第8話 アルマは二度死ぬ
それから工房の時計の針は、時を刻み続けた。
ビドリオ・デヴァンニは、伝説の人形師の再来として世に名を馳せていた。
「アルマ、頼むよ。……また弟子たちのコンクールがあるからね」
真剣なまなざしで、ビドリオは不敵に微笑む。
己がデヴァンニの名を継ぐ限り、父の名に泥を塗ることは出来ない。少なくとも、次代に繋ぐまでは。
「はい、あなた。わたしの出来る限り、お手伝いいたしますわ」
変わらず、人形はビドリオに献身的に尽くした。
ビドリオは生きながらにして死んだ。確かに心は砕け散り、硝子の破片は、美しいアルマ人形の陽だまりに、永遠に閉じ込められたと言えるだろう。
一時は食事も摂らず、眠ることも忘れ、ただ虚ろな目で宙を見つめ、時折、意味不明な言葉をうわ言のようにつぶやくだけになった。
そこで人形は囁いたのだ。
「ビドリオ。あなたはお父様の後継者なのよ? ……デヴァンニの名を単なる幻にすることは許されるの?」
ピクリと指が動いた。ビドリオはまばたきをした。
そう、例え生きることを、考えることを止めたくなったとしても。
絶対に許されないことが――ある。
「あなたがここで投げ出せば、お父様の芸術も、クアルソの芸術もすべてなかったことになるわね。……それはあなたの命や心、愛。それらと天秤に掛けたら、やっぱり軽いものなのかしら?」
普通に考えれば、そうなのかもしれない。
命、心、愛は、魂と呼べるほど尊く、天秤に掛ければ比類なき宝だろう。だが、ビドリオにとってはどうか。
「――そう。人形師の『美』って……そんなものだったのね」
死んでも譲れないエゴだった。ああ、もし人生での後悔で最も許せないことがあるとしたら。
たった一つだけを選ばなければならないとしたら。
「違う」
ビドリオにとって、一番許せなかったのは。
「ボクはたかが居場所を失いかねないという恐怖心で、美を捻じ曲げた。師からの教えを全うしなかった」
己のあるべき使命、生き方を曲げたことだ。
自分は誰からも理解されなかったとしても、愛されなかったとしても。ただ、それだけはするべきじゃなかった。
父を失っても、妻を失っても、友を失っても。ありとあらゆる人々が、賞賛をしなかったとしても。
そう、少なくとも自分だけは、「美しいと思った気持ち」を裏切ってはならなかった。
「――ボクはボクの美への理想を貫く」
美しいと思ったことを、美しいと思ったまま行わなかったこそが許されざる罪だった。
人形は、そんなビドリオを見て、弧を描くように口元を形作った。
「あら、ビドリオ。お帰りなさい……わたしの旦那様」
結局のところ、人形は正気を失うことすら許さなかった。
ビドリオは伝説として名を残し、相応しい後継者を見出すまで、心も体も死を許されない。なぜなら、それこそが相応しい罰であり、世界を傷つけた復讐に値するからだ。
「そう、あなたは『美』を傷つけた許されざる罪人なのよ。でも、心配いらないわ。わたしがずっと、あなたのそばにいるから」
そんなビドリオの傍らには、常に人形が寄り添い、慈しむように髪を撫で、愛おし気に「愛しているわ」と囁き続ける。
一見すれば献身的な妻とその夫のようにも見えたが、実態の抜け殻となった男と、その『心臓』を永遠に弄び続ける美しい悪魔の姿だった。
――アルマは、一度目の死を、ビドリオの裏切りとクアルソへの罪悪感で迎えた。
そして、アルマは、ビドリオの魂を永遠に縛り付けるという復讐を遂行しながら、本当に彼が何も感じなくなった時、『アルマとしての役割』を終え、ただの美しいモノへと還るのかもしれない。
それとも、あるいは……。
ふと、ビドリオは人形作りの合間に物思いに耽る。正気に返ったかのように。
「アルマは……本物の彼女はどこかで生きているのだろうか」
「なあに、あなた。……他の女のことを考えているの?」
「え? あ、いや」
硝子のレンズが、硝子の心臓を射抜く。アルマは己の存在意義を全うする。
ビドリオにそうあれと強制したように。
「いい? アルマはわたしよ。だって、あなたがそう名付けたのですもの。そうあるべきだわ」
「……そう、だな」
もう、許されない。かつてのアルマを愛することすら。想うことすら。
心の自由すらも侵され、恐怖におびえるビドリオ。そっと寄り添う人形。
「あら、どうしたの、あなた? また怖い夢でも見たの? 大丈夫よ、わたしがいるわ」
さあ、復讐は果たされた。世界を壊した罪への罰は、心を痛むように修復し直されることで始まった。
「大丈夫、わたしは離れたりしないわ。だって、家族ですもの。ちゃんと癒してあげるから。……最期までその役目を全うできるように」
昔、硝子の心臓を持つ男がいた。まず最初に砕けた心臓を用いて、変わらぬ女を造った。
再び与えられた心臓に、ヒビが入るたび、砕けそうになるたび、傷を癒された。
現も夢もわからぬままで、埃塗れの工房に囚われ続ける。壊れたオルゴールのように笑い、砕けぬ硝子の瞳で変わらぬ愛を紡ぐ、無垢なる人形と共に。
二つの影は、禁じられた愛を踊り交わす人形劇のように、何度でも同じ物語を繰り返し、そこに在り続けたのだった。
アルマは二度死ぬ――その意味を、人々が本当の意味で知ることは、きっと、ない。