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紅月は女神の祈り  作者: 中原まなみ
第十章:『The message from the past――過去からの言葉』
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4

 遠くから響いてきた音に、ゲイルは足を止めた。

 焦りと不安を増す音だ。歩きなれた研究施設の廊下を足の裏に感じ、首をもたげる。

 音が聞こえた方向は研究塔だ。基本的には――例外として、時折資料を届けたりする研究員が出入りするのだが――アザレルしか出入りをしない。そこで何が起きたというのだろうか。

 今までもゲイルでさえ、あそこに出入りしたことはない。何があるのかは判らない、未知の空間だ。

 けれど。

 今求めている何かが、そこにあるとしたら。

「……」

 ゲイルは一度唇を引き結ぶと、廊下を駆け出した。



 先を行く男の背が、今までとは少し違って見える。

 自由になった手首を感じながら、アンジェラは走っていた。無機質な廊下に、三人分の足音が響いていく。自身のもの。前をかけていく男のもの。隣を行く少女のもの。

 不安がないと言えば嘘になる。

 かつてこの男がしでかした事を忘れられるわけもない。倒れた親友の姿は、ここに来てからも繰り返し夢にみた。その度にうなされて飛び起きた。夜中に背中に感じる汗の冷たさと、隣にいないと言うその事実が鼓動をはやめ、痛みを残す。

 けれど。

 それでも、アンジェラは見ているのだ。

 その時のドゥールとは違う、部屋に入ってきたときの彼の瞳を。衝動だけではなく、何かを秘めた黒瞳を。

 アザレルの部屋から取ってきたという鍵でアンジェラの拘束具であったブレスレットを外した彼は、そのままアンジェラとイヴを部屋から連れ出した。

 道中、一人だけではあったが研究員がでてきた。見つかった瞬間、ドゥールは彼の周りのものを『破壊』していた。魔法で、だ。静物の情報崩壊。壁の一部と置物を破壊し、それで足止めにした。音は結構響いたが、本人は気にしてはいないようだ。ただ黙々と廊下を駆けて行く。

 研究施設から比べれば、今いるこの塔は狭い。尖塔の為、廊下といっても曲線を描いている。最上部よりも数階下に捕らわれていたようだが、彼は下へ下へと進んでいる。アンジェラとイヴは、とりあえず彼に従うようにその後ろを駆けていた。

 階段を何度か降り、息が上がってきた頃になってふいにドゥールが足を止めた。

「……何」

 弾む息の合間からアンジェラは訊ねる。イヴは――彼女は疲れるということを知らないのか、感じないのかなのだろう――息を弾ませることもなければ、汗のひとつもかいてはいない。それは記憶といったそのものなのだろう。

 しかしドゥールはアンジェラの問いに答えてはこなかった。変わり映えのしない廊下の一角で、その背に緊張の色を滲ませ、すいと二人の前に出た。

 その行動に違和を感じ、アンジェラもゆっくりと足を引いた。

 ドゥールがまるで庇うように前にでている。その背が、小さく歯軋りの音を発する。

「アザレル……」



 エリスたちは部屋を飛び出して階段を駆け下りるとすぐに、ジークとぶつかりそうになった。

「っと、ジーク」

「エリス、ミユナ」

 強張った顔のジークをエリスは見上げた。後ろすぐに若干青褪めた顔立ちのままのミユナが付き添っている。それを見て、ジークはさらに顔を顰めた。

「満身創痍赤小娘と、病床の銀姫君が揃って外出はお兄さん的にはちといただけないんだがな」

「んな事いってる場合じゃないでしょ」

 ジークの言葉をさえぎり、エリスは歩を進めた。リビングに集まってきていた子供たちが、各々不安げな顔を見せているが、言葉は誰一人として発していない。

 ミユナがまだ青褪めた顔のまま一人の子供を捕まえる。

「今の音は?」

「判んない……」

「どこから?」

「たぶん……アザレルの塔」

 怯えたように言葉を零す幼女に、ミユナが眉を寄せた。

「塔?」

「研究塔だよ」

 ふいに割り込んだ声に、エリスたちは振り返る。見ると、居住区入り口の扉を開け、ゲイルが立っている。

「アザレルの研究塔――おれたちでさえ、何があるかは判らない」

「ゲイル……」

「行くよ、おれは」

 きっぱりと言い切ったゲイルは、こちらの反応も待たずに背を向けた。何人かの子供たちがパラパラと走り出すのを、エリスは反射的に引き止める。

「たぶん、こないほうがいい。危ないから」

「……おにいちゃんは?」

「大丈夫だから」

 何がどう、とはっきり告げないのは、ただの気休めにもならない。そのことをエリスは知ってはいたが、それ以上何もいえなかった。不安げな顔のままの子供たちを残し、顰め面のジークを見ないふりをして、ゲイルの背を追って走り出した。

 走り出す間際、指先が知らずにペンダントに触れた。

 不安を振り払うように、きつく握る。

 研究施設内を抜け、塔へと入る。塔への入り口が簡単に見つかったことも、その扉の鍵が開いていたことも不安を誘った。だが、誰も立ち止まるという案を出すものはいなかった。

 白さと潔癖さではさほど研究施設区と変わらない場所だった。やや細い廊下は曲線を描いており、螺旋状に上へと階段が伸びている。

 ゲイルを先頭に、エリス、ミユナと続き、最後尾をジークが務めた。やや弾む息と、リズムよく鳴り響く複数の靴音以外に、物音はない。

 痛みもだるさも無論あった。それはエリスに限らずミユナもそうだろう。実際、ジークやゲイルとて、満足に眠っているとも思えない。だが誰一人としてそのことには触れなかった。ただ、走る。何かがあることを信じ、階段を上る。

 そしてそれは、唐突に目の前に現れた。

 壁にかかったタペストリー。白すぎる、ただ白いだけの無機質な廊下に、ぽつりとそれだけがかけられていた。強すぎる違和感に、足を止める。

 タペストリーといっても、大きさ的にはさほどでもない。両手のひらを二人分、といったところか。布製のそれには、細やかな刺繍がしてあった。その刺繍の意味に一番最初に気付いたのはミユナだった。

「これ……」

「ミユナ……」

 エリスもすぐに気づいた。雫と蔦を象った紋章は、グレイージュ公家のそれだ。

「なんで、こんなところに……」

 ほとんど無意識のうちになのだろう、ミユナの薄い唇がそう音を発した。だが震えるその声音は、如実に物語っていた。彼女は気付いている。

 ここに両親の真実があることを。そしてこのタペストリーが、その鍵になる可能性が高いことを。

 ミユナの細い指が、タペストリーに触れた。

 何かを懐かしむかのように、ゆっくりとその紋章をなぞる。そして。

 視界が白へと変貌する。



「何のつもりかしら、ドゥール? 貴方も裏切るのですか?」

 栗色の目が、優しく残酷に歪む。ぞわりとアンジェラの二の腕が粟立った。だがそれをおくびにも出さず、アンジェラはただ睨みつける。その視線を――アンジェラだけではなく、ドゥールとイヴの三者三様の怒りや憎しみや恐れやそういったものが混じりあった視線を――受け、それでもアザレルは表情を毛先ほども動かしはしなかった。

 アンジェラの目の前で、ドゥールがひとつ息を呑むのがその背中で知れた。震えることのないよう、必死に固めたような声が零れだす。

「俺の目的は、昔からひとつだけだ。従うも、裏切るも、それ次第だ。むしろ、今までが――異常だったんだ」

 その言葉に、アンジェラは僅かに眉間に皺を寄せた。どこかで聞いたことがある言葉だと思ったのだ。記憶を探ればそれはすぐに見つかった。白竜の洞窟、そこで対峙したダリードが呟いていた言葉だ。

 ちくりとした小さな不安が胸中に来たが、アンジェラはそれを振り払った。

「もう全ては、動き始めている」

 呟きがドゥールの唇からもれた瞬間、彼は動いていた。どこに持っていたのか投げナイフを二本、アザレルに向けて放つ。

 赤い線が跳ねた。

 アザレルの端正な蝋人形のような頬に、一筋線が残っていた。

 静かすぎる戦いだった。

 アザレルもドゥールも、動いてはいるのだろう。動いてはいるはずだ。だが、そう見えない。声もなくドゥールが手をあげ、かすかに指が鳴り響く。音をたて照明が落ちる。アザレルは悲鳴ひとつ漏らさず、動揺の素振りすら見せずによける。よけきれない破片が、彼女の頬に傷を残す。そう言ったことが二度ほど繰り返されたとき、ふいにアザレルが唇を開いた。

「腕をあげましたね、ドゥール」

「だからなんだ。そこをどけ!」

 叩きつけるドゥールの声に、アンジェラは違和感を覚えざるを得なかった。ふと横を見ると、イヴも戸惑った表情を見せている。

 付き合いの短いアンジェラでさえ、判るのだ。イヴにすればもっと如実に判るのだろう。

 彼が変わってきていることを。

 少し前なら、これほど直接的に感情を現すことはなかったはずだ。

 表立った表情は、今もさほど変化はない。だが、その声音に、含まれる感情に、変化が確かに訪れていた。

最も、アザレルはそれをさした訳ではないようではあったが。

「それはできません」

「貴様――!」

「お見せしたいものがありますから」

 そう告げたアザレルの言葉に、ドゥールの動きが止まる。

「……何?」

「お見せしたいもの、です。そうそう」

 ふいにアザレルの視線が動いた。その視線に射すくめられ、アンジェラはイヴの手を握り締める。だが、視線を外すことはしなかった。それはアンジェラの持つプライドだ。

「貴女方も一緒にいらっしゃい。逢いたい人に逢わせて差し上げますわ」

 そう言ってアザレルが後ろ手に壁に文字を描いた。それが鍵文字――旧時代の魔術の遺物だと気付いたときには、アンジェラの視界は白く反転していた。



 その空間は、塔の中で初めて色付いた世界のようだった。

 やや開けた空間は円形だった。塔の内部だと考えればそれも納得がいく。壁紙も貼ってあり、色褪せてはいたが青い絨毯も敷いてあった。窓はないが、それを紛らわすためなのか絵画がかけてある。エリスが好んでいるセシレル・ハイムの絵ではない。グレイージュの風景と思しき深い雪に覆われた街並みの絵だ。無名の画家のものなのだろう。絵にかかれたサインには見覚えがなかった。

 円形の部屋のため、壁に沿うということは無理だったようだが、それでも壁際には寄せられた形で、ソファがあり、ベッドがあり、棚があった。部屋の中心部には細かい銀細工の台があり、その上にある小型のクッションに丁寧に載せられているのは、光彩の加減で虹色に輝くオーヴ。天井には星座図が描かれてある。どことなく神秘的なことを除けば、そこは確かに人が住んでいる部屋のような匂いがあった。

 だが、随分長いこと部屋を留守にしているかのような、そんな空気も漂っている。

 唐突に放り出されたその空間の中で、エリスは呆然と立ち尽くしていた。

「良くおいで下さいました」

「っ!?」

 ふいに割り込んできた声に、エリスは勢い良く首を回した。円形の部屋。時計に例えるとエリスは丁度六時の方向に立っており、その声は九時方向から聞こえた。

 声の主を探そうとしたその視線は、だがそれ以上に求めていた姿を認め、止まった。

 緩やかに波打つ漆黒の髪。白い肌。上気する頬。すっと通った鼻梁。形のよい眉。長い睫毛とぱっちりとした二重の目。宝石のような紫の瞳。淡いピンクの唇。小柄な――とはいってもエリス自身よりは実はほんの少し背は高い――体。

 その全て。

 こんな風にそれが、目の前に現れるとは。

 その彼女を認識した瞬間、エリスの脳から最初に飛び込んできた声の主のことは消し飛んでいた。

 ただ夢中で床を蹴る。絨毯が音を吸収したので何も響かなかった。都合がいい。そうすれば何にも邪魔されることがなく、あの声が聞ける。やや鼻にかかったような甘い声が。

 向こうも気付いたようだった。絨毯が敷かれた床を蹴り、こちらに駆けて来る。

 エリスは手をのばした。

 焦がれていた。夢の中で何度もそうしたように。

 そして、その腕の中に――アンジェラが飛び込んできた。

 ふわりと黒髪が踊る。

 腕の中に確かに生まれる強い感触。

 鼻をくすぐる甘いコロンの香り。細い肩。後頭部に手を回すと、なれた艶やかな髪の感触。

「エリス……っ」

 すぐ耳元で声がした。ここ数日、ずっと焦がれていた声がした。繰り返し繰り返し夢で見た姿が、聞いた声が、触れた感触が、そこにある。

 アンジェラは僅かに震えていた。その震えを止めさせようと、エリスはきつく彼女の体を抱いた。

「アンジェラ」

 名を呼んだ。それは掠れていた。声が喉を割った瞬間、熱い何かがこみあげてきた。肩にやや冷たさを覚える。アンジェラは泣いているのだろうか。

「アンジェラ」

 再度名を呼ぶ。そうすることで、手のひらにある感触が本物として確定していくような気がした。アンジェラの細い指が背中に回されている。強く握られている。それは夢ではない。現実だ。

「ですから、言ったでしょう。逢いたい人に逢わせて差し上げる、と」

 その声もまた、現実だった。いや、それこそが現実なのだろうか。膨れ上がる不安を内蔵へと押し込め、エリスはアンジェラの体から身を剥がした。だが、手のひらだけは強くつなぎあったままだ。

 先ほどまでアンジェラがいた場所に、その女性は立っていた。

 ――アザレル・ロード。

 ようやく周りの情景が意識の中に飛び込んでくる。いつの間にやらジークはそこにいたらしいイヴの肩を抱いており、ミユナは呆然とした表情を浮かべたままオーヴを見つめ、ゲイルの揺れる視線の先には、同じく揺れる視線を伴ったドゥールがいた。

「何の……つもり」

 乾いた唇でそうエリスが呟くと、アザレルは優しく微笑した。

「皆さんにお見せしたいものがございましたの。特に――ミユナさん。貴女に」

 そのアザレルの言葉にミユナの顔が強張った。

「何のつもりだ」

「見れば判ります。それに貴女はもう気付いてらっしゃるんでなくて?」

 アザレルが虚空に手を差し伸べた。

「精霊が喜んでますわね。長い年月を経て、この部屋に――この部屋の主だった二人の娘である貴女が訪れたことに」

 その言葉が意味するところを、察するなというほうが無理だったろう。

 ミユナの頬が上気し、染まっている。銀青色の瞳は感情の色を次々へと移り変えていた。

「お気付きになりませんか? この部屋には扉も窓もありません。ここは旧時代の魔術が作り上げた部屋。まわりからは閉ざされた隠された場所。いかなわたくしとて、ここを見つけるのは苦労しましたよ」

 アザレルはまるで謳うように告げた。

「魔術に必要なのは、鍵と鍵穴。鍵は文字と紋章。鍵穴は見つけにくかったですわ。壁に隠されているのと、タペストリー。でも魔術を今作り上げるに必要なのは、それよりも何よりも、魔術を操れるだけの知識。――判りますわね、ミユナさん?」

 ミユナが唇を強く引き結んでいる。

 今しがた、彼女の口から聞いたばかりだったエリスは理解できた。オール・ノウズ。全ての知識を有する者。この部屋はミユナの父が作り上げたということだろう。

「素晴らしいお父上です。貴女のお父上は。――と、失礼しました。素晴らしいお父上、でした、ですね」

 過去形に正された言葉に、ミユナの顔色は変わらなかった。その覚悟は最初からあったのだろう。

「この部屋はその遺物が多く残っています。現在の法技では出来得ない事が魔術では可能だったようにね。そこのオーヴもそうです」

 アザレルがすっとオーヴを指した。

「触れてごらんなさい、ミユナさん。鍵穴はオーヴ。そして鍵は、二人の血を引く存在です」

 そう言われ、ミユナは最初動かなかった。静かにアザレルを見据えたままだった。

 息が止まるようなその一瞬。

 だが何かを振り払うかのようにきつく唇を噛んだミユナは、次の瞬間オーヴに手を差し出していた。

 銀の光が部屋中を染め変え、そして、声が訪れた。


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