第157話 出立の準備
投稿を再開します。
今回は全7話、60000文字ほどで、問題が起きないかぎり一週間の連続投稿となります。
また感想やコメントの返信は投稿が終わり次第、順次させていただきます。
2023/03/10追記
157~163話までを修正しました。
文字数は77000文字になっています。
●前回のあらすじ
ランベルトと『破翔』の裏切りにより瀕死の重傷を負うも、メロックの導きと迷宮によりアルターは辛くも生き延びた。
そして三年振りに故郷の地を踏むが、リードヴァルトはバロマットの奇襲によって陥落、家族の死を目の当たりにする。
失意の中、庭師のノルトから裏切り者の存在を知ると、アルターは元従騎士ランズに報復する。
その直後、スィーカー率いる謎の部隊に襲撃を受けるも、『多重詠唱』を解禁することでそれを撃退。そして冒険者ギルドのヘリット支部長から元『破邪の戦斧』のオゼの死亡、『半身』のジャリドがバロマット軍にいたことを聞かされる。
家族とロラン、オゼを次々と失い、アルターはリードヴァルトへの帰属意識を完全に失ってしまう。またミューチュラーに変異した自分には、帝国に居場所がないと悟り、迷宮に戻ることを決断する。
父と母、兄を連れて迷宮に向かうアルター。
その道中、ハンターフィッチの変異種と再会し、エラス・ライノの子供を冒険者から助け出す。そして二体の魔物を加えて再び迷宮を訪れると、家族の安全と引き換えに協力を申し出る。
貴族として生を受け、すべてを失った。
そんな運命に抗うように家族の蘇生を決意し、迷宮の共生種として、アルターは新たな生を歩き出す。
額の濡れる感触に空を仰ぐと、朝靄の中、そよ風に弾かれた水滴が木漏れ日に揺れていた。
夜のうちに霧雨でも降ったのだろうか。
顔を湿らす小さな飛沫を拭いながら、視線を戻す。
迷宮へ戻ってから三日目の朝、俺はエラス・ライノに乗って深殿の森を散策していた。
変異種は定位置となった頭の上で警戒し、俺も『気配察知』で周囲の索敵を続けているが、今のところ魔物の気配は感じ取れない。
聞こえてくるのは、葉を鳴らす水滴と微かな葉擦れのみ。
そんな穏やかな散策に、いつしか思考が逸れていく。
すぐにでもセレンへ向かいたい気持ちを抑え、この三日間を状況の整理に費やした。
俺を暗殺しようとしたランベルトや『破翔』、おそらくそれを主導し、リードヴァルトを陥落させたバロマット王国。彼らに対して思うことは数え切れないが、何より優先すべきは両親と兄の蘇生だった。
そのために何をすべきか。
まずはエサルド・サイジートの研究資料である。これがなくては何も始まらない。
ただ、エサルドほどの才人でもリスリアをアンデッド――レヴァナントに変えてしまった。俺の『調合』スキルは8。エサルドと同等か、それ以下だと思う。また俺は反復と成長チートの産物であり、錬金術師としての経験がエサルドより浅いのは確実だ。蘇生薬に挑戦するには、実力も情報も足りていない。
「きゅ」
小さな鳴き声に視線を動かすと、変異種が俺を見上げていた。
そして問いかけるように森の片隅へ顔を向ける。
よく知った気配。
「オークか。数は……四」
周囲の木漏れ日を眺め、体内時計と照らし合わせる。
迷宮を出発してから三十分ほど。思ったより早く遭遇したか。やはり魔物が濃い。
空白地を北に抜けると草原だが、東西と南はどこまでも森が広がっている。当然、空白地に侵入する魔物も多いはずだ。
何とはなしに胸へ手を伸ばす。
運が良かったかもしれない。暗殺の現場が東西にずれていたら、迷宮に辿り着く前に魔物に襲われていたと思う。たとえ魔法で撃退できたとしても、今度は魔力が足りたかどうか。
再び見上げてくる変異種に、俺は思考を打ち切った。
「狩ろう。強さを知りたいし、迷宮の土産になる」
変異種は尻尾を振って了承すると、子供の頭をぺしっと叩いた。
それだけで意思の疎通が取れたらしく、エラス・ライノの子供はオークのいる方角へ歩き始めた。
ほどなくしてオークもエラス・ライノの足音に気付き、こちらに向かってきた。
のそりと現れる見慣れた姿に、『鑑定』を走らせる。
まあ、強いといえば強いか。
レベルは13から16とセレンのオークより上で、筋力も16前後と平均より高い。体格を加味したら、筋力18くらいの威力があるだろう。
それより興味深いのは、『投擲:石礫』持ちのオークがいることだ。遠距離型のオークは初めてである。以前に遭遇したゴブリンも魔法を習得していたし、上位の魔物が多い分、彼らも必死らしい。
俺は迅風のシミターに手を掛け、エラス・ライノから降りようと腰を上げた。
それを遮るように、変異種が尻尾を振る。
「じゃあ任せようか。奥にいるのは石を投げるから、一応、注意してくれ」
変異種が頭の上から駆け下りると、俺は《礫土の盾》を発動させた。
いきなり出現した石の盾にエラス・ライノの子供は驚き、身を固くしたが、首元を撫でて落ち着かせる。投擲持ちでも、ランクは2だ。小柄な変異種より、的の大きいエラス・ライノを狙うに違いない。
悠然と歩み寄る変異種に、オークは嘲りの表情で棍棒を振り下ろした。
もちろん、当たるわけがない。
軽々と躱す変異種に、オークたちは必死に棍棒を振り回す。
しかし掠りもせず、しまいには空振りが仲間の顔面に直撃してしまう。少しはできるようになっても、所詮はオークだった。
それにしても、変異種にしては手間取っているな。さっきから回避ばかりで――あ、そうか。
「もう良いぞ。そいつらの強さはよく分かった」
変異種は短く鳴き――姿が消えた。
一拍置いて、重い音が立て続けに響く。
仲間があっさり絶命し、投擲オークは唖然としていたが、我に返るなり、捨てるように石を投げつけて一目散に逃げ出した。
雑な投擲がエラス・ライノに飛来し、《礫土の盾》で弾き返す。
そして宙を舞う石が落ちるより早く、投擲オークの首がずれた。
投擲オークは首を忘れたまま走り、大木に激突する。そこでようやく死んだと理解し、動きを止めた。
変異種が攻撃に転じてから十秒にも満たない出来事だった。
俺は労いの言葉を掛けると、斬撃強化のナイフをオークの鳩尾に差し入れた。
しかし、オーク四体を秒殺か。
以前も大概だったが、輪を掛けてとんでもない魔物に成長している。
のんびり毛繕いする変異種を横目に、そっと『鑑定』を発動させた。
名前 :-
種族 :ハンターフィッチ(変異種)
レベル :32
体力 :157/157
魔力 :209/209
筋力 :14
知力 :16
器用 :23
耐久 :12 (柔軟:16)
敏捷 :41+2(43) (最高速:64、加速:69、機動力:60)
魅力 :17+1(18)
【スキル】
爪牙(爪術8、体術5)
砕咬、爪撃、爪剣撃、乱裂爪、柔身、威圧
言語理解、追想追尾、白閃光華
氷結耐性1、雷撃耐性2、魔力耐性3、斬撃耐性1、打撃耐性2
柔軟強化4、最高速強化5、加速強化6、機動力強化4
追跡8、隠密7、気配察知8、危機察知3
【魔法】
なし
【称号】
白銀の狩人
これが変異種のステータスである。
『爪術』は中級の『爪牙』に到達し、新たに攻撃スキルや体制スキルを獲得していた。
しかも敏捷の強化スキルも向上し、平時でも俺の敏捷を遥かに凌駕している。一応、《脚力上昇》や魔道具を身につければ対抗できるが、『白閃光華』を発動されたら意味がなかった。それにあのときと違い、『白閃光華』を使いこなしているはずだ。どんなに粘っても自滅しないだろう。
ただ、それ以上に俺の目を引いたのは『追想追尾』である。
『追想追尾』
称号『白銀の狩人』の派生スキル。
指定した対象(生命体)の現在位置を捕捉する。
対象に詳しいほど精度は高まるが、情報が少なかったり、距離が離れると精度は低下。
また指定の対象が個体でない場合、捕捉できる距離は大幅に減少してしまう。
直接、戦闘には関係ないが、かなりのチートスキルだった。
対象を知ってさえいれば、どんなに遠方でも居場所が分かってしまう。俺の《座標点》よりも遥かに優秀だ。しかも最後の一文がとんでもない。
指定の対象が個体でない場合――とあるが、裏を返せば個体以外、人間や特定の植物でも指定できるという意味だ。道中で冒険者とやり合った後、変異種はセーロン草を次々に発見した。嗅覚が鋭敏なだけかと思ったが、あれは『追想追尾』だろう。
俺が『調合』や『鍛冶』に精を出している間、変異種は狩人としての牙を研ぎ続けていた。
三年前でも負けに等しい勝利だった。正直、今のこいつとは戦いたくない。
そんな視線を感じたのか、変異種は毛繕いを止め、赤い目を向けてきた。
俺は微笑で誤魔化して思考を打ち切ると、解体に集中した。
ほどなくして解体が終わる。
オークたちから得られたものは、魔石一つだけだった。しかも強かった割に、大きさや質はセレンのオークと変わらない。環境が強くしているだけで、魔物としては同格のようだ。
それでも迷宮の食事にはなるだろう。
少しでも軽くするため血抜きし、二体のオークをエラス・ライノの子供に背負ってもらった。三体でもいけそうだったが、移動速度が落ちそうなので止めておいた。
ちなみにエラス・ライノの子供は、レベル11で筋力27、耐久は『装甲』の補正を受けて22と意外に高く、草原の王と呼ばれるだけはあった。
ただ他は残念な能力で、『突進』などのスキルも習得していない。
この辺りは、まだまだ子供である。ゴブリンならともかく、複数のオークに囲まれたらひとたまりもないだろう。
まあ、獲物を運んでくれるだけでも充分な活躍だ。この子がいなければ、迷宮の食事を運ぶのにかなりの労力を使ったに違いない。
オークを蔦で固定し、散策を再開した。
いつの間にか朝靄は消え、森の清廉な空気だけが辺りを満たしている。
目の前の死骸から視線を逸らせば、相変わらず平和な光景だった。
それからは魔物と出会うことなく、背中で揺られているうち、またも思考は逸れていく。
エサルドの研究資料を、無事に入手できたとしよう。
問題はその後だ。
これから何年、下手したら何十年もの間、迷宮で蘇生薬の研究と『調合』スキルの鍛錬を繰り返すことになる。
今現在、明確に敵対しているのはバロマット王国とケーテン子爵だ。他の貴族がどこまでバロマットに取り込まれているか分からないが、それほど多くはないだろう。手を伸ばせば伸ばすほど、発覚する危険も増していく。おそらく要所、そうでなければ影響力の大きい相手を狙うはず。
となると、ヴィールア公の公爵派は危ないか。アルシス帝国を滅ぼすつもりなら、皇帝の敵は一時的でも味方になり得る。
そこで何気なく、振り返る。
大樹が濃い影を落とし、その隙間を縫うように細い木々が捩れながら生い茂っていた。
俺は目を細め、見透かすように一望する。
だが、バロマットの侵食はさほど重要ではない。
俺が身を寄せているのは迷宮、あらゆる生き物の脅威だ。
当然、帝国にとっても潜在的な敵である。
俺が人間なら他の選択もあったと思うが、今はミューチュラーなどという希少種に変異している。迷宮以外、頼る相手はいない。
状況がはっきりするまで、アルシス帝国は仮想敵国と考えるべきだ。
北方は敵だとしたら――。
俺は視線を戻し、周囲を見渡した。
以前に遭遇したゴブリンは魔法を操り、先ほどのオークは戦い方を工夫していた。
明らかにレクノドの森よりも魔物が強い。
そんな森に獣人たちが村を作るとは思えないが、事実なら相当な戦力を抱えているはずだ。
しかし、どんなに探索しても生活の痕跡は見当たらなかった。
マーカントたちも噂を聞いただけだし、始めからガセか、すでに壊滅した可能性も否定しきれない。それならそれで構わないが、ある日突然、獣人の集団に襲撃されるのだけは避けたかった。獣人にとっても、迷宮は恐るべき存在のはずだ。
もし先手を打たれたら、全方位を敵に囲まれてしまう。
迷宮包囲網の完成だ。
それに帝国の町を避けるなら、獣人の村は何かと都合が良い。
村と呼ぶからには簡素な日用品くらい自作しているだろうし、深殿の森の情報も持っていると思う。錬金器具や当座の物資は帝国で購入するにしても、その後も通い続けるのは考えものである。迷宮を拠点にする以上、どうにかして接触を図るべきだ。
そう考えて森の散策を続けたが、やはり人工物や人の痕跡は発見できなかった。
またげるほどの小川で小休止し、さらに南へ進む。
ほどなくして空白地の終わりが近付き、次第に魔物の気配が濃くなり始めた。
今はここまでにしておこう。
回復手段が一つもない状態で、無理をすべきではない。
「いずれにしても、こいつはどうにかしないとな」
エラス・ライノの足音が聞こえたらしく、強い気配がこちらに向かっていた。
変異種も気付き、また窺うように見上げてくる。
「あれも仕留めよう。ただ、危険を感じたら撤退する」
変異種は尻尾を振って了承すると、エラス・ライノの子供に静止を指示した。
しばらくして足音が大きくなり、木々の合間から一体の魔物が姿を現した。
まっすぐ向けていた視線をなぞるように上げていくと、その先にあったのはにやけ面だった。
大きな頭部に全身を覆う無骨な筋肉。
身長は三メートルに届き、エラス・ライノに乗った俺よりも高い。
警戒を強めながら『鑑定』を発動し――思わず頬を掻く。
「うん……強いか。オークよりはずっと」
魔物の正体は、初お目見えのオーガだった。
噂どおり筋力と耐久、体力に特化している。強力な魔物には違いないが、それだけとも言えた。スキルと魔法は空っぽで、生まれ持っての身体能力に胡坐をかいている。
「僕がやる」
変異種に告げると、《座標点》で右目を指定し、《穿風の飛箭》を『多重詠唱』で撃ち込む。
初弾は眼球、次弾が脳を破壊し、残りの風弾が頭部を突き抜けていく。
登場してから一分弱、オーガはにやけ顔のまま、呆気なく退場した。
「セレンのオークと変わらんな。元から強い所為で、緊張感がまるでない。まあ、近接だけで挑んだらもう少し苦戦するか。頭部の位置があんなに高いと、致命傷を負わせるのも一苦労だ。それより、魔石はっと――」
早速、魔石を探したが見つからず、所持品も錆だらけの両手剣だけで無価値だった。
どうにも、今日は当たりが悪い。
一応、皮は良質な革鎧の素材だが、帝国南部にいるオーガは大抵、深殿の森をねぐらにしている。若い獣人が売りに来たら悪目立ちしそうだし、遠方の町まで運ぶのも重労働だ。
なら、迷宮の土産だな。
俺はオーク二体の代わりにオーガを載せると、進路を反転、迷宮へ帰還することにした。
◇◇◇◇
定位置に座る変異種に警戒を任せ、俺はポーションの素材を探しつつ徒歩で森を進んだ。
ポーション作りには錬金溶液――ソグリオの実とラニム草が必須である。
だが、どちらも発見できず、代わりにセーロン草がやたらと見つかった。
それもこれも、変異種が協力した結果である。
セーロン草を採取がてら、使用方法や採取方法、群生地は採りすぎて潰さないように注意していると話したところ、一瞬で姿を消し、口で銜えて差し出してきた。その後も『追想追尾』で次々と発見し、俺の収穫をあっさり越えてしまった。本当にチートだと思う。
袋が満杯になったところで礼を言い、採取を打ち切った。
これだけセーロン草が生えているなら、ヒーリングポーションに困ることはないだろう。
後は肝心の錬金溶液だ。どちらも珍しい植物ではないので、本格的に探せばすぐに発見できると思うが、運が悪ければ手間取ってしまう。
錬金溶液が調合できなければ、何も始まらない。頼ってばかりで申し訳ないが、現物でどこかで購入し、『追想追尾』で探してもらった方が良さそうだ。
その後も錬金溶液の素材は見つからず、真昼頃に迷宮へ到着した。
朝から全員で出かけた所為か、迷宮は不安を感じていたらしい。俺たちが近付くにつれ、帰還を喜ぶ意思が強くなった。
「土産を持ってきたぞ」
俺は《筋力上昇》を発動し、オーガをエラス・ライノの背から降ろした。
そして巨体を迷宮の中へ押し込むと、すべて入りきる前に無数のスパイクがオーガの身体を貫いた。
慌てて離れ、岩肌に沈んでいくオーガを観察する。
改めて見ると不思議な光景だ。岩肌に目立った変化はないのに、まるで泥沼である。
迷宮種というのは、つくづく不思議な魔物だった。
感情しか伝達できないので手こずったが、いくつかの質疑応答で、朧気ながらもどういう存在が掴めてきた。
まず、この横穴は迷宮種ではない。
迷宮種とは地中に生息する魔物で、周囲の物体を支配して制御下に置くことができる。だからどんなに横穴を攻撃しても、迷宮種にダメージは入らない。見えている部分はすべて鎧である。
そして成長するに従って支配の力は増大し、鎧も強固になっていく。
これが迷宮の拡大という現象だった。
オーガが沈みきるのを見守ると、エラス・ライノの子供にもセーロン草を振る舞った。
熱心に頬張る子供を労いの言葉と共に一撫でし、俺は迷宮へと入った。
踏み込んだ途端、ひんやりとした空気が全身を包む。
それは進むにつれて増していき、最奥は『氷結耐性』でも寒さを感じるほどだった。
今朝、発動した《氷霜》の影響が今も残っている。
本来の《氷霜》は、すぐに効果が霧散してしまう。いくら地中の温度が変化しにくくても、さすがに長すぎた。迷宮の支配は空間にも及んでいるのだろうか。
白い息を吐きながら、《光源》を動かして周りを見渡す。
以前はただの行き止まりだったが、今はちょっとした空間になっていた。
質疑応答で気付いたことがある。
支配が鎧なら、加工できるのではないかと。
通常、支配された岩肌に魔力はほとんど浸透しないが、試しに支配を緩めてもらうと、簡単に魔力を通すことができた。
俺は迷宮の許可を取り最奥を拡大、さらに家族を寝かせる箱形の寝台を《妨土の壁》で作成し、横穴の最奥に設置させてもらった。
そんな寝台の前に跪いて家族に帰還を報告すると、断りを入れながら蓋の隅に手を添えた。
迷宮が支配を緩めるのを見計らい、土魔法で一部を削り取る。そして内部に手を差し込み、氷を掻き分けて二重底の底面に触れてみた。
乾燥している。戻した指先を眺めてみても、濡れた形跡はどこにもない。最後に冷却したのは二日前だが、まるで発動した直後のようだった。これなら、しばらく留守にしても大丈夫だろう。
念のため《氷霜》を掛け直し、削った部分と蓋を触媒に《妨土の壁》で密閉した。
ひとまず安堵して、改めて最奥を眺める。
欲を言えばもっと広くしたいが、あまり無理はできなかった。
横穴は迷宮の鎧、しかもかなり貧弱だから、内部の空間を広がるほど本体への危険度も増してしまう。一応、支配外に拡大する分には問題ないが、いくら《妨土の壁》が強固でも迷宮の支配とは比べものにならない。崩落しても困るし、どうしても手狭に感じたら外に建築するとしよう。
そんなことを考えていたからか、迷宮から観察するような意思を感じ取った。
何でもないとばかりに岩肌をぽんと叩き、ふと思う。
こうして気楽に接することができるのも、安全が保証されているからだろう。
質疑応答によると、俺が死ぬまでスキルは回収できないらしい。付け替えできたら便利だったのだが、それを知ったとき、同時に安堵もした。
俺の体内には迷宮が植え付けたスキルが宿っている。
しかも迷宮は回復魔法やスキルを使えないので、心臓の穴は迷宮の一部で塞いだらしい。
それが何を意味するか、考えるまでもない。
もし与えた力も引き剥がせるなら、迷宮はいつでも俺を殺すことができる。
支配を撥ね除けても、結局は言いなりになるしかなかった。
それと、スキル付与には重大な落とし穴がある気がした。
ミューチュラーは共生種と呼ばれているが、その本質は一方的な搾取だ。俺が協力を申し出たから迷宮にも利益のある共生、いわゆる相利共生の関係になっている。
そしてスキル付与は、気軽に行える行為ではない。臓器提供は言い過ぎだが、それに近いと言えよう。
だからそれなりに経験を積んだ迷宮種は、支配に失敗したと分かった瞬間、即座に力を取り戻そうとするはずだ。もし迷宮の外に逃げられたら、永遠に力を失ってしまう。
では、殺す手段を持たない迷宮はどうやって回収すれば良いのか。
推測だが、スキルや迷宮の一部を与え続けると思う。
迷宮種の力は付与された者に同化しない。そんな異物、それも意思を持つ異物が増え続ければ、いずれは支配されて守護者になるか、最悪、迷宮に取り込まれるに違いない。
この迷宮は、その判断ができないほど幼かった。
利害が一致しているので、今更、支配を試みたり取り込もうとはしないだろう。迷宮にとって重要なのは自身の安全と食料の調達だ。そのための守護者である。
どうあれ、安易にスキルは要求しない方が良い。迷宮にその気がなくとも、欲を掻いた所為で身を滅ぼしかねない。
再び考え込む俺に、今度は窺うような感覚が伝わってきた。
その様子に親を見上げる幼児を連想し、苦笑が浮かぶ。
本当に綱渡りだった。
俺には小太りに与えられたチートがある。赤子同然の迷宮でなければ、最悪の守護者になっていたと思う。下手したら数十年、数百年後には、セーネム大迷宮のように近隣諸国を震え上がらせていたかもしれないが、まあ、可能性を憂いても意味がないな。
今は互いに助けが必要――それで充分だ。
「さて、そろそろ出発しようか」
そう呟くと同時、変異種が寝所に入ってきた。
最初の頃は迷宮に入りたがらなかったが、三日もすれば慣れてくる。
だから驚きはしなかったものの、俺を見る目に不服を感じ取り、思わず首を傾げた。
そうか、決定が不服なんだな。
俺は変異種に向き直り、諭すように切り出す。
「エラス・ライノを連れて行くのは無理だ。目立ちすぎる。迷宮の近くでも何が起きるか分からないから、お前が守ってくれ」
改めて頼み込むと、変異種は不承不承、承諾するように尻尾を振った。
「遅くとも一週間で戻る。予定を越えるようなら中断して帰還するから――」
今度は変異種が首を傾げ、俺は言葉を切った。
一週間は長すぎるか? 確かに往復するだけならそれほど掛からないが、資料の回収に手間取るかもしれない。いや、それも妙だ。変異種がセレンの場所を知っているとは思えない。『追想追尾』で知っていたとしても、道中の状態までは――あ、もしかして意味が分からない?
確認したところ、正解だった。
少し驚いたな。『言語理解』でも一週間が分からないのか。
まあ、考えてみれば当然な気もする。動物系の魔物の大半が言語を用いない。おそらく変異種は、ハンターフィッチ固有の思考や意思伝達に『言語理解』を落とし込んでいる。情報は虫食いだらけで、数字も知らないから一週間と言われても、具体的な数量が想像できないのだろう。
だとしたら、文字も読めないのか。
試しに俺のステータスを開示したところ、変異種は飛び上がってしまった。
そして振り切ろうとして、寝所を駆け回る。
やはり自分のステータスを開いたことがないか。
開示を止め、俺は変異種を宥めつつ説明した。
どうにか納得してくれたが、今度は自分のステータスが開けず困った顔で首を傾げていた。
本来なら変異種も開けると思う。種ごとに可否を決めていたら、いくら創造神でも大変だ。表示できないのは文字を知らないからだろう。
何度も試しては見上げてくる変異種に、なぜ開けないのか簡潔に伝えた。
そして戻ってきたら文字を教えると約束し、小石を変異種の前に並べた。
それを数えながら、一つずつ動かしていく。
「これで七。日にちに当て嵌めると一週間だ。朝になったら小石を動かし、七つの頃に帰ってくる。今から出発だから、まずは一つ移動だな」
今度は問題なく理解できたらしい。
変異種は楽しげに尻尾を振り、動かした小石を突っついていた。
不完全でも言葉を理解し、知能も高い。覚えるのは早そうだ。
俺は変異種を眺めつつ、寝台へ視線を向ける。
氷もほとんど溶けず、冷気も維持していた。
迷宮が空間ごと支配してくれるなら、一週間くらい問題ないはずだ。
とはいえ、今後は長期間、留守にする事態も起こり得るだろう。冷却の魔道具を作成するか、どこかで手に入れるべきか。
何にしても、家族を冷却しておきたいのは気持ちだけの問題ではない。
蘇生薬は神聖属性だと思うが、エサルドが吸血鬼プロストの魔石も触媒にしたのであれば、死霊属性、または両属性の可能性がある。
そこで厄介なのが、死霊魔法の特徴だ。
死者に干渉する魔法の多くは触媒となる遺体が必要で、劣化が酷いと不発に終わってしまう。見えない屋敷のとき、魔法ギルドがエサルドの遺体から情報を引き出さなかったのは、死霊魔法が忌避されるだけでなく白骨化していたためだ。
もし蘇生薬を完成させても、家族の身体が万全でなければ失敗するかもしれない。
寝台から視線を外し、小石と奮闘する変異種へ向けた。
そして出発を告げようと口を開きかけ、ふと思いつく。
「そういえば名前がなかったな。良かったら名付けようか?」
何気ない提案だったが、変異種はぴたりと静止した。
そして意味を理解するなり、興奮気味に俺の周りを走り出す。
お前とか変異種では不便に感じただけなんだが――これほど喜ぶとは。
どうにか変異種を落ち着かせ、俺は一つ、咳払いする。
「実のところ、初めて会ったときから心の片隅に浮かんでいた。冒険者や狩人を恐怖に陥れた戦闘力、そしてその容姿。僕が知っているのは青い目だが、古き時代は赤い目で、多くの子供たちを恐怖に叩き落としたという。お前にこそ相応しい名だ。変異種よ、今日からノロ――」
俺の額に、爪がさくりと突き立った。
「痛ッ! 爪を立てるな! 分かった、分かったから離れろ!」
顔に張り付く変異種を必死に引き剥がす。
渾身の命名だったのに、なぜか全力で拒絶されてしまった。おかしい。どう見てもあれなのに。
内心で悪態をつきながら額の傷を手を伸ばしたとき、自分の口元がにやけていることに気付く。これが原因か。以前は表情を読めなかったはず。余計なところまで成長しやがって。
変異種は地面を前足でぺしぺしと叩き、別の名を催促してきた。
正直、あれ以外に何も考えていなかったが、言い出した手前、もう止められない。
どうにか絞り出すも次々に却下され、途中から思い浮かんだ名前を並べるだけになってしまう。もはや、命名でもなんでもなかった。
そんな苦行が十数分続き、唐突に変異種が反応する。
少し戻り、名前をつらつらと挙げると、その一つでまた反応した。
「フィル? 珍しくもない名前だが……お前が気に入ったなら文句はない。これでやっと出発でき――」
立ち上がろうとする俺の視界に、変異種ことフィルの尻尾が目に止まった。
くるりと輪を描き、先端を地面に向けている。
「それってまさか……迷宮にも?」
「きゅ」
「きゅじゃねえよ! まだ続ける気か!?」
しかし俺の反論はどこ吹く風で、変異種は尻尾で寝台を指し示し、再び地面に向けた。
こいつ、痛いところを突いてくるな。世話になっているのは事実だが。
「分かったよ。じゃあ迷宮種だから、ダンで――」
いきなり迷宮が揺れ、俺は転倒して頭を打った。
同時に押し寄せる拒絶の意思。
何なんだよ、お前ら。ちょっと贅沢だろ。第一、ダンのどこが気に入らないんだよ。なんか強そうで格好良いだろうが。
「なら、メイにしよう! 迷宮だし、もうすぐ五月だし!」
再び迷宮が揺れ、俺はまた転がった。
しかし拒絶の意思は伝わってこない。むしろ喜んでいる。
「気に入ったなら揺らすなよ。絶対、無駄に力を使ってるだろ」
ようやく名付けから解放され、外へ出た。
それを待っていたように、エラス・ライノの子供が近寄ってくる。
「一週間で戻る。水が飲みたかったら先ほどの小川に行くと良い。道中は変異種――じゃない、フィルに守ってもらえ」
出発の挨拶をすると、エラス・ライノの子供は顔を擦りつけてきた。
言葉は理解できなくとも、何か言っているのは分かるらしい。
大きな顔を撫でつつ視線を動かせば、背中がオークとオーガの血で汚れていた。
軽く流すくらいなら、さして時間も掛からないか。
《清水》を発動し、血を洗い流していく。
エラス・ライノの子供が気持ちよさそうに目を細めるのを、フィルは迷宮の入口に座り、じっと眺めていた。
明らかに何か言いたそうにしている。
それを視界から追いやると、せせらぎの首飾りを取り出し、フィルに向けて放り投げた。 口で器用に受け止め、首を傾げてくる。
「水を出せと念じてみろ。ステータスは無理でも、それなら使えるかもしれん」
フィルは不思議そうに首飾りを見つめていたが、言われたとおり集中を始めた。
その途端、首飾りから水が吹き出し、放り投げてしまう。
「起動したか。獣系の魔物で魔道具を使える奴は、そういないと思うぞ。大したものだ」
エラス・ライノの子供を洗い終えると、今度は迷宮の入口横に《妨土の壁》で小さな貯水池を拵えた。
フィルはすぐ理解し、その上で首飾りを発動させる。
エラス・ライノの子供は遠巻きに眺めていたが、喉が渇いていたのか、警戒しつつも水を飲み始めた。
小川まではそれなりに距離がある。フィルがいても突発的な事故は起こるはずだ。もし水が足りなくとも、通う回数が減らせれば危険も減少する。
「明日の今頃になれば、また使えるようになるからな。では、そろそろ――」
言いながら北へ目を向けようとしたとき、フィルが前足でぺしっと地面を叩いた。
尻尾の先はエラス・ライノの子供を指し示している。
ちッ、うまく誤魔化したと思ったのに。
「もう時間がない! そいつは後回し、棚上げ、保留! じゃ、行ってくる!」
有無も言わせず捲し立て、俺はそそくさと出発した。
フィルの冷たい視線を背に受けつつ、森に入っていく。
そして見えなくなった頃、何とはなしに遠くの気配に意識を向けた。
こんな風なやり取りをしたのは、いつ以来だろうか。
気持ちが軽くなるのを感じつつも、俺は気を引き締める。
まだ、何も始まっていない。
まずは研究資料の入手、そしてできれば、十年以内に蘇生薬を完成させたい。
兄は激戦だったが、父と母はほぼ即死だった。殺されたことに気付いていないと思う。
目覚めるまでの期間が短ければ短いほど、周囲との乖離が少なくなる。蘇生したという事実も、さほど重く受け止めないはずだ。
それでも責められたら……。
俺は静かに首を振る。
今はよそう。すべての決断は、蘇生薬を完成させてからだ。
●現在のステータス
up、newは、「第133話 学院三年目 ~同種殺し」との比較
名前 :アルター・レス・リードヴァルト
種族 :ミューチュラー
レベル :33 (2up)
体力 :201/201 (36up)
魔力 :425/425 (29up)
筋力 :15 (1up)
知力 :17
器用 :18
耐久 :16+2(18) (2up)
敏捷 :21+2(23) (46:倍加) (1up)
魅力 :16
【スキル】
強撃、二連撃、風牙走咬、獣化(new)
成長力増強、成長値強化、ステータス偽装、言語習熟、高速移動、多重詠唱、魔道具改変、魔道具昇華
火耐性3、氷結耐性2、精神耐性10(2up)、苦痛耐性5(3up)、斬撃耐性1、刺突耐性2(new)、毒耐性2
鑑定6、調合8、鍛冶4、魔道具作成6、精霊交誼4(2up)
追跡6、隠密7(1up)、気配察知7、危機察知2(new)
片手剣8、両手剣3、曲剣4、短剣5、体術7、弓術4
火魔法7、水魔法6、風魔法6、土魔法6、無属性魔法4、氷結魔法3、雷撃魔法2、変性魔法6
【魔法】
●初級
火炎の短矢、鋭水の短矢、疾風の短矢、土塊の短矢、魔力の短矢、氷柱の短矢、雷衝の短矢
火塊の槌撃、水弾の槌撃、一塊の槌撃、氷塊の槌撃
水流の盾、旋風の盾、魔力の盾、礫土の盾
活火操作、水流操作、恒風操作、軟土操作、魔力操作
筋力上昇、脚力上昇、集中力上昇
力場、光源、灯明、暗視
溶液作成、氷霜、座標点
土霊召喚:メロック、火霊召喚:サルカー
●中級
火炎球、八紘炎火、景相石筍、穿風の飛箭
妨土の壁
【称号】
転生者、帰宅部のエース(耐久+2、敏捷+2)、リードヴァルト男爵家の次男




