ー舞妓ー終ー
床の間のある座敷の衣桁には、黒紋付が広がっています。
「立派な紋付やねえ。あんた、たいしたもんやて。これ、一千万くらいするねんよ。」
一千万円?そんなもの、いただいてええんやろか?
ウチが目を見開いて、お母さんを見ると、うなずいて続けます。
「こっちは、べっ甲のかんざし、これかてン百万やしな~。小物もええもんが揃ってはるわ~。」
黒紋付は、姉小路の旦那さんが、特に誂えてくれはりました。
べっ甲のかんざしは、大瀧の大旦那さんからです。
小物は、テーラー御幸の旦那さんとか、橘重工の社長さんからいただきました。
こうして、少しずつご贔屓の輪が広がってくるのが、ありがたいやら申し訳ないやら。
「店出しの準備も、これで滞りのう整って、よかったなあみどりちゃん。」
「へえ、みんなお母さんのお蔭どす。」
「あんたが、この一年、ようしんぼしてきたよってやないの。胸張って、店出ししはったらええねん。」
「へえ、おおきに。」
「今夜は、見習い茶屋も最後や、姉小路の旦那さんとか、大瀧の大旦那さんとか集まって、春菜ちゃんのお祝いしてくれはるねんて。」
ますますありがたい話しに、しゃっくり出そうやわ。
「おかあさん…」
「なんえ?」
「ホンマに、なんとお礼を言ったらええか、わからしまへんけど、今日までよう面倒見てくれはったと、ホンマにお礼申します。」
「な、なにゆうてんのこの子は。おかあちゃんなら、当たり前のことやんかさぁ。あんたは、あてが心血をそそいだ、自慢の娘やんかさぁ。」
「おかあさん!」
ウチは、畳に両手をついて、深く頭を下げたのでした。
「なにしてんにゃこの子は、母親ならこのくらい当たり前やさぁ、ほら、頭上げ。」
「へえ…」
あかんし、もうはい顔ぐちゃぐちゃ。
子供のように、声を上げて泣き出したウチを、お母さんはやさしく抱きとめてくれはりました。
「ああもう、この娘は…泣きないな、せっかく塗った顔がだいなしやんかさぁ。」
そう言いながら、おかあさんも泣いてはる。
「しょ、しょうないやんかさぁ。」
「ホンマに、この子は泣き虫で、ようこんで厳しい修行についてこられたもんやわさ。」
「えへへ…」
ウチは、泣き笑いの顔で、お母さんを見つめました。
「ほら、カオなおすんやから、もう泣いたらあかんえー。」
やっと気持ちが落ち着いたウチは、カオを塗りなおして、玄関に立ったのでした。
『店だしどっせ、松本屋の春菜さんが、店だしどっせ。』
男<おとこし>さんの声に、ウチは戸口をくぐりました。
周りから「わあっ」と声が上がり、口々におめでとうと声をかけられます。
「いっやぁ~、ホンマ、こねえに綺麗な舞妓ちゃんは、今まで見たことないわー。」
紅梅のお母さんが、ほれぼれと見つめます。
「みどり…いや、春菜ちゃん、おめでとうさんどす。」
藤村屋のおじさんが、お花をくれました。
「おおきにおじさん。」
「ホンマに、こんなきれいな舞妓ちゃんは、見たことないわ。おめでとうなあ、春菜ちゃん。」
ウチはうなずいて、歩を進めます。
照ひろ、豆しの、同期の二人も、お稽古を放り出して、お祝いに駆けつけてくれはりました。
「おめでとうさんどす!春菜ちゃん、よかったなあ。」
照ひろちゃんは、太い眉の下に、涙が見えます。
「へえ、おおきに。二人も、もうすぐ店だしやねえ。」
「へえ、そうどすなあ。そやし、春菜ちゃんに追いつけ追い越せやわぁ。」
豆しのちゃんも、泣き笑い。
「松本屋さん、おめでとうさんどすー。」
仕出し屋の松岡の次男坊、義昭さんが、ツノダル持ってお祝いに来てくれはりました。
「ええい、はなせー、琴江ー!ここから餅まくんやー。そ~れ!」
松本屋の二階の窓から、丸いお餅が降ってきました。
「お祝いの餅マキやー!みんな、縁起モンやさかい、持って帰ってやー!」
周りから笑顔があふれます。
和泉屋のお父さんが、松本屋の二階からお餅をまいているのです。
ウチの舞妓人生、これからがスタートどす。
さあ、いっちょきばって、透吾ぼんが帰ってくるまで、ここ祇園でがんばりますー。
秋晴れの花見の小路に、ふわりと鳩が舞い上がりました。
建仁寺の葉桜が舞い散る花見小路に、ウチのおこぼがころりと音を立てました。
黒紋付きに、割れしのぶ。
いよいよ、ウチの店だしの日がやってきました。
「店出しどっせ、松本屋の春菜さんの店出しどっせ。」
男衆<おとこし>さんの定夫さんの声に、実感がわいてきます。
長かった…
この一年の、なんと長かったことでしょう。
長くもあり、短くもあり、追われ追われて過ごしてきました。




