第58話「出発します」
「スーツケースは持ちましたか?」
「中身も昨日確認した」
「帽子、タオル、その他の物はしっかりとバッグの中に入っていますか?」
「あるよ」
「では行きましょうか」
「行くか」
入念過ぎる程の準備の確認を一通り終えた翔達は荷物を持ち、玄関を出て鍵を閉めた。
大きな荷物なのはこれから一泊二日の旅行へ出かけるからだ。
母親よりも厳しいのではないか、と思えるほどの桜花のチェックを受けた翔は荷物の確認の途中で嫌気が差してきていたのだが、確認が終わってしまえば翔の心の中はわくわく感しか無かった。
スーツケースの車輪が音を立てる。
今回の旅行は新幹線を使っての旅であるため、駅へと向かう。
翔の家から駅までは市内バスを経由していくのが一番オーソドックスな行き方だ。翔は迷わず今回もそうする気でいた。
歩いて行けない距離ではないが、荷物も多いから、というもの勿論あったのだが、桜花に負担は掛けさせたくない、という配慮が一番だった。
「バスに乗って駅へと向かえば直ぐだから」
「昨日から何回も聞きましたよ」
「バスでは気をつけろよ」
「それも聞きました……」
新幹線は指定席を選んだのであまり問題にはしていないが、バスに乗るのは時間的にも人が多く自由席なため、犯罪紛いのことをする輩がいないとは限らない。
念には念を、と翔は昨日からずっと言い続けていた。
「それにしても、本当に旅行に行けるなんてな」
この旅行の発案は桜花との何気ない会話だったはずだ。
それから酔っ払った修斗と二人で一組のオセロ対戦を行い、惨敗したが、次の日に起きてみればチケットが二枚、置かれていた。
少し振り返ってみても破茶滅茶すぎる気がしてならない。
「翔くんが頑張ってくれたおかげですね」
「もっと褒めてもいいよ、何も出ないけど」
「照れてますよね?頬が赤いですし」
桜花が心底嬉しそうに微笑んで、お礼を言ってくれたので翔は気恥ずかしくなって、そっぽを向いた。
覗き込もうとする桜花に見られまい、と首を回して回避していく。
「今からの時間はとても大切な時間ですからね」
一頻り、からかって満足したのか桜花が覗き込もうとするのを諦め、しみじみとそう言った。
「桜花が来た時からもう大切な時間だけどな」
翔が呟いた。
桜花がさっと顔を赤らめる。
「翔くん……」
「いや、もっと前だな。僕の時間は僕にしかないから大切な時間は物心ついた時からだな」
「……そうですね」
翔が自信満々にそう言うと、桜花は苦笑いではにかみながら答えた。間違いではないので、桜花も何とも言えなかったようだ。
「バス停見っけた」
翔が遠くを指さして示した。ゴールデンウィークという事もあって、家族でバスを待っている人が多い。サラリーマンの人もいたが居心地が悪そうだった。
「あと数分で来るはず」
「遂に私達は出発するのですね」
桜花は翔とは違い、玄関の扉を開けて、一歩を踏み出してから既に旅行は始まっている、と思うのではなく、いつもと違う景色、違う駅へと向かうと、身をもって感じる瞬間、また理解した時に初めて旅行が始まる、と考えている人のようで、心做しか先程よりも興奮しているように見えた。
「そんな身構えなくても……」
「楽しみで仕方がありません」
「そりゃ、良かった」
「でも、私だけではこのようにはならなかったでしょうね」
「うん?」
車道を見ながら会話していた翔は直ぐには意味が入ってこなかったので、聞き返すために桜花の方を向いた。
桜花と視線が交差して、見つめ合う。
どこからともなく、笑いが込み上げてきて堪らず吹き出した。
「翔くんのツボは浅いのですね」
「この状況の馬鹿らしさに先に気づいただけだ」
「バス停でそのようなことをするのは私達ぐらいかもしれませんね」
ふふ、と笑う桜花に翔はぷいっと顔を背けた。
「それで?こうはならなかったって、どういう……?」
「聞きたいですか?」
「聞きたいです」
「耳貸してください」
思わず敬語で真剣に返すと、桜花に耳を貸せ、と言われたので素直に左耳を近づけた。
桜花と身長差がある翔は耳を傾ける時に少し屈んだ姿勢になった。
懸命に背伸びをして届かせようと頑張っている姿を少し想像すると、それはそれでアリだな、と思ったのだが、男としては気を遣うのが正しい選択だろう。
耳に手を当てられた。
そこまでして他人には聞かれたくない内容なのか、と勝手に思った。
そして、桜花は小さな声で囁いた。
「翔くんと一緒に居られるから、もっと楽しいのですよ」
どくん、と心臓が跳ねたような気がした。脈が早くなり、瞬間的に顔が赤くなるのが分かった。
何も言えなくなった翔に追い打ちをかけるように桜花は悪戯で翔の耳に息を吹きかけた。
「ふわぁっ?!」
意識が朦朧としている時に刺激が翔を襲い、一気に現実に引き戻された。
「変な声がでましたね」
「き、気の所為だな。うん。何も聞かなかったことにしてください」
ふふふ、と嬉しそうに笑う桜花は茶目っ気たっぷりにちろりと舌を出して首を傾げて誤魔化した。
旅行の効果は風邪の際に飲む、ガゼ薬よりも効果が抜群だった。
効果がハイテンションになる、というのだけは使いようだったが。
翔がやられっぱなしではダメだ、と何か言い返そうとした時にタイミングよく、バスが到着した。
「行きましょうか、翔くん」
「おう、行くか」
二人はバスへと乗り込んだ。
こうして、二人きりの旅行が幕を開けた。




