたは、“期待に応えること”を、自分のすべてだと感じていたのね」
「……違うんですか?」
問い返したカイの声には、わずかに幼さが残っていた。少年の中にいる、まだ世界を知らない小さな自分が、戸惑いとともに顔を出していた。
「それも、ひとつのあり方。でも、“期待に応えなければ意味がない”という考えが、あなた自身を苦しめているように見えるわ」
ミルカの声は決して否定しない。導くように、照らすように。
「……でも俺、期待に応えたかった。父さんが笑ってくれるのが、うれしかった。褒めてくれると、頑張ってよかったって思えた」
カイの目はうつむいたままだったが、ほんの少し、声に熱が戻っていた。
「それは、とても大切な感情よ。愛されたいと願うのは、自然なこと。でも、そのために、自分をどこかに置き去りにしてはいなかった?」
ミルカの問いに、カイは言葉を失った。
「……自分、を……?」
「本当のあなたは、何を大切にしていたのかしら。何をするとき、時間を忘れていた?」
その問いに、カイははっとして顔を上げかけた。だがすぐに目を逸らし、押し黙る。胸の奥の何かが、ざわりと音を立てて揺れている。
ミルカはそれ以上、何も言わなかった。ただ静かに湯気を見つめ、カイの思考が言葉になるのを待った。
*
「……父は、村で一番強い剣士だったんです」
しばらく沈黙していたカイが、ぽつりとつぶやいた。
ミルカは目を伏せたまま、うなずくでもなく、否定するでもなく、ただその言葉が空間に漂うのを待った。
「ぼくが、剣を持ち始めたのも……父に褒められたかったからです」
少しうつむいたカイの両手が、膝の上で強く握られる。爪が皮膚に沈みそうなほどに。
「うまくなれば、父みたいに強くなれれば、期待に応えられるって……そう思ってた」
その言葉に、どこか「正解を述べる」ような気配が混じっているのを、ミルカは感じ取る。
彼はまだ、“誰かの物語”を語っている——。
「期待に、応えたかったのですね」
ミルカはそう返すと、静かに手元の茶碗を置きなおした。わずかな音が、部屋に優しく響いた。
「ええ。でも、ぜんぜんうまくいかなくて。腕前も、たいしたことなかったんです」
カイの視線は床の一点に落ちたまま、動かない。
「選定の日……名前を呼ばれなかったとき、父の顔を見られなかった。ずっと見ないようにして……家にも帰らないで、逃げてきました」
その「逃げてきた」という言葉に、ミルカは反応を返さなかった。ただ、微かにまぶたを閉じる。まるで、彼の痛みをそっと内側で受け止めるかのように。
しばしの沈黙が流れた。
カイは息をつき、口を開く。
「期待に応えられなかったら、自分の価値なんて、ないような気がして……」
そのとき、ミルカがゆっくりと視線を上げた。やわらかいまなざしが、カイの顔をそっと包む。
「……それは、誰の期待でしょう?」
問いかけはとても静かで、だが、真ん中を射抜くような力があった。
カイは、はっとしたように顔を上げた。
そして、すぐにまた目をそらす。
「父の、です。でも、村の人もみんなそうで……勇者になることが、ぼくの使命だって……」
声は弱く、どこか探るようだ。
ミルカはゆっくりと首をかしげる。
「使命……とは、自分で選ぶものだと思いますか?」
その言葉に、カイの眉がわずかに動いた。
——自分で、選ぶ?
誰かに与えられるものではなく、自分で選ぶものなのか。
その考えが、カイの中に静かに、しかし確かに揺らぎを生み出していた。
彼は何かを探すように、遠くを見つめた。
「……わかりません」
しばらくして、彼はそう答えた。けれど、その声にはかすかな震えがあった。
「わからないけれど……でも、誰かに決められたことじゃない何かが、あったような……気がします」
ミルカはその言葉を待っていたかのように、微笑んだ。
それは、今にも崩れてしまいそうなカイの自我を、そっと支えるような、あたたかな光だった。