第189話 幕間 ~運命の交差
清廉なそよ風に深緑が揺れ、朝焼けが葉の隙間から降り注いでいた。
ミランダとテスが迷宮に招かれてから二日目。二人は夜が明ける前に起き出し、朝食の支度を始めていた。
ミランダは焚き火の前で昨日の残りに手を加えながら、見張りの獣人に普段の食事はどうしているかと訊ねている。
そんな雑談に耳を傾けながら、テスは何気なく空を見上げた。
この半年間で人生が一変した。
父親のロニーは処刑され、ミランダとテスは奴隷に落とされた。重罪の奴隷でも処罰期間はあるが、ほとんどは過労や虐待で命を落とす。たとえ無事に解放されても、以前の平穏な生活には決して戻れない。
テスがすべてを諦めてから二ヶ月後、ラムロン商会にクリフと見知らぬ獣人がやってきた。クリフの姿に懐かしさを感じたが、それ以上に目を引いたのはヴェルクと名乗る獣人だ。髪の色や顔付きが変わっていても、オヴェックから救い出してくれた恩人を見間違うはずがない。
一度ならず二度までも、窮地を救ってくれた。
感謝の思いはミランダも同じである。母と子は、残りの人生を恩人に捧げると固く誓い合った。
しかしアルターの置かれた境遇は、想像をはるかに超えていたが。
果てしなく広がる樹海と迷宮。
竜や未知の魔物が跋扈する深殿の森は、冒険者にとって最終目的地の一つである。
またセーネム大迷宮を筆頭に、迷宮の踏破と破壊も最大の勲章だった。
そんな物語や噂話の舞台を目の当たりにしても、未だに実感が湧かない。
どこか浮ついた気持ちで辺りを眺めているうち、獣人たちの起き出す音でテスは我に返った。
それに続いてフィルとエラス・ライノ、少し遅れてアルターも迷宮から姿を見せる。
テスは挨拶する機会を窺っていたが、急に周囲が騒がしくなった。
ミランダとテスも料理を中断して迷宮に入るよう指示され、巡回中の獣人も集まってきた。何事かと母子が顔を見合わせていると、獣人たちにアルターは告げる。
「今日は鍛錬を行う」
そう切り出し、続く言葉にテスは驚いてしまった。
アルターはひとりで全員を相手にするという。強いのは知っているが、ほぼ全員大人である。しかもサーハスとクィードは相当な実力者だ。いくらなんでも無謀すぎると思ったが、不意の光にテスの思考は停止する。
アルターから無数の光が放たれ、舞い落ちる葉を貫いていく。
「今のは、初級魔法の『多重詠唱』です」
慌てて振り返ると、背後にハイメスが立っていた。
「アルター様は『多重詠唱』の使い手です。『多重詠唱』の習得者は、ヴェリアテス時代まで遡っても数名、実在が確認されているのは七百年前の英雄、ラプナスだけです」
さらにアルターは、もっと強力な魔法を『多重詠唱』で発動できるという。
ハイメスの説明と獣人たちの反応でとんでもない実力と分かったが、いざ模擬戦が始まると、それすら甘い認識と思い知らされた。
アルターはほとんど動かずに獣人を殴り倒し、サーハスでさえわずかな攻防で気を失った。
テスの不安をよそに、模擬戦はあっさり終わる。それも無傷の完勝だ。
三年前の記憶とは比較にならない。今のアルターは、それをはるかに凌駕していた。
(僕、英雄にお仕えするんだ……)
喜びが湧き上がるも、同時に自問が浮かぶ。
獣人は戦闘に長け、母のミランダは優れた料理人である。非力なハイメスでさえ、豊富な知識でアルターを支えているという。
自分に何ができるんだろう――その思いがテスの胸中を満たしていた。
◇◇◇◇
朝食の準備が整った後、アルターから直々にエラス・ライノの子供――ジルヴの面倒を見るように頼まれた。
早速の仕事に喜んだが、家畜と違ってやることがほとんどない。その辺の草を勝手に食べるし、外敵に襲われる心配もまずなかった。
大きな身体を拭き終わると仕事がなくなってしまい、テスは手持ち無沙汰で周囲を見回した。
それに気付いたのか、ひとりの獣人が声を掛けてくる。
「命令するなと言われたばかりだが、料理にも使うしな。手が空いてるなら薪を集めてくれないか?」
「は、はい! やります! ええと……」
「リザイだ。この辺りの枯れ木は集めたから、ほとんど残ってないだろう。小枝とか枯れ葉、生木でも構わない。こっちで使い道を考えるから、目に付いたのを拾ってきてくれ」
最後に、迷宮から離れすぎるなとリザイは強く忠告してきた。
テスは了承し、獣人たちの生活音が聞こえる範囲を散策した。
しかし、話のとおり枯れ木はまるで見つからない。仕方なく小枝や枯れ葉を抱えて広場に戻り、焚き火のそばに置いて再び森へ入る。
それを何度か繰り返していると、めぼしいものも少なくなり、生木の枝を引き千切って持っていく。ただ、このままでは薪にならない。気になってリザイに用途を訊ねたところ、住居に向けて顎をしゃくってきた。
枯れ木は燃料に使うため、壁や屋根に使われているのは生木らしい。
「日差しは遮られるんだけどな。中はかなり蒸し暑い」
うんざりした顔を作りつつ、リザイは笑った。
それからもテスは森と広場を往復し、獣人たちも自分の仕事に精を出す。
空白地の巡回、住居の仕上げや毛皮の処理、肉を炙ってランプや調理用の油を抽出。
その中でも薪拾いは簡単な仕事だが、誰かがやらなければならない。わずかでも皆の輪に入れたと感じ、テスは嬉しかった。
しかし何度目かの往復の後、皆に異変が起きた。
なぜか作業の手を止め、深刻な表情で迷宮を眺めている。
どうやらサーハスがやってきて、エシンを連れて行ったという。彼は建築の指揮を執っているので、テスはその話かと思ったが、リザイたちには別の理由が思い当たるようだ。
エシンは人間への不信感が根強い。
アルターのいないところで愚痴を言うのも珍しくなく、それが伝わって処罰されるのでは、皆は心配していた。
それを聞き、テスは反論しそうになるのをぐっと堪えた。
アルターは無償で魔物と闘い、奴隷商と大変な交渉してくれた。愚痴を言われたくらいで処罰するはずがない。
だが、出会って間もない自分が訴えても耳を貸してくれるとは思えなかった。
複雑な思いで見守っていると、ほどなくしてエシンが戻ってきた。そして駆け寄る仲間を見るなり、なぜか照れ笑いを浮かべる。
「家具作りを教えてほしいって」
唐突な発言に、リザイたちはきょとんとした。
詳しく聞いてみたところ、装飾の図案について意見を求められたそうだ。さらに住居や家具作りについても質問され、最後にさきほどの発言に繋がったらしい。
皆は呆れつつ仕事に戻り、テスも薪を拾いに踵を返す。
そのとき、エシンの独り言が耳に届いた。
「認めてくれるんだな、あの人は……」
たったひと言で、彼の人生が垣間見えた。
テスは聞かなかった振りをして森に向かい、枯れ葉や小枝を拾っては、力任せに使えそうな生木を引き千切る。
その間も、エシンの言葉が耳から離れなかった。
ミランダの手伝いや薪拾いでも、いずれアルターは褒めてくれると思う。
ただ、それを恩返しと呼べるだろうか。
答えの出ないままその日は終わり、明くる日もミランダを手伝いながら、空いた時間で薪を集める。
アルターは忙しいのか、ほとんど最奥に引き籠もっていた。
そしてテスの思いは一晩経っても、いや、むしろ昨日より酷くなっていた。
原因は迷宮の拡張である。
いつの間にかミランダとテスの部屋が作られていたが、それなのにアルターは自分の部屋がなく、これまでどおり最奥で寝泊まりするらしい。
自分たちの部屋が優先されたのは、広間が手狭になった所為である。アルターに不便を強いたことで、テスの申し訳なさと無力感は募る一方だった。
結局、夕食になってもアルターは姿を見せず、ミランダが広間で給仕した。
テスは獣人たちを受け持ったが、必要ないと言われて焚き火を囲む輪に座らされ、薪の爆ぜる音を聞きながら、獣人たちの雑談に耳を澄ました。
初めは他愛もない話題や作業の進捗だったが、サーハスが突然、トルプス岩塩坑での出来事や顛末を語り出し、テスにもアルターとの出会いを訊いてきた。
皆に注目されて顔を赤らめながらも、ヴェレーネ村での騒動をぽつぽつと話していく。
盗賊と狼、そしてオヴェック。
そして偶然に立ち寄った貴族が、『破邪の戦斧』と『深閑の剣』というCランクパーティーを二組も動かし、魔物に立ち向かう。物語のような展開である。
また、テスの話し方は拙いが、当事者の体験は真に迫っていた。皆は食事の手が止まるほど聞き入り、羊の群れに潜んだオヴェックが討伐されると、誰からともなく拍手が巻き起こった。
さらに父親のロニーが犯してしまった過失に触れ、ラムロン商会から救い出されたと締めくくると、皆の怒りや同情が再燃していた。
そんな雑談も、ミランダが食器を手に迷宮から出てきたところで解散となった。
テスも皆の食器を集め、ミランダと一緒に洗い始める。
皿の汚れを布で拭き取り、少ない水ですすいでいく。
水は南の小川で汲んでいるが、使用量が多いときはアルターが魔法で生み出している。あまり迷惑を掛けられないので、自然と水の使用は控えめになっていた。
そして調理器具なども片付けていると、視界の隅にウルクを捉え、テスは動きを止めた。
ウルクはひと気のない広場の外れに移動し、小剣を振り始める。
剣の軌跡に沿って月明かりが靡くのを、テスは魅せられたように見つめた。
それにミランダは気付き、視線を追って微笑する。
「後は任せて」
そう言って洗い物を受け取り、渋るテスを笑顔で促した。
テスは礼を言い、ウルクの邪魔をしないよう、離れた場所から鍛錬を見守る。
ウルクは同じ年頃だが、他の獣人と一緒に森へ入り、狩りや周囲の警戒に参加していた。その才能をクィードは高く評価していたが、テスが知る由もない。なんとなく、獣人だから優秀と考えていた。
やはり鉄の塊は重いようで、さほど経たないうちにウルクは剣を止めた。
深呼吸しながら汗を拭い、そこでようやく視線に気付く。
「ええと……何?」
「すごく頑張ってるなぁ……って……」
褒められてウルクは表情を和らげたが、すぐ振り払うように厳しい顔付きに戻す。
「命の恩人がたくさんいるからな。サーハスさんたちが仲間にしてくれなかったら、岩塩坑で死んでいた。アルター様が救い出してくれなかったら、やっぱり死んでいた。みんなの役に立たないと」
決意を込めて小剣を握りしめるのを、テスは羨望の眼差しで見つめた。
そしてそれとなく話を聞いてみると、ウルクも辺境の村出身で、この地に来るまで剣に触れたこともなかったという。
アルターに恩を感じているのは、テスも同じである。その深さなら、誰にも負けない自信があった。
ウルクも鍛錬を始めたばかりである。今からでも遅くないのでは――。
そう思ってテスが口を開きかけたとき、サーハスが近付いてくるのが目に留まった。
ウルクも気付いて姿勢を正すと、サーハスは無言で二人を眺める。
「無理な鍛錬は禁物だ。少しずつ、身体を慣らしていけ」
「はい!」
畏まって返事をするウルクに頷きかけ、サーハスはテスを見やる。
「鍛錬に参加したいか?」
「良いんですか!?」
「共に生きる仲間だ、遠慮はいらない。今日はもう遅いから、明日の朝からだな」
「はい!」
そして翌日、約束どおりテスも鍛錬に参加するようになった。
早朝と夕刻に木剣や借りた小剣を振るい、薪拾いなどの合間にも手頃な枝を使って鍛錬する。サーハスは剣の振り方や体重移動、実戦での注意点を助言してくれた。
そうしている間に何かの交渉をするらしく、クィードは部下を連れて獣人の村に出発、入れ替わるようにアルターが外に出てくるようになり、魔法で井戸を掘り始めた。
村にいた頃、テスは井戸堀を見学したが、大人総出の大仕事である。
それなのにアルターはたった二日で掘り当て、汲み上げ用の縦穴だけでなく管理用の通路まで作ってしまった。
魔法の非常識ぶりに強い興味を惹かれたが、サーハスから豊富な魔力を有するアルターだからできると聞き、まずは鍛錬に励もうと決意した。
しかしその矢先、決意をくじくように迷宮は豪雨に見舞われてしまう。
深夜まで激しい雨音が迷宮にも響き、朝になっても霧雨が降り続いていた。
迷宮自体に被害はないが、獣人たちの住居は屋根の一部が崩壊し、中まで水浸しになってしまった。
すべての作業は中断となり、びしょ濡れの毛皮や荷物を一時的に迷宮に避難させた後、住居の修復作業が始まった。
そんな中、アルターは小川の様子が気になるそうで、霧雨で濡れるのも構わずサーハスを連れて出発する。
「本当に元貴族なのかね、あの人」
リザイは森へ消える二人を見送った後、苦笑交じりに呟いていた。
テスも同感だった。小川の確認ならサーハスや獣人に命じれば良い。霧雨の中、貴族が視察に行くのは非常識である。
しかし、この場にハイメスがいたら別の意見が聞けただろう。
アルターは何でも自分でやってしまうし、大抵のことができてしまう、と。
だから気付いて動き出す前に、できるかぎりの準備をしなければならない。
ハイメスは苦手の分野でも必死に頭を働かせ、アルターの負担にならないよう勤めていたが、さすがに限界がある。
山羊の群れを引き連れて戻ってきたときは、思わず笑ってしまった。
その山羊はホルバー種と呼ばれ、気性が荒すぎて家畜化できないという。
リザイ以外は何が危険か分からず首を捻っていたが、すぐに理解することとなった。
アルターの帰還に気付いたジルヴが飛び出し、いきなりホルバー種との戦いが始まってしまう。
テスは自分の目が信じられなかった。
ヴェレーネ村で様々な家畜を世話してきたが、気性が荒いで済む光景ではない。
巨大な犀の魔物に飛びかかり、どんなに弾き飛ばされても怯まない。その動きも動物というより、四本足の戦士にしか見えなかった。
それでも力及ばず倒されると次の山羊が挑み掛かり、しまいには子山羊まで突撃していた。
テスは呆然と見守っていたが、動物は動物と考え直す。
家畜の扱いに自信があったので世話役に名乗り出るも、なぜか子山羊たちに追い回されて失敗に終わった。
活躍の機会を逸し、その分、テスは仕事や鍛錬に打ち込んだ。
屋根の補修は終わり、作りかけの壁なども順調に仕上がっていく。獣人たちともさらに打ち解け、多少の冗談を言い合えるようになってきた。
だが環境が整うのに反し、テスは焦りを感じ始めていた。
一向に成長の兆しが見えない。
普通に考えれば当然のことである。テスが剣を握ったのはここ数日、アルターでさえ結果が出るまで長い時間が掛かっている。また生産系のスキルと違い、鍛錬だけではほとんど成長しなかった。
テスは潰れた手の豆にセーロン草を塗り込み、痛みに耐えながら剣を振り続ける。
スキルはおろか能力値も変化せず、テスは確認するのを止めてしまった。
そんな日々が続いたある日の夕刻、薪拾いを終えて広場に戻ると、ウルクが素振りをしていた。
何気なくそれを眺めているうち、テスの脳裏に疑問が浮かぶ。
ウルクはクィードから才能があると評価されていた。しかしテスもまた、サーハスから筋は悪くないと褒められている。
鍛錬を始めた日数に差はない。勝てないにしても、どれくらいの差があるのだろうか。
その疑問は瞬く間に膨れあがり、気付けば声を掛けていた。
「模擬戦? そういえば、やったことないな。構わないけど、サーハスさんに聞いてみないと」
テスの提案に、ウルクも興味を持った。
連れだって模擬戦をしたいと伝えると、サーハスは二人を眺めた後、ミランダに視線で問いかけて了承を得る。
「良いだろう」
それを聞いて盛り上がったのは、他の獣人たちだった。
大慌てで片付けを終わらせ、広場に集結していく。
「頭部への攻撃は禁止。勝敗が付かなくとも、俺が止めと言ったら終わりだ」
「はい!」
威勢の良い返事をした後、二人は距離を取った。
テスは木剣を握り直し、軽く振ってみる。
小剣に比べたらずっと軽い。なんとなく強くなった気がしたが、条件はウルクも同じである。横目で窺うと、自分の素振りよりずっと鋭かった。
テスは震える手を強引に押さえ付け、奥歯を噛みしめながらウルクと向かい合う。
サーハスはそんな二人に一瞥した後、腕を振り下ろす。
「始め!」
合図と共に、歓声が巻き起こった。
しかし、どちらも動かない。テスは木剣を構え、ウルクは軽い足取りで移動しながら様子を窺っている。
テスが持ち掛けたので初手の猛攻を警戒していたが、ウルクは動かないと分かって前へ出た。
そして素早い接近からの上段が振り下ろされ――。
「あ……」
受け止めたテスの木剣は、あっさり吹っ飛んでいった。
木剣が地面を転がり、テスは顔を赤くしながら拾いに行く。
ウルクはその無防備な背中を困惑気味に眺めていた。追撃を警戒しないのも論外だが、軽く振り下ろしただけで木剣を手放してしまった。あまりに弱すぎる。
サーハスが止めないと分かり、ウルクは悩みながらも攻撃を続けた。
テスは悲鳴を上げながら必死で防ごうとしたが、ウルクの攻撃は木剣を掻い潜り、次々と身体を打ち据えていく。
開始早々、模擬戦とは呼べなくなっていた。
テスは痛みで顔を歪め、涙で頬を濡らし、防ぐことも忘れて身を竦ませる。
途中からウルクは手加減していたが、木剣が触れただけで悲鳴を上げる有様だった。
テスは両親に叱られた経験がほとんどない。
村の住民からも愛され、クリフだけはちょっかいを掛けてきたが、それも好意からである。暴力は振るわれたことは一度もなかったし、他の子供と喧嘩をしたことがなかった。
テスは初めての痛みと恐怖で縮こまり、わずかに働く思考で己の浅はかさを呪う。
剣を学べば強くなれると思った。アルターの役に立てると思っていた。
しかし、戦いは命の奪い合いである。模擬戦の痛みや恐怖とは比較にならない。
そんな覚悟で実戦に赴けばどうなるのか。
次々と沸き上がる後悔の中、突然、昔の記憶が蘇る。
負の感情に漂う光明。
十歳の少年が血まみれになりながら、無数の狼を斬り伏せ、オヴェックまで仕留めた。
あの姿を、片時も忘れたことがない。
(アルター様はあんなに傷ついていたのに、泣いてなかった。悲鳴なんて上げなかった。こんな……こんな痛みで……!)
不意の絶叫が響き渡り、テスはウルクに飛びかかった。
いきなりの転調に虚を衝かれながらも、ウルクはぎりぎりで躱して腕を打ち据える。
それに構わず追撃が繰り出され、ウルクは慌てて距離を取った。
予想外の展開に獣人たちは盛り上がるも、テスには何も聞こえていなかった。
刃筋などお構いなしに木剣を振り回し、ウルクが打ち据えても止まらない。
「気圧されるな、ウルク!」
サーハスの叱咤に、ウルクも絶叫する。
気迫と意地がぶつかり合い、絶叫と打撃音が幾度も響く。
だが、身体能力の差は埋めきれなかった。
体勢を崩した瞬間、ウルクの上段が頭部に直撃――テスは意識を手放した。
◇◇◇◇
目覚めたとき、テスはミランダの膝の上にいた。
咄嗟に起き上がろうとして、身体の痛みで顔を歪める。
「寝てなさい。額は治療したけど、身体の傷はそのままだから」
「額……?」
呆けた口調で手を伸ばすと、髪や額が濡れていた。
目覚めたことに気付き、ウルクが何度も謝罪してくる。その発言とミランダの態度で、テスは自分が負けたと知った。
「大丈夫、もう痛くないから!」
痛みで顔が引きつりそうになるのを堪え、テスは立ち上がった。
やせ我慢しているのは誰の目でも明らかである。
さらに夕食の準備を手伝おうとしたが、ミランダから休んでいるようにときつく言い聞かされると、テスは渋々、迷宮に入った。
心配するハイメスに笑顔を返し、部屋で毛皮の上に座って獣脂のランプを消す。
闇に包まれた室内で横になると、扉の隙間から差し込む広間の灯りをぼんやり眺めながら、模擬戦を思い返す。
最初は手も足も出なかった。
血まみれのアルターを思い出した後は、あまり記憶に残っていない。
無我夢中で木剣を振るい、その先で完全に記憶は途切れている。
豆だらけの手を仄かな灯りに翳す。
勝てずとも、もう少し戦えると思っていた。
しかし結果は惨敗だった。攻撃が当たった記憶もない。一方的と言うのが空しくなるほどの惨敗だ。
テスは手を握りしめて毛皮の上で丸くなると、そのまま眠りに落ちた。
それから、いつもの日常が始まった。
ミランダを手伝い、鍛錬に参加してサーハスから指導を受ける。
雑談の中で聞いた話では、この間の模擬戦をアルターが観戦していたという。それを知ったときは酷い恥ずかしさを感じていたが、額の傷をヒーリングポーションで治療したと聞き、それ以上の申し訳なさに苛まれた。
サーハスから、ヒーリングは在庫過剰なので気にするなと言われたが、高額のポーションを無駄遣いしたという思いは消えない。
入り乱れる感情が整理できないうちに、アルターはクィードと共に出発してしまう。
しかも日帰りでなく、半月ほど留守にするという。
テスは不安に感じたが、獣人たちは意外に平然としていた。
薪拾いの最中にウルクと会ったので訊いてみたところ、長期の不在は今回が初めてではなかった。少し前はサーハスと二人で出かけ、ジセロ奪還ではそのサーハスまで同行したらしい。
「ジセロのときはリザイさんがまとめていたよ。だけど、ここだけの話……ちょっと不安だった」
ウルクが声を潜めて笑うと、釣られてテスも笑みを浮かべた。
それにしても――と、テスは目の前の少年を眺める。まだ身体中が痛いのに、ウルクはなんともないようだ。記憶のとおり、攻撃はまったく当たらなかったらしい。
(獣人って、強いんだな)
クリフはもちろん、ヴェレーネ村の子供では歯が立たないと思った。
だが、それは逃避の思考に近い。ウルクよりも優れた人間の子供はいくらでもいる。実際、学院には同じ条件で好勝負以上の結果を出せる逸材が揃っていた。身体能力の不利はあるにせよ、紛れもなく実力の差だ。
テスは無力感から目を背けるため、種族の違いなら仕方ないと己を慰めたが、そこでふと疑問が浮かぶ。
「そういえば、アルター様はどうして獣人になれるのかな?」
「ああ、あれか……。よく分からないけど、メイ様の能力らしいぞ」
迷宮種はスキルを付与でき、アルターは獣人ではなく不完全な『獣化』らしい、と続けた。
それを聞き、テスは急に無言になった。
ウルクは怪訝そうに眺めていたが、報告があるからと立ち去っていく。
テスはひとり残されると、それに気付かぬまま考える。
獣人たちは鍛錬に余念がなく、実戦も繰り返していた。
どんなに剣を振り、どれほど模擬戦をこなそうと、彼らに追いつけるとは思えなかった。
そして地竜である。テスが気を失っている間に、アルターからもたらされた脅威。あれほど強いアルターでさえ、できれば戦いたくないと明言したらしい。
そんな魔物が徘徊する魔の森で、どうすれば自分が役に立てるのか。
このとき、テスの気持ちは固まった。
ミランダやサーハスは様子がおかしいと気付いたが、模擬戦で惨敗したばかりである。
悩むのは決して悪いことではなく、自分を見つめ直す良い機会だ。二人はそう考えて何も言わなかったが、悩みの深さを見誤ってしまった。
その日の深夜、テスは部屋を抜け出した。
ランプを付ければ、ミランダかハイメスが気付く。
暗い通路で息を殺しているうち、わずかに差し込む月明かりで広間の一角がぼんやりと浮かび上がってきた。
テスは慎重に歩を進め、広間を覗き込む。
ここでハイメスとジルヴが休んでいるはずだが、輪郭すら判然としない。
テスは微かな寝息に耳を澄ませ、物音がしないのを確認してから広間を通り抜け、最奥へ進む。
もしフィルが残っていれば、この瞬間に警告されたが、今の迷宮に見咎める者はいない。
テスは最奥を塞ぐ石壁の前に到着すると、背後を窺いながら火口箱でランプに火を点し、無機質な壁や天井を見回した。
ほとんど汚れはなく、言われなければ迷宮の内部とは思えない。
メイがどこかで見ているのではと期待したが、それらしい変化や異変は見当たらなかった。
「メイ様……?」
呼びかけてみても反応はない。
迷宮種は地中のどこかに潜んでいるそうだが、もし最奥ならどうしようもなかった。
石壁だけでなく、確たる理由もなく入るなと厳命されている。私情で入ったと知られたら、信頼を失うだけでは済まない。
もう一度呼びかけてみたが、やはり反応はなかった。
あまりにも静かで、迷宮という話は嘘ではないかと疑うほどだった。
テスは首を振って疑念を振り払うと、壁の前で跪いて頭を下げる。
「メイ様、お願いがあります。力を……僕にも力を分けてください。サーハスさんやクィードさん、他のみんなを強くした方が良いのは分かっています。だけど、強くなってアルター様に恩返しがしたいんです……」
テスが口を噤むと、迷宮に静寂が戻った。
息を呑んで返答を待ったが、ランプの燃える音だけが耳朶に響く。
次第にテスの顔は下がり、気付けば床を見つめていた。
惨めさが胸中を満たし、涙となって頬や床を濡らす。
テスは膝の上で手を握りしめて震えていたが、不意に顔を上げる。
「メイ様、どうかお願いします! 力をもらった後も死ぬ気で強くなります! 決して無駄にはしません! メイ様のお役にも立ちます! だから――だから、僕にも力をください!」
もはや声を潜めもしなかった。
広間に響き渡り、ミランダにも届きそうな声で懇願する。
その所為だろうか。テスは膝に振動を感じ、ジルヴが起きたと思って振り返った。
しかし、広間は無音である。
涙に濡れた目を虚空に向けると、振動は次第に激しくなった。
メイが地中を移動している――そう確信し、祈るような気持ちで目を閉じた瞬間、
「ッ――!?」
全身に衝撃と激痛が走った。
身体が固定されているのか、倒れることも逃れることもできない。
視界の端で辛うじて捉えたのは、自分を貫いている青い光。
だが、激痛は長く続かなかった。
急速に引き、それと引き換えに異様な感覚が全身を侵食していく。
テスは硬直し、何が起きているのか確かめる余裕もない。
手足や胴の感覚が麻痺し、それが首まで迫り上がってきたとき、言い知れぬ恐怖に襲われた。
助けを求めて絶叫したが、すでに声を発することさえできない。
侵食が首を通りすぎ、頬に到達する。
その間もずっと、テスは恐怖で目を見開き、声にならない悲鳴を上げた。
◇◇◇◇
「これもお願い。ええと……左端に」
ミランダの指示を受け、葉で包んだ生肉を棚に運ぶ。
この棚は先日、エシンが拵えて迷宮の広間に設置したものだ。
手斧やナイフだけで板材に加工するのは難しいため、太い枝を組み合わせて作っている。机と同じく粗野な作りだが、それまでは床に積み上げていたので充分に役立っていた。
テスは背伸びしながら生肉を棚に置くと、何気ない仕草で隣の包みに手を伸ばす。
「この鹿肉、ちょっと傷んできてるよ」
「本当?」
ランプで照らし、ミランダも覗き込む。
「今日の夕食で使って、残りは干し肉にしましょう」
「他の肉とか野草も処理した方が良いのかな」
「そうね……これから人も増えそうだし、不猟が続いたら食材が不足するかも。似たような味になってしまうけど、そうしましょうか」
「ミランダさんの料理に文句を言う人はいませんよ」
親子の話を聞き、広間の隅でハイメスが羊皮紙をかざした。
書かれているのは在庫の状況である。
「むしろ、食べ過ぎです」
「料理人にとっては褒め言葉ですが、食材が不足すると困りますね。いざとなったら、ゴブリン料理をお出ししますか」
「それは……少しだけ興味はありますね。どんな味ですか?」
ハイメスの問いかけに、ミランダは人の食べ物ではないと顔をしかめた。
笑い合う大人たちを見て、テスも自然と笑みがこぼれる。
それからも雑談を交えながら在庫を整理し、ハイメスは机で執務を続けていたが、しばらくしてテスが呟く。
「今、アルター様はどの辺りでしょうか」
一瞬、空気が固まった。
テスが野草の束を棚から下ろすと、それを合図にハイメスは微笑を浮かべる。
「旅程は半月ほどです。そろそろかもしれませんね」
「どんなところなんでしょう、獣人の村って」
「サーハスさんの話では、とても綺麗な場所らしいですよ。なんでも泉の地と呼ばれているとか」
ハイメスの説明に、テスは想像を膨らませる。
しかし、アルターを待ち受けているのは暗殺計画だった。知っているのはハイメスとサーハス、クィードだけで、後はクィードの部下が薄々気付いているくらいである。
だからほとんどの者は、アルターは歓待を受けていると本気で思っていた。
テスも華やかな光景を想像していたが、その視線がついと動き、いきなり破顔する。
「お帰りになりました! みんな集まっています!」
ミランダが微笑するのを見て、テスは元気よく頷いた。
その笑みの陰りに気付きもせず迷宮を飛び出し、アルターの姿に慌てて足を止める。
テスは必死で気持ちの高鳴りを静め、従者らしく平静に主人を出迎えた。
「お帰りなさいませ、アルター様」
お辞儀するテスに、アルターも足を止めた。
サーハスと小声でやり取りした後、穏やかな視線をテスに向けてくる。
「そのスキル、無駄にするな」
「はい!」
ひと目で自分の変化に気付いてくれた。テスはそれが嬉しくて堪らなかった。
そしてまだアルターがそばにいるにも拘わらず、クィードに申し出る。
「あの、稽古を付けてくれますか!?」
いきなりの要求に困惑していたが、クィードは了承してくれた。
そしてアルターが迷宮に入るのを見送ると、テスは小走りで木剣を取りに向かう。
観戦してくれないのは残念だったが、力を見せる機会はいくらでもある。
クィードはそう張り切る後ろ姿を眺めながら、サーハスに囁きかけた。
「どれほどだ?」
「お前には勝てない」
クィードは嘆息し、無言で首を振る。
出発前まで、テスは最弱だった。すでに何人か負けたなら、スキルだけでなく身体能力も補強されている。
実際、今のテスは最弱とは呼べない。
サーハスに惨敗してリザイにも負けたが、元Eランクのセゲットやクィードの部下と好勝負し、エシンとナルグス、ウルクには勝利していた。
当然、クィードが相手では勝負にならないが、それでもテスは嬉しくてたまらなかった。
サーハスの合図で模擬戦が始まり、テスは全力で飛び込む。
次々と繰り出されるテスの攻撃を、クィードは坦々と受け流していく。
そして様子見の防戦から一転、不意にクィードは視界から掻き消えるも、テスは素早く距離を取る。
(今のを躱すか)
いきなり速度を上げて背後から斬りつけたが、テスは振り向きもせずに回避した。
体勢を立て直す少年を見据えながら、過去の少年を脳裏から消し去る。
まったくの別人。これが迷宮の力――。
そうクィードは気を引き締めたが、正解でもあり間違ってもいた。
テスは元々、観察眼に優れた少年である。
羊の群れに紛れたオヴェックの子供を発見し、恩人とはいえヴェルクの正体をひと目で看破した。それが実力に反映されなかったのは、脆弱な肉体が足を引っ張っていた所為だ。
今の攻撃も時間を掛ければ誰でも分かるが、一瞬で判断を下し、それに身を委ねられるのはテス自身の才能だった。
夕闇の中、テスは呼吸を整えながらクィードを見つめる。
気配や雰囲気が変わった。本気を引き出せた。
その事実に、自然と笑みが零れる。
「全力でいきます」
「良いだろう。掛かってこい」
手招きするクィードに、テスは走り出した。
速度を乗せた斬撃を放ち、繰り出される反撃をぎりぎりで躱す。
クィードが相手でも臆さず、木剣が耳元を掠めても竦まない。
(もっと強くなるんだ。もっと、アルター様のお役に立てるように――)
大地を蹴って森を舞い、流れるように斬り込んでいく。
テスはそのたび、体内の力が呼応し、歓喜するのを感じていた。
これにて四章中盤は終了です。
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