恩恵(ギフト)2
この物語は、フィクションであり、実在の人物、団体、事件等とは、一切、関係ありません。
ロードリア王国からネノクニューズまでは、馬、徒歩、船、合わせて、一カ月程かかる。
「途中、ハイドランジアを通過せねばならないな。」
一行に合流したエルナが物憂げな表情をしていた。
「嫌なら帰ることだな。」
先頭は神乃が馬に乗っていた。
「もはや、帰る所などない。」
大臣やラルフ副団長の策謀により、地位を追われたエルナは、逃亡者となることにより、国も追われることになった。気丈に振る舞ってはいたが、内心では、家長たるクリフォード家のことが気掛かりではあった。
「エルナは、ハイドランジアを通るのが嫌なのか?」
カルンを乗せた馬は、ヴォーグが引いていた。
「お前たちは、嫌ではないのか?」
ハイドランジアは、ネノクニューズの隣にある人間の小国家であった。人口は少数だが、国土は広大で、多くの荒野大地を有している。ネノクニューズとハイドランジアとは、海峡で隔てられてはいるが、両者は交易で結ばれており、ハイドランジアは中継都市のようになっている。
「過激派の存在は聞いたことがないのか?」
「知らない。」
ヴォーグの歩む傍らには、エルナが馬に乗っていた。
「ならば、混魔人と人間との争いは聞いたことがあるだろう。」
「そのようなこと、めずらしくもない。」
二人から数歩離れた前方で、神乃は辺りを警戒していた。ハイドランジア国では、ネノクニューズからの混魔人の移民が多くいた。彼らは、無人の荒野を耕して、集落を作り、交易などを生業として暮らしていた。人間の国であるハイドランジア国は、初め、それを黙認していた。しかし、やがて、混魔人集落と既存の人間集落との間で争いごとが起きると、ハイドランジア政府は、人間側に立ち、混魔人の移民集団を規制しようとした。
もとより、ハイドランジア国にも、混魔人集団は、経済的になくてはならない存在となっており、政府も規制的共存を目論んではいたが、やがて、人間たちの野望と恐怖が、政府の態度を硬化させ、過激化させていった。混魔人集団の支配と利益簒奪を目指すようになった人間たちに、混魔人たちも、抵抗、過激化の一途を辿った。
混魔人は人間と魔物との雑種ではあるが、そのどちらからも、劣性しか受け継がず、魔物よりも軟弱で、人間よりも下等な存在として、差別の対象であった。ハイドランジア政府は、その支配は容易であると楽観視していた。しかし、混魔人たちの抵抗は激しく、事態は血で血を洗う半ば戦争状態となり、かれこれ数年間が経っていた。
「おい、村だ。」
前方に煙が見えた。今日は、その村で休むことにした。
「政治犯罪人エルナ=クリフォードへの追捕使を派遣する。当人への処罰が確定するまで、クリフォード家は閉門とする。」
ロードリア王国では、宮廷への反乱容疑として、エルナの身柄を追っていた。
「素性の知れない一行が、旅支度を整えて、西へ向かったと、旅商人から通報がありました。」
「西か。」
エルナに代わり、新たにロードリア王国宮廷騎士団団長に昇進したラルフ=エシュテールは、追捕使を西に派遣した。
「任務は身柄拘束だが、あらゆる可能性を視野に入れる。」
「承知致しました。」
ラルフの騎士団長就任に伴い、騎士団の顔触れも一新されていた。それまで、エルナの信頼が厚かった者たちは、解任された。
「ボリス準騎士長。猶予は三カ月だ。」
ボリス=スティールは、それまで警衛兵士長を勤めていた男である。この度、ラルフの推認により、準騎士長に選任されていた。この男が供の者二人とともに、西に向かった。
「随分、寂れたな。」
カルンを連れた三人は、ハイドランジア国に入っていた。神乃が訪れた十数年前は、もっと活気づいていた気がした。
「その時は、まだ、戦闘状態にはなっていなかった。」
一行は宿に泊まった。
「四名で、皆、人間ですか?」
「そうだ。」
「確認させてもらっても?」
「私はロードリア宮廷騎士団の者だ。連れの者が病に倒れ、ネノクニューズにいる医者の所へ向かう途中だ。」
エルナは、手甲に付いたロードリア宮廷の紋章を見せた。
「いや、そういうことなら、始めから、そう言ってくれればよかったのに。」
亭主は怯えながら、部屋に案内した。
「早い所、船を手配して、ネノクニューズへ渡るのが良い。」
宿の部屋でエルナは提案した。
「俺たちに何か隠している訳ではないだろうな。」
「何のことだ?」
「まあ、良い。」
カルンをベッドに寝かせると、神乃は刀を抜いて、辺りを見た。
「二人か。宿の亭主が通告したな。」
窓から往路を除くと、建物の陰に怪しい人影が、こちらを伺っていた。
「神乃、待て。私が行こう。」
「面倒は見ぬぞ。」
「もとより、そのつもりだ。」
エルナは帯剣したまま、部屋を出た。そして、そのまま、宿の裏口から通りへ出ると、先ほど見た人影の背後に向かった。
「何か用かな。」
「ちっ……。」
下卑た舌打ちが聞こえた。
「私を宮廷騎士と知ってのことか。」
「俺たちは、組合に言われただけだ。任務はあんたらの監視。だが、もうやめた。報酬も悪いしな。」
「貴様たちは冒険者か?」
「組合に聞け。」
そういうと、二人の人影は、素直に消えてしまった。
「戻ったぞ。」
「聞こえていた。冒険者組合の連中か。」
「そのようだな。どうやら、私をお尋ね者と知ってやって来た訳ではないようだ。」
「なら、良い。」
部屋の床に神乃は、どさっと転がった。
「船探しは明日だ。」
「俺は、町の情報を探って来る。」
ヴォーグが荷物を置いて、出掛ける準備をしていた。
「一人で、大丈夫か?」
「エルナは、ここにいてくれ。すぐに戻る。」
ヴォーグは部屋を出て行った。しかし、その日の夕暮れになっても、ヴォーグは戻って来なかった。
「四年前、この町で仲間が行方不明になった。」
神乃が夕暮れの町へ、ヴォーグを探しに行く少し前に、宿の部屋でエルナがそう語った。
「彼女はエレナと言った。宮廷騎士で、私の妹のような存在だった。」
「それは、愛なのか。」
「愛か……。そうだったのかも知れない。当時、私は、ハイドランジアへ秘密調査官として任務に出向くエレナに、ペンダントを贈った。紅玉でできた物で、御守り代わりだった。」
「秘密任務とは何だかな。」
「それは、私も分からない。ただ、それは、枢機卿からの通達で、私は、まだ副団長であったから、その内容までは知らされていなかった。しかし、恐らく、当時、顕在化しつつあった、ハイドランジア政府と混魔人集団との問題を探るものだったのだろう。本来の任務期間は、三カ月だった。だが、三カ月経っても、エレナは戻って来なかった。そして、そのまま、行方知れずのままなのだよ。」
「ヴォーグが消えたのと関係はあるのか?」
「いや、恐らくない。今回は、単純に、正体を知られた何者かに拉致された可能性が高いだろう。」
「その仲間も、同じように、正体がばれて、捕まったのではないか。」
「……。」
エルナは沈黙した。
「カルンを置いておくのも物騒だ。お前はここにいろ。」
「頼む。神乃。仲間が消えることには、もう遭いたくない。」
夜の町は人通りもなく、静かだった。宿の者に聞いた所、この町では、夜間、殺人や誘拐が後を絶たないらしい。そして、それらはいずれも、混魔人の仕業とされていた。
「音……?」
楽器の音がした。大通りの一画で、酒場が開いていた。そこでは吟遊詩人が楽器を奏で、ちらほらと人影が見えた。神乃はその中に向かった。
「いらっしゃい。」
酒場の中は、無頼漢らしき者たちが多くいた。そのほとんどは、帯剣した冒険者風情であった。
「代金は前払い。飲み放題だ。不味い酒だがな。」
「ふん。」
神乃は受付に鐚銭を投げた。
「もらうぞ。」
受付に置いてあった酒を一杯、飲んだ。本当に不味かった。
「あなた、旅の人?」
娼婦らしい女が寄ってきた。
「人を探している。このくらいの背丈の小僧だ。」
「息子さん?」
「ここに来たか?」
「さあ、私は、昼間からいたけど見てないなあ。」
「なら良い。」
その後は、適当に辺りを見て、宿に帰ることにした。
「町から女が消える。男は惨殺される。」
宿では、エルナが女中の話を聞いていた。
「失礼だが、あなたは混魔人ではないのか?」
「わたしは奴隷。」
女中は額に刻まれた烙印を見せた。
「そうか、ありがとう。」
「では。」
御礼を渡すと、女中は部屋から出て行った。
「てめえ!!何してやがる。早くしろ。」
その後、しばらくしてから、階下で、怒鳴り声が聞こえた。それは、亭主の声であり、相手は女中しかいなかった。その怒声を聞きながら、エルナは窓から外を見ていた。
「あれは…?」
月明かりにキラキラと乱反射して、何かが輝いていた。最初、星かと思ったが、それは、ほのかに移動している。
「紅玉のペンダント……?」
その反射光は紅玉の放つものだった。紅玉は、中に炎を宿し、光に反射して、ちらちらと赤い輝きを放つ。
「エレナ。」
気が付いた時には、エルナは、カルンを置いて宿を飛び出していた。
「ここは……、どこだ?」
ヴォーグが気が付いた場所は、暗い牢獄であった。夕方前に、町を探っていた途中、体に痺れが走り、突然、気を失った。
「しー。静かに。」
「誰だ?」
「わたしはベルゼ。あなたは?」
「ヴォーグ。」
突然の声ではあったが、その声に引き込まれるようにヴォーグは返事をした。
「あなたは囚われたの。」
「囚われた?」
「そう。ここは牢獄。」
「痛っ……。」
ヴォーグの体に痺れが走った。
「電撃を受けたのね。しー。静かに、休みましょう。」
甘い誘惑のような響きの中で、ヴォーグは眠りに就いた。それは、最近の旅の疲れと気苦労から、しばしの間、ヴォーグを解放させた。
「エレナ!」
夜の裏通りで、エルナは叫んだ。
「グェ、女……?」
相手は紅玉の光を輝かせていた。しかし、それまで、気が付かなかったが、エルナのいる裏通りには、異臭が立ち込めていた。それは、血と肉の死臭であった。
「おい、こいつも喰っていいか?」
「見た所、騎士か何かのようだが…。よし、捕らえろ。」
「つまらん。」
「ぐはぁ……!?」
暗闇から飛んで来た攻撃をエルナは防いだはずだった。しかし、あまりにも強力なその打撃を受けて、エルナは気を失った。
「ぐばっ……。」
「やっと目覚めたか。」
冷たい衝撃を受けて、エルナは目を覚ました。全身が濡れていたのを見ると、水を掛けられたらしい。
「貴様、そのペンダントをどこで手に入れた!?」
エルナの前には、紅玉のペンダントを付けた小柄な混魔人がいた。
「お前、あの女騎士の仲間か?」
「エレナのことか。」
「名前など知らない。そうか、お前はあいつを探しに来た仲間か。」
「エレナは生きているのか、答えろ。」
エルナの体は、建物の柱に縛られていた。帯剣はそのままだが、後ろ手に縛られていて、為す術がない。
「残念だが、奴は死んだ。」
「死んだ……。」
不意な悲しみがエルナを襲った。それは、絶望とも言えた。今までは、もしかしたらと思いながらも、知らずに過ごしていたことだが、突然、そのことを知らされると、こんなにも、打ちひしがれるものなのかと思った。
「あの女騎士は勇敢だった。それなりに地位も実力もある者だったのだろうな。」
「貴様がエレナを殺したのか。」
激しい憎悪であった。今は、それがエルナの生きる力に変わった。
「お前も、実力を見せてみろ。あの時と違って、相手に不足はない。おい。」
風が吹いた。エルナを縛っていた縄が切れた。そして、エルナは細剣を抜いた。怒りに震えていたエルナではあったが、まだ、冷静さも持っていた。
「遊んでやれ。」
「またか、つまらん。」
戦斧を持った牛頭人身の魔物だった。その口の周りは血で汚れていた。おそらく、エルナを気絶させた相手だろう。
「教えてやろう。我々、魔族が作り出した魔人、牛頭。父親は牛鬼、母親は、あの女騎士だ。」
ミノタウロスの掌から風の刃が飛んで来た。
「風刃だと!?」
エレナが得意としていた風魔法だった。
「はっ!!」
戦斧が地面を抉った。それをエルナは、身を躱して避けた。
「戦わぬのか?」
混魔人が言った。エルナは混乱していた。それは、先ほど混魔人が言った言葉の意味を理解できなかったからだった。
「理解できていないようだな。まあ、知らないのだろう。」
混魔人は話し続けていた。その間も、牛頭は、戦斧や魔法を放ってきた。
「二重爪!!」
牛頭の側面から、エルナは細剣の突きを放った。
「なんだこれ?」
しかし、その攻撃に牛頭は、かすり傷も付かなかった。代わりにエルナは、牛頭に体を捕まれて、壁に叩きつけられた。
「ぐ……。」
エルナは血を吐き出した。
「この国と混魔人との争いは知っているだろう。」
そんなエルナを見ても、混魔人は丁寧に語り掛けている。
「我々は、自らを魔族と呼ぶ。そして、いずれは、この国と人間を支配する。その中で、我々、魔族が作り出した雑種が魔人だ。」
「雑種だと……。」
混魔人の指示で、牛頭は攻撃を止めていた。これは、力試しであり、エルナを殺すつもりはないようだった。
「我々は、人間の雌を攫っては、人間牧場で魔物と交配させている。知っての通り、本来、魔物と人間との交配種は両親の劣性を受け継ぎ、弱い。まあ、私が良い例だ。しかし、我々、魔族は、意図的な交配を繰り返すことによって、両親の優性を受け継いだ新たなる混魔人を造り出すことに成功した。神に代わり、魔族が造り出した。それこそが魔人だ。」
混魔人の声は、否応なしに、エレナに起こった悲劇と惨状をエルナに理解させた。それを聞いた時、エルナは、臓腑から湧き出る嗚咽を感じていた。
「牛頭、下がれ。」
「くだらん。」
新たな人影が現れた。それは、弦楽器を携えた人間の吟遊詩人だった。
「遅いぞ。馬頭。」
「そんなあ~。ひどいな~。今ようやく、牧場に向けて、女を送って来た所なのに。」
「こんどは、この雌の相手をしてやれ。殺すなよ。」
「了解。」
吟遊詩人はエルナの前に歩いて来た。
「なかなか綺麗な娘さんだ。」
「貴様は、魔物なのか……。」
エルナは細剣で相手の間合いを制した。
「ヨタルさん。この女、少しもらってもいい?」
「好きにしろ。」
「了解。」
魔法が溶けたようだった。目の前の吟遊詩人は、姿を変えた。その体は人間のまま、頭だけ馬になった。そして、持っていた弦楽器は三叉槍へと形を変えていた。
「馬頭。父親は馬鬼。母親はあの女騎士だ。」
ヨタルと呼ばれた混魔人が笑っていた。
「俺は牛頭みたいに手荒な真似はしないよ。」
水の魔法がエルナを襲った。馬頭の周りから発生した水滴が集まり、縄となり、エルナの体と首を縛り上げていた。
「く……、は……。」
息ができなかった。締め殺しに遭ったエルナは、体を悶えさせていた。
「良い。美しい。やはり、悶える女は美味そうだ。」
「馬頭、殺すなよ!」
ヨタルの大声が聞こえた瞬間、水魔法が溶けて、エルナは地面に落下した。
「いやあ。すまない。しかし、あまりにも美しくてねえ。まるで、私たちの母親のようだ。」
「母……。」
「そう。彼女も君のような立派な騎士だったと聞く。彼女は、何体もの魔物の愛を受け、その子を産んだ。そして、その中で、最も有能だった我ら牛頭馬頭の兄弟が生かされた。」
「う、えっ……。」
嘔吐物がエルナの体から出た。
「残念ながら、彼女はもういない。しかし、悲しむことはないよ。彼女は、今も我ら兄弟の中に生きている。度重なる愛の証明により、子を産めなくなった彼女は、最期に、私の愛を受け、そして、牛頭の食物となり、我ら兄弟とともにあるのだから。」
「殺す!!!」
吟遊詩人の物語が終わった時、エルナの体に変化が起きた。それは、エレナへの愛を掻き消すほどの憎悪であった。その憎悪が、エレナの胃の中から湧き上がり、体を覆った。
「殺す!!!」
悪魔であった。エルナの背中には黒い影の翼が現れていた。憎悪の塊は、彼女の体を鎧のように包み、手に持つ細剣を黒く塗っていた。
「なんだこれは!?」
突然の出来事に、今度はヨタルが混乱した。
「破滅。」
エルナの細剣から放たれた黒い光が一帯を包んだ。それは、夜の闇より暗い暗黒であった。
「牛頭、馬頭どこだ!?」
何かが何かを貪るような悲鳴と咀嚼の音が聞こえた。ヨタルの体は、恐怖により、拘束されていた。
「死ね。」
魔人、牛頭馬頭は、暗黒の中で、四肢をもがれた。屍臭が辺りに漂った。そして、悪魔の下僕たちにより、その魂もろともに喰われ、悪魔の棲む冥界へと連れて行かれた。
「なんだ、何がどうなっている!?」
「貴様は、簡単には殺さぬ。」
恐怖の悲鳴が聞こえた。魔族を名乗る、混魔人ヨタルは、暗闇の中で、四肢をもがれた。しかし、その体は、悪魔の下僕の食物にはならなかった。もがれた四肢は、ヨタル自らの食物となって、その体を再生させた。一昼夜、食事を続けたヨタルの体は、ついには汚物となって消えた。しかし、その汚れた魂は、悪魔の下僕も喰わず、最期は、冥界の獣の餌となった。
囚われたヴォーグは、牢獄の中で、ベルゼの話を聞いていた。
「わたしは、鬼と人間の合いの子なの。」
「鬼なのか?」
鬼と言われれば、微かにそう思えなくもない。それに、ヴォーグが見たことがある同胞は母親だけである。
「あなたは?」
「俺も、鬼の子だ。」
「じゃあ、わたしたちは兄妹なのね。」
ベルゼの話では、ここは混魔人が連れ込まれる牢獄だということだった。
「どうにかして、ここから出たい。」
「無理よ。」
ベルゼは即答した。
「どうして?」
「だって、誰も逃げ出せた人はいないもの。」
「なら、俺たちが初めだ。」
夜が更けた。牢獄は煉瓦造りで、目の前の鉄格子以外、入り口はない。
「誰か来る。」
足音が聞こえた。ヴォーグは、微かな声でベルゼに囁いた。
「……。」
ヴォーグとベルゼは死んだふりをしていた。
「……。」
やって来た相手は、無言のままだった。
キィィ……。
鉄格子の扉が開く音がした。
「この野郎!!」
見えない相手に、ヴォーグは体当たりをした。それは、確かに手応えがあった。
「逃げるぞ!」
ヴォーグはベルゼの手を引いた。そして、全速力で、鉄格子の扉を抜けた。
「広いな。」
牢獄の中は迷路のようだった。
「痛い。」
「悪い……。」
急いでいた。それ故、いつのまにか、ヴォーグは、ベルゼの腕を引っ張ってしまっていた。
「足音……?」
前方から足音がした。しかし、それは、先ほどの相手とは違い、不規則で、奇妙な足音だった。
「こいつ!」
曲がり角に隠れて、飛び出し際に体当たりを食らわせた。が、感触が変だった。それは、冷たく、臭く、湿っていた。
「生ける屍よ。」
ベルゼが声を立てた。闇の中に、ヴォーグの視界にも、微かに見えたその姿は、屍そのものだった。
「逃げろ。」
ヴォーグは、反射的に駆け出した。またしても、ベルゼの手を引く形になった。
ヴォーグとベルゼは、未だ地下の牢獄にいた。
「生ける屍なんて……。」
「あなたも見たでしょう?」
にわかには信じられなかった。
「先を急ごう。」
地下牢獄は広い。闇の中、足音を探りながら、煉瓦の壁を伝って行く。
「生ける屍なんて、初めて見た。」
「私も。」
ベルゼは不思議な子であった。何故、この地下牢獄に、彼女一人だけが囚われていたのだろうか。それに、何故、この地下牢獄のことに詳しいのか。それでも、今、彼女は、生ける屍を初めて見たという。
不思議なことはそれだけではなかった。彼女といると、ヴォーグは優しい気持ちになれた。それは、どこかで忘れていた記憶のようだった。
キィィ……。
扉であった。地上に出る通風口のような扉を、ヴォーグは開けた。その先は、どこかの中庭のようであった。
「ウォーン……。」
近くで、犬の遠吠えが聞こえた。
「屍狼よ。」
屍狼の群れが二人を襲った。
「火球。」
ヴォーグの放った火魔法は、屍狼の群れの中央に向かい、破裂した。
「あ……!」
「どうした?」
ヴォーグが後ろを振り向くと、闇の中に陰が立っていた。それは、牢獄で初めに出会った相手だった。
「……。」
月明かりの下で、微かに見えるその姿は、騎士の仮面を被っていた。身なりは道行く民人と変わらない。しかし、仮面の他に、あと、ひとつだけ変わっている点と言えば、両手に鉄のかぎ爪を着けていることだった。
「ふしゅ~……。」
間の抜けた息使いがした。次の瞬間には、相手のかぎ爪が、ヴォーグの心臓めがけて突き出されていた。
「ワゥッ!!」
「逃げろ!!」
とっさにヴォーグが避けたことで、かぎ爪の先は、偶然、飛び掛かって来た屍狼の胴体を引き裂いていた。
「ふしゅ~。」
突然、かぎ爪の相手が跳んだ。その跳躍力は、凄まじく、猿のように、近くの木の枝にかぎ爪を引っ掛けて、飛んだ。そして、逃げようとするヴォーグたちの正面に着地した。
「火球!」
焦げた臭いがした。だが、かぎ爪の相手は、なんら変わりなく立っている。
「ふしゅ~。」
「グワゥ!!」
突然、屍狼の群れが、かぎ爪を襲った。
「グワゥ!!グワゥ!!」
「今だ。」
辺りに屍肉が舞った。その隙間を縫って、ヴォーグはベルゼの手を引いて逃げた。
宿に帰る途中、神乃は異変を感じていた。町の東の外れで、赤い炎の光が一瞬、輝いた。そして、そのすぐ近くでは、そこだけ黒い穴が開いたように、月の明かりも、星の光も届かぬ漆黒の空間が生まれていた。
「ちっ。」
町の象徴でもある燈火台に登っていた神乃は、舌打ちをした。そろそろ月が沈み始めていた。
「出て来いよ。」
「……。」
黒外套の男が二人、階段の踊り場に至った神乃の前後を挟むようにして現れた。
「何の用だ。」
男たちは無言で剣を抜いた。それらは、右手の歩兵剣と左手の短剣の二刀であった。
「ふん。あくまで殺る気か。」
神乃も刀を抜いた。
「死ね!!」
前後二人が同時に斬りかかる。片方は上段から、もう片方は下段から、左右の斬撃が神乃に向かった。
「忍び風情が!!」
相手の太刀筋は、暗殺者の剣であった。並の剣士ならば、最初の一撃で命はなかった。しかし、神乃は、それで命を落とすほど、弱くはなかった。
「……!?」
神乃は、刀と鞘で、前後の二刀を同時に捌いていた。
「まがい物の二刀流だが、貴様らには、これで十分よ。」
神乃は、右順手に刀、左逆手に鞘を携えた。
ヴォーグは林を駆けていた。月は沈み始めていた。
「くそ!!」
前方に生ける屍の群れが見えた。それらは、人間、魔物、混魔人たちだった。
「燃えろ!!」
ヴォーグの火魔法は、生ける屍の群れに突っ込んで破裂した。
「効いてないみたいね。」
「そうだな。」
ベルゼの言葉にヴォーグはいらついていた。ここまで、一緒に連れて逃げて来たが、どこかベルゼは、今、目の前に起きていることに対して、他人事のようであった。
「わたしの子ども。殺すのだれ。」
白い仮面を被り、羽織を着た人間が立っていた。その者の足下には、木の枝で魔法陣が描かれており、その中央には、人間の死体が置いてあった。
「反魂の祈り。邪魔するな。」
甘い香りがした。
「う、あ、……あ……。」
魔法陣の中央の死体が動き出していた。
「でかい……。」
人間に見えたその屍は、手足を屈めた野人だった。
「わたしは母。おまえは子。」
「あ……あ……。」
生ける屍となった野人がヴォーグとベルゼを見つめた。
「外道相手に、手加減などせぬぞ。」
闇夜の中で閃光が焚かれた。暗殺者の魔法であり、目眩ましであったが、神乃は、咄嗟に目を閉じて、目が眩むのを避けた。
「そこか!」
気配を感じて、神乃は、刀を振り下ろした。しかし、それは、相手の短剣に防がれた。
「少しはやるか。」
神乃の頬から血が流れ落ちた。その後も、神乃の守勢が続いた。時折、暗殺者たちは、魔法も交えて戦った。
「俺も腕が落ちたものだな……。」
刀と鞘で応戦するも、相手の二人四剣の攻撃は、勢いが枯れることはなかった。おそらく、日頃から相手は二人一組で戦っているのだろう。神乃も、故郷の内戦では、乱戦の中で、刀、脇差しの二刀を振るい、斬っては斬られの大立ち回りを演じたことがあった。しかし、その当時に比べて、技量こそは上がったのかもしれないが、心に燃えるものを失っていた。それは、命に代えても、守るべきものだったのかもしれない。
「くっ……。」
神乃の鞘が飛んだ。
「もう良い。止めろ。」
「やっと出て来たか。」
踊り場の陰から、一人の大男が現れた。
「仲間はどこにいる?」
「答えると思うか?」
「この状況で答えないことが、何を意味するのか理解できるか?」
ロードリア王国元警衛兵士長で、今は準騎士長のボリスであった。
「何故、俺に聞くのだ?」
「寝ぼけたことを言う。素直に、罪人エルナ=クリフォードを差し出すことだ。」
「ひとつ問う。場合によっては、その罪人の居場所を教えてやっても良い。」
「ふ、命乞いか。言ってみろ。」
「鬼の小僧のことを知っているか?」
「鬼の小僧?何のことだ。」
「いや。知らぬならば良い。」
神乃は刀を構えた。
「馬鹿が。」
ボリスが合図をすると、伴の二人が身を引いた。
「言っておくが、俺はこいつらより、身分も実力も上だぞ。」
剣を抜いた。ボリスの得物は、幅広剣であった。それを両方の腰から抜き、左右の手に持った。剣の柄は篭で覆われており、握り手を守っていた。
「ふん。力任せの剣か。」
「ほざけ!!」
縮地であった。一瞬で、間合いを縮めたボリスの両剣が左右から神乃の体を引き裂いた。
「遅すぎる。」
いつのまにか神乃は、ボリスの背後に回っていた。常人には、逃げられぬ早さの縮地ではあったが、狂戦士の次元移動に反応したことのある神乃には、止まっている剣を避けるようなものだった。それを成したのは、神乃の勘である。
「壱ノ段。」
神刀無双流、壱ノ段。二の太刀不用の剛剣。それにより、ボリスは、簡単に一刀両断された。
「小僧のことを知らぬならば、もはや生かしておく必要はない。」
ゆっくりとした足取りで、ボリスの亡骸を跨いだ神乃は、落ちていた自らの鞘を拾った。
「あ、あ……。」
屍野人は強かった。生きた野人は、攻撃を受ければ、逃げもする。しかし、その屍野人は、体を焼かれても、逃げることはないし、そもそも、ヴォーグの火魔法が効いているのかさえも分からなかった。それに、さらなる困難は、この場に、あのかぎ爪の相手がやって来たことだった。
「ふしゅ~。屍術師か……。」
「邪魔するな。死の狩人。」
辺りには、屍狼と生ける屍も集まっていた。
「滅茶苦茶だ……。」
ヴォーグは死を覚悟した。どう考えても、この場から逃げられるとは思わなかった。
「闘わないの?」
「勝てるはずがない。」
「そう。」
ベルゼは悲しそうな顔をした。その間にも、辺りは緊迫状態となっていた。
「逃げろ。」
「わたし?」
ヴォーグが火魔法を放った。それは、屍狼の群れに向かってだった。火球が破裂して、屍狼の群れの中に一筋の道ができた。
「とにかく逃げろ!!」
ヴォーグは、ベルゼの背中を押した。
「火球!!」
四方に向かって火球を放つ。
「走れ。」
ヴォーグが叫んだ。その時、一匹の屍狼がヴォーグの体に食らいつき、倒れたヴォーグを生ける屍の群れが覆った。
「死なせはしないよ。」
「うァぁ……。」
出し抜けに、ヴォーグの上に覆い被さっていた屍狼と生ける屍のうめき声がした。そして、それらは、体から腐った黒い血を噴き出させて、ばらばらに崩壊した。
「何だ……?」
ヴォーグは呆気にとられていた。辺りを見ると、同じような現象が、他の者たちにも起きていた。
「ヴォーグ。君をここで死なせはしない。」
「ベルゼ?」
ベルゼは微笑んでいた。
「紅蓮。」
ベルゼが手をかざすと、その場にいた全ての屍狼と生ける屍の体が崩壊した。そして、屍野人も、体から、まだ色の付いた血液を沸騰させて、崩壊した。
「ふしゅ、しゅ、しゅ……。」
「う、うわああ……!?」
死の狩人と屍術師の二人は、苦しみを味わっていた。やがて、彼らの中の血液が沸点を越えて、煙を出し、その肉に炎を上げると、ついには黒い塊となり、地面に倒れた。
「う……ん……。」
「やっと気が付いたか。」
エルナは目を覚ました。
「ここはどこだ?私は一体、何を……。」
「悪いが、ここは海の上、船倉だ。とりあえず動くな。事情がある。」
「皆は……?」
神乃が顔を向けた先には、カルンが寝ていた。そして、その傍らには、見知らぬ少女とヴォーグが身を寄せ合って眠っていた。
「今は夜中だ。」
「どれくらい眠っていた?」
「あれから三日目だな。」
波のざわめく音が聞こえる。やはりここは、海上なのだろう。
「紅玉のペンダント……。」
エルナの胸元には、紅玉のペンダントが置かれていた。
「朝になったら、小僧らに礼を言っておくが良い。」
「話を聞かせてくれ。」
「さてな……。」
めずらしく、神乃は眉をひそめた。
「話を聞きたいのは、こちらも同じだがな。」
神乃の話では、町外れの廃倉庫で倒れていたエルナを、ヴォーグと少女が運んで来たらしい。
「俺は、町外れに向かう途中、小僧らに会った。まあ、何というか……。お前は、血と死肉に塗れていた。ただ、その首飾りだけは、大事に握りしめていたがな。」
神乃が目を疑うほどの惨状だったという。町通りに、人気がないのが幸いした。密かに、エルナを宿まで運び、体を洗って着替えさせた。
「それは、あの娘がやってくれた。」
「誰なのだ、あの少女は?」
「ベルゼとか言う名らしい。ヴォーグと一緒に、囚われていたという。あっちもあっちで、大変だったらしいがな。」
一段落した時は、既に夜が明けていた。しかし、朝になっても、宿の主人はおろか、女中の姿も見えなかった。
「そのまま一日が過ぎたが、どうすることもできぬのでな。船を借りて、ネノクニューズに向かうことにした。」
「船のあてなどあったのか?」
「まあ、俺の方でも、ちと事があってな。だが、お前の国からの追っ手は、しばらく来ることはなかろう。」
神乃は眠そうだった。この三日間、彼が色々と尽力してくれたのであろう。
「すまぬ。迷惑をかけた。」
「つまらぬ礼などするな。寝るぞ。」
話を終えると、神乃は刀を抱えて眠りに就いた。
ネノクニューズでの目的は、学者崩れの物識りモーガン爺さんを探すことである。そして、彼から、カルンが患う不死の病、その治療方法を聞くことだった。
「やっと着いたか。」
蛮人の侵攻の後のネノクニューズは、ほとんどが壊滅していたが、所々、少しずつ復興し始めていた。
「モーガンはどこにいる?」
「あそこだ。」
神乃の問いにヴォーグが指差した。モーガンの住み家は、あの枯れ噴水の傍だった。
「いるか。」
「客か?はて、おまえは、ヴォーグ……だったか?」
「そうだ、久しぶりだな。モーガン爺さん。」
モーガンはかなりの老人だった。
「爺さん。早速だが、おぬし、不死の病というものを知っているか?」
足早に神乃が入って来た。
「おまえ、酒場でよく飲んでいた侍か。」
「神乃だ。」
「そうか。そういう名か。それに、随分と大所帯だな。」
「そこに寝ている男がいるだろう。俺たちはその知り合いだ。その男が不死の病に罹っている。それを治したい。」
モーガンは腰を上げた。そして、板の間の上に転がるカルンの顔を見た。
「この男……。」
「どうだ?」
「何者だ?」
「……。」
神乃は黙った。
「詳しいことは、俺たちも知らぬ。」
「そうか……。ああ、それで、不死の病のことだったな。」
「知っているのか?」
「あれは、確か『砂土の記録』の一節に書いてあった。その病は神の意思に背いた者への罰だと。」
「神に背いた者への罰だと!?」
その言葉に驚いたのはエルナだった。それで、あの時、宮廷でカルンが異端者と呼ばれたことの意味が理解できた。
「その紋章は、ロードリアの騎士か。」
「今は違う。」
「それに、おまえは闇を抱えているな。」
「闇?何のことだ。」
「あと、そっちの娘は……。」
モーガンは、ベルゼの瞳を見た。その瞳は、見る者を吸い込むような目をしていた。
「ふう……。なんと珍妙な一行か。このような奇怪な一行は、見たことがないわ。」
その夜は、モーガンの家に泊まった。一行は五人もいるが、モーガンの家の復興は早く、案外広かった。それは、この老人の人望を表していた。
「入れぬか。」
神乃は噴水の傍にいた。そして、迷宮への入り口を探していた。しかし、そこは、以前のようにカルンの結界に覆われていた。
「老爺よ。闇とは何か?」
「その細剣。」
エルナはモーガンの部屋にいた。そして、昼間に彼が言った言葉の意味を尋ねていた。
「呪われている。」
「呪われている?」
「今は昔、わしは、商人をしていた時もあった。これでも鑑識眼は、備わっているつもりだ。」
鑑定の技能である。
「見せてみい。」
モーガンに、エルナは細剣を渡した。その形は、以前と何ら変わりはないように見える。
「堕天の細剣。」
「堕天の細剣?」
「神を裏切った者の証。それは聖なる力を宿しながら、闇の力も宿す。それは持つ者が闇に染まれば染まるほど、闇の力が増すほどに、その力を増幅させる。」
「そのようなこと……。」
「心当たりはあるはずだ。」
悪魔の存在であった。ロードリア宮廷内で遭った悪魔もそうであるし、ハイドランジアで起こった一件もそうだった。
「何にしても、これは滅多な品物ではない。神からの烙印であり、証のような物だ。」
「証。」
「それ以上は知らん。それと……。」
モーガンは扉の方を向いた。
「久しぶりだな。モルグスタニア=バトラー。」
「その名で呼ばれるのは五十年以上前のことだな。それで、どうして、貴殿がここにおられる。鬼神、羅睺よ。」
扉から入って来たのは、ベルゼであった。
「モルグスタニア=バトラーだと?」
モルグスタニア=バトラーは、勇者の仲間の一人である。しかし、彼は、特別、神から恩恵を与えられた訳ではなく、常人であった。旅の商人であったモルグスタニアは、勇者と出会い仲間になり、ホーメリットの建設に一役買ったと言われていた。そして、賢者に弟子入りした一番弟子だったとも言われる。
「ヴォーグを迎えに来たか。」
「うむ。それはついでだ。本来は、神の御業のことだ。」
突然の出来事は、その場にいたエルナを混乱させた。
「その前に、この人間の女人のことも気にかかる。あとは、あそこに寝ている者か。あれは、勇者の子か。」
「やはり、そうだったか。」
「あれは、鬼の血も流れておるな。ヴォーグのように鬼神の血は受けてはいない。しかし、神の力を宿している。それも、全ての恩恵をな。よほど、数奇な命運の子なのだろう。」
朝を迎えた。一堂は、広間に集まっていた。
「それで、不死の病の治し方だが……。」
モーガンは、ベルゼの顔を見た。
「わたしが話そう。まあ、簡単なことだ。器から魂を取り出して、入れ替えれば良い。」
「何を言っている。ベルゼ。」
「よく、聞け。ヴォーグ。おまえは鬼王の子。わたしは、鬼神。昔、おまえの父は、鬼神の里に参り、その血を体に宿し、魔王となった。その鬼神の血がおまえにも流れている。」
「ベルゼが……鬼神?」
鬼神のことは、ヴォーグも母親から聞いていた。それは、神の一片であり、鬼の神でもある。
「して、そこに眠るカルンは、勇者と鬼妃の子。おまえの異父弟になる。」
「カルンが勇者と鬼妃の子で、俺の弟?」
「昔語りをしよう。その昔、魔物と人間は争っていた。どちらも力を求め、鬼王は、鬼神の里で、鬼神の血を飲んだ。鬼神の血は触れた者を焼き尽くす。胃の腑を焼かれ、三日三晩、苦しんだあげく、鬼王は鬼神の血を宿し、その力の一部を手に入れた。」
その場にいる者は、神乃も含めて、皆、静かに聞いていた。
「魔王となり、人間の国を滅ぼし始めた鬼王に対して、人間たちは神へ祈りを捧げ、あるお告げを聞いた。それは、神の力を宿した者たちのこと。勇者、剣聖、賢者、格闘王。その後は、おまえたちも知っての通り、神の力の前に魔王は敗れる。」
「それから後は、わしが話そう。わしの本当の名は、モルグスタニア=バトラー。その昔、勇者一行に仕えた商人で賢者の一番弟子であった。」
「ふ……。」
神乃が鼻で笑う声が聞こえた。ここまでの急な展開に、鼻で笑うしかなかったのだろう。
「魔王を倒した勇者は、かねてから、わしに建設を依頼していた理想郷、ホーメリットに鬼妃とその子を連れてともに暮らした。それがヴォーグ、おまえだ。そして、その慎ましやかな暮らしの中で、勇者と鬼妃の間に子が産まれた。それがカルン。しかし、愚かな人間たちの前に鬼妃はその子とともに村を去り、残された勇者は、カルンをホーメリットに置き、世界を旅した。それは、鬼妃を探すためでもあり、ホーメリットの発展のためでもあった。じゃが、彼は、旅の中で、知ってしまった。神の教えを振りかざし、正義を名乗り、異種族を殺戮する人間たちを。そして、その正義の手は、同族たる人間に対しても向けられていた。そして、自分自身も、また、神や周りの人間に言われるがまま、他種族を殺し、虐殺を繰り返してきただけであったことを悟った。」
外からは、ネノクニューズの町に住む人々の話し声と生活する音が聞こえた。それは、いつも通りの何も変わらない日常だった。
「やがて、勇者は知った。本当に倒すべきは、魔王ではなく、神であったということに。そして、再び、仲間を集め、神の恩恵とともに、神を倒すべく迷宮。神の迷宮に入って行った。」
「それの入り口が、あの噴水か。」
「そうだ。わしは、迷宮の入り口を守る番人と、ホーメリットへの伝達役として、彼らから地上に残ることを嘆願された。それに、恩恵もない、わしに、もともと、迷宮を踏破する力などはなかった。」
「カルンはあの迷宮の最深部は地下九十九階でその奥に神がいると言っていた。それを教えたのは、おまえだな。」
「その通りだ。地上に残ったわしは賢者様から預かった魔法具で、一行と交信をしていた。九十階で、仮面の怪物と激闘をして、その後、九十九階に到達した後から、交信は途絶えた。」
「それで神か。」
神乃はベルゼを見た。
「狂戦士のことは、エルナから聞いた。そもそも、なぜ、わたしが人間の国に現れたのかと言うと、近頃、多く起こる神の異変を探ることが目的だった。」
「神の異変?」
問い掛けたのはヴォーグだった。
「鬼神は神の一片。我等や鬼神の里は、神の座する場所とも近い。それ故、多くの異変を感じるとともに、それによって、里に影響が出ることも多い。そして、その原因の一端が知れた。」
「それは何だ?」
神乃がベルゼの瞳を見つめた。ベルゼも、また、神乃の目を見つめた。
「おまえたちだ。」
「俺たちだと?」
「正確には、カルンだろう。おそらく、神は、カルンに宿る自らの力を取り戻そうとしているのではないか。」
「何故、そうと言える?」
「それはエルナが教えてくれた。」
神乃とヴォーグがエルナの方を見た。エルナは、細剣を帯びて、静かに座っていた。
「エルナは、神の呪いを受けている。」
「隠していて、悪かった。しかし、私も、昨夜知った。ロードリアの宮廷から逃げる途中、私は、悪魔に遭遇した。悪魔はすぐに消えたが、その時、私の体に何かが宿った気がした。今思えば、それが呪いだったのだろう。」
エルナは目を伏せた。
「わしの鑑定によれば、エルナの細剣は、堕天の細剣。神を裏切った者の証であり、闇の力を宿している。それは、持ち手の闇の力が増すほど、その力を増す。」
「ハイドランジアの一件も、それが原因だろう。あの時、暴漢に襲われた私は、エレナのことを聞き、憎悪を募らせた。そして、その後は、記憶にない。」
エルナは顔を伏せており、その表情は分からなかった。
「神の呪いは、エルナが神に目を付けられていた証。神は、おまえたちのことを見ていたのだろう。」
「ベルゼ。ちょっと待ってくれ。それが、何故、エルナに呪いが掛けられたんだ?」
ヴォーグがエルナを見た。エルナはまだ、うつむいている。
「エルナは、本当は神の側として、神の意思を遂行する者として、神の息吹を掛けられていたのではないか。それなのに、カルンを助けようとするエルナを呪ったのだろう。狂戦士のことも、蛮人の侵攻も、神の息吹の結果なのだろう。」
「ふん。それで鬼神よ。貴様は、どちらの味方なのだ?」
神乃は刀の柄に手を掛けていた。
「どちらでもない。わたしは、神の一片ではあるが神、そのものではない。別の存在だ。」
「証明できるのか?」
「証明か。うむ。ちょうどいい。話が最初に戻ることができた。カルンの不死の病を治してやる。それが証明になるのではないか。」
本来、器である体から魂を抜き出し、他の器に吹き込むことは、神にしかできない。それ故、生死は、いつ何時も、神の所業とされているのである。
「神の一片たる鬼神ならば、それができなくもない。」
ただ、それには鬼神の里に、カルンを連れて行く必要があるという。
「里は遠いのか?」
「距離の遠い近いは関係ない。関係あるのは意思だ。」
ヴォーグは、ベルゼを見つめていた。それを神乃が割って入った。
「俺は抜ける。用があるのでな。」
「何だ、用って?」
「力だ。」
「力?」
「カルンが目を覚ましたところでやることはひとつ。それには、俺の実力が足りぬ。故、俺は、日の国へ行く。」
神乃の故国、日の国では革命戦争が起きた。今は侍が滅び、新たな国造りがされているはずだった。それ故、革命戦士であり、亡命者である神乃は、故国ではお尋ね者のはずである。
「強くなれるのか?」
「知らぬ。それでも、俺はこの目で真実を確かめねばならぬ。」
「そうか、エルナは?」
ヴォーグはエルナの方を見た。
「もとより、私に戻る場所はない。神の呪いのことも気になるしな。鬼神の里とやらについて行くよ。ただ……。」
「ただ……?」
エルナに沈黙が走った。
「くだらぬ心配はするな。あの時、お前を担いで来たのは、そいつだ。ヴォーグは、お前が思っているより、強い。それに、鬼神もカルンもいるだろう。」
「ふ……。そうだったな。」
エルナの顔にささやかだが笑顔が戻った。エルナは、己が再び、闇に吞まれ、悪魔を顕現することを恐れていたのだろう。
「わしはここを離れる気はない。それに、いずれ、お前たちも、また、ここに戻って来るだろう。その時まで、家を掃除して待っておるよ。」
モーガンが頭を撫でていた。
「では、決まったな。」
ぱんっ。と、ベルゼが掌を叩いた。すると、次元が歪み、新たな空間が拡がった。
「皆は、どこに行った?」
空間は、球体の星空のようだった。その中に、ぽつんと、エルナは立っていた。
「わたしは、先に行っている。おまえたちには、時間がある。ひとつ、行に励んでみるのもいいだろう。」
ベルゼの声が聞こえた。
「待て!行とは何だ?」
声音は遠ざかり、完全に聞こえなくなった。同じ頃、ヴォーグは、ベルゼとともにいた。
「いわゆる転生魔法は、本来、神の御業。我ら鬼神がやると、それなりに準備も時間も必要になる。」
「それが、九夜十日。」
「そう。その間、エルナには、憎悪に支配されぬ精神を養ってもらおうと思う。」
「それで、俺は何をすればいい?」
「己が内に潜む鬼神の血を覚醒させてもらう。」
「鬼神の血か。」
「うん。おまえの父親は、かつて、この地で、鬼神の血をその体に受け入れた。その血が、おまえにも、微かに流れている。しかし、それを甦らせるには、ヴォーグ、おまえ自身も、鬼神の血をその身に飲み込んでもらう。」
「分かった。」
「随分、物わかりがいいな。」
「それしか方法はないのだろう。それならば、さっさと終えてしまう方がいい。」
「死ぬかもしれんぞ。」
「俺は死なない。」
「何故、そう言い切れる?」
「分からない。だが、俺が死ぬことはない。もしかしたら、俺の中にある鬼神の血がそう言っているのかもしれない。」
「ふふ。鬼神の血か。それでも、死ぬより苦しい思いをするかもしれないぞ。」
「それでも生き残れるのならば。」
「なら、口を開けよ。」
ベルゼは、己の掌を噛んだ。そして、そこから流れ出た赤黒い血を、口を開けて待っているヴォーグに注いだ。
「ふふ。せいぜい苦しむことだ。」
その身に鬼神の血を受け入れたヴォーグは、いつのまにか気を失っていた。
本来、ネノクニューズから日の国へは、陸行、水行、合わせて、三カ月はかかる。その途中には、身の危険や疫病なども存在した。
「今は、もう、コマンダル国から、日の国行きの船が出ておる。それならばひと月あれば行けるだろう。」
「便利な世の中になったものだな。」
「自分の故郷のことくらい知っておけ。」
モーガンの話では、日の国は、国名もヒノミヤ国と変え、他国との交流を進めているという。
「気に食わぬが、仕方ない。コマンダルだな。」
「ああ、気を付けてな。」
乗って来た馬に跨がり、神乃はネノクニューズを後にした。
未だ、エルナは星空球体の中にいた。
「ここで何をしろというのか……。」
エルナは途方に暮れていた。もうどのくらいの時間が経ったのかも、曖昧だった。歩みを進めると、靴の底で水滴が滴り、何もない空間に落ちていった。
「……。」
本当に、その空間には、何もなかった。辺りに煌めく輝きはあったが、その正体が何なのかは分からない。そして、不思議なことに、この中では、疲労も空腹も感じることはなかった。
「……。」
エルナはただ、真っ直ぐな道を歩んだ。それは、果てしない旅のように感じた。
コマンダル国から船で十日。神乃はヒノミヤ国に着いていた。
「何も変わっていないな。」
神乃が故国の土を踏むのは、十年ぶりである。町の端々には、他国風の建物が建っているが、所々、元来からの伝統的な建物も残されていた。
神乃は宿を取った。目的地は、かつての神乃の住まいであり、師の家であり、妻子の実家である神刀無双流の道場だった。剣の腕により、師に認められ、その娘を妻とした神乃は、自ら、革命戦争に身を投じて、国を捨てた。そんな彼が、今さら、のこのこと帰ることはできなかった。
「(はたして、今もあるのだろうか……。)」
それが心配だった。当主を失った神乃家は、没落してしまっただろうと思った。そして、もしかしたら、義父や妻は、新たな婿を迎えているかもしれないと思った。
「(あった……。)」
身を隠して、道場の様子を見に行った神乃の目に、変わらず佇む瓦屋根の住まいがあった。しかし、そこには、かつての神刀無双流道場の看板は無くなっていた。
「うちに何か御用?」
感傷に浸っていた神乃の傍らに、背の低い幼気な少女が立っていた。
「童はあの家の子か?」
「うん。みかげ。」
「みかげと言うのか……。」
少女は、齢八つほどに見えた。よくよく見ると、その目元は、かつての妻の面影に似ていた。
「みかげ。」
「お兄さま。」
少女を追って、少年が走って来た。
「(栄太郎……。)」
神乃が国を捨てた時、栄太郎は、まだ齢三つであった。それが、今では、凛々しい少年の面立ちをしていた。
「失礼ですが、みかげに御用でございましょうか。」
栄太郎は慇懃に、かつ、警戒心を持って神乃に接していた。それは、義妹の身を案じるが故のことなのだろう。
「やはり、覚えてはおらぬか……。」
「えっ?」
「いや、何でもない。さも聞くが、其方の祖父は、今も健在かな?」
「お祖父さまならば、畑に出ております。」
「左様か。拙者は、昔年、其方の祖父、元老斎殿に世話になった身の上の者なのだが、この手紙を元老斎殿にお渡し願えないだろうか?」
栄太郎は、かつての祖父の門下生かと思った。相手の言葉遣いから言っても、元は名のある侍の者だと思った。
「名は何と申されますか?」
「名か……。真野京四郎。」
何年経ったのだろうか。早く終わって欲しい。そのような苦しみがヴォーグを襲っていた。身を焼くような痛みが、内臓を焦がしていた。それが昼夜、休まることなく続いた。
意識は朦朧とし、意思は弱まった。どうでもよいという感情が、ヴォーグに去来していた。
「それではいけない。」
「だれだ……。」
「それでは鬼神を手に入れることなどできない。」
「おまえは……。」
頭、心、体、そのどこでもない所、言うなれば、ヴォーグという存在の外から、何かが問い掛けるのを感じた。それは、ヴォーグに備わる無意識の危機感から生じたものなのかもしれなかった。
「諦めてしまっては、苦しむだけで、何も得られない。この苦しみの中でも、何か感じよ。」
それから声は聞こえなくなった。
「殺せ!」
「殺してくれ!」
「誰か!」
エルナも苦しんでいた。何もない空間を彷徨うエルナは、そこで己と対峙していた。無から生み出される意識は、エルナ自身そのものだった。
「エレナ……すまない……。私を殺してくれ……。」
無意識下に閉じ込めていたエレナの記憶が甦っていた。
「もう疲れた……。私はどうしたらいい……。」
助けを呼べるものは何もなかった。何もない空間の中で、エルナは、ただ、苦しみを味わうだけしかできなかった。
「真野京四郎とは、お主かな?」
月夜の河原に人影が二人、立っていた。その一人は、神乃だった。
「わざわざお呼び立てして申し訳ございませぬ。」
「いやはや、奇妙なことだ。真野京四郎と言えば、我が神刀無双流の開祖。それが、何故に、今更、舞い戻って参ったのか。」
「恥は承知の上にございます。」
「恥か。生きていく上で、そのようなものは何の意味も持たぬ。恥と名誉に囚われて、生きることを捨てた者を、かつて、わしは知っているからな。」
「返す言葉もございませぬ。」
「ふん。」
月は出ているが、明るくはない。影は見えるが、実態はつかめない。そのような状況で、二人は話していた。
「それで、何の用だ。」
「神刀無双流の秘伝にございます。」
「秘伝だと?」
神乃の相手は、前代、神刀無双流宗家、神乃三郎資元こと元老斎である。その元老斎の眉間が歪んだのが、薄暗闇でも分かった。
「神刀無双流に秘伝の太刀などはない。」
「伍ノ段。」
「貴様……、盗み見しておったか。」
神刀無双流は兵法であり、剣、柔、槍など各種の武技で相伝されている。その完成形とも言えるのが、カルンとの戦いで、酔った神乃が繰り出した。壱ノ段から肆ノ段までの太刀筋である。それらは、それぞれ、一刀両断、疾風迅雷、百花繚乱、必中必殺と、全てが必殺剣でもあり、奥義を構成する要素でもある。しかし、その奥義に伍ノ段の記述があるのを、かつて、密かに、神乃は、『神刀無双流秘家伝不出』という書物に知った。
「刀剣を振るう時代は終わった。侍も滅びた。我が道場も、もはやない。そのような中で、神刀無双流は、わしの心の内で滅んでいくものと思っていた。」
「古今無双の神刀無双流の武技。このまま滅ぼすには勿体なくございます。」
「愚かしい者よ。貴様に何が知れるというのか。傲った弟子の後始末は師がせねばなるまい。いざ死ね!!」
殺気が走った。水鳥が飛び立った。それは、稽古ではなかった。今まで、どの者にも感じたことがない恐怖を神乃は感じた。
「目覚めたか。ヴォーグ。」
「俺は……。」
「鬼神の血は取り込めたようだな。」
鬼神の里は、静寂に包まれていた。そこは、穏やかな川のせせらぎが流れており、小鳥のさえずりが聞こえていた。
「力は……?」
「それは分からない。それでも、生きて戻って来たことは確かなのだ。それを喜ぶといい。」
「皆は?」
「残念ながら、おまえが一番最初、いや、違う。あの者は、もう、目覚めた。今は、川のせせらぎを聴きにいっている。」
ヴォーグは走って行った。
「ヴォーグ、久しぶりですね。」
「カルン。」
カルンの手の甲に乗っていた小鳥が飛び立って行った。
「ここはいい所ですね。」
「覚えているのか?」
「眠っている間のことは、さすがに覚えていません。」
ヴォーグは安堵した。転生魔法は、元の器から魂を取り出し、新たに創造した器に投じる。神ではない鬼神では、その過程で、その記憶が失われるかもしれないと、ベルゼから聞いていた。
「心配かけましたね。」
「いや。皆が、よくやってくれた。」
「後は、エルナと神乃殿ですか……。」
星空球体は、何も変わらなかった。その中で、上も下も分からず、エルナは仰向けに寝ていた。エルナの気は狂っていた。しかし、どこか安堵もあった。視界を失っていたエルナは、耳を澄ましていた。そうすると、微かに水の音が聞こえた。
「静かだな……。」
エルナの中では、相変わらず感情が渦巻いていた。しかし、それも、いつのまにか、小さくなっていた。
「静かだ……。」
憎悪がそこにあるのが当たり前になっていた。だが、それに飲み込まれることはなくなっていた。それは、エルナ自身がその感情を認め、受け入れたということだった。
「……。」
仲間もいなく、音が流れているだけだった。案外、それが心地良かった。そして、そのまま、眠りに就いた。何年ぶりかの安らかな睡眠だった。
「壱!!」
神乃は勝利を確信していた。ただ、恐怖と殺気は別物だった。
「弐!!」
師、元老斎は技が優れている。しかし、それだけだった。年も取り、力も衰えていた。それに、元老斎とは稽古を幾ばくもしてきた。だが、元老斎は実戦をしたことがなかった。元老斎も、若い頃は腕に任せて、喧嘩や立ち合いをしたことがあったと聞く。中では、真剣による立ち回りもあったことだろう。しかし、それが平和の世にあっては限界だった。
一方、神乃は革命に身を投じた。その中で、何度も暗殺や死線をくぐり抜け、戦場に戦った。そして、海を渡った先でも、神乃は刀を振るった。その頃、元老斎は、鍬を持ち、畑を耕していた。その勘が、この目の前の敵は、恐るべき者ではないと告げていた。しかし、神乃の中には、今までにない恐怖が生まれ、同じような殺気を相手から感じていた。
「参!!」
それは師の怒りそのものであり、神乃の罪悪感そのものだった。元老斎に対する恐怖も殺気も、神乃自身が生み出していた。
「死!!」
刀が舞った。それは、元老斎の物だった。
「何故、斬らぬか。」
「師は斬れませぬ。」
「ふん。」
間合いを抜けて、元老斎は刀を拾った。そして、その刀を鞘に納めた。
「彩芽には、新しく婿を取った。門弟の杉田だ。」
「ああ、あの男は生きておりましたか。」
杉田は同じ神刀無双流の門人で、師範代を務めていた男だった。神乃に付いて、革命に身を投じ、戦場で生き別れになった。
「お前は死んだことになっている。栄太郎は、杉田を実の父と思い、二人の間には娘もいる。」
「見合いました。」
「そうか。」
元老斎は悲しげな物言いであった。
「剣とは難しいものだな。」
「承知の上にございます。」
「ならば、八城神社に行け。そこに、村雨丸と伝書が奉納してある。もはや、わしには無用の物。好きにするが良い。」
「有り難く存じます。」
「強くなったな。五郎左。そして、遠くなった。」
「……。」
「京四郎の名はお前が継ぐが良い。後は任せる。」
元老斎は去った。その後ろ姿は、弱々しく、寂しげであった。