第1話 俺には帰る家がある
3、2、1……。
爪先が横断歩道を捉えると同時、信号が青へと変わる。
ここが勝負どころ。
次は百五十二メートル先、このコース最大の難関、押しボタン式信号だ。
歩幅を計算しながら歩道の先を見やる。
人影は一つ、杖をついた老婆のみ。
ありがたい。
自分で押す羽目になれば、その瞬間に今日の挑戦は終わりだ。
後はどのタイミングでボタンを押すか。
それ次第で速度の調整が必要だ。
遅いのは論外、早くとも減速を余儀なくされてしまう。
何百にも及ぶ挑戦の末、速度を一定に保つのが最速と判明している。
思わず喉が鳴った。
しかし信号に辿り着いた老婆は、ぴたりと動きを止めてしまう。
車列を眺め、彫像のように立ち尽くす。
これはまずい。彼女は押しボタン式と気付いていない。
ここまでは完璧な歩みだった。
妨害する級友を綺麗に躱し、ライバルたちの波をすり抜け、道中の信号も完璧に踏破してきた。
間違いなく区間新。新記録も狙えるタイムだ。
俺は帰宅部のエース。
高校に入学してから一年と数ヶ月、毎日が記録との戦いだった。
教室を出る寸前、教師に呼び止められることもあった。目の前で自転車同士が衝突し巻き込まれそうにもなった。区間新を叩き出して駅に滑り込んでみれば、電気系統のトラブルで電車が遅れることもあった。
だが、いかなる障害が立ち塞がろうとも決して挫けない。諦めない。
偉大なる先達が残した言葉を胸に刻み、俺は今日も挑む。
そう、俺には帰る家がある。
老婆はまだ押しボタンに気付かず、過ぎ去る車をただ見つめていた。
ブーメランのごとく曲がった後ろ姿は、さながら苦行に挑む修行僧だ。
水墨画を連想させるほど、さまになっている。
しかし、今は見蕩れている場合ではない。
大声で呼びかけてみるか?
どうだろう。この辺りの交通量は多く、俺の声が届くとは思えない。
これは行政の失態だ。なぜ分かりやすく案内表示しないのか。
帰ったら抗議の電話を入れてやろう。
悩むうち、限界ラインが近付いてきた。
今は最適な速度を維持している。このままゴールすれば、かなりのタイムを叩き出せるが、限界ラインを越えれば新記録が消滅だ。
それに俺の声が届いたとしても、こちらの訴えをすぐに理解してもらえるか。
なんせ相手は修行僧だ。
限界ラインは想像より近いかもしれん。
あと十歩。
そこまで進んだら老婆に向かって叫ぼう。
待っていても信号は変わりませんよ!、と。
頼む、気付いてくれ。そうでなければ誰か、力を――。
俺の願いが神に届いたのか、颯爽と新たな人物が出現する。
あれは――主婦。
前籠には膨れ上がった買い物袋、後のチャイルドシートには園児。
さながら装甲車のごとき出で立ちだった。
主婦は時間の浪費を嫌ってか、躊躇うことなくボタンを押す。
思わず、拳を握った。
よくやってくれた、名も知れぬ主婦よ。完璧なタイミングだ。
逸る気持ちを抑え、俺は歩幅を調整する。
走れればこんな思いもしないのだが、残念ながら厳禁だ。
歩道には様々な危険が待ち受けており、ランナーは被害者と加害者、どちらにも成り得た。学校で「廊下を走るな」と言われるのは、言われるだけの理由がある。
尤も、それはコース次第である。
京都で行われた神社仏閣巡りは、夕食までにゴールの旅館へ辿り着くのは不可能であり、走破前提でコースが設定されていた。
同じ帰宅部の仲間が次々と棄権し、交通機関に飛び乗るほどの難関コース。
俺はあらゆる危険に最大限の注意を払い、生まれて初めてゴールまでの道程を駆け抜けた。あの時ほど帰宅の奥深さを実感したことはない。
俺の到着を待ちわびたかのように、青信号に切り替わる。
それを合図に老婆と主婦、そして俺の三人は一斉に踏み出した。
先頭は電気の力で駆け抜ける主婦。
その背を見送ると、チャイルドシートの園児と目が合った。
園児は遠ざかる俺を見、不敵に笑う。
彼もまた、何かと戦っているのだろうか。
俺は小さな戦士に心でエールを送り、歩みのペースを切り替えた。
駅までの信号は残り二つ。
この押しボタン式信号が親信号であり、あとの二つは連動した子信号だ。
ここまでくれば消化に近い。
電車が到着する時刻も完璧。
残る関門は、脇道からの障害や電車の遅延だ。
俺はカーブミラーに視線を走らせ、自転車や子供の飛び出しを警戒する。
特に私道は危険だ。交通量が少ない分、利用者の警戒がおろそかになっている。
衝突しかけたことが何度もあった。
幸い、さしたる妨害もなく最初の子信号を踏破する。
二つ目の信号はすぐ目の前、それを越えれば駅まで一直線だ。
カーブミラーには歪んだ住宅が連なるだけで、通行人の姿はない。
ちらりと後方へ視線を送るも、車はおろか突進してくる自転車も見当たらない。
いける。久々の記録更新だ。
だが、俺は自分を戒める。
まだ通過点。ここで浮かれては足下を掬われてしまう。
自宅へ踏み込むその瞬間までが帰宅だ。
二つ目の子信号も完璧なタイミングで渡りきる。
そしていくつかの街路樹を過ぎると、駅のホームが見えてきた。
改札ではいつも通りに人が流れている。異常もなさそうだ。
すべて順調――。
そう思ったのがいけなかったのか。
俺は進行方向の外れ、車道の隅に小さな影を捉える。
何気なく確認し、目を見開く。
子犬。
ここで!? 古典ドラマかよ!
呆けた表情で子犬は周囲を一望、あくびをしながら車道に座り込んでしまう。
向かいにも歩道はある。危ないと分かれば移動するはずが……。
そのとき、鈍い振動が足下を揺らした。
現れたのは大型トラック。
駅前の角からのそりと顔を出し、直線に入るや否や、ここぞとばかりに速度を上げていく。
明らかに法定速度を越える疾走。
その振動と圧力に、子犬は尻尾を丸めて硬直してしまう。
もう無理だ。
ああなってしまったら、自力で逃げ出すことはない。
まだ助けることは可能だが――その場合、新記録は消滅する。
そもそも大型トラックは車高が高い。
タイヤに巻き込まれなければ、子犬が死ぬことないはず。
だが――死んだらどうなるだろう?
そんな新記録を、心から喜べるのか?
一瞬の逡巡、俺は舌打ちし柵を跳び越えた。
今日は運が悪かった。
これも帰宅、だからこそ挑む価値がある。
せめてもと、心のタイマーを停止させる。今後の参考記録にはなるはずだ。
明日からの戦いに思いを馳せつつ、俺は子犬に向かって疾走する。
このまま確保し、反対側の歩道に飛び込む。
それができるだけの余裕はある。
しかし、俺が飛び出してきたにも拘わらず、トラックは速度を緩めなかった。
それどころか、さらに加速していく。
驚いて運転席を見やれば、携帯電話片手に空模様を気にしながらペットボトルを呷っていた。
器用だな、おい! ハンドルどうした!?
くそ、完全に想定外。俺一人でも逃げられるかどうか。
全身に感じる圧力。
不意に、俺の中からあらゆる雑念が消えていく。
自分で何をしているのか分からない。
ただ、身体が動く。
せめて歩道へ――。
その一念で手を伸ばし、子犬に指先が触れそうになった刹那。
にゃあと一鳴きし――子犬は掻き消えた。
「は?」
間の抜けた声。
それが、俺の最後の言葉だった。