第170話 エピローグ ~舞踏会
帝都アルシスは帝国北西部の中央寄りに位置する。
地方都市コベルの守備隊長エイサリウスがバロマット王国に反旗を翻し、ラスメル、アルシスを制圧後、この地で建国したのが帝都の始まりだ。
それからはバロマット王国の反攻を警戒し、周囲の古い砦や村落を整備して近衛騎士に管理させると、西のラスメル、東のヴィールアにも公爵家を配して守りを固めた。
だが、実際にはバロマット王国に反攻する戦力はなく、帝都は脅かされることのないまま勝利を収める。
その後、辺境ではバロマット王国やハーゼル統一王国、魔物などによる脅威に晒され続けたが、帝都を始めとした帝国中央部は徐々に腐敗し、ヴィールア公爵家とも些末な争いが積み重なり対立してしまった。
守りの一角を失って久しい帝都アルシスは、昨年から今年に掛け、さらなる悲劇が襲う。
北部に位置するのも災いし、大寒波によって帝都やその周辺地域で凍死者や倒壊事故が多発、大きな被害を受けてしまった。
苦しい冬を乗り越え、ようやく春を迎えたと思えば、聖騎士によってラスメル公の娘ステファナが殺害され、リードヴァルト陥落の急報まで届く。
立て続けの凶報に、アルシス帝国皇帝フォルメスの心労が癒えることはなかった。
最悪が続く宮廷だったが、この日は様子が異なっていた。
敷地に豪奢な馬車が並び、宮廷はいくつもの魔法の角灯で照らし出されている。
そして廷内からは華やかな音楽が鳴り響き、廊下を使用人やメイドが忙しそうに行き来していた。
聖騎士が処断されてからほどなく、皇帝フォルメスは貴族たちを召集した。
大寒波の被害報告と必要なら支援を行うとの名目で集められたが、皆は別の目的があると察していた。
ラスメル公の引き留めである。
娘のステファナを殺され、ラスメル公は激怒していた。
ヴィールア公と対立しても、西はラスメル公が固めているのが皇帝派の救いだった。実際、帝国北西部にヴィールア公爵派は一人もいない。
ラスメル公が中立を宣言するだけで、情勢は大きく傾いてしまう。
そのため皇帝は、ラスメル公や皇帝派の貴族を召集して結束を図ることにした。
結果は成功と言えよう。
ラスメル公は集まった貴族たちを前に、サヴィリアスは聖騎士を名乗っていた痴れ者、と非難した。皇帝に非はないと宣言したも同然である。
最悪の事態を免れて皇帝は安堵し、その日の晩、長旅の慰労を兼ねた舞踏会を開催していた。
華美な装飾の施された会場に、負けず劣らず着飾った貴族が集まり、談笑している。
貴族たちが話題にし、また視線を集めていたのは、楽団が奏でる華やかな曲に合わせてダンスを披露する十代前半の少年少女だった。
彼らは貴族の令息、令嬢で、父親に同行してきた者もいれば、帝都に留学していた子もいる。
そしてその中に一人、一際目立つ容姿の少女がいた。
エルフィミアである。
ラスメル公の対応はともかく、聖騎士の死は皇帝派の力を低下させる――わずかながらそう考える貴族もいて、彼らは大寒波を言い訳に帝都へ来るのを拒んでいた。
権威を示すためにも、賑やかな舞踏会にしたい。
そこで宮廷魔術師の子供に白羽の矢が立ち、エルフィミアも駆り出されていた。
エルフィミアは同い年くらいの子供たちと踊りながら、そっと視線を動かす。
皇帝陛下のそばには、皇太子とラスメル公が並んでいる。
ラスメル公の表情は固かったが、敵意は感じられない。
もし殺された直後なら反応も違っただろう、とエルフィミアは思う。
実際、ラスメル公から糾弾の文が届いたのは有名な話だった。
もし聖騎士の処断が遅れていたら、ヴィールア公は思い切った選択をしたかもしれない。
それは皇帝陛下も承知しており、話しかける表情の端々に気遣う素振りが窺えた。
エルフィミアは視線を戻し、思考を切り替える。
(それにしても、何の情報もないとはね……)
舞踏会に参加を決めたのは、動員がかけられたからではなかった。
父のディオンからは、面倒なら適当な理由をつけて断っても良い、と言われている。
それでも参加したのは、リードヴァルトの情報が欲しかったからだ。
陥落の知らせが届いた後、ケーテンのランベルト、セレンのテッドやラッケンデールに手紙を送った。
セレンからはすぐに返信が届き、ラッケンデールは来ていないと、テッドからはそちらに情報はないかと逆に質問されてしまった。
そして肝心のランベルトは、ケーテンで別れてからリードヴァルトに向かった、と簡潔に書かれているだけで、何も情報を得られなかった。
身体に染みついたダンスを披露しつつ、エルフィミアは内心で苛立った。
皇帝陛下も貴族たちも、なぜ笑っていられるのか。
領土を侵略されたのに、取り返そうとする気概が見えない。
尋ねて回っても、危機感を抱いている者はほとんどおらず、リードヴァルトと聞いた途端、辺境の出来事と一笑に付す者さえいた。
数少ない関心を持っている者も、次子のアルターは死んだと考えていたり、中には男爵家を簒奪しようとバロマットを引き入れたのではないかと、好き勝手な憶測を述べてきた。
そんな話を聞くたび、エルフィミアは腹が立った。
彼らはアルターという少年を知らない。
どんな思いでセレンに来たか、そしてどれほど強いかを。
商人から得た情報によれば、リードヴァルト陥落はあっという間だったという。
どうやら何人かの騎士がアルターの父を裏切ったらしいが、エルフィミアの興味を引いたのはそこではなかった。
アルターが帰還していたら、あっという間に陥落したりしない。
バロマット軍は敗走するか、大きな痛手を負うはずだ。
そしてどういう結果になったとしても、アルター・レス・リードヴァルトの名が帝都に知れ渡っただろう。だから、アルターはリードヴァルトに帰還していない。
少なくとも交戦中は。
では、なぜどこにも姿を見せないのか。
寄親のブラスラッド侯を頼らず、味方の多いセレンにも戻っていない。
自分を頼って帝都に来るのではないかと思ったが、門衛は知らず、冒険者ギルドにも姿はなかった。
(どこで何してるのよ、あいつ……)
エルフィミアが心のうちでぼやいたとき、次の曲が始まった。
続けて踊ろうとして、はっとする。
舞踏の授業で課題となった曲。
自然と身体を動かしながら、意識が過去に飛ぶ。
セレンに行く前は決死の覚悟だった。
祖母が悪事に荷担しているのではないか、自分にその血が流れているのではと怖れもした。
その思いは半年も過ぎないうちに、少年の助力で解決する。
それから卒業までの時間は、楽しい思い出ばかりだった。
エルフィミアは何気なく、恩人の顔を思い浮かべる。
その瞬間、珍妙なダンスが脳裏を過り、つい笑ってしまった。
そんなエルフィミアに向かいの少年は頬を赤らめたが、本人は笑いを堪えるのに必死だった。
すべての曲が終わり、周囲の貴族から拍手が降り注いだ。
子供たちが皇帝陛下らにお辞儀して下がると、貴族たちは我が子を迎え入れ、思い思いの談笑に戻っていく。
エルフィミアはそれに見向きもせず、壁際で待機する従者の下に向かう。
「情報は?」
「何も」
答えながら、小柄な少女が果実水のグラスを差し出してきた。
少女はセレン時代の同級生、リーズだった。
セレンではドリスの供回りを、今はエルフィミアの従者として働いている。
元々はドリスについていく予定だったが、魔法への興味が増していき、もっと学びたいと思うようになった。
しかし、セレンに残れるほどの実力はなく、悩んだ挙げ句、ドリスに相談した。
ドリスは親身に話を聞き、エルフィミアのところで働いてはどうかと助言する。
それは思いもしない提案だった。
エルフィミアの父親は宮廷魔術師で、伯爵と同格である。しかも帝都で皇帝陛下のそばにいた。父親のサクリス男爵も拒否する理由がない。
何よりエルフィミアとの仲も悪くなく、むしろ良い方だった。
リーズが駄目元で頼んでみると、
「うちで働きたいの? 貴族の娘なのに変な子ね。別に良いと思うけど――あ、給料は安いから。魔法はお金が掛かるし」
という具合に、あっさり了承された。
さらに報告を受けたディオンはリーズが共に学べるよう、エルフィミア専属の使用人として雇うと伝えてきた。
そうした経緯で主従となった二人は、壁際に並んで会場を眺める。
ここに集まっているのは、最低でも伯爵家かそれと同格の宮廷魔術師だけだった。リーズも貴族の娘だが、最下級の男爵と比較したら天上の貴族たちである。
しかし、彼女の口から出てきた言葉には、明らかな侮蔑が混じっていた。
「平和ですね」
「仕方ないわ。辺境の出来事だから」
エルフィミアは擁護したが、感情はまるで籠もっていなかった。
音楽に誘われて数人の貴族がダンスを披露し、周りはそれを鑑賞しながら益体もない話に盛り上がっている。
「そういえば、お相手の方が頬を赤らめてましたね」
「お相手?」
「フィルサッチ侯の第三子、ホルテス様です」
「ああ……そう。あの方が」
答えながらエルフィミアは記憶を辿る。
曲の途中で目の前の相手が変わることもあり、ホルテスという少年がどれなのか見当もつかない。
なんとなく居た気もする――そんなことを思いながら話を戻そうとしたとき、リーズが目配せしてきた。
視線を追い、エルフィミアはうんざりする。
誰なのか聞くまでもない。話題のホルテスだ。
エルフィミアと目が合うなり顔を真っ赤にしたが、ホルテスは覚悟を決めた表情で向かってくる。
エルフィミアは視線をそのままに、小声でリーズに囁く。
「何か知ってる?」
「お優しい方のようです」
「他には?」
「フィルサッチ侯に溺愛されているとか」
それを聞き、内心で激しくため息をついた。
侯爵の息子だけで面倒なのに、溺愛された息子は尚更である。
逃げることもできずに待っていると、ホルテスが切り出す。
「ホ――ホルテス・バレリウ・フィルサッチと申します。あ、フィルサッチ侯の……第三子です」
「宮廷魔術師ディオン・クローエットの娘、エルフィミア・クローエットと申します。お目に掛かれて光栄です、ホルテス様」
優雅に挨拶を返すエルフィミアに、ホルテスは詰まりつつも話を続ける。
「僕はヴァラキス学院に通っています。エルフィミアさんは、どちらに?」
「もう卒業しましたが、セレンのカルティラールに通っておりました」
「セレンの? 奇遇ですね! 僕の故郷はフィルサッチです!」
「ええ。存じ上げております」
エルフィミアが微笑で応えると、ホルテスは別の意味で顔を赤くした。
傍から見れば、若い男女の微笑ましいやり取りである。
だが、当のエルフィミアはこの場から立ち去りたいと願っていた。
雑談目的で話しかけてくるわけがない。ダンスの誘いならまだしも、後日改めて食事でも――と言いかねなかった。普段でも面倒なのに、今は余計にそれどころではない。
しかし純朴な少年が気付くはずもなく、懸念どおりの言葉を口にする。
「あの、よろしければ今度、お食事――」
そのときだった。
会場にざわめきが起こり、貴族たちの視線が一点に集まっていく。
ホルテスは話を続けていたが、エルフィミアの耳には届いていなかった。
貴族たちの視線を追い、そこにいる人物に息を呑む。
質素な、それでいて上質なドレスに身を包んでいる若い女性。
貴族たちが注目したのは、その美しさだけではない。
(驚いた。彼女が顔を出すなんて)
公女ビーチェ。
ラスメル公の娘であり、帝国でも名高い魔法使い。
そして聖騎士に殺されたステファナの妹でもあった。
ビーチェは無表情で会場を見渡す。
その視線は皇帝や父のラスメル公を素通りしたが、非礼を誰も咎める者はいない。誰もが固唾を呑み、彼女の動向を見守っている。
そして視線が一周しかけたとき、ぴたりと止まった。
ビーチェの口元が微かに緩むと、エルフィミアの周囲から人が離れていく。
近付いてくる女性にさすがのホルテスも気付いたが、何者か分からないようだった。
周囲の様子と女性を、困惑した顔で見渡している。
そんなホルテスは視界に入っていないのか、ビーチェはエルフィミアの前に立つ。
「久しぶりね」
エルフィミアが挨拶を返そうとすると、面倒そうにそれを制した。
「不要よ。堅苦しい言葉も」
「でしたらほどほどに。人の目もございますので」
「好きになさい」
興味なさそうにビーチェは言い捨てた。
お優しいホルテスも、自分を無視する女性に腹が立ったらしい。
少しきつい口調で問いかける。
「あなたは?」
「ラスメル公のご息女、ビーチェ様にございます」
エルフィミアが代わりに答えると、ホルテスの表情が驚きに変わった。
まずは身分、そして聞き覚えのある名が浸透するに従い、徐々に青ざめていく。
「ビ……!?」
奇妙な声を上げながら後ずさり、ホルテスは足をもつれさせて転倒してしまう。
無様な姿なのに誰も笑う者はいない。
そしてホルテスは這いずったままビーチェから離れていき、父親のフィルサッチ侯に助け起こされると、従者の肩を借りてホルテスが会場から逃げていった。
残ったフィルサッチ侯は、鋭い視線でビーチェを睨み付ける。
しかし、彼女が何かしたわけではない。勝手にホルテスが怯え、転んだだけである。
それでも怒りが収まらない様子だったが、ラスメル公の詫びるような目礼を受け、フィルサッチ侯も無言で会場を後にした。
いつの間にか楽団まで手を止め、ダンスホールは静まり返っていた。
それに気付いた近衛騎士の隊長フィタリオが合図を送る。
再び穏やかな曲が流れ出し、固まっていた空気がようやく弛緩した。
「お邪魔だった?」
「いえ、助かりました」
「そう。なら良いけど」
言いながらビーチェが見渡すと、貴族たちが慌てて視線を逸らす。
その様子を感情のない瞳で一瞥し、エルフィミアに戻す。
「そういえば、セレンに留学していたそうね」
「はい、ひと月ほど前に戻りました」
「腕は上がった?」
「中級魔法なら自力で。上級は全然です」
ビーチェは呆れながらも、どこか楽しそうに首を振る。
「当然よ。私だって最初は魔法書で覚えたわ。宮廷魔術師になりたいなら、手段は選ばないことね」
「その宮廷魔術師のお給金ではとても。どこかに落ちていませんか」
「宝物庫の床でも探したら?」
物騒な冗談を交わしつつ、エルフィミアとビーチェは静かに笑い合った。
そしてビーチェはリーズが差し出すワインを断り、エルフィミアに告げる。
「そろそろ行くわ」
「もう?」
「ラスメルを立つ前、父が仰ったわ。私の意思を尊重すると。充分、顔は見せたでしょう」
ビーチェは微笑で答えると、いつもの無表情で歩き出した。
しかし、その方向は入口と正反対である。
エルフィミアが止める暇もなく、ビーチェはテラスに姿を消した。
残された二人は、困惑しながら顔を見合わせる。
「凄い方ですね」
「実力も性格もね」
「お知り合いでしたか」
「以前、魔法について少し話したわ。それに私はこんなでしょう」
エルフィミアは自分の耳を指差す。
「純粋なエルフでないのに、エルフにしか見えない。環境や程度は違うけど、ビーチェ様と私は似たような境遇だったと思う」
「だからですか。それにしても、あれだけのためにラスメルから?」
「舞踏会はついででしょうね。目的はステファナ様よ」
非業の死を遂げたもう一人の公女。その名を聞いて、リーズは神妙な顔で頷いた。
聖騎士に殺された後、ステファナの遺体は《氷霜》などが使える魔法使いが厳重に管理していた。当然、エルフィミアもそのうちの一人である。
そして人間嫌いのビーチェが帝都までやってきたのは、エルフィミアの推測どおり、ステファナをラスメルに連れ帰るためだった。
「だけど、なんでテラスに向かわれたのかしら」
そう呟いてエルフィミアは首を傾げたが、答えは得られなかった。
◇◇◇◇
テラスでは複数の貴族たちが寛いでいた。
不意に現れた妙齢の女性に何人かは目を奪われたが、正体に気付いた者から忠告され、引きつった顔で視線を逸らす。
その様子を横目で捉えながら、どこに行っても変わらない、とビーチェは感じていた。
同時に、今の状態が楽とも。
ビーチェは今年、十七歳になる。
公爵家の娘で美貌の持ち主ともあれば、すでにどこかの貴族に嫁いでいるか、婚約が決まっていただろう。しかし、飛び抜けた魔法の才能と人間嫌いの所為で、父のラスメル公はとうに娘の結婚を諦め、唯一、ビーチェの将来を心配していた姉のステファナも他界した。
良くも悪くも、今の彼女を気に掛ける者はいない。
ビーチェはテラスを抜け、月明かりに輝く庭園へ足を伸ばした。
広大な庭園は、色取り取りの花と生け垣で区切られ、ちょっとした迷路のようになっている。要所要所に魔法の角灯は置かれていても、広大すぎて闇に沈んでいる区画も多かった。
そんな庭園をビーチェは怖れもせずに進み、しばらくして中央辺りの噴水に到達した。
足を止めて周囲を見渡していると、すぐさま硬い音が響いてくる。
音は次第に大きくなり、何かの蹄の音と分かったとき、生け垣を大きな白い影が跳び越えた。
影の正体は、月明かりに輝く白い牡鹿だった。
「ジニス」
声を掛けながらビーチェが歩み寄ると、牡鹿も小走りで駆け寄ってきた。
ジニスと呼ばれた牡鹿――その正体は鹿の魔物エレーフである。
老年に至れば雷撃系の魔法を操ると言われ、個体によっては幼竜に匹敵するという。
いくら従魔であっても、そんな魔物をダンスホールに入れるわけにはいかない。宮廷側が妥協案として提示したのが庭園だった。
首を撫でるビーチェに、牡鹿は心地よさそうに目を細める。
まるで恋人同士の戯れに見えたが、実態は親子に近い。
ビーチェとジニスが出会ったのは六年前である。
ラスメル領内で冒険者が異様な子鹿を発見した。雷撃で威嚇したことでエレーフと分かったが、幼体で魔法を操るのは尋常ではない。
幸か不幸か子鹿は魔力が乏しく、すぐに昏倒して無傷で捕獲された。
『鑑定』の結果、雷撃系の魔法やスキルを習得していると確認された。変異種でこそなかったが、相当な逸材である。
ビーチェは偶然、城を訪れた商人からその話を聞いて興味を持った。
彼女も類い希なる魔法の才能に恵まれ、物心着いた頃には初級の氷結魔法を習得している。そのエレーフは、まるで自分だと。
早速、商人の案内で会いに行ったが、子鹿は死にかけていた。
奴隷商は困り果てた顔で訴える。
「どうしても暴れまして……」
子鹿には魔物用の隷属の首輪が掛けられていたが、目を覚ますたびに暴れるという。
もし魔力が豊富であれば、今頃は窒息死している。大枚を叩いて購入した魔物が死んでしまっては大損だと奴隷商は嘆いた。
そんな話をしていると、子鹿が目を覚ます。
すぐさま激しい敵意を向けてきたが、構わずビーチェは近付いた。
雷撃が直撃するも、初級魔法程度でどうにかできる相手ではない。
子鹿は魔力を枯渇させて昏倒し、ビーチェが受け止める。
「私が引き取るわ」
ひと言だけ告げ、ビーチェは子鹿を連れて帰った。
その後、子鹿は目覚めるたびに雷撃を放っては昏倒し、気付けば膝の上だった。
それを幾度か繰り返し、とうとう諦める。
ジニスと名付けられた子鹿は、ラスメル公の城で飼われることになった。
そして、さほど掛からずビーチェに心を開くようになったが、愛情だけが理由ではない。人間を見ているうち、大多数が脆弱であること、ビーチェという少女が異端と気付いたからだ。
ジニスもまた、孤独な存在だった。
静寂が包む庭園に、演奏が微かに聞こえてくる。
会場は盛り上がっているようだ。
ビーチェはジニスを撫でながら、興味なさげに宮廷を見やった。
エルフィミアのおかげで、不愉快な場も少しは楽しめた。
父親への義理は果たしたし、出発まで姉のそばで過ごそう――。
そんなことを考えながら、ビーチェは宮廷の地下で眠る姉を思い浮かべる。
(そういえば……)
ステファナは生前と変わらない姿だった。
エルフィミアは冷却に特化した魔法、《氷霜》が使える。彼女や氷結系の魔法使いが保存したのは容易に想像がついた。
ビーチェは会場に戻ろうとして、思いとどまる。
今日明日に出発するわけではない。礼なら落ち着いた場で伝えるべきだ。
そう考えて姉のもとへ向かおうとして――ビーチェは小首を傾げた。
ジニスの様子がおかしい。
宮廷の方角を睨み、見る見るうちに毛を逆立てていく。
そんな疑問はすぐに解けた。
足音が二つ、こちらに近付いてくる。
片方は軽い。おそらく男女だろう。
舞踏会の真っ最中なら誰かが庭園に忍び込んでも不思議はないが、貴族が来たくらいでジニスが怯えるはずもなかった。
前に出ようとするジニスを抑え、ビーチェは足音を待つ。
そしてほどなく、生け垣の曲がり角から人影が姿を見せた。
親子――?
足音は男女でなく、十歳ほどの少年と冴えない中年男だった。
二人を見て、ビーチェは警戒を強める。
こちらを見て驚きもしない。偶然ではなく、目的があってここに来ている。
「アプルタ、綺麗な鹿だよ!」
警戒するビーチェたちを気にも止めず、少年が脳天気な声を上げた。
「左様にございますね。この若さで白毛とは珍しい」
「ふわふわだねぇ。撫でたら怒るかな?」
「どうでしょう。撫でるくらいなら平気かと。それより、まずはお話を」
アプルタという中年男に促され、少年が進み出る。
「僕はリティウス・クルスト。近衛騎士です!」
少年は近衛騎士であることを強調し、誇らしげにマントを見せてきた。
クルストの姓と近衛の紋章。ビーチェはこの少年が何者か察する。
「聖騎士を誅殺し、最年少で近衛騎士に抜擢された少年。あなたがそうなのね」
リティウスは近衛騎士と呼ばれて照れくさそうに破顔したが、ビーチェは冷淡に見つめ返す。
「近衛騎士様が何のご用かしら。まさか、礼を聞きに来たの?」
聖騎士の横暴を放置し、多くの被害者を出したのは皇帝の責任、後始末してきたのは近衛騎士だった。エルフィミアたちに礼を言うならまだしも、近衛に掛ける言葉はない。
だが、リティウスは意味が分からないようで、きょとんとしていた。
すると背後に控えていたアプルタが頭を下げ、代わりに謝意を表してくる。
その間も、リティウスの表情は変わらなかった。
この少年は、聖騎士がラスメル公の娘を殺めたことで大事になったと分かっていないようだ。
それとも、分かっていて理解できないのだろうか。
ここに至り、ビーチェは不気味さを感じ始めた。
考えてみれば異常である。ビーチェやジニスがいかに常識から外れていても、十歳くらいで聖騎士を殺すのは不可能だ。戦いにすらならない。
父の話では、たった一人でそれをやってのけたという。
(この子……本当に人間なの?)
まるで人間の形をした何か。
魔物ですらない、まったく別の存在。
謝意を伝え終えると、アプルタはリティウスに合図を送った。
我に返るビーチェに、リティウスは笑顔を向けてくる。
「今日から、あなたは自由です」
唐突な宣言を受け、ビーチェは再び呆然としてしまう。
「街の外に出るのに誰の許可もいりません。あなたが望むとき、帝都周辺を自由に出歩けます。またジニスさんは皇帝陛下の名の下に保護され、誰であろうと危害を加えたらアルシス帝国への敵対行為と見做されます。僕も許しません。あ、散歩されるのでしたらクルストがお薦めです。自然豊かなところなので、ジニスさんもくつろげると思いますよ。それに野菜も美味しいですね。ジニスさんの口に合えば――」
「待って」
ビーチェに制止され、リティウスは小首を傾げる。
「野菜は食べませんか」
「そうじゃなくて。あなた、何を言っているの?」
問いかけるビーチェに、リティウスはさらに首を傾げてきた。
そんなやり取りに背後のアプルタは肩を震わせていたが、ビーチェに睨まれて咳払いする。
「リティウス様、肝心な部分が抜けております」
アプルタに指摘されると、リティウスは大仰に手を叩き、そのまま小さな手の平を差し出した。
「ようこそ、近衛騎士隊へ」
呆然とするビーチェに、アプルタは溜まりかねて笑い出した。
リティウスは不思議そうな表情で振り返る。
「教わったとおりに言ったけど?」
「も、もちろんです。ただ、近衛騎士隊ではございません」
「なに言ってるの、アプルタ。起源の調べだって近衛騎士だよ?」
「ああ、確かに。これは盲点でした」
リティウスの反論に苦笑しつつも、アプルタは納得した。
ほぼ独立しているとはいえ、起源の調べは近衛に組み込まれている。
そして近衛騎士になるのが夢だったリティウスにしてみれば、断るなんて考えもしないのだと。
アプルタは姿勢を正し、ビーチェに一礼する。
「貴族のご息女として他家に嫁ぐ、ラスメル公を補佐して領内に安定をもたらす。どちらも否定はいたしません。ただ、もう一つの選択肢を提示させてください。起源の調べです。我らは皇帝陛下の直轄部隊であり、作戦中を除けば皇帝陛下、近衛騎士隊隊長、その代行であるリティウス様の指示のみに従います。たとえ皇太子や公爵であっても、我らに指図することはできません。ビーチェ様、そしてジニス様は、これまで以上の自由が保証されるでしょう。悪い話ではないと確信いたしております。ただ――」
アプルタは言葉を切り、すっと微笑を消す。
「お誘いするのは今回かぎりです。望まぬ者、悩む者を迎え入れるつもりはございません。今このとき、ビーチェ様お一人のご意思で決断なさってください」
そこまで言い、アプルタは口を閉ざした。
この男も尋常ではない――ビーチェはそう感じながらも、父の言葉を思い返していた。
(私の意思ね。そういう意味だったの)
ラスメル公はすべてを知りながら帝都に同行させた。
そして事前に伝えなかったのもビーチェは察しが付く。
姉の死を利用していると感じさせないためだ。
もし事前に伝えられていたら、ビーチェは強烈な拒否反応を示し、この二人との面会も拒絶したに違いない。
「聞いても良いかしら。なぜ私を?」
「戦力――では、ご納得いただけないでしょうね。正直に申せば、抑止力です。失礼ながら、リティウス様は聖騎士ほど有名ではございません。皇帝陛下に叛意を持つ者たちを牽制するには不十分です」
「あの男の代役なのね」
「言い換えればそうなります」
リティウスの話も口約束ではなかった。
ビーチェ自身が皇帝派についたと喧伝するため、むしろ出歩くのを望んでいる。
未だに緊張しているジニスを宥めながら、ビーチェは思う。
(彼女に認められるには、時間も力も足りなかった。お姉様の導きかしら――)
姉を思い浮かべながらも、目の前にいる二人から感じるのは逆の印象だった。
もしこの世界に存在したら思ったことだろう。悪魔の誘いと。
ビーチェは覚悟を決め、二人を見やる。
「アルシス周辺では物足りない。好きにさせてもらう」
「もちろ――」
「善処いたします」
アプルタに頷き返し、リティウスへ視線を動かす。
「それで、クルストは良いところなの?」
「もちろんです、僕の故郷ですから!」
ぱっと破顔すると、リティウスは根拠のない理由で言い切った。
そして再び、小さな手を差し出す。
「ようこそ、近衛騎士隊へ」
「起源の調べでしょう」
頑なな少年にため息をつきつつも、その手に向け、ビーチェは一歩踏み出した。
これにて三章は終了です。
お読み下さった方、評価、ブックマーク、感想、コメント、誤字報告、本当にありがとうございます。
返信などは順次、対応させていただきます。
次回は四章のプロローグから前半部分になる予定です。
たぶん、忘れた頃に投稿すると思います。
それではまた、よろしくお願いします。