第4.5話 0歳児の決意 ~旅路
車窓からは草原と林、なだらかな山並みが広がっている。
どちらを向いても濃い深緑で、街道に人気は少ない。
俺は母に抱きかかえられ、そんな風景を眺めていた。
馬車に同乗しているのは父のアーバンと母のヘンリエッテ、メレディを含むメイド三名で、旅路の警備隊長を務めるリードヴァルト騎士団副団長ジョス・スフォルド、そのほか騎士のロランと十数名の兵士が併走している。
目覚めてから半年、今は残暑の真っ盛りだった。
度重なる羞恥プレイに耐え、俺はすくすくと育っている。
両親や兄、使用人はまともな人物ばかりで、問題も起きていない。
強いて挙げれば、俺自身が問題だ。
赤子の脳は疲れやすく、言葉を学びたくともすぐ寝落ちしてしまった。
脳に詰まった前世の記憶が負担なのだろうか。
もしそうだとしたら、小太りが目覚めさせるのを遅らせたのも納得できる。
生まれた直後だと、大部分の記憶を失っていたかもしれない。
全身を伝わる振動に、街道を見下ろす。
それにしても、よく揺れる。
街道とは名ばかりで、土が剥き出しだった。
轍を踏んでは揺れ、小石や些細な凹凸でもまた揺れた。
リードヴァルトも大通りこそ石畳だったが、枝道はほぼ土の道である。
外の街道が整備されているはずもない。
あまりの乗り心地の悪さに、初日は酔ってしまった。
察した母が新鮮な空気を吸わせようと馬車の後部に移動してくれたが、耐えきれずに吐いてしまう。咄嗟に外を向いたので母の服を汚さずに済んだのは、不幸中の幸いだろう。
車内に視線を戻すと、振動の中でも両親は楽しげに談笑していた。
すると母が気付き、俺を抱え直す。
「外はもう良いの?」
「あう」
返事を受け、母は膝の上に俺を座らせる。
父はそんな様子を不思議そうに眺めていた。
「どうなさいました?」
「いや、なんでもない」
父は笑顔で首を振り、俺の頭を撫でる。
その後、俺はぼんやり二人の談笑に耳を傾けた。
しばらくして一人の人物が話題に上がり、俺は旅の目的を思い出す。
どんな人なんだろうな、ブラスラッド侯は。
我がリードヴァルト家は、アルシス帝国の南東部の外れに位置していた。
バロマット王国への最前線であり、レクノドの森と呼ばれる難所を緩衝地帯に、遙か昔から睨み合っている。
それを知ったとき、小太りがまたやらかしたと確信した。
数十年、紛争は起きていないようだが、どう考えても安全な場所とは言えない。
所詮、小太りには地上の小競り合いなど些事なのだろう。
それよりも、バロマットへの防衛は万全なのか、難所という森はどれほど危険なのか。
気になってしまい、俺は必死で赤ん坊の必須スキル『ハイハイ』を習得した。
そして視察へ繰り出そうとした矢先、母に拉致され馬車へ放り込まれてしまう。
気が付けば、町をろくに見ないうちリードヴァルトは遥か遠くになっていた。
俺が掠われたのは、色々と積み重なった結果らしい。
昨年、寄親であるブラスラッド侯の孫が成人を迎え、祝賀会が催されたが、リードヴァルト領内で魔物が発生してしまい、父は出席できなかった。
対処が終わってみれば冬が到来、年を明けたら俺まで誕生してしまう。
今になって、ようやく動けるようになったわけだ。
当然だが、俺は孫の慶事とまったくの無関係である。
母が同行するにしても、リードヴァルトへ置いていった方が安全だ。
それでも連れ出されたのは、ブラスラッド侯への誕生報告が表面上の理由、真の目的は母の父、祖父のトーディス子爵に会わせるためだった。
どうせ遠出するなら父と娘の再会、ついでに孫の顔を見せようと考えたらしい。
ちなみにもう一人の孫、兄のラキウスは留守番している。
良い機会なので、将来の跡継ぎに経験を積ませる魂胆だった。
七歳の子供には過酷だろうが、家令のグレアムや騎士団長のコンラードが補佐している。よく分からんが、頑張っていただきたい。
「まもなくサーハットへ到着いたします」
馬車の後方からジョスが報告する。
応える父に一礼し、ジョスは俺へ視線を向けてきた。
「アルター様も問題ございませんか」
「あー」
「うむ、お元気そうですな」
傷だらけの顔を綻ばせ、ジョスは最前列へ馬首をめぐらせた。
ブラスラッドまでは往復で一ヶ月半から二ヶ月。
前世でもそんな長旅はしたことがないし、ましてや異世界。
なんだかんだ言って、俺はこの旅を満喫していた。
ドラゴンでも飛んでないかな。
◇◇◇◇
サーハットの町は、ビルンクト男爵領内の宿場町である。
リードヴァルトからブラスラッドを繋ぐ街道筋にあり、普段は騒がしくも居心地は悪くない町とのこと。
そう、ロランが含みを持たせたのは、町の外に集まるみすぼらしい一団の所為だった。
最初はスラムかと思ったが、生活の痕跡がなく避難民と気付いた。
ただ何から逃げてきたのかは父にも分からないようで、首を傾げていた。
彼らから恨みがましい視線を浴びつつ、リードヴァルト男爵家の馬車はサーハットの町へと入る。
「あの者らは何だ?」
宿で一息つくと、父が誰に言うともなく切り出した。
ジョスに視線で問いかけられ、ロランが一礼して口を開く。
「この地はバロマットやハーゼルと接しておりません。魔物から逃げてきた村落の者たちかと思われます」
「魔物か。ビルンクトの奴、何をしておるのだ」
「少数なら冒険者が片付けます。相手は群れ――彼らの様子から、ゴブリンかオークではないでしょうか」
ロランが応えると、父は不愉快そうに顔を歪めた。
このロランだが、根っからの騎士ではない。
元冒険者で中年になってから引退、リードヴァルトの騎士として召し抱えられている。
そのため素養や礼節に欠けるが、戦闘能力は高く、騎士団長のコンラードと同等かそれ以上と言われていた。
それにしても、ゴブリンにオークか。
ファンタジーの定番だが、今ひとつ分からんな。
どうして避難民の様子から、そいつらと判断できるのか。
正直、質問すれば簡単に答えは得られる。
『言語習熟』の恩恵で、日常会話くらいはとっくに可能だった。
しかし、それは許されない。
実は出発の数日前、メレディに本を取ってくれと話しかけたことがある。
初の会話にしては流暢だったと思うが、返ってきた反応は劇的だった。
話しかけた途端、メレディは血相を変えて部屋を飛び出し、母を引き連れ舞い戻る。
「お話になりました! 私の名前も呼んで!」
大きな身振り手振りでメレディは捲し立てた。
母はそんなメイドと呆気にとられる俺を見比べ、笑い飛ばす。
「なに言ってるの、話せるはずないでしょう。まだ一歳にもなってないのよ?」
箝口令が発布された瞬間だった。
その後、父たちの会話は早々に打ち切られたので、一眠りしようと目を瞑る。
気が付くと朝だった。
前世の記憶があろうと意識がしっかりしていようと、結局は赤ん坊である。旅の疲れが溜まっていたようだ。
馬車がサーハットを出立する。
街道には商人や武装した集団――冒険者と呼ばれる者たちが散見できた。
そんな彼らを眺めていると、断片ながら会話が聞こえてきた。
しばらく耳を澄ませるうち、なんとなく昨日のやり取りが見えてくる。
どうやら、オークやゴブリンは人間を捕食するらしい。
特にゴブリンは繁殖力が強く、放置すると大集団を形成するそうだ。
通常、そうなる前に領主が討伐部隊を送るか、冒険者ギルドに依頼して積極的に数を減らしてもらうが、ビルンクト男爵はどちらも怠ったため村落が襲われてしまった。
そして同じ貴族を見かけ、怒りが向けられた――というのが大まかな経緯らしい。
推測は入っているが、その魔物が未だに彷徨いているのは間違いないだろう。
ジョスやロランは今までよりも警戒し、心なしか馬車の速度も落ちていた。
まあ、どんな魔物にせよ、無力で愛らしい赤ん坊にできることなんて何もない。
俺は気持ちを切り替え、暢気に景色を楽しむことした。
出立してから、どれほどの時間が過ぎたか。
すっかり寝落ちし、俺は母の膝の上で目覚めた。
気付いた母が優しく声を掛け、俺を抱き直す。
それに短く応えながら車窓へ目を向けると、いつの間にか周囲の雰囲気が変わっていた。
街道を挟む草原は疎らに木々が茂り、空気もどこか澄んでいる。
帝国領は北の方が寒さが厳しい。だいぶ北上したようだ。
街道に人影は――無くなったか。
サーハットを出たときは結構な数を見かけたが、周囲には俺たちしかいない。
徒歩の護衛を数十人引き連れている。それで魔物も警戒すれば、どうしても速度が遅くなるのだろう。
ただなんとなく、寝落ち前より馬車が遅く感じた。
首を伸ばして観察すると、ロランが馬上から木立や深い草むらを視線を向けていた。
サーハットの周辺より、隠れられる場所が多い。
奇襲を警戒してるんだな。
ほどなくして、馬車の前方に大きな岩が姿を現す。
街道は大きく岩を迂回していたが、そこへ差し掛かる直前、ジョスが馬車を止めた。
「襲撃を受けているようです」
大岩を見ながらジョスが報告してきた。
早速、父は兵士を偵察に走らせる。
兵士は岩に到着すると、身を伏せながら周囲を窺い、すぐさま戻ってきた。
「冒険者がゴブリンと交戦中です! 数は十五以上!」
「例の群れか。戦況は?」
「冒険者側が押されております!」
父は一つ頷くと、ロランへ視線を向ける。
「手伝ってやれ」
「はッ」
すぐさま兵士数名を率い、ロランは大岩へ突撃していく。
早くも接敵したようで、派手な剣戟と喧噪が聞こえてきた。
前世同様、ゴブリンは雑魚なのだろうか。
冒険者が押されているなら、意外に強いのか?
観戦したかったが、俺は母にがっちりと抱きしめられていた。
これでは身動きすらできない。
どうにかして見られないかと身じろぎし、ふと早い鼓動を感じ取る。
母――そしてメイドたちも震えていた。
父は平然としている。
母は非戦闘員だから怖いのか、それとも本当に強いのか。
分からないことだらけだな。ゴブリンを『鑑定』できれば一発なんだが。
俺は申し訳ないと思いつつ、母の袖を引き、馬車の前方を指差した。
「そっちって……まさか前に行きたいの? 駄目よ、危ないから」
断られたが、もう一度引いてみた。
母は困惑し、父を見やる。
「馬車から出なければ安全だ。私も見よう」
父の言葉に、母は怯えながらも了承してくれた。
馬車の前部へ移動すると、父が御者席への扉を開く。
俺も窓枠に手を掛けて外を覗き込んだが、残念ながら大岩に向こう側らしく何も見えなかった。
それでも何かないかと見渡すうち、視界の隅、木立で影が動いた。
『鑑定』を発動し、無事に開いたそれを一瞥、俺は慌てて指差す。
「あうー!」
俺の様子に両親は怪訝そうにしていたが、ジョスだけは顔色を変える。
「伏兵ッ!」
叫ぶと同時、林を縫って複数の矢が飛来する。
馬車を守ろうと兵士が盾を掲げたが――違う、そっちじゃない。
ジョスも気付き、素早く馬車馬に飛び移り、槍を振るう。
矢を打ち払うも数本がジョスと馬に命中、馬が嘶いた。
暴走するかと身構えたが、よく訓練されていたようで矢を受けても馬は暴れなかった。
もし普通の馬車ならどうなっていたか。
狙ってやったのだろうか。
鑑定によれば、ゴブリンの知力は5。
人間の半分程度だが、知恵の回る指揮官がいれば関係ない。
林を見渡し、ゴブリンたちを『鑑定』していく。
成功したのは三体。
知力の高い個体はいなかったが、代わりに『弓術1』のスキル持ちを発見する。
個体差があるのか。
どうやら、魔物も人間のように成長するらしい。
次々に飛来する矢をジョスが叩き落とし、数名の兵士も盾で馬を死守した。
そのとき、不意に喚声が響き渡る。
ロランたちが大岩を制圧、反転して奇襲部隊に突撃していくところだった。
ゴブリンの弓隊は側面を突かれ、我先にと逃げ出していく。
その様子に母やメレディたちは安堵するも、俺は無言で考え込んでいた。
今の光景は、この世界の有り様を示している。
小太りは熱帯魚育成ゲームと評していたが、正確ではない。
ゴブリンたちは不利を悟って逃げ出した。
あれは生き物だ。記号や数字じゃない。
ロランたちは深追いせず、すぐに戻ってきた。
こちらの被害はジョスと馬が矢傷、救援に向かった兵の何人かが軽傷を負った。
ジョスは馬の傷を丹念に洗い流し、ヒーリングポーションで癒していく。
そして自分の傷や他の兵士たちは、軟膏と包帯だけで手当てした。
ポーションを使うほどでもないのか、それとも高価だから控えたのか。
この程度の知識もなく、質問すらできない。
なんとも歯がゆかった。
そうこうしていると、前方の岩山から数名の若者が姿を見せる。
彼らが襲われていた冒険者だろう。
「回復魔法を使える人はいませんか!? ヒーリングポーションでも構いません!」
近付くなり、先頭の若者が叫んできた。
彼は同じ年頃の男を抱えている。
血まみれの手は力なく垂れ下がり、目は虚空に向けられていた。
すでに事切れているのは明らかだった。
「手遅れだ。もう死んでる」
ロランがはっきり告げても、若者は認めなかった。
食い下がり、必死に訴えかけてくる。
それでも助けてもらえないと理解すると、不意に崩れ落ち、仲間の上で号泣した。
男の名前を呼んでいるようだが、もはや言葉になっていない。
「この先にサーハットの町がある。早く眠らせてやれ」
ロランが踵を返すと、ジョスを先頭に馬車は走り出す。
遠ざかっていく若者たち。
母の腕の中、その姿が木立に消えるまで、俺は視線を逸らすことができなかった。
◇◇◇◇
人が集まれば、集団が生まれる。
ご多分に漏れず、アルシス帝国にも多くの派閥が存在した。
中でも三大派閥と言われているのは、皇帝派とヴィールア公の公爵派、そしてブラスラッド侯が率いる侯爵派である。
旅の目的が示すとおり、我がリードヴァルト家は侯爵派だった。
そして目の前にいる初老の貴族、彼こそが侯爵派の長、ブラスラッド侯である。
髪はほとんど白髪で、顔には無数の傷跡が皺となって刻まれていた。
貴族というより、歴戦の将軍や戦士のような印象を受ける。
遅ればせながら父は祝辞を述べ、俺をブラスラッド侯に紹介した。
「あー」
片手を上げ、圧倒的な威力を誇る挨拶をぶちかましてみたが、くすりともしない。
ブラスラッド侯は赤ん坊が嫌い、と。
心にメモしている間、紹介はあっさり終了し、父と侯爵は雑談を始める。
ただ、内容は思い出話がほとんどだった。
それも祖父のフォルスや曾祖父のパウルの話題である。
新興貴族ながらリードヴァルト家は武勲の誉れ高い家柄として有名らしいが、それを築き上げたのは曾祖父と祖父だった。
帝国騎士だった曾祖父パウルは、七十年に及ぶバロマット王国との紛争で活躍、幾たびもリードヴァルトの町を守り抜いて叙勲された。優れた指揮官であり、凄腕の剣士としても名が知られている。
またその息子であるフォルスも父親譲りの武人で、曾祖父が領主の時代、バロマット軍に少数で奇襲を仕掛け、領内に踏み入らせることなく敗走させていた。
跡継ぎのやることではないが、これを機にバロマットは西征を断念している。
そんな曾祖父と祖父の血を引く父は、才能を引き継げなかった。
剣の実力はそこらの兵と大差ない。
もちろん領主なので、指揮能力に長けていれば充分だと思う。
曾祖父たちがおかしい。
だが武闘派のブラスラッド侯は、それがお気に召さないようだ。
思い出話の端々に、「もっと精進しろ」とほのめかしていた。
一方的な雑談は終わり、父と俺は謁見の間を辞する。
そして夕食会まで部屋で待機することになった。
父に抱えられて飾りっ気のない廊下を進んでいると、母と男の笑い声が聞こえてきた。
父は素早く身なりを確認し、扉を開く。
「戻ったか、アーバン」
母と談笑していたのは五十代の貴族だった。
「ご無沙汰しております。トーディス子爵」
「良い良い、身内ではないか堅苦しくするな。お、その子がアルターか!」
丁寧に会釈する父を立たせ、子爵は俺を見下ろしてきた。
この人が母方の祖父か。
ブラスラッド侯と同じく、風貌は武人っぽいが――。
俺は片手を上げ、「あうー」といつもの挨拶を行った。
その途端、トーディス子爵の相好が崩れる。
利いた。やっぱりブラスラッド侯は赤ん坊が嫌い、と。
父が俺を子爵へ渡すと、不慣れなのか少し固まってしまった。
そんな子爵へ天使のような笑顔を向ける。
祖父よ、安心してほしい。
俺は、ちょっとやそっとでは泣かないお子様である。
「あー」とか「うー」で話しかけるうち、子爵の緊張は解れ、顔は崩れっぱなしとなった。
そんなトーディス子爵は、ブラスラッドの街よりさらに北方の領主である。
東のバロマットへの守りがリードヴァルトであれば、北のハーゼル統一王国への防波堤、その一翼を担うのがトーディスの町だ。
本格的に里帰りしたら、何ヶ月掛かるか分からないほどの遠方なので、こんな機会でもなければ母と祖父は再会できなかったと思う。
魔法があるのに不便な世界である。
ほどなくして時間となり、俺はトーディス子爵に抱えられたまま夕食会に出席した。
夕食会には侯爵夫人の他、長男のラシルス、その息子であり昨年成人したレシフスも同席している。
落ち着いた雰囲気で夕食会は進み、些細な雑談が北方の警備や魔物の状況に及ぶと、父が道中の出来事を取り上げた。
それを聞くなり、侯爵は怒りを露わにする。
民のことを考える立派な人物――そう感心したのも一瞬だった。
侯爵の怒りは飛び火を懸念しただけで、父もそのつもりで話したらしい。
この席で俺だけがずれていた。貴族って怖い。
ちなみにゴブリンを放置していたビルンクト男爵は、ヴィールア公の公爵派である。
皇帝派と並ぶ大派閥なので、実害がないと非難しづらいそうだ。
最下級の男爵でも貴族。一応、その土地の支配者である。
その後は大きな話題もなく、淡々と時間が過ぎ、夕食会はお開きとなった。
◇◇◇◇
翌日、俺たちはブラスラッドの街を出立した。
来るのに一ヶ月近くも要した割に、来てみればたった一晩で帰還である。
呆気ないものだ。
馬車の中、母は遠ざかるブラスラッドをぼんやり眺めていた。
父親との別れが寂しいのだろう。
トーディス子爵は俺たちに先立ち、北方の領地へ戻っている。
母や俺と別れるのは名残惜しいようだったが、ハーゼルへの警戒だけでなく、北部はよく大雪に見舞われた。今は秋の入口でも、領地に到着する頃には季節外れの雪が降ってもおかしくない。
瞬間移動の魔法でもあれば別だが、旅は馬車や馬、徒歩だった。
外敵の多さも前世と比較にならない。この世界の旅は命懸けだ。
この次、祖父に会うのは何年後になるか。
俺も母と一緒に北へ目を向け、トーディス子爵の姿を記憶に焼き付けた。
その後、旅は順調に進んだ。
日に日に涼しさは増し、秋が深まっていくのを感じる。
そんな旅路の途中、馬車は例の大岩に差し掛かった。
ふと、若い冒険者たちの姿が浮かぶ。
あの出来事から一ヶ月が過ぎた。
残された者たちは、今も冒険者を続けているのか。それとも故郷へと帰ったか。
俺は窓枠にしがみつき戦いの痕跡や血痕を探したが、とうに消え失せていた。
半年前、小太りは安全な場所に転生させたと告げた。
旅に出るまで俺もそう考えていたが、現実はどうだろう。
領主の怠慢があるにせよ、主要街道に魔物が出没し人の命を奪っている。
ビルンクトの町に集まっていた避難民も、すべてが無事に辿り着いたわけではあるまい。
村や道中で、家族や友人を失ったはずだ。
俺や家族は、多くの者に守られている。
騎士団長のコンラード、ジョスやロラン、他の騎士に兵士たち。
だが、本当に守り切れるのか。
世界を知るほど不安が増していく。
ロランはリードヴァルト騎士団で一、二を争う強さと言われているが、彼のレベルは虫人間の親衛隊と同程度だった。スキルの多彩さや装備で勝っていても、親衛隊と呼ばれるのであれば一匹のはずがない。
もし大量に押し寄せてきたら、町全体が連中に飲み込まれてしまう。
そして虫人間は村を襲い、人間を喰らっていた。
連中の生息地が、人間の領域からさほど遠くないのは確実である。
「どうしたの、寒い?」
不意に母が抱き寄せてきた。
気付けば、俺は全身を震わせていた。
暖かさに包まれ、甘い香りが鼻孔をくすぐる。
深い安心感を抱き、震えはゆっくりと治まっていった。
内心、俺は苦笑してしまう。
前世の記憶があっても、俺はこの人の子供なんだな。
見上げて一声掛けると、母も笑いかけてきた。
そうだ、これは俺だけの問題ではない。
リードヴァルトには両親や兄、俺を世話してくれる者たちがいる。
彼らが殺され、喰われるのを黙って眺めるのか?
俺が喰われたときのように――。
小さく頭を振り、玩具のような手を握りしめる。
そんなわけない。
喰われるのも、喰うのを見せつけられるのもごめんだ。
強くなろう。
俺は小太りからチートを与えられている。
誰よりも早く、誰よりも強くなれるはずだ。
視線の先で、大岩が遠ざかっていく。
あのとき殺された若者は、全力を出し切っただろうか。
納得できる人生を歩めたか。
それに答えられるのは、彼だけだ。
すべては自分自身のうちにある。
俺自身が胸を張って答えるためにも、強くならねばならない。
決意を込め、俺は大岩を睨み付けた。
そのときだった。
視界にロランがするりと現れ、俺を見るなり声を上げる。
「お、アルター様がキリッとしたお顔に」
「あら、ほんと。おしっこ?」
母に抱き上げられ、両足をぷらぷら揺らす。
無言で見下ろし、俺は思う。
あんたら……決意を鈍らせないでくれ。