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第2話 ボクの唯一の居場所

 煤けたレンガ造りの壁に囲まれたその工房。

 そこが、ビドリオにとっての唯一にして、最初に手に入れた居場所だった。


 幼くして両親の顔も知らぬまま、物乞いのような生活をしていた。

 そんなビドリオを拾い上げ、弟子として、そして養い子として迎え入れてくれたのは、高名な人形師である――アルベール・デヴァンニ。


 師は寡黙で偏屈な男だった。

 己を現すのに言葉は不要と言わんばかりに。

 時たま口を開けば、雷のように厳しく。鋭い眼光は真贋と審美を見定めるために使われた。


 だが、無骨な指先から生み出される人形たちは、繊細でありながらも溢れんばかりの可憐さと、血が通っているかのような温かみのある表情を備えていた。

 この世で二番目に美しいものは、ビドリオにとってその人形たちだった。


「世界には……こんなにも美しいものがあるのか」


 だからこそ、ビドリオはそんな師を、偏屈ではあっても心の底から尊敬し、実の父親以上に慕っていた。

 工房の埃っぽさ、木屑や土の香り。焼成の竈は空気を焼き付かせ、硫黄が鼻をつく。師のぶっきらぼうな声が響くと、ビドリオはなぜか安心した。


「ビドリオ、雑念を捨てろ。神経を集中させんか。人形はお前の写し鏡だぞ。火を視よ、肌を見よ、動きを頭に描け」


 師の叱咤は容赦がなかった。

 それでも、ビドリオは厳しさに込められた愛情(あるいは、そう信じたいという願望があった)を感じ取ろうと必死だった。


 いつか、師であるアルベールに認められ、工房の全てを受け継ぐこと。

 ビドリオが己に課した、生涯を賭けた誓いにして、存在意義。


 師アルベールには、一人娘がいた。その名をアルマ。

 陽だまりのような笑顔に、春の若葉のような柔らかな髪を持つ少女。


 ビドリオが工房に来たばかりの頃は、まだお互いに幼く、無邪気に工房の片隅で泥遊びをした記憶もある。

 

 内向的なビドリオにとって、唯一心を許せる相手。人間不信であった上、まともな交流はアルベールくらいでは、会話上手になれるはずもない。

 それでも、優しく接してくれるアルマに、いつしか淡く切ない恋心を抱くようになっていた。


 しかし、アルマにとって、ビドリオは「可愛い弟」であり、それ以上の感情を向けてくれている気配はなかった。

 その事実に気づかないほど、ビドリオは鈍感ではなかった。


「アルマ。……でも、いつかボクが師の後継者になったら、その時は」


 儚い願いを胸に、ビドリオは黙々と人形作りに打ち込んだ。

 命を持たぬはずの木や陶器を、生ける芸術品にする作業。ビドリオもまた、師の技術を盗み、その魂を受け継ごうと、寝る間も惜しんでノミを振るい、ヤスリをかけた。

 そんな幸せな日々が続くと思っていた。


 ある日、工房の古びた扉から、新たな風が吹き込んだ。

 異国で人形師の技を学んできた青年――クアルソが、師アルベールの腕を慕って、わざわざ弟子入りを志願してきたのだ。

 クアルソは火花のような情熱と、人を惹きつける屈託のない人柄の持ち主だった。

 何より、彼の人形作りには、ビドリオにはない力があった。

 伝統に縛られない自由な発想、見たこともない異国の技術、生命力と希望に満ち溢れた輝き。


「素晴らしいっ! クアルソ、おまえの人形には確かなリズムと躍動感がある。さながら行進曲のように」


 師アルベールも、クアルソの才能を高く評価し、手放しで褒め称えることがあった。


(師は、ボクをあんな風に褒めたことはないのに。ボクにはない輝き……クアルソは、それを持っているというのか?)


 嫉妬と焦りが、黒い染みとなってじわじわと心を蝕む。

 だが、クアルソ自身は、そんな葛藤に気づいているのかいないのか、常に気さくに話しかけてきた。


「ビドリオ、きみの技術は本当に正確で素晴らしいね。特に細部の仕上げは、おれも見習いたいよ。一緒に、師のような偉大な人形師になろうじゃないか!」


 裏表のない態度にビドリオも毒気を抜かれた。いつしか、ライバル心と共に、二人には奇妙な友情が芽生え始める。

 弟子クアルソは、他人を寄せ付けないビドリオにとって、アルマ以外で唯一、心を許せるかもしれない存在になりつつあった。


「ボクは……キミのそういう能天気なところが嫌いだよ」


 それでも複雑な想いは、若いビドリオには呑み込みがたいものだった。互いに夢を語り合いながらも、どこかで脅えていた。


 ――だがある日、師アルベールが、弟子たちを集めてこう宣言した。


「我が工房を継ぐ者に、このアルベール・デヴァンニの全てを託す。そして、その者には、儂の可愛い一人娘、アルマを妻として与えよう」


 工房の空気が、一瞬にして凍りつく。

 ビドリオの心臓から、ギシリと錆びた歯車めいた音が鳴った。


(そうなればアルマを、クアルソに……?)


 この時から、友であったクアルソは、明確に恐るべき強敵となり、そして『全てを奪うかもしれない存在』へと変わった。


 心に影が巣食い始め、より濃く、深く、その存在感を際立たせ始めた。

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