第159話 シルヴェック
森林地帯を東に進み、頃合いを見て南下する。
そしてセレンを出発してから三日目、俺はジューテルとシルヴェックを繋ぐ街道に入った。
肩に食い込むバックパックを背負い直し、周囲を窺う。
人の姿は見当たらないが、街道には新しい足跡や轍が刻まれていた。
エサルドの研究資料が簡単に入手できたことで、日程にかなりの余裕があった。
その分を狩りに費やせば当座の資金を確保できる――そう思っていたのだが、目論見は外れたと言うしかない。
『気配察知』で魔物の位置は特定できても、金銭になるかは別問題だった。魔石は空振りばかりで、毛皮などは嵩張るため大量に運ぶことができない。
結局、入手できたのはオークの魔石一つ、ゴブリンの魔石が二つ、ヌドロークの毛皮二枚、オークの腱が五本だった。
蚊の魔物ヴィーギンからも小粒の魔石を一つ入手しているが、ゴブリンより小さいので端金だと思う。また羽は脆く、『鑑定』で調べても使えそうな部位も見当たらなかった。念のため丸ごと回収したが、廃棄することになりそうだ。
なんとも不景気な話だが、朗報もある。
ラニム草の大量確保に成功した。後はソグリオの実と錬金器具を入手すれば、錬金溶液を調合できる。予定どおり、まずはシルヴェックを目指すとしよう。
その後、俺は街道を進み、さしたる出来事もなくシルヴェックに到着した。
門の前には徒歩と馬車、それぞれの行列が伸びている。
主力商品の所為で自由に出入りできないようだが、遠目で見るかぎり簡単な質疑応答で通してくれそうだ。おそらく、入るだけなら簡単だろう。
ちなみに、通行税などを徴収する町は意外に少ない。
そんなことをすれば冒険者から敬遠され、兵士だけで魔物を討伐しなければならない。だから冒険者ギルドは領主に影響力を持つし、魔物を求めて移動する冒険者には自由な往来が黙認されていた。
ただ冒険者証は便利な反面、欠点もある。
シルヴェックのように身元確認をされると、どの辺りで活動しているか把握されやすいため、犯罪者や俺のような立場には不向きだろう。
いずれにしても、何を聞かれるかは試してみないと分からない。
冒険者の後ろに並んでいると、ほどなくして俺の順番がやってきた。
進み出る俺を見て、門衛はあからさまに眉を顰める。
早速の獣人差別かと思ったが、視線は俺の頬に向けられていた。
「怪我してるのか?」
「ん? ああ、これか。オークの血だ。北の森で出会したんだ」
答えつつ、腰にぶら下げた布で頬の血を拭き取っていく。
門衛はそれをじっと眺めていたが、最後まで胡乱げな視線は変わらなかった。
獣人の少年がオークに、それも一人で倒せるとは思えないのだろう。
俺はバックパックを下ろし、血に塗れた細長い肉片を取り出した。
「それは……オークの腱か。何本あるんだ?」
「五本。一本は駄目にしてしまった」
オークのアキレス腱は、弓の弦などに利用できる。俺が使っていた弓も、乾燥させたオークの腱をより合わせたものだった。
オークの素材で一番高額なのは魔石、次いで皮、ぐっと下がって腱である。
腱は売値がかなり安いため、オークを倒せるほどの冒険者ならわざわざ回収しない。俺も普段なら皮を優先するが、安価なら妙な連中に絡まれず、戦闘力の証明にもなる。
思惑どおり、門衛は感心した顔付きに変わった。
「オーク三体を一人で狩ったのか。若いのに大したやつだ。じゃあ、冒険者証を見せてみろ」
「冒険者じゃない」
「違うのか?」
「以前は登録しようと思ったが、誰かに使われるのが性に合わないと気付いた」
困惑気味の門衛に、俺は言葉を継ぐ。
「売却と物資の補充をしたいだけだ。すぐに町から出て行くし、暴れたりもしない」
「どちらでも構わんさ。シルヴェックがどういう町か知ってるだろ。問題を起こせば檻の中だ。それとな、面倒でも冒険者登録くらいしておけ。旅を続けるなら便利だぞ」
「ジューテルでも言われたな。考えておく」
許可が下りたので歩き出すと、すれ違いざま、門衛が言い添える。
「安宿には泊まるなよ。問題を起こさなくとも、こうだ」
門衛は両手を首に添え、笑顔で輪っかを作った。
◇◇◇◇
シルヴェック伯は領地こそ狭いが、貴族同士の会話に登場するほど有名な貴族である。
誰それがシルヴェック伯の世話になっている、お前なんかシルヴェック伯の世話になってしまえ、などなど。
もちろん悪口で、意味は没落だ。
そんなシルヴェック伯だが、中立派に属していた。産業が産業なので、どこにも肩入れしないためだろう。理由はどうあれ、権力闘争から縁遠く、魔物や悪質な奴隷商の被害を除けば、比較的平和な土地だった。
外壁の門を通り抜け、畑を横目に内壁の門も通過する。
視界に広がるシルヴェックの町を眺め、真っ先に浮かんだ感想は、奴隷が多い、だった。
荷馬車で運ばれていく奴隷、重い荷物を背負って主人を追う奴隷、露天の店先で呼び込みする奴隷。
もちろん、リードヴァルトやセレンにも奴隷はいたが、これほど多くない。
その様子を眺めているうち、奴隷たちにも違いがあることに気付いた。
荷馬車の奴隷は暗い表情だが、町中の奴隷からはあまり悲痛さを感じない。
重犯罪者や生まれついての奴隷でなければ、決められた年数で解放される。中には粗略な扱いをしたり、契約年数を無視する主人もいるだろうが、実態は給料の前借りや懲役刑と変わらなかった。
シルヴェックは奴隷産業の中心地である。案外、奴隷の扱いは地方より厳格なのかもしれない。
「獣人の坊ちゃん! 土産にどうだい!? うちの岩塩は良質だよ!」
その一人である中年奴隷が、透明な結晶を見せながら声を掛けてきた。
透き通った岩塩は高級品なので露店に並ぶことはない。製塩だろう。
俺は品揃えを一瞥し、小袋を指差した。
「それを見せてくれ」
小袋を中年奴隷から受け取り、中を検める。
ピンク色の塩だ。不純物が多いので癖はあるが、肉料理など用途は幅広く、セレンでもよく利用していた。
値段を聞き、銀貨を差し出す。
「貰おう。ところで、この町は長いのか?」
「二年くらいかな」
釣り銭を受け取りながら、大銅貨を一枚、中年奴隷の手にそっと戻す。
「来たばっかりでね。素材の売却とポーションを補充したい。良い店を知らないか」
「素材とポーション……そうだなぁ……」
中年奴隷は悩む素振りをしながら、後ろで作業する主人に見られないよう、大銅貨を懐にしまい込んだ。
「良心的な店を頼むよ。これなんでね」
そう言って自分の耳を指し示すと、中年奴隷は苦笑しながら頷いた。
店の場所を聞き出し、さっきより元気になった呼び込みを背に露店を後にする。
門から伸びる本道は活気に溢れていた。
確かに奴隷商館は多いが、普通の店も普通に営業している。森林地帯の魔物はそれほど強くないし、隊商の護衛任務はセレン並みに潤沢だと思う。深殿の森もそう遠くないから、奴隷商の多さに目を瞑れば、どんな冒険者にも向いている活動拠点かもしれない。
そんな需要に応えているのか、無骨な装飾の大店が目に止まる。
通り過ぎながら覗き込むと、武器や道具が綺麗に陳列され、奥には魔法の剣も飾られていた。ちょっと興味は沸いたが、高級品には手が出ないし、手頃な魔道具なら自作できる。
それに、今は迅風のシミターがある。
腰の曲剣に触れ、オークとの戦闘を思い返す。
冒険者から拝借した迅風のシミターは、癖の強い魔道具だった。
テッドにあげた残影の剣には、『剣速強化』が付与されている。あれは振ったときに剣速を補助するのだが、迅風のシミターの『風刃』は発動した瞬間、刃の方向へ勝手に動いてしまう。電動自転車とバイクの違いと言えば、分かりやすいだろうか。
一応、風向きは使用者の意思に反応するが、俺くらいの剣速だと間に合わない。
はっきり言えば、使い勝手が悪かった。
とはいえ、折角の固有スキルである。
色々試したところ、こまめに発動と解除を切り替えれば、それなりに使えると分かった。
使用者の剣速が遅ければ常時発動、速ければ『強撃』などに乗せて発動する。迅風のシミターは、実力に合わせた工夫が求められる魔道具のようだ。
そんなことを考えつつ大通りを進み、目印の建物を曲がった。
すると、周囲の様相が徐々に変わり始め、娼館や酒場が見るからに増えていく。
俺は流し目を送る娼婦を素通りし、赤ら顔の通行人を避けながら先へと急いだ。
しばらくすると町並みはさらに変化し、今度は小さな雑貨店や住居が目立つようになってきた。そこからさらに道を進み続け、数分後、目的の店を発見する。
小さな店構えで、扉にはダドリー商店と書かれた札がぶら下がっていた。
わずかに開けられた窓からは、嗅いだことのある臭いが漂ってくる。セーロン草にアクティニの実、クングス草、ベスセアの樹皮。仄かに甘い香りは……アクルーの実か。アクルーは普通の果物だが、香りが他の果物より強い。主な客層は娼婦らしいから香水だろう。
要望どおりの店で安堵しつつ、俺は扉を開けた。
しかしその直後、思わず足を止めてしまう。
天井まで届く棚に、所狭しとポーションや雑貨が押し込められていた。敷地面積の問題もあるだろうが、セレンでもここまで極端な店は少ない。
身体を傾けつつカウンターに歩み寄ると、俺が口を開くより前に、奥の老人が切り出した。
「ヒーリングポーションなら、そっちの棚だ」
「別件だ。魔石と素材を買い取ってほしい」
店主のダドリーは口をへの字に曲げ、見せてみろとばかりに指を動かした。
俺は魔石や毛皮、オークの腱をカウンターに並べていく。
「それと、ヴィーギンも持ってきたんだが――」
「捨てろ」
「あ、はい」
でかい蚊の入った袋を戻している間、ダドリーは魔石をランタンに透かし、毛皮や腱の状態を検めていく。
「金貨三枚と銀貨九枚。嫌ならよそに行きな」
「それで構わない。買い取ってくれ。錬金器具は置いているか?」
「あるにはあるが……」
ダドリーは言葉を濁し、上目遣いでじろりと俺を睨む。
「お前さんが使うのか?」
「いや。友人が錬金術師に弟子入りした。その祝いだ」
「祝いね……。どうでも良いが、これじゃあ、まるで足りんぞ。錬金器具の値段を知ってるのか」
「問題ない」
魔石と素材に顎をしゃくるダドリーに、俺は小袋を揺らして見せた。
その仕草が勘に障ったのか、酷く不機嫌な顔付きでダドリーは立ち上がる。
そして奥の倉庫に向かうと、木箱を抱えて戻ってきた。
「こいつは帝都の工房で作られた逸品だ。安物がほしけりゃ――」
「中を見ても?」
言い切る前に、俺は割って入る。
どうも、この老人は客を追い返そうとするのが癖らしい。それで繁盛しているのだから、態度と違って良心的な店のようだ。
ダドリーの許可を得て蓋を開けてみると、言葉どおりの品が納められていた。
セレンで使っていた物よりガラスの透明度が段違いである。本職向け、それも一流が使う錬金器具だ。
指に付いた埃を、そっと拭う。
だからだろうか。中身は立派なのに箱は埃まみれだった。大抵の調合なら、もっと安価な錬金器具で事足りる。これほどの品は必要ないし、たとえ買おうと思っても、場末の店に帝都の逸品が置いてあるとは考えない。長い年月、倉庫に埋もれていたのだろう。
「いくらだ?」
「金貨十枚。見てのとおり、仕入れたのはずいぶん昔でね。いい加減、邪魔なんだ」
破格の提示だった。倍を要求されても驚かなかったと思う。
ふと気付けば、俺の様子をダドリーが窺っていた。
器具を扱う手つきか。俺が使うと見抜いているな。
まあ、祝いの品はさすがにない。獣人の錬金術師は珍しいのでなんとなく隠したが、我ながら馬鹿げた嘘である。
俺は丁寧に器具を戻し、蓋を閉じた。
「買わせてもらう。他にはソグリオの実と――雑貨は扱っているか? 羊皮紙、ペン、ロープ……」
「あるぞ」
「工具は?」
「よそに行け」
さすがに工具までは売っていなかった。
俺は代金を支払うと、錬金器具が割れないよう、布にくるんでバックパックへ納めていく。
ダドリーはその様子を仏頂面で眺めていたが、おもむろにカウンターの裏に手を伸ばした。
「お前さん、そいつを抱えて旅するつもりか?」
「そうだが――」
「安くしてやる」
そう言って取り出したのは、一枚の羊皮紙だった。
「《物品護持》のスクロールだ。頑丈とまではいかねえが、少しくらいなら割れたりしないだろう」
「有り難い申し出だが……」
「構いやしねえ。どっちも売れ残りだからな」
ダドリーが提示した金額は銀貨五枚だった。
いくら初級魔法でも、スクロールは金貨一枚から三枚で売られている。錬金器具に負けず劣らず、かなりの破格だ。しかも《物品護持》のスクロールは、埃一つ被っていない。新品でなくとも売れ残りには見えなかった。なるほど、お薦めされるわけだ。
ひとまず代金を支払い、錬金器具と一緒に収納した。
そして礼を言って立ち去ろうとする俺を、ダドリーが呼び止める。
「お友達に伝えておけ。ポーションが調合できたら買い取ってやると」
「売れ筋は?」
「疲労回復」
「土地柄だな。必ず伝えよう。それと、工具を扱っている店を教えてくれないか」
面倒臭そうに教えてくれた店は、目と鼻の先だった。
ダドリーの店を立ち去り、小さな工具店に足を運ぶ。そして店主にダドリーの名を告げると、「偏屈な爺だったろ?」と苦笑で出迎えてくれた。
そんな店主と相談しながら工具を吟味し、店を出た頃には冷えた空気が町に漂っていた。
薄暗い青空を見上げつつ、何とはなしにシルヴェックの町を歩き出す。
意外にも門衛は親切で、良い店も見つかった。
雑貨を手広く扱っているし、素材やポーションを買い取ってくれるのは本当に助かる。
シルヴェックやファスデンが利用しづらいと、セレン南方のジューテル砦まで行かなければならなかった。さすがにそれは億劫だ。
とにかく、これで旅の目的はすべて達成した。
後は迷宮へ帰るだけだが――。
そう思って通りを見渡すと、冒険者が娼婦に引かれ、店に入るのが目に止まった。
客を持っていかれた他の娼婦は、別の獲物を求めて通りを物色している。この辺りは大通りから外れているため、通行人が少ない。彼女たちも大変そうだ。
暢気に眺めていた所為か、獣人の少年にすら狙いを定めてきたので、俺は早々にその場から立ち去った。
これもシルヴェックの姿だ。
この町にいる娼婦の少なからずは奴隷だと思う。一人や二人、まともな人間と出会っただけで決めつけるのは早計かもしれない。
フィルと約束した日まで今日を入れて三日。日数に余裕はある。
門衛の言葉を思い返しつつ、それとなく首筋に手を当てた。
もう少し、この町を体験してみるか。
◇◇◇◇
選んだ宿屋はそれなりに立派で、大通りからさほど離れていない場所にあった。
門衛は安宿を止めろと言っていたが、どの町でもスラムの治安が悪いのは当たり前である。それでは参考にならない。
扉を開けると、外まで聞こえていた笑い声がぴたりと止んだ。
一階の酒場にいるのは、カウンターの店主とテーブルを囲む三人の男。
常連客の邪魔をしたようだが、それ以上に獣人というのが興味を引いたらしい。俺は男たちの視線を浴びながら、カウンターに近付いた。
「宿を頼む」
「一人か?」
頷く俺に、店主は片眉をわずかに上げる。
「個室は埋まってる。大部屋なら大銅貨三枚、食事は別料金だ」
「それで良い」
「廊下の突き当たりだ」
俺から代金を受け取ると、店主は親指を二階に向けた。
付きまとう視線を流しつつ二階の大部屋に入り――思わず目を見張る。
「シルヴェックの住民ってのは、部屋に押し込む習性でもあるのか?」
多少広めの空間には二段ベッドが六つも並び、どうにか歩ける程度の隙間しかなかった。
呆れながらもベッドを見やると、汚れたシーツとぺらぺらの毛皮が一枚置かれているだけだった。シーツの下には取り換えたのはいつなのか、黒ずんだ藁らしき物体が敷き詰められている。絶対、虫が沸いてるな。
それなりの宿でも、大部屋だとこの有様か。
今までの生活で安い部屋に泊まった経験はなかったが、なかなかに強烈である。
「まあ、雨の心配だけはしないで済むか」
他に客がいなかったので、遠慮なく木窓を全開にした。
そして《火口》と《軽風》を『多重詠唱』で発動し、火事に注意しながら熱風でベッドの藁を殺菌する。そこでようやくベッドに腰掛け、俺は荷物を降ろした。
バックパックを広げ、錬金器具と《物品護持》のスクロールを取り出す。
ダドリーの好意には感謝しかないが――。
その横にエサルドの研究資料を横に並べる。
どちらが大事かと言えば、迷いようがなかった。羊皮紙は傷みにくいが、絶対ではない。
しばらく悩み、《物品護持》のスクロールと錬金器具をバックパックに戻した。
まあ、今すぐ決める必要はないだろう。出発まで時間はある。
思考を切り替え、俺は研究資料に視線を落とした。
窓から差し込む陽光を頼りに、ラッケンデールのメモ書きを読み始める。
以前、原本に目を通したとき、俺の『調合』はランク6か7だった。
エサルドに及ばずとも、読み解くのは難しくない。事実、一読してエサルドが何をしようとしていたか理解できた。
とはいえ、理解するのと問題点を洗い出すのは別の話である。
ざっと目を通すかぎり、ラッケンデールもそこまでは分からないようだ。
俺に至っては、メモ書きの推測がどうしてそうなるのかもよく分からない。実力と経験の不足、それに加え、これらの素材を扱ったことがないからだろう。いくら『調合』スキルが高くても、文字から想像できるはずもない。
眉間に皺を寄せつつ読み返すうち、いつしか日は沈み、冷たい夜気が室内に流れ込んできた。
手を止め、窓から月を見上げる。
俺にはまだ、届かない。
素材が入手できたとしても、禁薬が精一杯だと思う。
沈む気持ちを振り払うように、俺は首を振る。
「いや、そうじゃない。できなくて当然だ。エサルドでも失敗している。焦らず、腰を据えて着実に進む。それが一番の近道だ」
自分に言い聞かせながら資料をバックパックにしまっていると、階下から馬鹿笑いが聞こえてきた。
そういや、夕食がまだだったな。
俺はバックパックを手に、大部屋を出た。
一階の酒場に下りていくと、いつの間にか店内は満席になっていた。
先ほどの三人組は飲み続けていたらしく、同じテーブルに陣取っている。他も似たり寄ったりの連中だが、少数ながら冒険者や行商人も混ざっていた。
席を探すと、運良くカウンターが空いていた。
そこへ座ると同時、店主がスープと干し肉、音が鳴りそうな硬いパンを運んでくる。
「夕食だ。そういやお前、冒険者か?」
「違う。旅の途中で立ち寄った」
俺の答えを聞き、店主は面白くもなさそうに頷いた。
その視線が一瞬、ついと動く。
相変わらずの馬鹿騒ぎ。
そんな騒々しさの中で、室内の一角だけが妙に静かだった。
俺は背中に刺さる視線を流し、スープに手を伸ばす。
『鑑定』の結果はどれも無害。薬は盛られていないようだ。
しかし、こうも簡単に引き当てるとはな。
俺は三人組の視線を浴びながら夕食を済ませ、さっさと酒場を後にした。
酒場は賑わっていたし、冒険者の中には懐具合が寂しそうな連中もいた。
それなのに、大部屋に宿泊するのは俺一人。
最初から売るつもりだったか。奴隷商が増えればクズも増える。この宿はそうした奴隷商と手を組んでいるのだろう。
バックパックを壁際に置き、その隣で襲撃を待った。
しかし、一向に近寄ってくる者はいなかった。
酒場の騒々しさも徐々に鎮まり、いつしか完全に消え去る。
聞こえてくるのは大通りのわずかな喧噪と、どこかで鳴いている虫の声のみ。
月明かりが窓枠を型取り、緩やかに室内を動いていく。
その様子を眺めているうち、気付けば集中力が途切れ――全身を駆け巡る悪寒で覚醒した。
瞬時に迅風のシミターを抜き払う。
首筋に当てられた刃に男は硬直し、解除した『風刃』が顔を打つ。
一瞬の出来事に、他の二人も動きを止めた。
「俺に用か?」
叩き付けられる殺気に、男は答えられないようだった。
他の二人もすっかり呑まれていたが、どうにか一人が口を開く。
「へ、部屋を間違えたんだ……」
「そうか。なら、出て行け」
シミターを鞘に収めると、三人組は転がるように大部屋を飛び出した。
そして店主の叫び声を背に、宿屋からも逃げていく。
再び静寂が戻り、俺は胸を撫で下ろす。
今のは、ちょっと危なかった……。
窓を見やれば、月はとうに過ぎ去っていた。
夕食から六時間以上は過ぎている。明け方前を狙ってきたか。手慣れた連中だ。
これだけ待たされたら集中力は続かないし、屋根のある部屋で休んだのはセレンを出立して以来だった。
仕方ない気もするが――油断は油断だな。
反省しつつ、先ほどの悪寒を思い浮かべる。
あれが『危機察知』か。『気配察知』より遥かに強い反応だった。
ようやく習得した『危機察知』だが、死にスキルになるのではと危惧していた。
俺の戦闘力や速度だと、道中の魔物程度ではまるで反応しなかった。深殿の森なら危険な魔物もいるはずだが、わざわざ危機に飛び込むのも馬鹿げている。だから成長させるのは難しいと考えていた。
だが、無防備なら町のチンピラでも発動すると分かった。本当の危機に比べたら経験値は少ないと思うが、少しはランクアップに貢献してくれるはずだ。
ベッドから起き上がり、窓へと歩み寄る。
町のシルエットと重なるように、月がゆっくり動いていた。
夜明けが近い。
冷たい夜風を受けながら、寝静まったシルヴェックを見渡す。
獣人の一人旅とはいえ、普通の宿で襲われた。
運の悪さだけではないだろう。門衛やダドリーはまともな人間だったが、さきほどのような連中も多いと思う。やはり人間の町は油断ならない。
迷宮を拠点にするなら、獣人の村との接触は不可欠か。
水平線をなぞるように視線を動かし、東南東へ向ける。
ファスデン子爵領、ラスマノ砦。
駐屯する兵士が守っているのは、ユネクが送られるはずだった場所だ。
ユネクを逃がした冒険者なら、村の所在を知っている可能性が高い。
万全を期すなら、一度帰還して体勢を立て直し、入念な準備をすべきだ。
だが、鉱山奴隷に時間はない。
過酷な労働や事故により、早ければ数週間、長くとも一、二ヶ月で死ぬと言われている。ユネクが逃げてから、すでに一ヶ月は過ぎている。冒険者が生きていても、さほど時間は残されていないはずだ。
「わずかだが、日数は残っている……」
トルプス岩塩坑――行ってみるか。