第31話 十歳児の日々 ~新たな道
冷たい廊下をランタンの灯りが照らし出す。
屋敷にガラスの窓は一つもなく、今日のような天候だとすべての窓は鎧戸を閉じられてしまう。そのためランタンがなければ、数メートル先も見えないほど邸内は暗くなった。
幾人かの使用人とすれ違い、俺は執務室に到着する。
中の気配は二つ。意識を集中させ、探ってみた。
この時刻の父は執務中で、大抵は一人かグレアムと一緒である。
母がいるのは珍しい。
父と母は並んでソファーに座っていた。
許可を得て、対面に腰掛ける。
父の様子は普段と変わらないが、母は少々不機嫌そうに見えた。
「今年の雪は酷いな」
父にしては珍しく、世間話から切り出した。
「はい。隊商も立ち往生しているのか、あまり馬車を見かけません。長引くと流通が滞るかと。それにこの寒さでは、薪の在庫も心配です」
「すでに価格が上がっているそうだ。ギルドには、普段使わない木材でも確保するよう依頼した。油分は多いが、用途を絞れば使いようもある。凍えるよりは良かろう」
油分の多い木材、松みたいなものか。この天気じゃまともに乾燥できないし、煙も多そうだ。調理には使えないので低所得者向けになりそうだが、少なくとも凍死は避けられる。
「さて、呼んだのは他でもない。お前の意見を聞きたいと思ったのだ」
「僕の、ですか」
父は頷き、ちらりと隣の母を見やった。
「セレンという町を知っておるか?」
「はい、魔法ギルドの本部がある町ですね。別名は――」
父の言わんとしていることがなんとなく見えてきた。
セレンは皇帝陛下の直轄領であり、魔法ギルドの創始者アルファス・カルティラールが生まれた町である。若くして引退を宣言し故郷に引きこもったアルファスを慕い、多くの魔法使いや知識人がセレンに集まった。中には『多重詠唱』で名を馳せた英雄ラプナスもいる。そして誕生したのが魔法ギルドだ。七百年以上も前の出来事である。
魔法という強力な武力と知識を結集したセレンは、長い間独立を保ってきた。しかしアルシス王国が版図を広げアルシス帝国を建国すると、維持し続けるのは困難となり、ほぼ完全な自治を認めることを条件に帝国領となったという。
そして時の皇帝陛下の要請を受け、セレンは新たな施設を立ち上げた。
「学術都市セレン。いくつかの学院と多数の私塾を擁する学問の都です。ですが……」
「そうだ。もはや往年の栄光は過去の話、学院は形骸化している」
すべてはアルシス帝国の爛熟と直結していた。
俺はこの十年、魔物以外と戦ったことがない。人間は一致団結し、強大な力を誇る上位者に立ち向かっていると思い込んでいた。
だが、実際は運が良かっただけである。敵国は健在で、帝国も罅だらけだ。
帝国がバロマット王国を東方へ追いやったのは、今から六百年前である。
その後、安全圏にいる諸侯は長き平和を享受し、引き換えに腐敗していった。今では権力闘争や紛争に明け暮れ、他家を攻め滅ぼすことも珍しくない。それを罰すべき皇帝陛下でさえ、ヴィールア公の公爵派と暗闘を繰り広げている。
リードヴァルト家が皇帝派でなく、ブラスラッド侯爵の派閥に属しているのは、バロマット王国に対する危機感が安全圏の諸侯とは比べものにならないからだ。
当然、世情がこれほど荒れていれば、大切な跡継ぎや娘を他領へ送ったりはしない。
兄のラキウスも、ほとんどリードヴァルトを離れたことがなかった。
「とはいえ――」
言葉を継ぐ父に、慌てて座学の反芻を打ち切る。
「学院が無くなったわけではない。今でも少なからず、貴族の子弟が学んでおる」
「セレンへ行けと?」
「無理にとは言わん。だが、お前には優れた才能がある。いずれ世界に大きな影響をもたらす存在になるだろう。しかしリードヴァルトにいては、それもままならん。どれほど魔物に溢れ冒険者が集っていようとも、所詮、辺境の町。お前にはもっと広い世界を知ってもらいたい。これはラキウスも同意見だ」
考えを促すように、父は口を閉じた。
ステータスを見せていないので、俺が伸び悩んでいるのを知らないはずだ。そもそもベテラン冒険者と肩を並べる十歳児を伸び悩んでいるとは言わない。だから純粋に俺の成長を考えてくれたのだろう。
感謝してもしきれないが、気になることもあった。
「母上は反対でしょうか」
「当然です!」
食い気味に母が応える。
「セレンがどれほど離れていると思っているのですか。そんなところへ十歳の子供を送り出す親がいるはずもありません。そもそもセレンは直轄地、何が起きるか――」
「ヘンリエッテ」
父は静かな、しかし強い口調で諫めた。
直轄地は皇帝派の土地。母の言いたいことも分かるが、確かにこれはまずい発言だ。
すぐに気付いた母は頭を下げる。
「これは……失言でした。ですが、遠方の地が危険であることに変わりはありません。森へ入るのも私は反対なのですよ」
「私が許しているのだ。アルターはそれだけの実力を持っている。それに学院は十歳から受け入れているぞ」
両親が言い合うのを聞きながら、そういや母にステータスを見せたことがなかったな、と気付いた。この調子で父を説得し、探索許可が取り消されたらたまらない。さっさと披露して納得してもらおうと思ったが、すぐ無意味だと悟った。たぶん、母は子供が危険なことをしているのが嫌なだけなのだ。だから俺の能力は関係ない。むしろ『成長力増強』を見て「安全に鍛えられるなら森に入る必要はない」とか言いかねない。
そんなことを考えてる間にも議論は続き、やり取りが俺の注意を引いた。
「三年間も離れていて心配ではないのですか!」
「心配に決まっておろう。それと五年間だぞ」
「三年で充分です!」
SFの名作みたいな台詞が飛び出してきたな。色々違うけど。
それで、何がどっちなんだ?
俺が問いかけると、議論を止め、父は答えてくれた。
「学院には明確な修学期間がない。貴族の子弟はいつ何時呼び戻されるか分からんからな。しかしそれでは納まりが悪かろう。よって最低を三年とし、最大を五年とした。三年以上修学しある程度の成績を収めていれば、いつ去っても修了と見做されるのだ」
「なるほど、理解できました」
要するに、三年くらい学ばないと用をなさない。だから最低ラインがそこに引かれている。五年なのは単純な話で、十歳から入学し五年経てば成人、大抵は呼び戻される。そうでなければ問題を抱える人物という証明であり、居着かれたら学院も困るから五年で強制卒業させるわけだ。
そして母は「三年経ったらさっさと帰ってこい」と。これは母に同意かね。行ってみなければ分からないが、五年も通う必要はないだろう。どうせ行くなら学問というより魔法に興味がある。魔法ギルドの本部があるしな。
俺は居住まいを正し、両親に向き直った。
「学院への入学、前向きに検討したいと思います。ただ、少し考える時間を頂けないでしょうか」
「構わん。しかしあまり時間はないぞ」
「え、それはどのくらいで……」
「一ヶ月後には出発しないと間に合わん。そうでなければ来年になるぞ」
「それは――考える時間はそれほどいりませんが、準備もしなければなりません。なぜこれほど急に?」
「忘れておった」
父は、にかっと破顔した。
「学院なんぞ一族の誰も通ったことがない。すっかり失念しておったわ」
「私は気付いてましたよ。ですが可愛い息子を敵地に送るなんて有り得ないわ」
二人は妙に息の合った笑い声を高らかに響かせた。
変なところで一致するんだな、さすが夫婦。
だけど父よ、しれっと敵地とか言ってるぞ。