第143話 帰路 ~小さな希望
テパ・タートルが戻るのを懸念し、俺たちはその場から離れた。
それと出発の前、子供には疲労回復と増血付随のポーションを飲ませている。
飢えは無理でも、疲労や失血なら対処可能だ。
二本消費してしまったが、目覚めてくれなければ話もできない。
暗い夕日を浴びながら、俺たちは街道を先へと進む。
そして少し草原に踏み込んだところに太めの木を見つけ、そこで野営することになった。
テパ・タートルを警戒しながら近付き、根元に荷物を降ろす。
皆が野営の準備をしている間、俺は木の根を避けつつ、地中に《妨土の壁》を発動させた。
石壁や根に阻まれるから、テパ・タートルも容易には近付けないはずだ。
それと『鑑定』する暇はなかったが、おそらく土魔法か類似のスキルを保有している。そうでなければ、あれほど早く地中を移動できないし、カックルを引きずり込むなんて芸当はできない。
石壁の設置が終わって戻ろうとしたとき、獣人の子供が視界に入った。
警戒のためか、俺たちの寝床から離したところに寝かされている。
厚い毛皮を掛けられているのに、線の細さが見て取れた。
中性的な容姿も相まって性別不明だったが、当たりを付けてからアンベルに確認したところ少年だった。
ひとまず一敗を維持し、心の中で安堵したのは、つい先ほどの話である。
そういえば、フレナス山地の向こうはどの辺りだろうか。
星明かりに浮かぶ暗い稜線を振り仰ぐ。
南東に向かっているとはいえ、だいぶ歩いてきた。
セレン領はもちろん、ヴェレーネ村も過ぎたと思う。
帰りに寄ると約束したのに、テスには悪いことをしたな。
出立前に手紙を書けば良かったか。
リードヴァルトに帰還したら詫びの手紙を送るとして、交易についても父に相談しないと。
利益を訴えれば、父と兄は賛成してくれると思うが……母上様は反対しそうだな。
まあ、心配する気持ちも分かる。
半月ほど前、帝国が平和でないのは嫌というほど実感した。
「アルター様、夕食の準備ができました」
セキエスに言われ、我に返る。
焚き火に向かい皆と並んで座ると、夕食を受け取った。
どうあれ、テッドたちの様子もみたいし、マーカントとヴァレリーにも会いたい。
交易は決定事項だ。
説得に手こずるようなら、母にステータスを開示するか。
ロランにも頼もう。騎士団長と比較すれば理解もしやすい。
戦闘がさっぱりのお嬢様育ちだし。
その後、夕食を済ませて早めの就寝となり、真夜中、俺はバルナーとヴェロットに起こされた。
見張りの順番が来たようだ。
時刻は午前二時から三時。寒さを除けば、一応、明け方の次に楽な順番である。
澄み切った草原の空に向かって伸びをすると、焚き火のそばでバルナーたちから報告を受けた。
「街道の向こう側を動物の群れが通過、遠方にカックルらしき姿も見かけましたが、どちらも接近してきませんでした」
「テパ・タートルも大丈夫そうだな。次の見張りは任せてくれ」
「よろしくお願いします」
二人は頭を下げると、不意にヴェロットが小声になる。
「それと――目を覚ましているようです」
ヴェロットの視線を追い、少年へ向けた。
焚き火に照らされる細い背中。
就寝前は仰向けだった。寝返りを打てるほど回復したらしい。
尖った耳がこちらを探るように動くのを確認し、俺は無言で頷いた。
二人は一礼し、毛布や毛皮に潜り込む。
俺は薪を焼べながら少し考え、魔法の鞄から小振りな鍋を引っ張り出した。
《清水》で水を注ぎ入れ、焚き火に掛ける。
さらに干した野菜と果物、少量の麦、残ったメルーガの切れ端と干し肉を細かく刻んで投入。
しばらく煮込んでから塩を振り入れ、味見した。
それなり――俺にしては上出来か。
鍋を焚き火から降ろして振り返ると、少年の耳が先ほどより激しく動いていた。
匂いに反応しているようだが――鼻ならともかく、耳まで動くのか。
獣人というのは面白いな。
ちなみに獣人の耳は頭頂部ではなく、人間と同じ位置に付いている。
種によって耳の形状や体毛の有無、体格が異なっていた。
判別しづらい者もいるが、大抵は顔付きで獣人と見抜ける。
前世でも、出身地域や民族に特徴があったのと同じだ。
雰囲気や特徴から、この少年は狼か犬の獣人だと思う。
調べてみれば、犬歯や爪も人間と違うはずだ。
ま、それはそれとして――冷める前に食べてもらうか。
「眠ったふりをしていても構わんが、そろそろ起きてくれないか」
声を掛けると、少年はびくりと反応した。
そっと身体を動かし、強張った視線を向けてくる。
「腹が減ってるだろう」
木の皿にスープをよそっていくと、少年の視線は皿へと移る。
それでも近付いてこなかったので、こちらから歩み寄って目の前に突き出した。
「これ……?」
「お前の食事だ。食べてくれるとありがたい。食材が無駄になってしまうからな。ああ、味は保証しないぞ」
皿を渡してスプーンも握らせる。
少年は縮こまりながら見上げてきたが、無言で食べるよう促すと、ようやく口に運んだ。
その途端、目を見開いて食べ始める。
時折、我に返って恐る恐る見上げてきたが、その度に食べるよう促した。
それを何度か繰り返しているうち、窺うような素振りもなくなる。
物足りなさそうだったのでお代わりさせ、その間に白湯を少年の前へ、俺は将軍茶を淹れた。
そしてほどよい苦味を楽しんでいると、満腹になったのか、白湯のコップで手を温めながら啜り始める。
そろそろ、本題に入るか。
「僕の名はアルター。お前は?」
「ユ、ユネクです」
縮こまりながらも、奴隷の少年――ユネクは答える。
まずは『鑑定』どおり、偽名は名乗らなかったか。
「では、ユネク。どうして草原に倒れていた?」
「あの……お腹が空いて、あと、足も痛くなって」
倒れた直後だな。質問のままの回答だ。
順を追って話すように言うと、ユネクは慌てて頷き、必死に思い出しながら語り出す。
やや支離滅裂な内容だったが、意外なこともなく、やはり逃亡奴隷だった。
移送中、同じ馬車に乗っていた獣人奴隷によって逃がされたらしい。
どこにいたのか、どこに向かっていたかは定かでない。獣人奴隷が何者かも不明だ。
子供の奴隷に同情したのか、別に理由があるのか。
ユネクは聞かなかったし、獣人奴隷も話さなかったそうだ。
ただ送り出されるとき、「南へ行け」と言われたらしい。
皆が寝静まった頃、獣人奴隷の合図で見張りを掻い潜り、野営地を抜け出した。
その後は南を目指して進んでいたが、気が付けば見知らぬ者――俺たちのそばで寝かされていたという。
俺は疑問点をいくつか質問した。
南のどこに行けと言われたのか、主人は誰か、何日間彷徨っていたか、特別な鍛錬を積んだか等々。
しかし、返答はどれも曖昧だった。
南と言われただけで、ユネクは方角を判断する手段も知らなかった。
また、買われたかどうかも分からず、眠くなったら寝ていたので日付の感覚もなく、鍛錬に至っては、言葉の意味を聞き返されてしまった。
新たに判明したのは、生まれついての奴隷であり、父親は不明、奴隷だった母親が何年か前に病死したことだけである。
「自分の能力について理解してるか?」
首を傾げてきたので、噛み砕いて聞き直す。
結果、ユネクは文字だけでなく数字も読めないと分かった。
ステータスは見えるが、何が書いてあるのかさっぱりらしい。
朝になれば、皆は開示するよう要求するはず。
今やっても同じか。
俺はステータスを開示するやり方を教えた。
と言っても、対象を指定して念じるだけだが。
それとステータスの開示は、自分の子供でもさせることは少ない。
何らかの数値が平均より高くとも、早々に頭打ちになることがほとんどだからだ。
最も大事な資質――成長限界は表示されないため、どんな子に育つかは未知数である。
実際、俺も父から見せろと言われたことがない。
ユネクが集中すると、ステータスが表示された。
すべての項目を『鑑定』と照らし合わせたが、同じ内容だった。
『ステータス偽装』は有り得るが、もっと平和なスキル構成にするだろう。
少なくとも『隠密』はない。
不安げに覗き見るユネクに、微笑で礼を述べる。
ユネクのステータスが消えたのを確認し、これまでの情報を反芻した。
広い草原で、逃亡奴隷と出会う。
確率は低そうだが、無いとも言い切れない。
ユネクがいたのは街道近く、広い草原でも人口密度が高い地域だ。
では、逃亡奴隷なのはどうか。
怪しいと言えば怪しいが、決定打に欠けると思った。
誰しも、何らかの事情を抱えている。
昨日、出会った『トリゴット』も、人生にドラマを抱えているはずだ。
詰まるところ、それが表出しているかの違いに過ぎない。
また、『勇武の戦士』がユネクを発見できなかったのも、さほど不自然ではない。
普通の逃亡者はどこかを目指すが、ユネクに目的地はなく南も分からなかった。
草原を闇雲に彷徨っただろうし、下手したら同じ場所を回っていたかもしれない。
しかも『隠密3』に加え、体重が軽いため痕跡は残りにくく、弱っていたので気配も薄い。
探す方にとって、不利な条件ばかりだ。
もちろん、すべて仕組まれた行動や発言かもしれないが、そうだとしたら意味不明だ。
何を隠し、どんな嘘をつくか。
ちぐはぐというより、滅茶苦茶である。
ふと見れば、ユネクはうつらうつらしていた。
腹がふくれた所為だろうか。
もう、新しい情報は得られそうもないな。
俺はユネクに寝るように指示する。
そして毛皮に潜り込むのを見届けると、焚き火に視線を戻した。
◇◇◇◇
再びユネクが寝た後、交代の時刻になりランベルトとフェリクスを起こす。
聞きだした話を伝えたところ、ランベルトは「皆の意見を聞いてみたい」と言い、それ以上は掘り下げなかった。
俺は見張りを任せて就寝、夜が明けた頃に目覚めた。
セキエスたちはすでに起床していた。
身支度したり、また伸びをしながら空模様を窺っている。
ユネクはまだ眠っているようだ。
俺も手早く身支度を済ませて焚き火の前に座ると、朝食を取りながら、昨日のやり取りを話していった。
すべて話し終えると、ランベルトが切り出す。
「疑問は多々あると思うが、重要なのは一点だけだ。これは罠か?」
ランベルトの問いかけに、皆は顔を見合わせた。
そして『破翔』の視線が自然に集まると、「では」とヴェロットが口を開く。
「可能性は低いと思われます。『ステータス偽装』の保有者だとしても、真っ先に隠さなければならないのは『隠密』。また昨日、アルター様が仰ったとおり仕掛けがお粗末です。スキルの高さも、だからこそ逃げられた、逃げ続けられたと考えられます。疑いを捨てるべきでありませんが、まず心配いらないでしょう」
「分かった、ご苦労。たとえ襲撃者の仲間であっても、アルターが確認した能力どおりなら撃退も容易だな。行き先の南とやらも関係ない。シルヴェックで引き渡し、お別れだ」
ランベルトの発言に、俺は考え込んでしまった。
このまま引き渡して良いのだろうか。
奴隷商に善悪を問うのは馬鹿げているが、少なくとも良心的ではない。
ただでさえ酷い扱いだったのに、逃亡したとなればどれほどの目に遭うか。
俺たちで保護したら――。
言いかけた言葉を、ぐっと飲み込む。
それはできない。
今は普通の旅ではなかった。
「僕たちに……引き渡す義理はない」
考え考え切り出すと、皆の視線が集まった。
俺は簡潔にユネクの現状を伝える。
「だから、逃がすという選択もありだと思う」
「なるほど。言いたいことは分かった。俺はどちらでも構わんぞ。シルヴェックは目の前だ。連れて行ったところで大した負担にならん。逃がすというのであれば――そうだな、食糧を提供したとしても、すぐに補充できる」
「ですが――生き残れるでしょうか?」
ヴェロットの問いかけに、俺は答えられなかった。
おそらく、不可能だ。
魔物に襲われるか、『勇武の戦士』に見つかって連れ戻されるか。
たとえ両方から逃げ延びても、野垂れ死ぬかもしれない。
どう転んでも、生き残れる可能性はわずかだ。
セレンが近ければ、対処のしようもあったんだが。
全力を走ったとしても、ユネクを抱えながらでは、どれほどの時間が掛かるか。
せめて目的地がはっきりしていれば良いのだが、南というだけでは……。
そこまで考え、ふと思い出す。
確かに言っていたが、さすがにそれは……。
深殿の森には獣人の村がある、そう言っていたのはマーカントだ。
確かに帝国領のほとんどが、南に向かうと深殿の森に到達する。
だが、マーカントたちでも発見できなかったし、森の全域に村があるはずもない。
南が深殿の森を指すともかぎらない。
これは考えにくいな。
いくらユネクでも、深殿の森を彷徨ったらすぐ殺されてしまう。
無言の俺にランベルトは何か言いかけたが、不意に口を閉ざして視線を動かす。
話し声に目覚めたのか、ユネクが目をこすっていた。
そして俺たちの視線を気付き、毛皮の上で縮こまる。
「おはようございます……」
「よく眠れたか?」
「は、はい! アルター様!」
消え入るような挨拶に笑いかけると、ユネクも笑顔で答える。
しかし、いきなり様付けか。
この子にとって、奴隷以外はそうなんだろうな。
「おはよう」
アンベルも挨拶しながら、ユネクに歩み寄った。
セキエスたちも立ち上がり、自己紹介や怪我の具合を尋ねると、それとなくステータスの開示を頼む。
顔にこそ出さなかったが、ユネクの才能、そして弱さに皆も驚いているようだ。
そんな雑談から離れ、ヴェロットが戻ってくる。
「本人に決めさせてはいかがでしょうか」
「良いだろう。自分自身の問題だ」
「承知いたしました」
ランベルトの許可を得ると、頃合いを見てヴェロットは問いかけた。
その途端、ユネクは激しく狼狽えてしまう。
ヴェロットは子供にも分かるように話していくが、ユネクが聞いているようには見えなかった。
しばらく待っても答えは聞けず、結局、ランベルトはシルヴェックへの移送を決めた。
◇◇◇◇
皆が野営地を引き払う間、俺は地中の石壁を触媒に土の壁に変えていく。
そして準備が整うと早々に出立し、ユネクを伴い、シルヴェックへ向かった。
街道を進んでいると、近くから咀嚼音が聞こえてきた。
羽織った毛皮を揺らしながら、ユネクが必死で干し肉に齧り付いている。
起きるのが遅かったので、歩きながらの朝食だった。
干し肉と少量の干し果物のみという侘しい食事だが、野営の朝は大抵、夕食の残りかあり合わせだ。侘しさなら俺たちも似たり寄ったりである。
それと、あまりにも服が寒々しいので毛皮を羽織らせ、足を怪我しても困るので靴代わりに厚手の布を巻いておいた。
乾物ばかりでは喉が渇くと思い、コップを取り出して《清水》で満たす。
それを差し出すと、ユネクは頭を下げてきた。
「あ、ありがとうございます!」
「慌てて飲まないようにな。身体を冷やすぞ」
俺の忠告に、ユネクは何度も頷いた。
出発時、ユネクは当然のように俺の背後に立った。
隊列としては問題ないのだが、明らかに主従の立ち位置である。
昨日の食事程度で懐かれるとは思えず疑問だったが、しばらく相手をしているうち、ふと思い至る。
獣人の性質だろうか。
正確にはユネクのような犬か狼、群れを好む種の性質である。
エルフ狩りがいるように、獣人狩りも少なくない。
エルフは魔力や容姿から、獣人が狙われるのは身体能力に加え、こうした性質が理由ではなかろうか。
毛皮から覗く鉄色と足枷の音を聞き、俺はうんざりした。
それからほどなく、街道の先から隊商がやってきた。
馬車の数は三台。なかなかの大所帯だ。
すでに数組の冒険者や隊商とすれ違っている。シルヴェックがもうすぐのようだ。
護衛は馬車に同乗しているらしく、先頭の御者台に武装した男が座っていた。
男は俺たちを見るなり、馬車を叩いて警告を発する。
警戒するのはこちらも同じだ。
セキエスの指示で街道から草原へ移動、馬車をやり過ごすことにした。
あの規模の隊商だと、いきなり数十人の武装集団が飛び出してきてもおかしくない。
まあ、そんなのは乗ってないんだが。
御者が一礼し、俺たちの前を通過していく。
最後列の馬車も通り過ぎると、『破翔』は警戒を解除した。
そして出発しようとしたとき、なぜかユネクだけ立ち尽くしていることに気付く。
視線の先は、馬車の荷台から今も警戒する冒険者たちだった。
一瞬、見覚えがあるのかと思ったが、ユネクの表情に恐れはなかった。
冒険者たちも『破翔』こそ警戒しているが、小さなユネクは見ていない。
獣人特有の何かが、異変を察知したのだろうか。
「どうした? 何が気になる」
「いえ……あの、冒険者の人がたくさんいるな、と思って……」
消え入るような声でユネクは答えた。
冒険者が――たくさん? ここにも五人いるんだが。
そういえば、『破翔』が自己紹介したとき、妙な反応だった気もする。
歩くよう促しながら問いかけた。
「冒険者に興味があるのか?」
「逃げろと言った獣人の方が、元冒険者だったので……。どんな人たちなのかと……」
「元冒険者の、獣人?」
真っ先に浮かんだのは、『深閑の剣』のダイラスだった。
人違いと思いつつも質問したところ、やはり別人だった。
特徴から、ユネクを逃がしたのは猫科の獣人のようだ。ダイラスは野牛の獣人なので、いくらユネクでも見間違わないだろう。
それに率いているのはピドシオスである。
万が一奴隷に落とされても、すぐ救出するはずだ。
安堵していると、ユネクは質問していないことまで語り出した。
獣人奴隷との時間は楽しかったらしく、干し肉を握りつつ、身振り手振りを交え出す。
俺は聞き役に徹し、時に相づちを打って自由に話をさせた。
「あとあと、獣人の神様についても教えてくれたんです! 昔、悪い神様と戦ったって!」
「悪神と戦った――獣神ゼベルか」
獣神ゼベルは神話時代、貪食の神アドゥドウと戦った獣人である。
獣人たちの間で圧倒的な人気を誇り、今も深く信仰されていた。
アドゥドウは『不滅の多頭竜』ハルーヴァとも死闘を繰り広げたと言われており、両者と並ぶ獣神ゼベルも尋常な強さではない。
ただ、アドゥドウは一種の天災扱いで、いいように利用されている節があった。
人間の多くがラクトス神を、ハーフリングがヨルグル神を信仰しているように、獣人たちが自らの神として生み出したとも考えられる。
どうあれ神話時代の話、実在したかは闇の中だ。
そんな思考はおくびにも出さず、俺はゼベルについて知っていることを話した。
そして熱心に聞き入るユネクを見るうち、元冒険者の獣人奴隷がどんな気持ちだったか、わずかながらも理解する。
ユネクはさきほど、「逃げろと言った獣人奴隷」と答えた。
「逃がしてくれた」じゃない。
ユネクは生まれついての奴隷である。
反抗の意思は幼少期から奪われ、主人の顔色を窺いながら生きてきた。
俺たちと接する態度を見れば、それは明らかだ。
性質を悪用されたか、元々の性格かは分からない。
どちらであろうと、そんな子供に逃げる気力なんてあるはずもない。
獣人奴隷がゼベルについて話したのは、希望を持たせるためだろう。
獣人は弱くない、人間にはできないことをやってのける強い種族だと。
暗示に等しい希望は実を結び、奴隷商からの逃亡を実現させた。
だが、そこが限界でもある。
俺たちが逃げても構わないと言っても、ユネクは動かなかった。
奴隷商に引き渡すと言ってもだ。
芯まで染まった生き方は、簡単に変わらない。
それでもユネクは、獣神ゼベルの活躍に目を輝かせている。
俺は微笑を向けながら、この子をどうすべきか、本気で悩み始めていた。