『7年前』
商業ビルに挟まれた裏路地は薄暗く、辺りにはゴミが散乱している。
一言で、ただただ汚らしい。
まるでこの街の全ての汚れが集まっているのかと錯覚してしまう程に。
故に、人々の足は自然遠のく。
自明としてそこに屯する者共といえば、人品共に怪しげな連中か、街で忌み嫌われる不良共であった。
一般人は敬遠するような――ましてや子供なんているはずもない仄暗い路地裏の一角に、その少年はいた。
晩春の路地裏は息が詰まるような臭気を漂わせ、人間の生活から切り離されたような息苦しさがあった。これから夏場となれば如何に世捨て人となった浮浪者であろうと、近寄り難い腐敗の世界。
しかし、だ。
七歳になったばかりの少年は微塵も苦痛など感じていないという表情で、ボロボロの文庫本に目を通している。
まるで。
これ以上の地獄や辛酸を味わってきたかのように、「どうという事もない」という表情で、先ほど”ボコボコ”にして打ち捨てた不良たちの背に、か細い腰を下ろして太宰治の『人間失格』を黙読していた。
少年の名は竜之介という。
華奢な身体つきで、見目麗しい少女のように涼やかな目元。
文庫本をめくる指先も細く、しなやかで品がある。
世が世ならば傾国の美小姓となっていたやもしれない容姿だが――近づく者を射殺しそうな程に殺意、憎悪、怒気、拒絶を含んだ眼光は、何者であろうと近づく事を躊躇うだろう。
憎悪。
拒絶。
幼い時分の彼を見た人間は、ふと、そう回顧する。
だが、別の少女の回顧は趣が違う。
悲しみ。
と、彼と七年の歳月を共に過ごした少女は彼の心が何となく分かる。心に降り積もった悲しみが、自分や他人を憎む心へと変心してしまったのだ――と。
中天にまたたいていた太陽もいつのまにか沈み、七歳の少年に『ボコボコ』にされた情けない不良たちもいつの間にか逃げ去り、孤独な空間となった。
太陽が沈み虚空となった空に、チラホラと星が出始め、路地裏はより一層の静寂を深め――なかった。
「竜之介~~~~~ぇぇぇえッッッッッ!!!!!!」
と、
アルトとテノールの中間辺りの野太い女性の怒声が路地裏に響きわたる。
その大音声たるや、大地を激しく揺らし、虚空を切り裂くが如しである。
建物に背をつけて、何をする事もなく空を眺めていた竜之介は怒声に驚き、ギクリと肩を動かした。
振り向くと、異性とは思えない程に巨漢の女。
身長は二メートルをゆうに越え、とある女子プロレス団体の公式プロフィールでは体重一五〇キロと公表している巨躯は、狭い路地裏ではなお映える。
「な、なんでこ、こここ、ここがっ」
狼狽する竜之介の言葉を、巨体の女性は遮るように口を開く。
「シャーリーが、目つきの悪いリトルボーイに助けられたって言って――あたしゃ、すぐにあんただと思ったのよ。んふー」
「シャーリーって……」
竜之介は思い当たる節があり、舌打ちする。
昼頃。
縄張りが騒がしいと思って覗いてみると、同い年くらいのブロンドの少女が畜生(さっきボコった不良)共に路地裏に連れ込まれ、強姦輪姦昏睡レイプの憂き目に遭おうという場面に遭遇した。縄張りで騒がれて鬱陶しかったから全員血祭りにあげて、結果的に少女を助けた事になったのだが――
「シャーリーが、礼も言えずにまごついてたら、お尻を蹴り上げて邪魔だ失せろなんて言ったそうじゃないか。女の尻を蹴り上げるリトゥルバッドゥボォイなんて、永星町じゃ竜之介くらいのもんさ」
「微妙なイングリッシュアクセントはともかく……あの女はおめーの身内か」
「あたしだけじゃない。あんたの身内でもあるのよ」
「あんなの家族じゃねえよ。おめーだって」
「愛を解せぬ愚か者ちゃんかわゆす! 萌えッッ!」
フライングクロスチョップ!
ドッゴ!
「ぶへえええええッ!?」
一五〇キロの塊に大技を決められ、竜之介は吹き飛ぶ。
「これは愛! 愛だからドゥントヴァイオレンスだオラエーッ!」
「んな愛があるかエセチョーノ!」
竜之介は首筋を抑え、語気を荒げながら立ち上がり「上等だよ」と、睨みつける。
「いくらおめえが女だろうと手加減はーー」
「おめえじゃなくてママ! ファッキン!」
ケンカキック。
「ぶへええええええ!?」
「これは愛! ママの巨大なる愛なのよッッ! ビッグママラヴ!」
竜之介は口の端に滲む血を袖で拭い、「このアマッ」と飛びかかるもカウンターの逆水平チョップをもらってひっくり返る。
「なんであたしの愛が分からないの!? ガッデム!」
竜之介はマウントポジションからのギロチンチョークを決められ、ジタバタともがきながら「愛なんてあるかー」と叫ぶ。
「お前は母さんじゃない! もうほっといてくれよ! 一人にしてくれよ……! もう、俺にかまうなよっ……」
一人にしてくれという言葉をほとばしらせた瞬間、竜之介は胸が不意につまった。
だから――
かまうなという言葉が潤んでしまい、驚くほどに力が入らずか弱いものになってしまった。
「んふー。ダ・メ・☆」
と、自称ママは、んふふー。と穏やかに微笑してウィンクする。
「家族なんだから――血が繋がってなくたって。だから」
「うざい!」
「おぶし。いたいおー( ^ω^ )」
竜之介は自称ママの頬に蹴りを入れて、何とか脱出する。
「うざい! うざい! うざいよッッ!!!! お前はあの男の家族だ! だから嫌いなんだよ! 憎いんだよ! あんたも! みんな! みんなみんなみんな!!」
激しく地団駄を踏み、頭を振って絶叫する。
ママを自称するこの女。法的には母親ではあるかもしれないが、本当の母親ではない。
彼の本当の母親はずっと前に――。
「もうほっとけよ! 俺らは他人だろ! 他人なんだから! もうさ、もうさあ、もうさあ!」
「『もうさあ』の、あー。浅漬け」
「け……毛虫?」
「白玉団子!」
「おちょくってんのかコラあッッ!!」
「けらけら」
と、自称ママは楽しげにはにかむ。
「なに笑ってんだよ……」
「ん? かわゆい竜之介がいつもどこに行ってるか分かったし。安心したのよー。ケラケラ」
まるで一方通行。
竜之介の口からほとばしった、およそ都合が悪いであろう一切の言葉は耳に入っていないかのように彼女は笑う。
竜之介は牙を剥いて、虎のように姿勢を低く構える。
「だからうざい! もう俺にかまうな!」
「やめなやめな。あんたじゃ、あたしにゃ勝てないよ」
「上等だ。やってやるよ! ――ぶえっへっ!?」
竜之介が獣のように襲いかかるもカウンターのナックルアローをもらって宙で二回転する。
「んふー」
と、自称ママは竜之介の前に屈み、慈しむように微笑する。
「これからもなかよくしようね。竜之介。愛する我が子。マイサンシャイン。んふー」
「げほっ、誰が、おめーの息子だよ……!」
立ち上がれなくなる程に打ちのめされ、竜之介は歯噛みして悔しがる。
憎かった。
だから。
愛情なんて向けられたくなかった。
だから。
だから。
と、竜之介は細い腕に力を込める。
地を抉り掴むかのように拳を握って、身を起こす。
「嫌い」
自分の事だって、嫌いだった。
「みんな、嫌いなんだよ」
世界が美しくあった事なんて、一度もない。
騙されて、貶されて、汚されて、大好きな母親は死んだ。
「だから――だからッッ!!」
ギっと奥歯を噛みしめ、大きく拳を振りかぶる。
「もう、消えろ、よおおおおおおッッッ!!!」
ゴツッ! と、竜之介の拳に重い感触が伝わる。
「おまえ……」
次は、避けるもカウンターもなかった。
ただ、自称ママは渾身の一撃を頬で受けきった。
「母親を殴るな。バカ息子」
自称ママ――
いや。
『ママ』は、けらっと優しく笑って
竜之介を抱きしめた。
今でも竜之介は覚えている。
彼女の暖かさを。
ママを――母親をもう一度失ってしまった今も。
忘れた事は一度もない。
「嫌い、みんな嫌い。嫌い。嫌いだ」
マセた口調は既に消え失せ、そこには七歳の少年がいた。
ボロボロと大粒の涙を流す竜之介を、
ママは「はいはい」と笑いながら、ずっと抱きしめていた。
そんな、小さな
始まりの思い出。