第5話 五歳児の日々
飽きた。
適当に栞を挟み、俺は分厚い羊皮紙の束――アルシス帝国の歴史書を閉じる。
強くなろう。キリッ。
そう決意してから五年の歳月が過ぎていた。
あの後、帰還した俺は気付いてしまう。
乳児が何をどう鍛えるのか?
仕方ないので決意は棚上げし、教養を高めることにした。
メレディに頼んで本を読んでもらい、言語を学び、世界の知識を身につけていく。
幸い、『言語習熟』のおかげで学習速度は早かった。
知らない単語でさえ、なんとなく意味が分かり、スキルの便利さを痛感したものである。
それから数ヶ月、大抵の本を自力で読めるまでに成長した。
困ったのはメレディがまるで信じず、一人で本を読んでいると取り上げ、膝に乗せて読み聞かせようとすることだった。
彼女が納得するまで、さらに半年を要している。
それと、子供らしくも早々に諦めた。
話せる年齢に達して箝口令こそ解かれたが、子供らしい言葉遣いに悩んでしまったからだ。
違和感を与えるくらいなら、端から諦めた方が賢明である。
俺は本から吸収した体で、少しずつ周囲に慣らしていった。
数ヶ月もすれば、普通に会話する幼児の完成である。
そんな日々を四年ほど過ごしたわけだが、子供というのは意外にやることがなかった。
大部分の時間を読書に費やし、書庫の本は何度も読み返した。
この歴史書も何度目か分からない。
一応、自分が属する国家を知るのは有益ではあるが。
アルシス帝国の前身、アルシス王国が建国されたのは八百年ほど前だった。
現在はアルシス暦803年で、公的には皇帝陛下の即位した年数を使うそうだが、それはともかくとして鎌倉幕府やモンゴル帝国、リチャード獅子心王のイングランドが、事故死した時代まで形を変えずに存続しているほどの年月である。
あまりの長命さに呆れてしまうが、他国も似たような状況だった。
超大国と謳われたヴェリアテスが崩壊したのは、千五百年以上も昔。
アルシス帝国の仇敵であるバロマット王国は、その二、三百年後に成立している。
そしてバロマットが属するコージェス連合の都市国家セージェは、ヴェリアテス時代から存在しているという。
危険な世界なので栄枯盛衰を繰り返していると勝手に思っていた。
もしかすると、危険だからこその長命かもしれない。
外敵が多ければ発展しにくいし、発展しなければ人間の領域も拡大しない。
長い年月を経て、今の勢力圏に落ち着いたとも考えられる。
まあ国家こそ滅亡しなくとも、魔物との勢力圏争いは、そこら中で起きていると思うが。
分厚い歴史書を一瞥すると立ち上がり、二階の自室から外を眺めた。
屋敷の正門を出ると広場があり、その先は大通りだった。
窓から覗けば、立ち並ぶ露店や商店、行き交う人々が観察できる。
比較対象が少ないので断言できないが、活気のある町だと思う。
そんなリードヴァルトには城がなく、領主が住むのは町中央の屋敷、ここだった。
元々はバロマット王国への備えとして砦が建てられ、その周囲に人が集まり町となったそうだ。四百年も前の話である。
リードヴァルト男爵となった曾祖父のパウルは、防衛にずいぶん苦労したらしく、真っ先に砦を解体し、石材を外壁の補強に転用してしまった。
屋敷はその跡地に建てられている。
しばらくヨーロッパの町並みを彷彿とさせる光景を眺め、俺は踵を返す。
「散歩でもするか」
歴史書をそのままに、俺は部屋を出た。
薄暗い廊下を進み、階段に差し掛かる。
すると、階下から話し声が聞こえてきた。
「あ、丁度良かった。火をお願い」
「自分でやりなさいよ。それくらい」
メレディは同僚からランタンを受け取ると、蓋を開けて指先を近付けた。
その途端、ランタンに火が点る。
生活魔法の『火口』。
火口箱などの道具を使わず、微量の魔力だけで火を発生させられる。
燃料のないライターを持ち歩いているようなものだ。
メイドは礼を言い、立ち去っていった。
向かったのは倉庫だろう。
屋敷は石造りで窓も狭い。部屋によっては昼間でも明かりが必要だった。
それを見送ると、何気なく視線をめぐらせ、俺に気付く。
「アルター様!」
いきなり叫んだと思えば、階段を駆け上がってくる。
「まさか、お一人で散歩なさるおつもりですか!? ちゃんと声を掛けてください、私はお供なんですから!」
「少し庭を歩くだけだぞ。別の仕事でもしてこい」
「駄目です! それじゃ、さぼ――お供も大切なお仕事なんです!」
「そうか。たまに、なんでお前を雇ったのか疑問に思うぞ」
拒否しても絶対に付いてくるだろう。
俺は呆れつつ、メレディを引き連れて庭へ出た。
微風に乗り、春の甘さと深緑の瑞々しさが鼻孔を打つ。
空を見上げれば、大きな雲の隙間から細い日差しが降り注いでいた。
散歩日和だ。
俺は風に誘われるまま、庭を歩く。
しばらくして、屋敷の一角から喧噪が聞こえてきた。
俺は表情を変えぬまま、そちらへ足を向ける。
「踏み込みが甘い!」
叱咤とともに、木剣同士がぶつかり合う音。
俺が角を曲がった途端、木剣が地面を跳ねながら足下まで転がってきた。
「アルター?」
「午後も鍛錬ですか、父上」
汚れを払い、木剣を父に差し出す。
剣の鍛錬は早朝の他、座学と日替わりで午後も行われている。
「手が空いてな。見学か?」
「いえ、散歩です」
父は頷き、鍛錬に戻っていった。
敷地内には、鍛錬場と呼ばれる場所がある。
芝生はとうに剥がれ、貴族の屋敷とは思えないほど荒れ果てていた。
父が生まれたときからその有様だったようで、曾祖父のパウルは「足場の良い戦場などない」と語ったそうだ。
そんな鍛錬場には、父と十二歳になる兄のラキウス、兄と同年代の従騎士ランズ、ヴィルサス、ネサルクの三名、そして元冒険者であり、教官役の中年騎士ロランが集まっていた
父は公務があるので午後は滅多に姿を見せないが、手が空けばロラン相手に模擬戦をしている。
それと、剣の鍛錬には俺も今年から参加していた。
ただお子様なので、午後は免除されている。
できれば参加したいのだが、ロランから「無理は禁物」と厳命されていた。
父とロランが再び対峙する。
戦闘力の差がありすぎるからか、ロランは文字通りの教官役らしい。
木剣を軽々といなし、必要とみれば打ち据えていく。
部下に木剣で殴られても父は怒りもせず、戦いに集中していた。
武芸の才能こそ乏しいが、それでも腐らず、領主としての責務を全うするため努力を怠らない。
我が父ながら尊敬できる人物だ。
それにしても、ロランは見事である。
重厚かつ、動きに無駄がない。
父と比較するのは申し訳ないが、よりいっそう、技術の高さが際立った。
赤子の頃、ロランは騎士団長のコンラードと並び、リードヴァルト最強の一人と呼ばれていた。
それから五年の歳月が流れ、名実共に最強となっている。
うちは従騎士三名を加えても総数八名の弱小騎士団だが、それでもロランは優秀である。
武器などを扱うスキルには、『片手剣』や『槍』など戦闘技術と総称される一群があった。
それらは初級スキル扱いで、ランク10などに到達すると中級への道が開かれた。
そして大多数の騎士や戦士は、初級で人生を終える。
ロランは『片手剣7』。
中級に届かずとも、かなり高い初級だった。
冒険者であれば、Bランクも視野に入るという。
彼はCランクの時に引退しているが、Bランクに昇格していれば、もっと家格が上の貴族に仕えていただろう。
ロランの指導が終わり、兄と従騎士ランズの模擬戦が始まる。
ランズの表情を窺うと、少し困惑気味だった。
父に似て、兄も武芸の才能がない。
それ以外は優秀なので跡継ぎとして問題ないが、相手をするランズはそうもいかないようだ。将来の主君を打ちのめすのは抵抗があるらしい。
兄は温厚で自分の才能を熟知している。自分の実力不足に怒っても、相手に苛立ちをぶつけることはない。
将来の主従に背を向け、俺は庭へと戻った。
いつの間にか雲は過ぎ去り、庭一面に陽光が降り注いでいる。
メレディが眩しそうに手を翳したので、俺は木陰に入ることにした。
庭木を背に、俺はぼんやり庭を眺める。
読書は役に立つが、読み返すのも限度があった。
父は新しい本を取り寄せてくれるが、印刷技術がないので本は高価である。
それはそれで、申し訳なくなってしまう。
せめて座学の日なら、もう少し暇を潰せるんだけどな。
剣の鍛錬がなければ今頃、俺と兄は座学を受けている。教材は読み慣れた本でも、一人で復習し続けるよりは幾分ましだった。
俺が座学を始めたのは剣の鍛錬よりも早く、三歳からだ。
今日のように暇を持て余して兄の座学を見学、何気なく私見を述べたところ、気付けば兄の隣が俺の席になっていた。
言葉には気をつけたのだが、理解して発言すること自体が異常だったらしい。子供の基準なんて知らん。
それと座学の講師は、父、家令のグレアム、剣の講師でもあるロランの三人の持ち回りだった。
得意分野が違うためだが、特に面白いのは元冒険者、ロランの講義である。
各地を渡り歩いて得た知識は、いかなる本にも載っていなかった。
隣を見上げてみると、メレディは澄ました仮面を脱ぎ捨て、すっかり気の抜けた顔で空を眺めていた。
こんな様子でもメイドとしての技術は一通り習得している。
いわゆる駄メイドではないんだが、隙あらばさぼろうとした。
貴族家に仕える者として、自覚に欠けている。乳児だった頃の彼女は、どこへ行ってしまったのだろう。
昔を懐かしみつつ、残念なメイドに切り出す。
「さっきの魔法、見せてくれないか」
「はい? 魔法って――《火口》のことですか?」
小首を傾げながらメレディが人差し指を立てると、その先に小さな火が灯った。
何度も見ても不思議な光景である。
燃料がないのに燃えているし、発動者は熱さすら感じないという。
前世の理屈がまるで通じなかった。
不思議な現象に目を奪われていると、
「ただの生活魔法ですから。魔法なんて立派なものじゃないですよ」
と、メレディは照れくさそうに身を捩った。
彼女が使ったのは、《火口》と呼ばれる生活魔法である。
火、水、風、土の四属性は魔法の基礎であり、生活魔法という初歩の魔法が存在した。
ただ彼女自身が言ったように、魔法使いと呼ばれるのは初級魔法の使い手からだ。
「初級を覚える気はないのか? 火属性の資質はあるんだろう」
「魔法書なんて買えませんよ。あんな、お高いの」
メレディは大仰に手を振る。
確かに、ロランによれば魔法書は高額らしい。
自宅軟禁中のお子様なので貨幣価値はよく分からんが、金貨数十枚は当たり前、しかも習得したら、中身は消えてなくなる消費アイテムだそうだ。
ただロランに言わせると、魔法書は「ずる」らしい。
それを告げると、メレディは小首を傾げる。
「ずる、ですか」
「適切な鍛錬で魔法は習得できるそうだ。そうした努力をすっ飛ばすのが魔法書らしい。まあ、覚えたところで扱えるかは資質次第だが」
メレディは難しい顔で腕を組んだ。
「生活魔法なら自然に覚えるのに……。すっ飛ばしても良いですか?」
「頑張って貯金しろ」
悩むメイドをよそに、俺はステータスを開く。
名前 :アルター・レス・リードヴァルト
種族 :人間
レベル :2 (1up)
体力 :26/26 (2up)
魔力 :24/24 (9up)
筋力 :3 (2up)
知力 :14 (1up)
器用 :4 (3up)
耐久 :3+2 (2up)
敏捷 :7+2 (6up)
魅力 :13 (1up)
【スキル】
成長力増強、成長値強化、ステータス偽装、言語習熟
精神耐性3、鑑定1
片手剣1(new)、体術1(new)
【魔法】
無し
【称号】
転生者、帰宅部のエース(耐久+2、敏捷+2)、リードヴァルト男爵家の次男
これが今の俺だ。
実戦経験をまったく積んでいないので、レベルは1しか上がっていないが、能力値は満遍なく上昇し、敏捷は跳ね上がっている。
それより俺が注目したのは、魔力の上がり幅である。
たった1レベルの上昇で、体力に追いついてしまった。
最初、高い知力の影響かと思ったが、同程度の知力でも魔力の乏しい者も多かった。
理由は定かでないが、俺は魔法使い向きらしい。
ステータスを眺めていると、ふと視線を感じた。
慌てて閉じ、苦笑する。
ステータスは許可しないと他者には見えない。
それに屋敷内の『鑑定』保有者は俺だけだし、万が一覗かれても、偽装しているので気付かないはず。
安堵しつつ視線を追うと、母のヘンリエッテが玄関口に佇んでいた。
金色の髪が風に揺れ、夕日に煌めいている。
今年三十歳になるが、今でも二十代前半で通じる若々しさだ。
母は話しかけてくるでもなく、真剣な眼差しを俺へ向けていた。
問いかけそうになり、はたと気付く。
そうか、夕日。
少し散歩するつもりだったが、ずいぶん長居していたようだ。
別の方角から話し声が聞こえ、そちらを見やる。
鍛錬が終わり、ロランと従騎士三人組は門から外へ、父と兄は雑談しながら玄関へ向かうところだった。
俺は母へ視線を戻すと、頷きかけて一際太い庭木の根元へ移動した。
メレディは俺の背後に立ち、すっとエプロンの内側に手を入れる。
緊張感が屋敷の庭を包み込む。
固唾を呑んで見守る母と、強張った表情のメレディ。
俺は目蓋を閉じて呼吸を整えた。
父と兄も何かを感じ取ったのか、二人の足音は聞こえない。
庭木のざわめきと遠くの雑踏。
それらを打ち破るように、大気が揺れる。
十八時を知らせる鐘。
リードヴァルトの町に、重厚な音色が響き渡った。
だが、俺は悠長に聴き入ったりしない。
鳴り出すと同時、第一歩を踏みしめていたからだ。
踵で芝生を掴み、爪先で芝生を蹴り上げる。
全身を柔らかく、そうでありながら決して崩れない。
今の俺は一本のバネ。
素早く視線を走らせると、先の方で枯れ葉がくるりと回転した。
風は屋敷正面、直角に吹いている。
俺の進入角は斜め、追い風ではないが悪くない。
枯れ葉の動きを観察しながら、耳を澄ませ、吹き付ける風を読む。
そして玄関アプローチに足をかけた瞬間、強い風が屋敷の壁に衝突した。
風は激しい渦を生み出し、俺を巻き込む。
その勢いに乗って父と兄を抜き去り、俺は滑るように屋敷の床を踏んだ。
メレディは手元の砂時計を睨み付け、宣言する。
「二メモリ……半! 新記録です!」
「おめでとう、アルター!」
思わず拳を突き上げ、母とハイタッチを交わす。
惜しみない賞賛を受け、俺は誇らしげな気持ちに満たされていた。
砂時計を掲げ、メレディも讃えてくれた。
俺は二人に謝意を表しつつ、心では自らを律する。
新たな壁。
そう――たった今、俺は再び挑戦者となったのだ。
決意を胸に秘め、明日からの戦いに想いを馳せた。
そんな俺の横を苦笑いの兄が通り過ぎ、父が立ち止まる。
「遊んでないで、早く入りなさい」
思わず、笑みがこぼれてしまった。
悔し紛れの一言か。
どうやら記録を抜いてしまったようだな。
残念だが、父よ。大人のあなたでは、もはやちびっ子と競うことは叶わない。
記録はまだまだ突き放されていくぞ。
絶望を味わうが良いわ、ははは!
なぜか頭を叩かれた。




