第149話 プロローグ ~導き
失われていく生を押し止めるように、アルターは傷口を手で押さえた。
しかし、指の隙間から溢れ出す鮮血は止まらない。
ヴェロットは微笑を湛え、そんな足掻きを見下ろしていた。
ほどなくしてアルターが動かなくなると、ヴェロットは首筋と口元に手を当てる。
それをランベルトとフェリクス、『破翔』は無言で見つめていた。
霧雨の滴る音と草原を漂う風だけが流れる中、ヴェロットは一つ頷き、立ち上がる。
「仕事は完了です。皆様、お疲れ様でした」
それを受け、塗りたくった深緑が消えて襲撃者たちが露わとなる。
そして中央の男――クレイグが進み出た。
「疲れてなどいない。離れて追い回しただけだ」
「とんでもない、充分な活躍ですよ。存在を仄めかすだけで意義があります」
しかし、クレイグは不服そうに眉を寄せる。
「活躍させる気があるなら、策を変更するな。なんのために準備したと思ってる。この程度なら、俺が出張るまでもなかっただろう」
「それは謝罪します。ですが、あなたほどの手練れでなければ、アルター様は反って警戒を強めたでしょう。別に策があるのでは、とね」
そう言われても、クレイグの表情は変わらなかった。
ヴェロットはこれ以上は無駄と悟ったらしく、視線を動かす。
「ランベルト様もお見事です。アルター様は疑いもしませんでした」
「お前の助言に従い、普段どおりに振る舞ったまでだ。それより、あの者は仕込みではなかったのか?」
ランベルトが横たわるユネクへ顎を動かすと、ヴェロットは大仰に首を振った。
「いえいえ、とんでもない。私も驚きました。最初は罠を疑ったほどです」
「では――」
「すべて事実です。どう対処するか悩みましたが、最善の結果となりましたね。ユネクさんにも大変感謝しております」
動かぬユネクに、ヴェロットは一礼した。
当初、ランベルトが人質になってアルターを封じる計画だった。
アルターは命が危険に晒されても友人を見捨てない。
その確信を元に準備を進めていたが、ヴェロットは懸念を拭えなかった。
それは、ランベルトという少年の強さである。
戦闘力はまだしも、胆力が群を抜いている。自分の所為で友人が命の危険に晒されているのに、おとなしく捕まっているのは奇妙だった。
流れを誘導する自信はあっても絶対ではない。
そして万が一、ランベルトの裏切りが発覚したらアルターは逃走してしまう。
そうなれば、クレイグたちでも追いつけるか分からなかった。
下手したら各個撃破される怖れすらある。
だがユネクが人質なら、何の問題もない。
虐げられた無力な少年。
アルターなら必ず同情し、ランベルトより強固な枷となるのは間違いなかった。
たとえ裏切りが発覚しても、どうにかしてユネクを助けようとするだろう。
そう判断し、ヴェロットはクレイグたちが調べた情報を元に策を練り直した。
枷がさらに強固になるよう仕向け、アルターの思いを代弁し、決断も誘導した。
アルターは冷徹であろうと務めていたが、根本は善良な少年である。
目論みどおり、ランベルトの護衛とユネクの保護で板挟みとなり、状況を見極める余裕を失った。
もしユネクのような少年を仕込んでいても、これほどうまく運ばなかっただろう。
作為には、どうしても綻びが生じる。
偶然の出会いに、ヴェロットは心から感謝していた。
「ヴェロットさん、もう良いか?」
話が終わるのを待っていたらしく、バルナーが口を開く。
「ああ、そうでしたね。お待たせしました。明確に身分を示すもの――紋章の指輪や冒険者証、手紙などはこちらで処分しますが、他はご自由に」
ヴェロットが手の平で指し示すと、バルナーは嬉しげにアルターへ近付いた。
そして真っ先に、肩から提げた鞄を奪う。
「これが魔法の鞄か……」
感極まった様子のバルナーを見て、ランベルトは不快そうに顔をしかめた。
それに気付きもせず、バルナーは仲間たちへ声を掛ける。
「手伝ってくれ。装備を剥ぐ」
呼びかけられても、セキエスは無言だった。
アンベルは動こうとしないセキエスに困惑していたが、バルナーに催促され、遠慮がちながらもアルターの下へ向かう。
バルナーに懐を探られ、アンベルに青藍のマントを外されていく。
そんな友人の姿を見つめながら、ランベルトはセキエスの隣に立った。
「いつからだ。いつから計画していた?」
「……二年前です」
セキエスはぼそりと呟き、言葉を継ぐ。
「狙う相手を伝えられたのは今朝ですが、薄々は勘付いていました」
絞り出すように答えるセキエスに、ランベルトは苦いものが込み上げるのを感じた。
友人を裏切った自分より、ずっと辛そうに顔を歪めている。
セキエスという男は、善人だった。
だからヴェロットに選ばれ、ぎりぎりまで暗殺対象を伏せられていた。
(俺の方が、よほど悪人か)
そんなことを考えながら、ランベルトはこれまでを思い返す。
彼の下に父からの手紙が届いたのは、年が明けてからほどなくである。
そこに書かれていたのは、アルターの暗殺命令だった。
理由は明かされず、ヴェロットという男に会えとだけ添えられていた。
これまでの人生で父の命令を受けたことはあっても、領主としての指示は初めてである。
だが、ランベルトは喜べなかった。
何度も手紙を読み返し、数日間悩み続け、一つの決断を下す。
演武会ですべてをぶつける。
殺すつもりで挑み、好勝負ができれば、改めて決闘を申し込む。
これなら父の命令を背かない。
返り討ちに遭っても、自分の実力が足りなかっただけである。
そう考えて挑んだ演武会は、惨敗だった。
全力を出しても、どれほど無茶をしても届かない。
最後までアルターには模擬戦でしかなく、ランベルトの本気も理解しなかった。
控え室で目覚めたとき、愚かだったと痛感した。
好勝負なんてできるはずがない。実力があまりにも掛け離れている。
そして理由はどうあれ、暗殺を選んだ父が正しいと気付かされた。
「なんだ、この剣!?」
突然の声に思考を中断し、ランベルトは視線を向ける。
その視界に飛び込んできたのは、ラタル輝鉱の鮮烈な輝きだった。
バルナーが握る剣に魅入られていると、突然、ヴェロットが哄笑する。
皆の視線が集まっていると気付き、ヴェロットはどうにか笑いを抑え、口を開く。
「失礼しました。バルナーさん、それは天儀の法剣ですよ」
そう言われても、バルナーは首を傾げた。
ヴェロットは並べられた武器を吟味し、凡庸な拵えの一振りを指し示す。
「その剣がノスヴァールですね。どちらもクラウスの愛剣です」
「待て、クラウスだと?」
クレイグが反応し、同時に絶句する。
その様子に、ヴェロットはどこか誇らしげだった。
「間違いありません。あの騎士様は有名でしたから」
「では、傭兵団を壊滅させ、ジャリドとやり合ったというのは……」
「アルター様のようですね。最後の最後まで、本当に驚かせてくれますよ」
二人の会話に、『破翔』はしばし呆然としていた。
冒険者ギルドでも、サイグス傭兵団の壊滅は話題になっていた。
そして傭兵団には、『半身』のジャリドが同行していたという噂も。
言葉が浸透するにつれ、『破翔』の表情は硬直していく。
そんな中、ランベルトは事情が飲み込めず、目でフェリクスに問いかけた。
しかし首を振るのを見て、視線をセキエスに向ける。
セキエスは紛争から始まる傭兵団の壊滅、Aランクのジャリドについて説明する。
話が進むうち、ランベルトとフェリクスの表情も強張っていった。
「Aランクと……戦った? アルターが?」
「それは分かりません。ですが、傭兵団を小柄な冒険者が追っていったというのは確かな情報です。その後、傭兵団が壊滅したのも」
クラウスが戦死したラプゼルの町まで行き、譲り受けた可能性もある。
だが、愛剣を託すほどの関係だったとは思えないし、ヴェロットの発言からもそれは窺えなかった。
もし推測が事実なら、アルターは『半身』のジャリドと戦った後、平然と演武会の模擬戦に参加していたということになる。
皆が言葉を失う中、ヴェロットは感情のない目をクレイグに向ける。
「理解していただけましたか。私たちが相手にしていたのは、十三歳にして歴戦のAランクと戦えるほどの怪物だったんです。万全に万全を期しても、まだ足りません。良策があるなら、策の変更など些末なこと。ところで――指示に従わなかったようですね」
唐突に指摘され、クレイグは首を捻った。
「以前、アルター様に目撃されたとか」
「あれか。学院を調査中に遭遇したが、すぐ気付いて振り切った。あの程度で――」
「見抜かれるんですよ。現にあなたが姿を現した途端、同一人物と断言なされていました。アルター様は卓越した剣士であり魔法使い、そして優秀な斥候です。ただ、接触を禁止した理由は別にあります」
言葉を切ると、ヴェロットはアルターを見下ろす。
「推測の域を出ませんが、アルター様は鑑定系のスキル持ちです」
その発言にクレイグだけでなく、ランベルトとフェリクスも驚いた。
言われてみれば、二人には心当たりがある。
アルターの指導は常に的確で、質問は再確認のようだった。それ以外の行動も鑑定持ちなら納得できることばかりである。
だが、それを知らないクレイグは驚きながらも反論する。
「確証はあるのか? 慧眼の指輪は弾かれたんだろう」
二年生の合同演習でアルターとエルフィミアが戦っていたとき、ヴェロットは慧眼の指輪で『基礎鑑定』を発動したが、完全に弾かれてしまった。
そのためヴェロットは準備に苦心し、その報告をクレイグも受けていた。
だが、ヴェロットは平然と首を振る。
「観察していれば自ずと分かります。何をするのも効率が良すぎるんですよ、アルター様は。そして些細な情報から、答えを導き出す知恵もお持ちです。あなたが鑑定されるのは、非常に困るんですよ。それと、勘違いしているようですね。今回の指揮権は私に与えられています。従わないのは隊長の――ひいては殿下のご命令に背くのと同義です」
「それは――!」
再び反論しかけ、クレイグは言葉に詰まった。
そして何度か口を開きかけ、最後は頭を下げる。
「軽率な行動だった。謝罪する」
「受け入れましょう。アルター様を甘く見ていたのは、私も同じです。かなり高く見積もったのですが……まさか、ジャリドと戦えるほどの強さとは。想像すらしませんでしたよ」
ヴェロットは苦笑すると、姿勢を正してランベルトに向き直る。
「ランベルト様、本当に大手柄でした。正面から戦うことになっていたら、私たちは全滅していたかもしれません。殿下にも確と報告させていただきます」
ヴェロットが深々と頭を下げてきても、ランベルトは表情を変えなかった。
それどころか、視線を動かしもしない。
『破翔』も同様だった。
彼らは一様に押し黙り、化け物を見るような目付きをアルターに向けていた。
それに肩をすくめると、ヴェロットは軽やかに手を叩く。
「そろそろ出発しましょうか」
「死体はどうする?」
言いながら、クレイグが顎でアルターを指し示す。
「放置しても問題ないでしょう。ファスデン近隣でアルター様の顔を知る者はおりませんし、所持品はすべて回収済みです。冒険者に発見されても身元が判明することはありません。尤も、骨すら残らないと思いますが――」
霧雨に煙る草原を、首無しダチョウ――カックルがこちらに向かって疾走していた。
血の臭いを嗅ぎ付けたらしい。
バルナーが慌てて荷物を魔法の鞄に放り込み、全員でその場から離れる。
遠くで振り返ると、カックルがアルターに食らいつくのが見えた。
ヴェロットはランベルトに別れの挨拶を述べ、『破翔』に向き直る。
「皆様もお疲れ様でした。とても名残惜しいですが、ここでお別れです。今後は行商人ヴェロットを、よろしくお願いいたします」
芝居がかった仕草でお辞儀し、ヴェロットは踵を返した。
クレイグも仲間を促して続こうとして――ぴたりと動きを止める。
後方を睨み付けるクレイグ。
骨を噛み砕いているのか、カックルの動きに合わせて固い音が響いていた。
立ち止まっていることに気付いてヴェロットが目線で問いかけるも、クレイグは答えなかった。
無言の時がしばらく流れ、クレイグはぼそりと呟く。
「なんでもない。もう、死にきる」
聞き取れなかったらしく、ヴェロットは後方を見やった。
そして不思議そうに首を傾げると、再び歩き出した。
北東に向かうヴェロットたちを見送り、彼らから離れるように、ランベルトとフェリクス、『破翔』はファスデンへ向かった。
ランベルトは霧雨に濡れながら、前だけを見据えている。
フェリクスはそんな主君をちらりと窺うも、何も言わずに視線を外した。
『破翔』は魔物を警戒してランベルトを中心に展開していたが、やはり無言だった。
ただ、彼らの思いはそれぞれのようだ。
セキエスは暗い表情で押し黙り、アンベルはそんなセキエスを気遣い、バルナーは魔法の鞄の中身を気にしてか、口元の緩みを抑えていた。
そんなバルナーを視界に捉え、ランベルトはわずかに眉根を寄せる。
後悔はしていない。悩み抜いての決断だった。
それでも、他に手立てはなかったかと考えてしまう。
ケーテンに戻ってからの指示であれば、父に問うことができた。説得することもできた。
そこまで考えると、ランベルトは自嘲した。
(愚策には愚息を、か)
父親の手紙には、直接手を下せと書かれていなかった。
しかし暗殺に加担する以上、そうなる可能性は充分に有り得る。もし失敗したら、リードヴァルトだけでなく侯爵派を敵に回すだろう。
そうなれば、切り捨てられる。
息子の私怨と訴え、幾ばくかの金銭と共に引き渡される。
そんな扱いの自分が説得したところで、父が耳を貸すとは思えなかった。
ランベルトは深呼吸して嘲りを吐き出すと、セキエスを見やる。
「ケーテンまで護衛を頼めるか」
「お任せください」
「もう一つ、頼みがある。甲犀の剣とスティレットを譲ってほしい」
「甲犀の剣?」
セキエスは首を傾げた。
バルナーは魔道具を取り上げられると思ったのか、警戒して鞄を引き寄せたが、それでもセキエスの指示を受け、不承不承、魔法の鞄から甲犀の剣を取り出した。
純白の剣身にバルナーはため息をつき、同時に拍子抜けもする。
「魔道具ではないようですが……?」
「分かっている。普通の名品だ。甲犀の剣は鋭利だが、扱いが難しい。冒険者には不向きだろう」
「ええ、まあ……」
甲犀の剣がいかに名品でも、今の『破翔』には不要だった。
手元には天儀の法剣とノスヴァール、ロシュマスを始めとしたアルターの生み出した魔法の剣がある。
「魔道具でないなら惜しくない。お譲りしよう」
「分かった」
セキエスに同意すると、バルナーは甲犀の剣とスティレットを差し出した。
それを捧げるように受け取り、ランベルトは二振りの剣を見下ろす。
使い込まれた柄や鞘の様子から、アルターにとって、どのような剣だったか容易に想像できた。
セキエスもまた、無言で二振りの剣を見つめていた。
◇◇◇◇
草原には、カックルの唸り声と幾度目かの破砕音が響いていた。
左腕ごと胴体に食らいつき、アルターを噛み千切ろうとするカックル。
その動きが突然、静止した。
巨大な口から大量の血を溢れさせ、カックルは緩やかに膝を付く。
そして辺りは静寂に包まれた。
草木から雨滴が滴り、森の葉擦れを風が運ぶ。
自然の息遣いだけが流れる中、不意にアルターの目蓋が開く。
《礫土の盾》を解除し、左腕を《土塊の短矢》で穴だらけとなった口中から引き抜いた。
そして呼吸しようとして――吐血する。
(息が……できない……)
混濁する意識でぼんやり思いながら、《恒風操作》を掛け直す。
アルターは、ほぼ死んでいた。
心臓をランベルトとヴェロットに破壊され、カックルによって肺や横隔膜、他の臓器も損傷している。それでも命を繋ぎ止めていたのは、《水流操作》と《恒風操作》の『多重詠唱』だった。
魔法で血液を循環させ、空気を送り込めば即座に死ぬことはない。
精緻な操作が可能な実力、そして『多重詠唱』の使い手だからこそ、アルターは命を繋ぎ止めていた。
そして鼓動と呼吸は、生命活動の象徴でもある。
どちらも機能していない人間は、間違いなく死んでいた。
今のアルターは血液が緩やかに流れ、細い管が肺の空気を入れ換えている。
心臓は脈打たず、呼吸で胸も上下しない。
ヴェロットは人体を熟知している所為で、アルターの生存を見落とした。
そして優れた斥候であるクレイグが欺かれたのは、命のしつこさだった。
死は全身の死ではない。
メルーガが死後も動いていたように、人間もすぐに活動を停止するわけではなかった。
ほぼ死んでいるアルターの気配は極限まで低下し、もはや揺らぎに等しい。
クレイグもまた、人の生き死にを知りすぎていた。
途切れ途切れの意識で、アルターはふらりと立ち上がった。
魔法で強引に延命しているが、魔力が枯渇すれば死に至る。
アルターは蒼白の顔を動かし、ふと、近くを見下ろした。
唯一の味方だった獣人の少年。
ヴェロットの思惑に気付かず、彼らの計画に巻き込んでしまった。
アルターはわずかに表情を曇らせ、ユネクを背負う。
(治してやる……。治療して……俺の身体も……治さないと……)
アルターは、意識のすべてを魔法の持続に費やしていた。
普段の判断力を失い、少年の冷たさにも気付かない。
そしてランベルトたちを避けたのか、それとも治療の素材を求めてか。
ふらりと歩き出した先は、深殿の森だった。
アルターは遅々とした足取りで進む。
魔物を警戒せず、治療の素材を探しもしない。
冷たい少年を背負うアルターもまた、着実に死へ近付いていた。
それからどれほど経ったのか。
朧気な意識が不意に揺らぎ、アルターは足を止める。
(また……勝手に……)
足下に現れたのは、土の小精霊メロックだった。
魔力の残量が命の残り時間なのに、憤りすら覚えず、アルターはぼんやりとその姿を見つめる。
すると、小さなアルマジロは一度だけ見上げ、てくてくと歩き出した。
そして少し進んだところで振り返る。
アルターが歩き出すと距離を取り、また振り返る。
何を求めているか、何を訴えているのか判断する余力もない。
メロックに導かれるまま、アルターは森の奥へと進んでいった。