ー舞妓ちゃんー弐ー
自分の下だけ黒い丸ができて、床が抜けたような感覚。
ふらりと膝をつきました。
あわてて店長が、電話を取って、替わってくれはりました。
「もしもし、どないしやはったんですか?え?交通事故?はい、四条河原町の交差点付近ですね、すぐに伺います。はい・はい、それで、病院は?」
店長さんは、てきぱきと事情を聞いて、カウンターから奥さんを呼びました。
「これから、みどりちゃんを連れて、市民病院まで行ってくるよって、あとたのむし。」
「へえ、わかりました。」
ウチは、膝も立たへん状態で、店長と山田さんに支えられるようにして、お店のバンに乗りました。
「心配あらへんて、救急車やゆうて大げさなだけやわ。」
店長は、なんとか元気付けようと、さっきから声をかけてくれはりますが、ウチの耳には、ようはいってきませんでした。
さっきから、動悸がとまりません。
悪い予感…
見慣れた団栗橋。
見慣れた四条通。
そのすべてが歪んで見えます。
「友美ちゃん…助けて…」
つと、この夏逝った、友達の名前が口から漏れていました。
大好きやった友達。
ウチの心からの友達。
もう会えない友達。
「いずみちゃん、洋子ちゃん、可愛ちゃん…透吾ぼん。」
ウチは、だんだん歯の根が合わんくなってきて、耳の奥にカチカチと言う音が、聞こえてくるようになりました。
横では店長が、携帯電話で話しています。
程なく車は、市民病院の正門をくぐっていました。
市民病院のエントランスでは、姉小路和泉屋の旦那さんや奥さんが、待ち受けていはりました。
和泉屋のご料ンさんは、ウチを抱きかかえるようにして、救急病棟に連れて行ってくれはりました。
呉服卸の姉小路和泉屋は、八坂高校の同級生片岡透吾の実家で、ウチのアルバイトの保証人もしてくれています。
「みどりちゃん、気ィしっかり持ちや。」
旦那さんは、いつもの柔和な顔と違って、少し青ざめて、前を向いたまま話してくれています。
救急病棟の扉が、がしゃんと開くと、まぶしい蛍光灯に照らされて、白いシーツが目に飛び込んできました。
傍らには、白衣のお医者様と、紺の制服を着たおまわりさんが立っています。
「お・おかあちゃん?」
ウチが言葉にできたのは、そこまででした。
「四時四十一分ご臨終です…」
お医者様が、淡々と告げるのを、遠くに聞きながら、ウチは母親の亡骸にすがって、大声を上げていました。
その日、仏光寺の狭い二DKのアパートには、訪れる人も少なく、ウチは同級生に囲まれて、座っていました。
智恵光院のいづみちゃん、白川天王町の洋子ちゃん、あきらくん、勇祐くん、烏丸中立売からは、可愛ちゃんも来てくれました。
白木の棺に納められた母は、物言わぬ骸のまま。
姉小路の旦那さんが、すべてを取り仕切ってくださったので、お通夜もお葬式も何とか過ごすことができました。
建仁寺裏の御茶屋、松本屋のお滝さんお母さんも焼香に来てくれました。
なにやらいろいろお世話になってるし。
姉小路の旦さんは、ウチの今後のことについてずいぶん、気にかけてくれはったようですけど、ウチは遠い親戚の家に引き取られることになりました。
もとより母子家庭の貧乏暮らしでしたので、制服と身の回りのものだけ持って、城陽市の親戚の家に入ったのは、それから一週間後のことでした。
なんとか府立八坂高校の卒業まで、ここに居てたかったんやけど、それもかなわへんことになりそうです。
城陽市のおじさんの家は、狭い建て売りで、家族は四人居てはりました。
おじさん夫婦と、娘さんが二人。
「これからご厄介になります、倉橋みどりどす。よろしゅうお頼の申します。」
「なんやなんや、祇園言葉はこそばいなあ。まあ、自分のウチやと思ってゆっくしてや。」
おじさんは、鷹揚に言葉をかけてくれましたが、ほかの三人はかるく会釈しただけでした。
夕食も、あまり会話ははずむこともなく、どちらかと言えばウチはよけいもののようですし、冷たい感じは否めませんでした。
精神的に疲れてしまって、ウチは、あてがわれた部屋で、ぽつんと座りこんでしまいました。
明日から、新しい学校にも手続きに行かなければなりません。
編入試験もあったようなんですが、あまり覚えてもいません。
お手洗いに降りていくと、居間では四人が集まっているようでした。
「府立八坂高校やて、あんなできる高校から、ウチの学校に転校やなんて、いややわあ。差がついてしもて、明日からどないしよ?」
「だいたい、なんでウチの部屋を空けなあかんの。」
姉妹は、ぶつぶつと不満を漏らしています。
おばさんは、少し雰囲気を変えていいました。
「あの子の母親の保険金て、いつおりてきますのん?」
「まあ、そんなあせったらアカン。うまいことして、この家のローンぐらいはださせんとなあ。」
なかなかシビアな計画を立ててはるようです。
まあ、姉小路和泉屋の旦那さんが、後見してくれはるので、簡単に無一文にはならへんと思いますけど、これは一筋縄では行きませんようです。
ま、じめじめしてるよりは、ドライに金銭で割り切ってくれた方が、ウチにはありがたいですけど。
こんなドライな話を聞いて、かえってウチは落ち着きを取り戻しました。
こうなったら、あと一年くらいは、なんとかがんばって、高校卒業したら京都に戻ろう。そう思い始めていました。
もとより、京都市内に居ないと、透吾ぼんが帰ったときに、困りますから。
大学進学は、奨学金とバイトでなんとかしましょう。国立なら安いし。
それでも、勉強するつもりになれば、いつでも大学ぐらいは入る自信がありますし、学費が貯まってからでも十分です。
母の貯金も、わずかですがありますから。
ウチは、会話が聞こえないふりをして、お手洗いのドアを閉めました。
事件が起こったのは、皆が寝静まった午前一時すぎのことです。
この一週間の疲れから、ウチは制服を着たまま、うとうとしていたようで、廊下側のドアが開いて、明かりが入ってきたところで目が覚めました。
影は、こっそりと部屋に入ってくると、そっとドアを閉めました。
ウチが動かないで居ると、そのままウチに、にじり寄ってきて、こちらの様子をうかがっています。
ウチの呼吸が規則的なことを確認すると、いきなりスカートをめくりあげました。
「な・なにしはるのん!」
「あ・起きてしもた。まあ、静かにしてもらおか。」
「静かになんか、できしまへん。早う部屋、出てっておくなはれ。」
「まあそう邪険にしなや。のう?」
「い・いやや~!」
ウチは、思い切りおじさんを突き飛ばしました。
がたーんと、大きな音がして、おじさんはタンスにぶつかりました。
それでも、まだウチに向かって這い寄ってきますが、物音を聞きつけて、おばさんと二人の娘もやってきました。
ウチは、荷物の入ったスポーツバックを、ひったくるように握って、おじさんの横面をそのバッグではりたおしました。
「うぎゃー!」
おじさんは、その場にひっくりかえりました。
そう言えば、このかばんには教科書やノートが入ってたな。
(ずいぶん冷静やん。)
そのまま、三人をかき分けるようにして、部屋の外にでると、振り向いて叫びました。
「ウチは、透吾ぼんのもんや!だれにも触らせへんえ!痴漢やチカンや!痴漢でっせー!!」
住宅街に響き渡るウチの大声に、近所ではぽつぽつと明かりがともりはじめました。
それを横目で見ながら、玄関で靴を履くのももどかしく、ドアを開けて飛び出しました。
「あ。こら!」
おじさんがなにか叫んでいましたが、知ったことやおへん。
「はあはあはあ…なんちゅうエロおやじやねん。」