馬鹿に構うな関わるな、無駄な努力を皆無にせよ
馬鹿共に関わって構っていてはいけない、何時まで経っても現状以上には絶対に至れないからである。
真に価値あるモノに触れれば、自分自身が自身の成長飛躍に驚嘆するのが当たり前だ。
社会はまだまだ捨てたものでなく、そういう価値あるモノで溢れているのだ。
だからこそ、何事も全てを自分自身の尺度で選抜選別して、見える何事も判断し続けなければいけない。
無駄な努力というモノは、厳密に存在する。
無駄でなくても、相対的に低廉なモノは幾らでもある。
特に価値のない存在、歯牙にもかける必要が無い無能な馬鹿。
そういうのに関わってはいけない、貴重な時間と人生の無駄遣いである。
社会的に評価されないモノは、全て切り捨てるべきである。
所詮馬鹿は馬鹿になにをしても無意味、利益を生み出すはずがないからである。
一応言っておくが、基本的に人間はすべからく馬鹿である。
真の天才、有能な人間など、もう皆無といって良い、そのつもりで生きた方が人生は容易い。
だからこそ、馬鹿に構っていては人生は詰むに容易いのだ。
今の世の中は格差社会である、だからこそ上記の言である。
勝ち組と負け組みで二分化が進んでいる。
グローバル競争の加熱がその一因だろう。
昔のように発展途上国を搾取すれば、それで良いとはいかない。
発展途上国たちも強力なライバルに育ってきている、日本などちょっと優越している程度にまで迫っている。
だからこそ、少数精鋭で優秀な人材で対抗しないと日本も立ち行かないのだ。
優秀な人材を優遇するのだから、当然格差が広がる。
逆に優秀でない人材など、ほとんど使えないのだから、冷遇されるのは当然、さらに相対的に格差が広がる。
このように社会・世界のシステムが格差を広げている現実がある。
今現在の負け組みが、不利な立場状況から勝ち組になる為には、相当な努力と運が必要である。
およそ凡人は、一生この生来からの負け組み枠から抜け出せないだろう、それが当たり前だからである。
逆に言えば、勝ち組は初めから様々な面で、人生全体からして隔絶して高スペックだから、何もせずとも圧倒的に勝ち続ける。
逆に、負け組みは初めから何もかも低スペック過ぎるので、何をしていても圧倒的に負け続けるのが道理だ。
だから、馬鹿に構っていては絶対にいけないのだ、もっと危機感と致命的感を持つべきなのだ。
それだけでも結構違う、己の人生が命が危険なのに、それと向き合わないだけで、大いなる糧を失うからだ。
娯楽でも格差が広がっている。
超一流と、それ以下の話である。
メジャーとマイナーなモノ、その差は年々広がる一方だ。
投じられる資本、人材のレベルが隔絶して違うのだから、創造されるモノのレベルも違うのだろう。
馬鹿を食い物にするタイプの作風でも、一味二味違ったモノが目立ってきた。
これは恐らく、創作者の段階でのレベルが上がっているからだろう。
しかし格差も捨てたモノではない。
最近目に付くのは、超一流の圧倒的な技量で、マイナーやニッチな娯楽の開拓である。
本来なら市場価値の低い分野、娯楽性の低い、例えば戦国や歴史や廃墟とかBLとか色々を題材にした作品の興隆だ。
そういうモノを描くのは、昔は常に二流の作者だったのだ。
一流の作者に勝てないから、別の分野で差別化を図ろうとしていたのだ。
しかし今は、一流が飽和したのか、そういう分野にも新進気鋭の上手い書き手が現われ始めた。
もちろん、今まで通り二流の書き手が担当する、所詮レベルの有象無象が圧倒的なのは変わらないのだが。
それでも、様々な分野が開拓発掘開発されて、彩りが豊かになってきたのは良いことだろう。
価値とは相対的なモノである事を忘れてはいけない、常に意識して生きなければいけない。
娯楽物も同じことだ。
それが自分にとって価値ある楽しい物でも、それ以上に価値あるモノが無数にあるなら、意味が無いモノと化す。
なぜなら、そのような低廉なモノに触れ続けていては、成長が望めないからだ。
成長できないなら、劣悪者である。
世界の八割の存在は不幸なのだから、不幸であれば、何時しか物事全般も楽しみづらくなってしまうだろう。
だから、常に価値に対しては相対的な視点も同時にもって、厳密に判断しなければいけない。
この世には同義であるモノが多すぎるのだ。
愛する人がいても、それ以上に存在として価値ある人がいれば、愛などというモノには主観的な価値以外に寄るモノがなくなり、いつしか皆無となる。
悲しいが、それが世界の、現在の社会の現実というモノだ、諦めるほかないし、受け入れるしかない。
結論として、相対的に一流超一流のモノ以外に、一切の価値は無いのだ。
むしろ存在するだけで、全体の価値を薄めるマイナスの価値、害悪ですら、あるのかもしれない。
しかし悲観する必要はない。
価値とはプラスとマイナスで表裏一体なのだから。
マイナスの価値を有していれば、それは翻って厳然たる価値なのだ、人間の糧になる、ということだ。
無価値、ですら無ければ、ソレで良いのだ、とも言える。
ならば、存在するだけで、ありとあらゆる物には価値があるのだ、程度の差こそあれ、それも事実だろう。
世界は鬱陶しいほど巨大で、巨大すぎるのである
その巨大すぎる構築現象に満ち満ちて、無限大に至って全てが破綻、全てが崩壊している、つまり、生きるとは死んでいるのと等価なのだろう。