第5話 すれ違い夢幻
ビドリオの名は、確固たるものとなった。
師アルベール・デヴァンニの工房の正式な後継者となり、幼い頃から憧れていたアルマが妻になった。
工房は以前と変わらず。毎日、慣れ親しんだ木屑と土の匂いに包まれて、人形作りに励む。
――しかし、アルマとの結婚生活は、夢見ていたものとは程遠い。
笑顔を絶やさなかったアルマから、陽だまりの光が消えた。深い影が落ち、ぎこちなさが目立った。交わされる言葉は少なく、温かいはずの食卓は味気ない。
(愛を……囁いたらいいのだろうか。でも、どうやって?)
姉弟のような距離感に変化はない、互いを大切には想いやっている。なのにどちらも物思いに耽る時間が増していく。
「アルマ、ありがとう。……その、今日も美味しかったよ」
「そう、よかったわ」
自分ではダメだったのだろうか。
結局、アルマはクアルソを愛していたのだろうか。あの弾むような声も、頬を染める色も見いだせない。
(どうしたら、また笑ってくれるんだろう。あの表情をボクに見せてくれるのだろう)
ビドリオは、アルマの笑顔を取り戻そうと努力した。
ささやかでも装飾品を贈り、彼女の好きな花を部屋に飾る。かつてクアルソがしていたように、異国の話をしたり、歌ったりもしてみた。
「いいのよ、そういうことは。ねっ、ビドリオ、無理はしないで」
しかし、アルマは力なく微笑むだけ。
アルマの心は、あの雨の日にクアルソと共に、どこか遠い場所へ流されてしまったのだろうか。
(まさか……このままアルマを失うのか? アルマまで?)
ビドリオの心は安らかではいられなかった。
夜ごと、クアルソの変わり果てた遺体や、壊れたバレリーナ『キトリ』の無残な残骸が悪夢となって現れる。細工を施したあの日を夢見る。
工房で一人、人形と向き合っている時でさえ脳裏によみがえる。
クアルソの屈託のない笑顔や、師の「お前もクアルソを見習え」という言葉。
結局のところ、自分は後継者には相応しくなかったのではないか。
「違うっ、そんなつもりじゃなかった! ボクはただ、自分の家族が欲しかっただけだ!」
物陰から、師のアルベールはそんな二人を、どこか悲しげな瞳で見守っていた。
アルベールの皺がより深く刻まれ、めっきり手先の動きが鈍くなった。作品を手掛けることも、人形を遣うことも出来なくなったのだ。
ビドリオの作った人形を前にしても、かつてのような手厳しい批評や、熱のこもった指導をすることは少なくなった。
「師。なぜ、なにもおっしゃらないのですか? ボクはまだあなたから教わりたいことがたくさんあります」
「おまえに今さらなにが言えようか。もはや、儂を超えているというのに」
「まさか。師より優れた人形師など、この世におりませんよ」
「……幻影だ、ビドリオ。コンクールのあの日から、おまえは幻影を追っている」
理解できなかった。まるで、とっくの昔に自分が師を追い抜いているかのように言うのだ。
それでも、時折、意見を尋ねると一緒に案を考えてくれることがあり、幼い頃に戻ったような気分で、ビドリオは創作に励んだ。それが数少ない幸せな時間だった。
なんだか、自分の父をひとり占めしているようで。
とはいえ、ビドリオも指導する立場となれば、それにかまけてばかりもいられなかったのだが。
***
ついに年老いたアルベールが病の床に就いた。
日に日に衰弱していく師の姿を前に、ビドリオは無力感に打ちひしがれる。
最高の薬を求め、名医を訪ね歩いたが「寿命は伸ばせない」という答えしか返ってこなかった。
「じゅ、寿命……?」
信じられなかった。あの絶対的だった、アルベール・デヴァンニが死ぬと?
世界が滅びたとしても、それだけはありえなかった。
最期の夜、アルベールはか細い声でビドリオとアルマを枕元に呼んだ。
薄暗いランプの灯りのなか、震えながらビドリオの手を握り、途切れ途切れに言葉を紡いだ。
「ビドリオ。おまえのことは、本当の息子のように思っていた。厳しさすらも、すべてを血肉に変え、儂を越えて見せた。『人形師』の作を見た時、儂は……己の役目を果たしたと、そう思えた。……ありがとう、我が息子」
言葉が出なかった。こんなに褒めてもらえた記憶なんてあっただろうか。
そして師は、愛娘アルマの方へ視線を移すと、優しい、本当に優しい眼差しをした。
「アルマ。儂の可愛い娘よ。ビドリオは不器用な男だが、きっと、お前を幸せにしてくれる。儂の選んだ男は間違っていなかったと信じている。だから……幸せに、なりなさい」
(違う……師、違うんです。ボクは、そんな立派な人間じゃあないッ!)
師の言葉の一つひとつが、鋭い棘となって心を深く抉った。
自分の犯した罪は、無意味だったのではないか。あんな卑劣なことをしなくても、師は自分を認めてくれたのではないか。アルマは、自分を愛してくれたのではないか。
だが、その問いに答えてくれる者は、もういない。
師アルベールは、穏やかで寂しげな微笑みを浮かべたまま、息を引き取った。
アルマは、アルベールの亡骸にすがりつき、声を殺して泣き続けた。
(ボクは……結局、父を失ってしまった。あなたはボクのすべてだったのに。何もかもを与えてくれた、たった一人の人なのに)
葬儀が終わり、工房に重苦しい静寂が訪れた。
しかし、塞ぎこんだのはアルマよりも、ビドリオの方が深刻だった。職人としての仕事はこなすが、より偏屈に心を閉ざした。
今度は、アルマがビドリオを元気づけようとする番だった。
「ビドリオ。そんなんじゃ、お父さんが安心できないわ。すこしは息抜きをしましょうよ」
「ボクは……いや、私は平気だよ。アルマ。デヴァンニの名に相応しくあらねばならないからね」
「キッシュを作ったの。あなた、好きだったでしょう?」
「ありがとう、キミのキッシュは美味しいからね。そこに置いておいてくれ」
ビドリオは、もはやアルマからの愛を諦めてしまった。もう、自分には向けられることがないものだと。
残ったのは、伝説の人形師デヴァンニとしての名と工房だけだと。
「わたしが……悪かったわ。気持ちの余裕がなかっただけなの、だから」
「べつに、私はキミに怒ってなどいないよ。愛しのアルマ。ただ邪魔だけはしないでくれ」
「……っ!」
なぜ、アルマがショックを受けたような顔をしているのか、まるで理解できなかった。
ただ、ビドリオは現状をあるがままに受け入れただけなのに。
ある夜だった。
眠れずにいたアルマは、ふと、今は亡き父の書斎に足を踏み入れた。
「お父さん、わたしどうしたらいいのかしら。……もう、なにを言ってもダメなのかしら」
そこには父の遺品と共に、ビドリオが弟子だった頃の古い荷物もまとめて置かれていた。使っていた古い木箱には鍵がかかっていたが、父譲りの腕前には錠は意味をなさない。
「もしかしたら。そう、もしかしたら。仲直りできるヒントが」
アルマは一冊の古びた手記を見つけた。ビドリオが長年つけていた日記の一つだった。
「ふふ、ビドリオったら。お父さんに言われたら通り、ずっと日記付けてるんだもん。本当にずっと」
なにやら予感のようなものに導かれて、アルマは日記を手に取る。見てはいけないのはわかっている。でも、自分ならばビドリオをきちんと受け止めてやれると思った。
そう、大事な家族であったから。
蝋燭の揺れる炎に照らされたのは、綴られる闇。
クアルソへの嫉妬と劣等感。
師の跡を継ぐことへの悲痛なまでの執着。
居場所を失いたくない切実な想い、孤独。
一途な、アルマへの愛。
――そして、クアルソの人形に施した、卑劣な細工。
一文字一文字を追うごとに、アルマの顔から血の気が失せていく。
信じられない、信じたくない。
「嘘、でしょう? ビドリオ、あなたがクアルソを?」
クアルソの朗らかな笑顔、コンクールでの無残な残骸……次々に鮮明に蘇り、アルマの胸をバラバラに引き裂いていく。
弟のように愛したビドリオ。そして、夫して受け入れた男が、こんなにも恐ろしい秘密を抱えていたなんて。
アルマは日記を握りしめたまま、フラフラと書斎を出る。
どこへ向かうという宛てもない。ただ、この息苦しい工房から、ビドリオの影がちらつく場所から、一刻も早く逃げ出したかった。
ビドリオが事態に気付いた時には、もうアルマの姿はなかった。