気まぐれ悪魔と警備員さん
雨音は憂鬱だ。
夏の雨はまだ許せるが、冬場の雨は命を奪いかねない悪魔だ。
大きな窓の向こう側は溺れるほどの豪雨、声を張り上げても聞き取りにくいほどの雨音に、グリードは肩をすくめてやった。
「この、クソ鬱陶しい大雨はテメェ様のリクエストか? VIPだから何でもありだとしても、この雨はいかがなものかね。仲良く手を繋いでピクニックに行こうとしていたカップルがいたかもしれないんだぞ。楽しい計画が、全部おじゃんだ」
「私は悪魔だよ。人の不幸は、むしろ大歓迎だ。身をもって知ってると思っているんだけどね、グリード」
残念だったね。と笑う声に、グリードはカウンターの上にある呼び鈴を取り上げ、ダストボックスへと放り投げた。
警備員がホテルの備品をぞんざいに扱うのは結構な問題があるが、手の上にのるくらいの小さな鐘を鳴らされる度、仕事を放り出して駆けつけなければならない。憎たらしい、アイテムだ。
「手を繋いでピクニックに行きたいのなら、共をしよう。私はべつにかまわんよ、雨のほうから避けてくれるからね。濡れるのはキミだけだよ」
光の一切を吸収するような黒いスーツを纏った男は、赤い巻き毛に指を絡めながら笑った。嘘くさい笑みを見ていると殴りかかりたくなる衝動に駆られるが、ここは最上階のスイートルーム。お客様は神様だとだれが言ったか知らないが、目の前に立つ胡散臭い男は信じがたいが神格と同等の位にあるらしい。
背中には蝙蝠の翼も、尖った尻尾も尻にはないが、いわゆる悪魔というやつだった。シルギス・レッドファントム。男爵で、悪夢を見させて喜び狂う夢魔らしいと説明を受けている。
「濡れるのは、好きじゃないね。遠慮しておく」
「濡れているキミはすごくいやらしくて、私は好きだけど?」
グリードは突きだした親指を逆さにして、「死んでください、お客様」と営業スマイルで応戦する。
用がないのなら、仕事に戻る。
そう、一言残すのも億劫になるほど執拗に呼び出しを喰らっている。なんども、なんども仕事を中途半端に放り出しているので気分としては最悪だ。グリードは、話し掛けられる前にとさっさと踵を返した。
「いつも、キミはつれないね。雨の中、二人暖め合うシチュエーションは面白いかとおもってね。だって、嫌いなんだろう? わかるよ。冷たい雨はいろんなものを殺すからね。まあ、もう少し、私と共にいてくてたまえ」
近くに来いと手招きするシルギスに、グリードはドアノブに伸ばした手を仕方なく引っ込めた。
拒否する権利もなくはないが、臍を曲げられて酷い目に会うのは……自分だ。羞恥心すらすり切れるほどの嫌がらせを受けてきた。
視界に入れるだけでも苛つく相手に、好き勝手もてあそばれるなど御免だ。たとえ、タチの悪い夢の中だとしても。
「で、何をしようってんだ。スキンシップを欲しがる歳でもないだろ、お互いにな」
「幾つになっても、人肌は恋しくなるものだよ。まあ、お楽しみは今じゃなくてもじっくり夢の中でできるからがっつく必要もないけれどね」
シルギスは先ほどまで飲んでいたのだろうグラスに、色の濃い赤ワインをそそいだ。
「寂しいなら、クマのぬいぐるみでも買ってきてやるよ」
近づくグリードから逃げるように、ソファーへと移動して長い足を組んだ。
「クマのぬいぐるみで満足できるほどには、子供じゃないんだ」
いつも見下ろしてくる赤い瞳が、挑むようにグリードを睨め上げる。ぞくっとしびれが背筋をせり上がってくるのは、悪寒なのか夢の名残か。
戸惑うグリードに、シルギスは何も追及せず。右手にもったグラスをくるり、と回した。
「一人酒がちょっと、寂しかったんでね。つきあって欲しいんだ」
おいで。と、差し出されるグラス。天井からぶら下がるシャンデリアに、きらきらと輝いている。グリードは認めたくない動揺を振り払うよう、深く息をついてグラスに手を伸ばした。
「グリード、おすわり」
「ふざけんな、オレは犬じゃねぇ」
受け取ったグラスをぶちまけてしまいたいが、やったところで悪魔は喜ぶだけだろう。癪に障るだけだ。何をしても堪えないところはあるいっそ健気にも思えてくるが、絡まれる方としては迷惑でしかない。
足の低いソファに座ると、質の良い生地に体を包まれる。
警備員としての日々の職務、是非も無く付け加えられたへそ曲がりの悪魔の世話に翻弄され、疲労の溜まっていた体は本人の意思とは別にリラックスしていく。
上品なワインの芳香も、グリードの苛立ちを和らげているのだろうか。雨に曇る窓は海の中に沈んでいるような、不思議な感覚を与えてくる。
「一緒に飲みたいと思って、支配人に手配させたワインだ。飲まないのかい?」
おもわずほっと息をついていると、部屋に響く雨音にシルギスの声が混る。突如として耳元に吹き込まれる息に、弛緩していた背筋がピンと張った。
「ぎょ、業務中だ! 飲めるか、馬鹿!」
グラスをシルギスに突き返し、立ち上がろうと着いた手を払われる。不意をつかれたグリードは、体勢を崩してよろけた。
「夢以外でも積極的になってくれるなんて……私は、嬉しくてたまらないよ」
警備員として、従業員と客の安全をまもる立場としてはあっては失態に恥じる暇もなく、グリードは短い悲鳴を漏らした。
仰向けに倒れ込んだ先は、シルギスの膝の上だった。立ち上がろうにも、動揺しすぎて質の良いソファに足を捕られる始末。
グリードは、拙いと息をのんだ。見下ろしてくる赤い目が、笑っている。にこやかではなく、意地の悪いほうの笑みだ。
「私の相手をするのも、キミの業務だろ? 諦めたまえよ。楽しもうじゃないか」
犬猫を相手にするよう乱暴に髪をなで回し、赤ワインを含みながらも逸れないシルギスの視線。逃れられない。
ごくりと、恐怖と緊張に鳴る喉。雨音が隠してくれるよう、祈らずにはいられなかった。