第146話「一輪の花」
翔が目を開くと、そこには天使が可愛らしい寝息を立てて翔に引っ付いていた。
あれ、どうして桜花がここに?と寝ぼけた頭は昨日のことを思い出せずにいたのだが、次第に覚醒してきた脳が寝る瞬間の記憶を思い起こさせる。
「あぁ……」
自分も意図はしていなかったのだが、寝ている時に無意識で抱き枕でも求めていたのか、翔の腕は桜花をしっかりと抱き込んでいた。
翔の一番大切に思っている一輪の花。
その様子は最早人間離れしていると言っても過言ではなく、天使と呼ぶ方がふさわしい。
本人はそれを聞くと怒って拗ねてしまうので、口に出す事は憚られるが、心の中で思うことについては大丈夫だろう。
簡単に折れてしまいそうな程に華奢な身体と、思わず構いたくなってしまうほどのあどけない寝顔。
叶うことなら何ふり構わず今からもみくちゃにしてやりたい。だが、そんなことをすればもうこれから桜花と一緒に寝ることがなくなるかもしれない、と考えると下手な行動は避けなければならない。
そのふたつの感情に挟まれた翔は朝から理性を試されていた。
(この状況で昨日寝れた僕は凄いな……)
もう一度、寝てしまおうと思い、目を閉じたのだが、全く睡眠欲がやってこない。それどころか先程よりもぱっちり目が冴えてしまったような気がしている。
頭の中が桜花のことでいっぱいになる。
この気持ちを書けと言われたら、一日掛けて、常備してある原稿用紙を全て使い切ってしまいそうだった。と、その時。
(……生理現象がっ)
翔は慌てて腰を引いた。無意識ならいざ知らず、目が覚めている状態でしばらく居たため生理現象が起こってしまった。
慌てて勢いよく動いたのでベッドがぎしっと音を立て、桜花が「うにゅぅ……」と寝言を漏らす。
桜花はその体勢が気に入らなかったようで、何と、翔をぎゅっと抱き締めてきた。
(まさか……起きてる……?)
翔はそう疑い、じっと次のアクションを待ったが、それ以降は一定の息遣いが聞こえてくるだけだった。
どうやら完全に寝ているらしい。
「びっくりしたぁ……」
異性に抱きつかれる、という行為にまだ全くと言っていいほどに慣れていない翔は無意識的に声を漏らした。
いつもならそういう雰囲気を感じ取り、もしかしたらと予想を立てることが出来ていたので、予め心の準備ができていたのだが、全くの不意打ちになると翔は途端に弱くなる。
お返しに、と言わんばかりに翔は桜花の頭を撫でた。
同じ入浴剤を使っているはずなのに、桜花の匂いがするのが不思議だった。
ただ撫でるだけではなく、髪の間に指を入れ、梳かすようにして桜花の髪の毛をいじっていると、足音が近づいてくる音がした。
翔は反射的にぴたりと止まり、代わりに鼓動が早くなる。
そして願うことは一つだけ。
(入ってくるな。……入ってくるな……)
この場を見られたらどんな勘違いをされるかわかったものでは無い。
全くそういうことをした訳でもないのに、その後のように解釈されてしまいそうだし、翔だけ起きてしまっているので、襲おうとしているとも、とられかねない。
どくんどくん、と心臓が跳ねる。
「平常心……平常心」
せめて、梓では無いことを願う。
充も佳奈も昨日の今日で翔の部屋にずかずかと入ってくることは無いだろうし、修斗は翔の意図を汲んでくれるだろう。そのため、何とかなるだろうと思えるのだが、梓だけは交渉不可能なので、潔く死を受けいるしかない。
足音がぴたりと止む。
身体を動かせないのでドアノブを見ることは出来ない。翔は目を瞑った。
しかし、いつまで経っても誰かが入ってくる気配はなかった。
うっすらと目を開けても、忍び足でやってきた梓がいた訳でも、にやり顔で佇んでいる修斗がいる訳でもなく、ただ翔と桜花の2人がいるだけだった。
「ふぅ……」
胸を撫で下ろした時、ふわぁ、と可愛らしい欠伸と共に、桜花が焦点の合っていない瞳を向けてきた。
無防備なその表情についくらっと逝きそうになってしまう。
桜花はうふふ、と微笑むと、翔の胸板に頭を押し付けてきた。
明らかに寝惚けている。翔の理性にクリティカルで入り、翔の理性は瀕死になる。
何とかしようと思うものの、桜花にうりうりされている胸板がこそばゆいのと、何だこの可愛い小動物は、という比護欲が湧き、中々手に力が籠らない。
「お、おはよう」
なので、翔は朝の挨拶をしてみることにした。すると、桜花はぴたりと行動を止めた。
思ってもいなかった反応に翔は少しだけ狼狽したものの、すぐにとりなおし、桜花の反応を待った。
「……お、おはようございます」
「よく眠れたか?」
「……うん」
まだ眠いらしい。
しかし、次第にはっきりとしてきたようで、桜花はばっと翔から上体を起こした。
不覚にも桜花に馬乗りになられている形となり、翔はドキドキが止まらない。
その挙動不審さを何かと勘違いした桜花が、翔の顔のすぐ横をばしっと、叩いた。
急なことに驚いた翔はじっと桜花を見つめることしかできなかった。
桜花は叩いた手のまま戻さなかったので、翔が少し頭を浮かせばキスが出来そうな程にお互いの顔は近づいていた。
「先程のは……全て忘れてください」
「えっ……無理」
反射的にそう答えてしまう。翔の脳内では鮮明に焼き付いており、今更記憶を消せと言われても無理な話だった。
「恥ずかしいので今すぐ記憶を抹消してください」
「可愛かったのに」
「諦めてください」
一方的に言われるだけでは嫌だったので、翔は一瞬の隙に、自分の頭を浮かせ、桜花の唇に自分のを重ねた。
深くはなく、一瞬の事だったのだが、桜花の顔が面白いほどに赤く染っていく。
これを見たので、消してもいいかな、という気になった。
桜花は狼狽したあと、日本語ではない何かをぶつぶつと呟きながら逃げていった。あれはきっと宇宙と交信していたのだろう。
な〜んて。
翔はやはり忙しく働いている心臓を落ち着けるために胸の部分に手を置いたあと、残った感触をもう一度確かめるために自分の唇に指を当てた。