煙が目に沁みる③
最後の確認をしましょう。
「気持ちは落ち着きましたか?」
「お陰様で」
ふっと柔らかな表情で微笑む所見ると、本当のようです。
ただ、心の整理が付いたかというのは別なお話なので、ご本人の意思で彼女に決別の言葉を告げない限り、僕からは触れないでおきましょう。
正式な別れが後日になろうとも、決着は必ず付けるのでしょうから。
「顔色も戻ったようですし、では行きますか」
「どこへ?」
「煙が目に沁みて、涙が出そうでしょう?安心して泣ける所へ」
「?」
紫がかったグレーの瞳に、キョトンと見られました。
「あー、最近の人には通じないかー。古いですからねー。ま、あとで説明しますよ。ですから、河岸変えしましょう?」
手を引くと大人しく付いてきました。
僕は『シズカ』さんを見下ろします。
「カップはそのままで失礼しますね。破れ鍋に綴じ蓋。高望みなどせず、自分の身の丈に合った人と末長くお幸せに。お股ゆる子さん」
「最後まで失礼な人ね!あたしの名前は……」
「聞きたくもないから、名乗らなくていいです。じゃ」
名乗りを遮って、部屋を後にしようとしました。
と、手に抵抗があります。
雅臣さんが振り返っているのが分かりました。
「もう、校内で会っても話し掛けないでくれ。シズカ……いや、田村さん。さようなら」
おー。ちゃんとお別れの言葉を言えるまで、落ち着いたようです。
お頭弱女はショックを受けたのか、珍しく絶句しています。
『良くできました』的な顔で見上げると、ちょっと照れたように僕の背を押して追い出そうとしました。
ここでふと、余計なお世話とは知りつつも僕は好奇心に負けて、絶句している女をからかう(決して慰めてはいない)男に問いたくなりました。
「凪さんは、元鞘?」
「元鞘ってぇか、もともと手放す気はねぇよ。相性も良いし」
そう言って、マッチョらしい笑顔で下品な手つきをするではないですか。
そこはスルーさせてもらいました。
お兄さんも眉をしかめて黙り込んでいますし。
「ソレでいいんですか?」
凪さんにヘッドロックを掛けられている人を指差すと、
「ソレって言うなや。こいつの活きが良いところが気に入ってんだよ。これぐらい逞しくなきゃ、安心して海へ出られねぇ」
海の男(確定)がロックを解き、女の背を叩きました。
少しつんのめったゆる子は、ゴリに喰ってかかります。
「ちょっと、勝手に決めないで!漁師なんて不安定な仕事、お断りよ!」
確かに、活きは良いみたいですね。
「と、言ってますが?」
「まあ、在学中は泳がせるさ。頃合いを見て一本釣りしてやる」
自信満々に笑い飛ばされました。
マグロか?!思っても口にはしませんよ。
「舵取りはしっかりねー」
「おうよ。任せとけ!」
「結婚式には呼ばないで下さいね」
「ははっ。やるかもわかんねぇからな……まぁ、なんだ。今回は、サンキュ」
男らしく声を張り上げていたのが急にトーンを落とし、静かで渋みのある笑みを浮かべるマッチョ。
キーキー言っていたゆるゆる女が、空気を読んだのか口をつぐみます。
てっきり豪快に笑い怒られると思っていた僕は、肩透かしを食らってしまいました。
「はい?」
「お前さんが間に入ってくれてよ。正直、助かった」
照れくさそうに礼を述べるゴリ。
似合わないです。似合わないけれど、なかなか味が出てますね。
空気に徹していたお兄さんも、神妙な顔で僕を見ています。
「凪さんや」
「なんだ?」
「あんた、良い漢だねー」
「当ったり前だろ。惚れたか?」
「ははは。ま・さ・か」
「恥ずかしがらなくていいんだぞ、坊主」
「坊主、言うな」
そこで問いたそうな顔をした凪さんは、グッと飲み込み、ニヤリと笑いました。
「――名前は聞かないぞ?」
僕が第三者であり続けようとしていたのを、察してくれたようです。
本当に、良い漢です。
「ありがとうございます。では」
「おう。元気でな」
「凪さんも」
そうして今度こそ、僕と雅臣さんは彼女の部屋を後にしました。
「私に足りないのは、彼のような豪胆さ、なのでしょうね」
自転車を拾い歩き出した時、儚いイメージのお兄さんがポツリ呟きます。
「それはどうでしょう?色々な個性があって良いと僕は思いますよ。正直、男がみんな凪さんになったら、世の中は漁師さんばかりになって経済は回りません」
「はは。そうだね」
力なく笑う彼を横目で見ながら、話題を変える、いや、戻しましょう。
「それはともかくとして。雅臣さんが安心して泣ける場所はどこですか?」
「――私の部屋、かな」
「近いんですか?」
「歩ける距離だね」
「では、そこへ」
「君も?」
不安に揺れるグレーの瞳は、あえかな印象を与えてきます。
なにを恐れているのか分かりませんが、確認は大事ですので、質問に質問で返させてもらいます。
「居ない方が良いですか?」
「いや。君ならば、大丈夫かも知れない」
「どういう意味ですか?」
含みを持たせた言い方に引っかかり訊ねても、曖昧に微笑まれるだけで答えてはもらえませんでした。




