第181話「好きです」
瞳が合う。
見つめられている。
完全に終わったと思った。
現行犯で逮捕されると思った。
寝ている桜花の頬に自分の手を重ねてふにふにと手を動かしていたのだ。これを現行犯と言わずしてなんというのだろうか。
「お、おはよう」
翔は少し喉を詰まらせながら、朝の挨拶を交わそうと試みる。しかし、桜花は何も言うことなく翔をじっと見つめたままだった。
「あの……桜花?」
「……」
「桜花さーん?」
「……」
まさか、怒っているのだろうか。
刹那に思うものの、瞳と雰囲気が違うのでそれではないだろう。
今の雰囲気はどちらかと言えば、ふわふわと曖昧なものの中に桜花が存在しているような、言葉では表しにくい雰囲気だ。
「翔くんだぁ」
桜花はにへら、とだらしなく笑みを浮かべ翔の手にすりすりと自分の頬を擦り付けた。
急にすりすりされた翔は動揺が止まらない。堰を切った洪水のように、おろおろとどうしようもなく狼狽えていた。
「あの……ちょっ?!」
「えへへ〜」
普段の桜花ならば考えられないことである。緊急事態であると、翔の細胞全てが宣言を出していた。
そんな慌てふためいている翔でも、一部の冷静な部分があり、そこでは「完全に寝惚けている」と決定が下された。
そう。
桜花もまた、寝惚けているのだ。
いつもとは違うベッドだからなのか、夜更かしをしたからなのかは翔には見当がつかないが、兎も角も、桜花が完全に寝惚けていることは理解した。
「どこにも……行かないで」
「……桜花」
恐らくは寝言。
何が見えて、何と話しているのか。
どの世界で誰といるのか。
そのほとんど全ては分かるはずもない自分だけの世界なのだが、桜花が「どこにも行かないで」と求めているのはきっと翔に言っているのだろう。
一度、家族を失った桜花は、表面上は強く振舞っていても、やはり、奥底にある自分の思いではなかなか割り切れていなかった。
しかし、それを責めるべきではないし、それを掘り返すこともまたしない。
過去のことはもう終わったのだ。
これからはどう付き合っていくのか。それだけを考えていればいい。
もし、そこまで夢が進んでいて、それでも翔を頼りにしてくれているのなら嬉しいな、と思う。
「僕はずっと桜花の傍に居るよ」
とろんとした瞳で翔を見つめる桜花。
寝ているのか起きているのか、恐らくはその境目であろうが、先程から翔のSAN値をガリガリ削っているのでそろそろ起きていただきたい。
「好きです」
「……はい?」
「ずっと……好きです」
限界を超えるとどうなるのか。
その答えは至極簡単。
抑えきれなくなる。
翔はまだ時期尚早だと抑えてくる理性を振り切り、頬をふにふにしていた手をもう少し桜花に接着させていく。
耳辺りの髪を梳かしてやる。桜花は抵抗することなく、受け入れ、気持ちよさそうに目を細める。
それではまだ足りぬ、と翔は額から順にキスを落としていく。
額、鼻、頬、唇。
この辺りで桜花は完全に目が覚めた。
「おはようございます。……えっとこれは……夜這い?」
唇に軽く触れた時にそう言われ、翔は舞い上がっていた自分の心が急激に収まっていくのを感じた。
そこに少しだけ物足りない感情もあったが、衝動で最後まで行かなくてよかった、と心の底から思った。
いつかはそういうことをしたいと思っている翔だが、今はまだその時ではない。
「夜這い……じゃないぞ」
「でも私……」
「う」
状況が状況だけに言い訳のしようもない。どうせならば翔が桜花の頬をふにふにしている頃に起きて欲しかったのだが、それは机上の空論であり、もう既にそのときは過ぎ去ってしまっている。
桜花はぱちりと瞬きをするが、それだけで、その他の身体はまるで時間が止まってしまったかのように動かなかった。
翔としてはそのままでありがたいような、それでも気になるのならば確認して欲しい、というか、一種の板挟み状態に陥っていた。
「僕は合意なしではしないから」
「……私の合意があればどうしたのですか」
「……」
もし、事前に桜花の承諾があれば、と訊ねる桜花。
タラレバ論だと逃げることも出来たが、翔はそうしなかった。
「朝には……しない。たぶん」
「朝には、ですか」
それは昼、又は夜ならばする、という裏返しでもあった。桜花はいち早くそれに気づき、言及する。
「翔くんのえっち」
「ちょっと待ってくれ!!決断が早すぎる」
「待ちません。現行犯です」
「いやあぁああ!!」
翔が大袈裟に頭を抱えた。
現行犯、といわれ、正に弁明のしようも無いのだが、それでもそこに行き着くまでには過程があり、その過程の中で桜花も少なからず共犯者なのだということを理解して欲しい。
よく分からない日本語を並べてみるが、意味が行方不明なため、解読ができない。
「翔くんのばか」
「……」
「えっち」
「桜花のえっち」
「私はえっちじゃないです!訂正してください!」
翔と桜花はしばらく「えっちだ」と言い合っていた。