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紅月は女神の祈り  作者: 中原まなみ
最終章:『The rose moon――女神の祈り』
71/76

2

 その言葉に膝が震えるのを、エリスは自覚した。

 違和感が強くなる。自身を二分するかのような、そんな感覚。感情の檻を突き破り、エリスの中に封じられていたもうひとつの感情が暴れだしそうな、そんな感触。

 紅色の月を見上げ、エリスは細く息を吐いた。その吐息にのせて別の感情を体外へ追い出すかのように。

「何だろうね、この感覚」

「エリスちゃん」

 呟きが震えていたのに気付いたのだろう。ゲイルが、エリスの左手を握って来た。その手を握り返し、震えを何とか止める。紅い瞳は、女神も同じだった。ふたつの視線が交差する。

 頭の中が割れるように、痛い。

 脳髄を引っ掻き回すような頭痛に、自然と眉が寄った。その痛みの中で、エリスは無理やり唇を薄く開いた。その痛みが何故か、理由は判っていた。

「――あんたに従わなきゃいけないって、そんな感じがするんだ」

 呟きに、目の前の女神の笑みがきつくなった。

 自己の中に膨れ上がる、自身のものとは別の感情。ふたつの感情がぶつかり合い、頭痛と言う形で外に噴出している。その事が、エリスには自然と理解できた。

 女神に跪きたくなる衝動。それに反発する感情。

 ――敬愛、尊敬、心酔、傾倒――憎悪、反発、怒り、殺意――それらの全てが、浮かんでは溢れ、弾け合い、壊れていき、また浮かんでは溢れていく。

 ふと気を緩めれば、跪き、頭をたれ、敬愛の口上を述べたくなる。理由など判らない。ないのかもしれない。

 だがひたすらに、心臓が軋む。

 エリスの手を握るゲイルの手に力がこもった。皮膚の硬さ。思ったよりも熱い体温。半ばそれにしがみ付くように強く握り返した。大丈夫、と口中で呟き、エリスは女神を睨み据える。

 また膨れ上がる傾倒の感情を押し殺していると、ふいに女神が口を開いた。

『それは汝が血の記憶』

「月の者として? 女神ルナの使者としてってことかな」

『そうだ』

「だったらなおさら」

 口内に溜まった苦々しい唾を吐いて、エリスは剣を引き抜いた。右肩にかかる馴染んだ重さ。指が柄の傷をなぞる。

「従いたくないね」

 ゲイルの手を離し、剣を構えた。暴れだす感情を制御することに成功している。その事実が、エリスの中に不思議と落ち着いた気持ちを生ませた。

 不安はない。恐怖すらも。

 目の前にあるその姿を見ても、萎縮することはない。禍々しいほどに美しい、白い肌の女神。今まで幾度か見た、夢の話ではない。呼びかける幻影ですらない。そこに存在するのは、確かに女神そのものだと――そう、エリスは理解していた。

 ただしそれは、実体ではない。肉をもった体ではなかった。

 小さなうめきが背後で聞こえた。振り返ることをせずとも、エリスには何故か判った。ミユナが頭を抑えている。法技に疎いエリスにすら、判る。肌がざわめくような悪寒は、女神と対峙したそれだけではない。精霊たちが、怯えている。

 怯えは、精霊だけではない。ゲイルも、ミユナも、そして恐らくはジークも。怯えているはずだ。恐れを覚えているはずだ。人間とは存在そのものが極端に違う女神と対峙して、怯えずにいられるはずがない。

 だが――エリスは違った。

 歓喜に近い何か、傾倒したくなる何かは感情の中にありはしても、それを押さえつけた現在の状況では、怯えに似たものは何もない。

 ただ、静かに女神と向かい合っていた。

 女神の塔の屋上は、天に伸びるかのようにその腕を広げている。中央に座した祭壇。夜空から降り注ぐ紅い月光に照らされた、同じ型の紅いレリーフ。そしてその前に立つ、女神。その『存在』。

 女神に肉体はない。ただ、『存在』として具現化している。

「――くそっ!」

 珍しく短気を起こしたのか、ゲイルが声を発した。その瞬間、空気が伸縮するような風の刃が、ルナに向かう。だが――それだけだ。髪の毛の一筋も揺らがせることなく、女神は冷たい瞳を据えた。

 続けざまに、ミユナの声。光が女神に収縮し、はじけた。だがそれも、同じ結果になる。何も変わらない。

 空気が灼熱するように吹き荒れた。その熱風を髪にうけ、エリスは微動だにしなかった。

「無駄だよ、ゲイル、ミユナ」

 静かに、呟く。その視線は、女神から外さずに。

「それから――ジーク。グローブ、ちゃんと着けてて。その『眼』は使えない」

「お嬢ちゃん……」

 声が僅かに戸惑いを含んでいる。ということは、事実ジークはグローブを外し『眼』を使おうとしていたということだろう。普段の彼なら、ここまで思慮が足りないことをしようとはしないはずだ。やはり、イヴのことが彼の中で大きな傷となっている。だからこそ、だろうか。

 見えない背後で、ジークが顔を歪めているのが判った。ゲイルも、ミユナの顔も、見えないのに見える気がする。

 エリスは静かな口調で続けた。

「消すことは、出来るだろうけどね。でも、もしそれをやったとしたら――世界のバランスが崩れかねないと思うよ」

 ジークが息を呑むのが判った。

「女神がひとり、いなくなったとしたら――違うね、いなかったとなったなら。どれだけ世界に弊害が出るか判らない。この大陸も存在するわけがない。ドゥールや、ダリードくんや、あたしみたいな月の者も生まれなかったことになると思う。何がどうなるか判らないよ。その『眼』は使えない。リスクがでかすぎる」

 女神は言葉を発することもなく、静かに佇んでいる。

「ミユナの能力は戦力にはならないしね。精霊と意思疎通を取れたところで、女神に対抗する術にはならない。それに、ルナには実体がないからね。ゲイルの風や魔導の中でも格下の法技――物理的なものはあんたには効かない」

 そこで一度言葉をきり、エリスは深く息をした。肺を満たすのは、夜の清涼な空気だ。それだけは、変わらない。

「そうだよね、ルナ?」

 女神の紅い瞳が細まる。

『ああ。我は物理などと言う法則に縛られることはない』

「だから」

 剣を構えたまま、エリスは足を引いた。身を低くし、戦闘態勢をとる。

「あんたを斬れるのは、その可能性があるのは、あたしの剣。――だよね」

『気づき始めているようだな。己の能力を』

「まぁ……何となくは、ね」

 言うと同時、エリスは床を強く蹴った。己の言葉――『物理的なものは女神には効かない』という言葉と相反する言葉を発していることは、判っている。だが、エリスには確信があった。

 ――斬れる。

 エリスの剣の問題ではない。エリスの扱う剣は、ただの剣にしか過ぎない。質は悪くないが、高価な剣でもない。それは剣を扱う担い手の、エリス自身の、問題だ。

 深く考えていたわけではない。そんな時間も余裕もエリスにはなかった。

 強く地面を蹴った次の瞬間には、眼前に迫っていた女神にむかい剣を振るった。

 ――何も考えず、ただ、振るった。



『なるほど』

 頷くような言葉を発し、女神は静かに佇んでいる。エリスの剣をその裸身にうけた姿のままで。

 血などは流れていない。だが、一瞬――ほんの一瞬だけ、女神の姿が透き通り揺れた。ただそれだけだったが。

『他のものたちほど愚かではないが――だが、まだだな。完全に覚醒したわけではないようだ』

 剣を突き出したその体勢のまま、エリスは呟く。

「アンジェラはどこ」

『あの魔女の娘か』

「アンジェラはどこ!」

 叫び声を叩きつけ、突き出していた剣を薙いだ。手ごたえは、ない。全くないわけではないが、ほとんどない。何枚か重ねた薄衣を薙いだ程度の手ごたえだけだ。また一瞬、女神の姿が揺れる。すぐに距離をとり、間合いを計る。

「――あんたが何のためにあたしをここに呼んだのか、そんなのは知らない。どうでもいい。ただ、アンジェラは――あたしの親友は、返してもらうよ。アンジェラはどこっ!」

『そこだ』

 あっさりと返事が返ってきた。

 白く細い、まるで芸術品か何かのような指が、ルナ自身の背後の空に向けられる。

 ルナから視線を外すことに躊躇いが無かったといえば嘘になる。だが、背後で上げられたジークの叫び声に、そんな考えも吹き飛んだ。

「アンジェラ!」

 その音に含まれる焦りや衝撃に、エリスは屋上に降り立ってからはじめて怯えを感じた。跳ね上げるように、顔をそちらに向ける。

 そして、見た。

 夜の中浮かぶ宝玉。ルビーかガーネットか、そんな色合いの赤い宝玉。宝玉と一口に言ったところで、エリスはそれほど大きなものを今まで見たことはなかった。否――自然なもののはずがない。何せ丸いそれは、一抱え以上ある。人間の少女を、その中に封じるほどの大きさだ。

 眠っているかのように、見えた。

 紅く浮かび上がる大きな宝玉の中、アンジェラ・ライジネスはただ静かに佇んでいた。

「アンジェラッ!」

 喉が裂けそうなほどに、エリスは声をあげた。次の瞬間には訳も判らずに床を蹴っていた。夢中で剣を振るった。あの宝玉を割らなければ――そんな確定事項のように浮かび上がってきた意思のままに、ただ剣を振るう。

 だが、甲高い音を立てて剣は弾かれた。勢いのまま床に転がったエリスを、ゲイルが慌てたように支える。

「エリスちゃん」

「あれを外して」

 ゲイルに支えられながら、だがエリスは女神を睨みつけたまま言葉を吐いた。

 痛みなど、何も感じなかった。肉体には痛みなど感じなかった。

 痛んだのは、もっと深いところだ。

「あれを外して! アンジェラを外に出しなさい!」

 見ていられなかった。あんな状態の彼女を直視できなかった。そうなる前に助けられなかった己への怒りやふがいなさが、津波のように押し寄せてくる。アンジェラは気を失っているのだろうか。目を開けてはいない。あのアメジストの瞳が見えない。そのことが、哀しい。

 何も考えられなかった。ただ、アンジェラが――親友がそんな状態でいるということだけが頭の中をしめていた。アンジェラを自由にしたかった。あの宝玉の中から出して、アメジストの瞳を見返したかった。皮肉に悪戯っぽく笑う唇と、薄く見えるえくぼが見たかった。その唇から漏れ出る悪態が聞きたかった。名前を呼んでほしかった。

 ――『エリス』と。

 咆哮のような叫びを上げながら、エリスは走り出していた。女神にむかって。

 あの宝玉を割ることが出来ないなら、女神を何とかすればいい。そうすれば、アンジェラはあそこから出られる筈だ。そんな確信に近い何かがエリスの中にはあった。

 無心の状態で幾度も剣を薙いだ。

 その中に、ふ――と小さな音が紛れ込んだ。

『くだらぬな』

 それが女神の言葉だと理解したその瞬間、光がはじけていた。視界を焼く痛みに悲鳴が搾り出される。鼓膜そのものが破裂したかのような錯覚を覚える音が響く。胸を圧迫する衝撃と、一瞬の浮遊感。そして、受け身を取り損ねたせいで背骨に直接響いた衝動と激痛。

 それらが一瞬にして巻き起こり、それが女神による攻撃だとエリスは瞬時に理解した。倒れた体を起こそうと上体を持ち上げ――そして、気付く。重い。

 何かが自分に被さっている。見下ろして、気付く。人だ。金色の髪に覆われた後頭部。さほど大きくはない背中には、火傷のような酷い怪我を負っている。滲んだ血が、エリスの服を濡らしていた。

 それが誰かを頭で理解するよりも早く、口が勝手に悲鳴を吐いていた。

「ゲイルッ!」

 叫んだはずの自分の声は、エリスの耳には届かなかった。キィン、と耳鳴りが響いている。顔に昇っていた血が、ざっと沈むのが自覚できた。

 ゲイルが、エリスに被さって倒れている。肩を揺さぶっても反応が少ない。状況は一瞬では理解できなかった。だが、想像は出来る。

 庇って――くれたのだろう。

「ゲイル、ゲイル!」

 ようやく、遠く自分の声が聞こえてきた。ゲイルの肩を強く揺さぶる。と、碧色の瞳が僅かに覗き見えた。

「エリスちゃん……無事かい?」

「なんでこんな」

「助けるんだろ、アンジェラちゃんを」

 弱い声で、微笑んでくる。

「エリスちゃんが、助けてやんなきゃいけないだろ、だから……」

 ふう、とゲイルが息を吐いた。その息は熱く、エリスの手にかかる。

 ゲイルはまぶたを下ろし、呟きを洩らした。

「嫌なんだ、もう。誰も……ぼくの目の前で死んでほしくない。ドゥールみたいに、冷たくなってほしくない。だから」

 だから。

 その言葉の続きは聞き取れなかった。荒かった呼吸が、すうっと落ち着いていく。その事実に、エリスは裏返った悲鳴を上げていた。縋るように、名を叫ぶ。

「ジーク……! ジークっ、ゲイルが、ゲイルが!」

「見せろっ!」

 ぐいっと肩を強く引かれた。恐怖に揺らぐ視界の中に、ワインレッドの色が広がる。その瞳に篭る強い意思に、混乱が収まっていく。

「ジーク」

「助ける」

 断言。

「生きろよ、ゲイル」

 囁くように、けれどはっきりとした強さをもって、ジークがゲイルに告げた。

 救う。

 その言葉は、揺ぎ無く未来を見据えている。

(大丈夫だ)

 ふいに、エリスは胸中で断言した。ゲイルの体を床に横たえ、法技をかけ始めるジークを見つめ、断言する。大丈夫だ、と。

「お願いね、ジーク」

「ああ」

 頷きを背で聞き、エリスはゆるりと立ち上がった。衝撃に背中は僅かに痛んだが、それほどでもない。ゲイルが庇ってくれたおかげが大きいのだろう。

 すいっとミユナが隣に立つのが判った。静かな声で、告げてくる。

「援護が必要なら、言えよ」

 エリスは小さく首を振った。

「あたしはいい。それより、ジークとゲイルを、守ってて」

「エリス」

「ジークは、ゲイルにかかりきりだから。無防備だから、守ってあげて」

 いつのまにか床に落ちていた剣を広い、エリスは再度構えなおした。

 人差し指のはらで、柄の傷をゆっくりとなぞる。

「――判った」

 ミユナが少しの黙考の後、踵を返すのが判った。やはり静かなままの口調で、エリスの背に言葉が投げられる。

「死ぬなよ」

「死なないよ。こんなんで死んだら、アンジェラにまた怒られちゃう」

「また平手打ち喰らうな」

 くっと小さな笑いを残し、ミユナが離れていった。

 エリスは顎を上げた。紅い瞳が、すぐそこにある。

 女神が、薄く唇を開いた。

『――我が何故、このような遠回りをして汝等を集めたと思う? 月の者よ』

 月光が降り注ぐ。

「さあね」

『我の駒足りえる、より優れた能力者を呼ぶため。特に月の者は我が片腕と成り得る者を選ぶためだ』

 夜の闇を裂くように、紅い月明かりが降り注ぐ。その中に浮かび上がる、白い裸身の女神。そして、親友を封じた紅い宝玉。

 エリスはじっと、女神と対峙しつづけた。

『世に月の者がひとり以上同時に存在したためしなど、今までない。最も優れたものを選ぶため、我が汝等を生んだのだ』

 その言葉が意味するところは、エリスにも理解できた。知らずにほそまっていた目を向け、訊ねる。

「つまり、あたしが複数の月の者の中から、淘汰されて選ばれた、あんたの片腕足りえる存在――ってわけ?」

『そうだ』

「ダリードやドゥールの死は、アザレルにとっては予定外だったらしいけど。あんたにとっては、予定通りだった――って、わけ」

『あれらは失敗作だ』

 だんっ!

 気づくと、エリスは再度踏み込んでいた。薙いだ剣はやはり、若干女神の姿を揺るがせるだけに止まる。

 否――違う。

 女神がにやりと笑みをゆがめた。

『覚醒が始まっているな。良い――もっと、怒れ。魔法の原理は想いだ。感情はそれを助ける』

「うるさい!」

 薙いだ。右手が痺れを訴えかけてくるほどに、何度も、何度も。

 その度に女神の姿は一瞬薄れ、歪み、また復活し、そして歪む。それを繰り返す。その間隔が徐々に長くなっているのは、判った。

『汝の力は、我にとっても脅威に成り得る。だからこそ、欲しい。我に従え、月の者よ!』

 金属をこすり合わせたような――あるいは黒板に爪を立てたような、そんな不快な音が脳の中で響いた。膝が震え、エリスの中に沈んでいたもうひとつの感情が暴発しそうになる。

 だが、足の裏に力をこめ、エリスは叫んだ。

「い――やだっ!」

『疑問に思ったことはないか。何故ラボから抜け出せた能力者と、そうでない能力者がいる? 何故覚醒前に捕まった者がいて、覚醒後も放置されていた者がいる? 気付かぬか?』

 剣で斬り付けられ、その度に姿を揺るがせながら、しかし女神は朗々と語りを続けた。

『全てはアザレルに選ばせた。操ることで価値が強くなるもの。人に分け与えることが出来、なお有利になるもの。それらはラボに集めた。そうでなく、人として、人の中に置いておく事で楔になるものもいる。それらは監視しておいた。汝や、あの魔女の娘もそうだ』

「……っそっ」

 息が上がり、剣を振るえなくなった。呼吸を整えるために、エリスは一度間合いをはかり後退した。吹きだす汗が、夜風にさらされ体温も奪っていく。

 女神の紅い瞳を睨み上げる。

 エリス自身と同じ、紅い瞳を。

『人の世は、くだらぬだろう?』

「何を……」

『愚かしき人間どもは、汝等を受け入れたか? 人というものは、自身と違うものを排除しようとはしなかったか?』

 アグライア・カンポ(輝き乙女の広場)でアンジェラがされた行為。あの黒竜がみせた過去を思い出す。蹴られ蹲っていたアンジェラ。エリスに投げられた子供たちの残酷なまでの言葉。

 それだけではない。何度も口々に囁かれた言葉もある。エリス自身、数え切れないほどに。

 ――その血に濡れた目で、私を見るな!

 今でも時折夢に見る、実父の言葉。同時に投げられる暴力。傷跡としてうっすらと残った、左目のすぐわきにある過去。

 確かに、女神の言う通りだ。人は愚かで、自己勝手だ。人の中で人を淘汰して生きている。

 だが、それでも。

 アンジェラがいた。パズーがいた。カイリがいた。少数ではあったが、それでも確かに、エリスを受け入れてくれる人物は、いたのだ。

『人の世は常に同じだ。愚かな過ちを繰り返す。だが、そのようなものは、我が世界に相応しくない』

 金色の髪が、ふわりと空に揺れた。その瞳が、輝くほどに紅く空を映す。

『時が来たのだ! 我はずっと人の世を、この大陸を見つづけてきた。人が人の手で、更生するなら其れで良いとも思っていた。だが、其れは叶わないと結論した。だからこそ、我は汝等を呼んだ。時が来たのだよ。我が力をもって、くだらぬ世を再生する時が! 汝等はそのための駒と成る力がある。我と共にこの世を再生するその力がな!』

「そんなの誰も望んでない!」

 叩きつけるように、エリスは叫んでいた。

「人間って確かに馬鹿だし、愚かだし、くだらないかもしれないよ。セイドゥールだって戦争ばっかりしてるし、お父様もあたしを愛しては下さらなかった! けど、だからって、この世が全部駄目なんて思わない!」

 アンジェラがいた。いつも傍にいた。大切な親友。

 パズーやカイリもいた。セイドゥールにいた頃の、エリスの数少ない友人たち。

 ゲイルがいた。ドゥールがいた。ミユナがいた。ジークがいた。

 不思議な偶然が重なり、あるいはそれは必然だったのかもしれないが、とにかく出逢った、今では仲間といえる存在。

 いなかったことになるのかもしれない、だが、確かに存在した、イヴという少女。

 プレシアや桜春、ロジスタやエカテリーナ――四竜たちですらも。ゲイルの家族たちですらも。

 そして、ダリードも。あの少年も――この世に、いたのだ。そんな世が、全て駄目だとは思えなかった。

『我の世に、過ちは必要ない!』

「この世界も大陸もあんたのもんじゃない!」

 叫びながら――何故か視界が揺らいでいた。エリスはそれでも、口から漏れでる叫びを抑えることが出来なかった。

「誰もあんたに支配されることなんて望んでない! あたしも、アンジェラも、ゲイルやミユナやジークも! ドゥールもダリードくんも、イヴさんだって! あんたに統治された正しい世界なんて望んでない。誰も望んでない! あたしたちが望んでたのは、ただひとつだ! 自由になりたいだけなんだ!」

 あの、星祭の夜に――少年と交わした言葉が思い出される。

 あの時、思った。

 自由になりたい。ただ、それだけの望みは、それほど贅沢なのだろうかと。

 今なら判る。贅沢でも何でもない。それは、望んで当然のものだ。もっと言えば、望まずとも本来なら、誰もが手にしていて当然のものなのだ。

 そのために、人は生きているのだから。

「この世界を統べるのは確かにあんたかもしれない、女神ルナ! だけど、ここで生きているのがあたしたちである限り、生きているあたしたちの邪魔なんてされたくない!」

 感情そのものを叩きつけるように叫び、エリスは強く床を蹴った。

 一閃。

 右一文字に剣を薙ぐ。気合が喉を裂いた。

 女神は避けなかった。しかし、その目が見開かれる。姿が歪み――そして、一瞬、消えた。瞬きにして二度ほどのわずかな時間、完全に女神はそこにいなかった。再度瞬きをするときには、またそこに現れたが。

(……効いて、る?)

『ふむ……悪くない。覚醒が近い。後一歩だな』

 再度現れた女神は、歓喜に打ち震えたかのように言葉を零した。

『今のうちに、我に従え、月の者よ。汝の力は人の身で扱うには少々荷がかちすぎる。我に従わぬならば、汝は死ぬぞ』


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