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紅月は女神の祈り  作者: 中原まなみ
第十章:『The message from the past――過去からの言葉』
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3

 傷の多い手の甲を撫でながら、ジークは深く息をついた。

(戻ってくるなんてな)

 思ってもいなかった。いや、考えてすらいなかった。そんなことが起ころうとは、微塵も思っていなかったのだ。

 自分が、ラボに戻ってくるなど。

 逃げ出せたのは、ほとんど偶然のようなものだった。最愛の人を亡くしてから自暴自棄になって、食事も何もとらなくなった日が数日続いた。

 それでも変わらず実験は続けられ、幾つかのものを完璧に自分の意思で『消失』させることができるようになっていた。

 だが、ジーク自身は感情も何も途絶えていた。自暴自棄というよりも、何も考えられなかったのだ。ほとんど意識がなかったかのようなものだ。

 そして実験の日――数日ぶりにはっきりと自身の意識を取り戻したとき、彼はラボの外にいた。

 ただ、自身が彫り、イヴへの唯一のプレゼントとして渡した木彫りのペンダントを握り締め、全く知らない場所に突っ立っていた。

(どうやって、俺はここを出たんだ?)

 それこそ数年ぶりに湧きあがってきた疑念を胸中に押し込め、ジークは首から掛かっている木彫りのペンダントを握った。

 白すぎる部屋。豪奢すぎた部屋。偽物じみた部屋。

 愛しすぎた女性。広がりすぎた赤い血。苦すぎた最後の口付け。

 空の色の瞳。

 ――イヴがおかしくなり始めていたのは、気付いていた。気付かないはずがないのだ。毎日傍にいて、その言動に、少しの仕草に、気付かないはずがない。

 何度も問い掛けた。

 何があったのかと。どうしたのだと。最近何かがおかしいと。

 だがイヴは常に笑って答えを返しては来なかった。

 そしてある時、ジークがくたびれた体で実験から部屋に戻ったとき、彼女は椅子にだらんと座り、床を赤く染め変えていたのだ。

 首は傾げ、椅子の縁に頭を乗せていた。気に入っていたはずのピンクの帽子は頭から滑り落ち、床に落ちていた。両腕と両足をだらしなく放り出し、力の入らない、操り糸の切れた人形のような様子だった。

 右手には銀色に光る――いや、そのときはすでに赤黒く光っていたナイフを持ち、逆の手首からは鮮やか過ぎる赤がとめどなくながれでていた。

 手のひらをつたい、だらしなく曲げられた中指の付け根で血は一旦とどまり、水滴になって床に落ちていく。

 その様子を今でも覚えていた。何度も繰り返し夢でみた。何度も。

 その場所に、また戻って来るなんて、考えてもいなかった。

 心臓が軋むように痛んだ。

 無理やり思考をそこからそらし、ジークは視線を上げた。居住区は二階建てだ。

 二階にはエリスとミユナがいる。倒れたミユナを先にエリスが連れて行った。落ち着くまでは女同士がいいだろうと判断して、ジークは周囲で騒ぐ子供たちを無視してソファに座り込んでいたのだ。

 ゲイルもすでに傍にはいない。アンジェラの手掛かりを――そしておそらくはドゥールを――探して、居住区から出て行った。

 アンジェラ・ライジネス。イヴ・バージニア。

 今重なる二人の面影に、ジークは首を振った。

 血を流し、死んでいったイヴの姿が脳裏に蘇る。だがそれはいつのまにかアメジストの瞳をもつ少女へと姿を変えていく。

(やめろ)

 額に爪を立て、ジークは奥歯をかみ締めた。



 ゲイルが用意してくれた二階の寝室は、普段はゲイル自身が使っている部屋なのだろう。とはいっても、彼が家を空けてからもうずいぶんたっていたし、その間弟や妹たちが出入りしていたらしく、小奇麗な所とそうでない所の格差が激しかった。

 白い壁には、何をしたのか知らないが穴があいていたし――これはゲイル自身が『間違って』開けたそうだが、理由は教えてもらえなかった――そうと思えば壁際の本棚は几帳面なほどに整理されてある。背表紙の高さまできっちりとそろえている様は、逆にむず痒ささえ覚えたほどだ。物書き机も同じ有り様で、羽ペンの羽先まで綺麗に同じ方向に並べてあった。ところが一転視線を下に落とすと、片方だけ脱げた子供用のソックスやら、明らかにこの本棚から抜いたのではないと判る絵本までが乱雑に散らばっており、床の見える面積のほうが少ないと言う状態だった。

 軽い悪態をつきながら掃除をし始めようとするゲイルをとりあえず一旦部屋から追い出して、エリスはミユナをベッドに横たえた。

 ミユナは弱い抵抗を示していたが、意思に体がついていっていない様だった。

 満身創痍――とはジーク談だ――のエリスの力にも敵わないようで、肩を押すと崩れるようにベッドに体重を預けた。

 呼吸を楽にさせるために、洋服の前ボタンを数個はずしてやるとミユナは身じろぎした。

「悪い」

 掠れた声に漏れかかっていたため息を飲み込み、エリスは横たわるミユナに触れないようにベッドサイドに腰をかけた。あまりスプリングが利いていないベッドは、さほど沈みもせず、エリスを受け入れようとはしていなかった。それでいい――と思う。

「仕方ないよ」

 そういう自分の口調が、全く言葉とは逆の意味を伴っているように聞こえ、エリスはやや顔を顰めた。そう聞こえたのはミユナとて同じようで、あらわになった鎖骨付近の白い肌を隠すようにシーツを引き上げ、顔をエリスから背けた。

 その様子を見て、エリスは呟く。

「……ごめん」

「お前に焦るななんて言えやしねぇよ。目的は、確かにこの場所にあるんだから」

 ミユナの言葉に、エリスは胃が捩れる焦燥感を確かに感じ、だがそれを追い出すために、あえてきつく目を閉じる。

「でも、焦るのは、馬鹿だ」

 ほとんど言い聞かせるように、独りごちた。

 きつく閉ざしているまぶたが痛み、ちかりと光が見える。再びまぶたをあけた後も、その光が空に漂っているかのような錯覚を覚えた。それがうっすら消えていくと、軽い頭痛と共にミユナの蒼白い顔が見えた。

「判ってるつもりなの。一応は。今だってゲイルが調べに行ってくれている。アンジェラはここにいる。絶対無事。大丈夫。だから、焦ったって意味ないって、判ってる」

「エリス」

「でも、無理だ」

 エリスは呟き――その瞬間叫んで立ち上がっていた。苛立ちと焦燥が、内部を焦がしている。それに耐えられなかった。

「なんで――なんで今、倒れるの!? 何でこんな時に倒れるの、ミユナ! 何でみんな、あたしに我慢しろ我慢しろって言うの!? 無理だ――何を我慢しろっていうわけ!?」

 吐き出した叫びが、わけもわからずに言葉になっていく。

「アンジェラと手を繋ぐことを我慢しろって言うの? アンジェラが辛い目にあってるかもしれないのにそれを我慢しろって言うの? 真実を知ることがダメなの? なにを我慢すれば――」

「あたしの望みだって、この場所だ!」

 こちらの言葉をさえぎって、ミユナが怒鳴ってきた。その勢いに押され、エリスは吐き出していた言葉を飲み込むはめになった。

 数瞬の沈黙に、頭が冷えていくのがエリスには判った。

 熱で浮かされていたような脳が、徐々にまともに動き始める。

 そうすると、見つめあっているミユナの目が赤く腫れているのもはっきりと判った。

「座れよ」

 促されるままに、とさりとベッドに腰を落とした。

 今更ながらに自己嫌悪が疼き、エリスは俯いた。

「ごめん……」

「お前の言うことだって、もっともだと思うよ。何でこんな時に、ってな」

「それは……だって、ミユナ寝てないから」

 呟くと、ミユナが苦笑したようだった。

「知ってたのか」

 こくりと頷く。ミユナが寝ていなかったことを、エリスは気づいていた。彼女なりに色々悩んでいたのだろうということも。理解していたはずなのに、怒鳴ったのだ。

「でも、それはいい訳にはならんからさ。――しかしまぁ、おあつらえむきに二人きりになれて良かったよ」

 ミユナが長く息を吐いた。

「話しておきたいことがあったんだ。お前には、さ」

 自らの呼吸音が、エリスには煩わしく聞こえた。



「黒竜の洞窟で、過去を見たよな」

 ぽつりと漏れた言葉に、エリスはゆっくりと首を縦に振っていた。

 ベッドに座りなおしたミユナは、まるで自身の感情を忘れてしまったかのように、たんたんと言葉を紡いでいる。

「その時、判ったんだ。あたしのお父さまはただの人間じゃない」

 エリスは眉を顰め、すぐに赤竜の言葉を思い出した。


『貴女の力は貴女だけのものじゃない。ただの魔女としての能力じゃない。――貴女の中に流れる血が、そうさせるのよ』


 ミユナの両親が何らかの特殊能力者であることは、その言葉からして推測出来得る事だ。エリスは再度頷く。

 ミユナはこちらの頷く様を見て、血の気の失せた唇を舌で舐めた。言葉を選ぶように間をとると、告げる。

「オール・ノウズ。――ラフィス大陸における神の使者だ」

 何かに打たれたかのようだった。

 呼吸は知らずに止まり、鼓動が耳を打ち始める。

(揃った)

 エリスの頭の中で、誰かの声が聞こえた気がした。

 揃った。全てが。

 月の者。魔族。神族。そして――オール・ノウズ。全ての、プトネッドにおける四つの大陸における全ての神の使者と呼ばれる存在が。

 オール・ノウズ――それは、ラフィス大陸における神の使者の呼び名だ。

 ルナ大陸における神の使者の呼び名が月の者であるように。

 二の腕が、粟立つ。

 この時代に、この大陸に、エリスの知る人物に、それらが集まる。その不快感。違和感に、肌が粟立つ。

 そんなエリスの様子を見ながら、ミユナは呟きをやめなかった。

「オール・ノウズの能力は知識だ。普通は知りえない技術――あるいは未来や過去の事象まで知る事があるという。知識として、な。未来予知としてではないのかもしれないが、曖昧だよ。過去視――未来視――それらとも、少し違うのかもしれない。だが、全知に近いといわれる。けれどそれは――」

 ミユナはいったん言葉を切った。だが、それはこちらが聞いているかどうかを確認するためだけだったようだ。視線があうとすぐに言葉を続ける。

「けれどそれは、オール・ノウズ全体で、だ。個人では知りえる事象は少ないとされている。とはいえ、一般の人間以上に物を知っている。時には未来の事象も『知識』として知り得たらしい。これは、アンジェラの能力の強化板みたいなものかね。でもってこれには、一種の感受性の高さも関係しているとも言われている」

 そこまで一気に話しおえると、ミユナはその白い繊手を虚空へと差し伸べた。何かと戯れるかのように、指を泳がせ、ややあって銀青色の瞳を伏せる。

「精霊は――何にでもいる。だけど、その存在を信じてはいても、見ることは出来ないんだ。普通はな。精霊と言うものは、あくまで『存在』としてあるだけで、視認できるものじゃないから。判りやすく言えば、空気や魔力と同じだ」

 エリスは曖昧に頷いた。確かに空気があるから呼吸は出来るわけで、魔力というものが空気中にあるからこそ、ルナ大陸の人間は魔導を操ることが出来るのだ。

 創造主ディスティと女神ルナとの戦いの最中、地上に落ちた神の能力の欠片、魔力。精霊と言うものは、それに酷似しているのだろう。見ることは出来ない――通常は。

「あたしにはそれが見える。そこにいるのが判る。これも一種の感受性とやらなのかも知れない。お父様から受け継いだ力なんだろうと思うよ」

「精霊との意思疎通――」

「ああ」

 ミユナが頷く。遊ばせていた手を下ろし、小さな息をついた。

 その銀青色の瞳が、エリスを見据えた。

「あたしの両親は、ここに捕らえられていたらしい」

「うん。アザレルも、そんなような事ほのめかしてたし、ね」

 精霊もそう話したというのなら、ミユナの言葉に偽りはないのだろう。エリスも頷き返す。

「これは、黒竜遺跡でみた過去と、あたしの推測にしか過ぎないけれど」

 そう前置きをして、ミユナは言葉を続けた。白すぎる部屋に、涼やかな声が渡る。

「お父様がここに捕らえられていて、その後逃げ出して城に入ったらしいんだ。その後、あたしと姉さんが生まれた。黒竜遺跡で見た限りでは、そうだった」

(そう、か。あの時……)

 黒竜遺跡で過去を見た時、ミユナが酷く動揺していたのをエリスは覚えている。何を見たのかはその時にはとても聞けなかったが、これが答えなのだ。

「つまり、ラフィスからここに連れてこられて――鈴ちゃんやジークみたいに、ね――その後何とか抜け出して、グレイージュに辿り着いて。それで、ミユナのお母さまと結婚しちゃったって事?」

 エリスの推測に、ミユナが頷く。

「多分な。普通ならまずありえないことだけれど、グレイージュは元々あまり政略結婚に積極的ではない国だし、お母様も相当な変わり者だったって、よくいってた奴もいるし。そういうことなんだろうな」

 その時になってようやく、微かではあるが彼女の頬に血の気が差し、笑みが浮かんだ。愛しい何かを口にする時に浮かべる、柔らかな微笑だ。

 だがその表情は長くは持たなかった。すぐに険しさがその笑みを上から奪いとる。

「で、その後――あたしが七つのときだな――に、死んだとされた。遺体はないままに。でもそれだと、アザレルがお母様の名前まで知っていたことに説明がつかない。精霊も『二人の娘』と言う。あきらかに、精霊たちも知っている。だから――」

 嫌いな食べ物を無理やり飲み込んだかのような表情で、ミユナは続けた。

「多分、二人とも死んではいない。――少なくとも、そのときには」

 エリスは一度視界を閉じ、目をあけた。

「こう考えるのが、妥当だよね。――その時に再びラボに捕まった」

「――おそらくは」

 ミユナの静かな肯定の言葉のあとに落ちたのは、静か過ぎる沈黙だった。階下の子供たちの声が聞こえてくる。

 腹腔に溜まった息を吐き出し、エリスはゆっくりと立ち上がった。

「探そう、ミユナ。きっとここなら、手掛かりが――ううん。答えが、見つかる」

「エリス」

 こちらの名を呼び視線を投げてきたミユナに、エリスは力強く首を縦に振ってみせた。体の痛みはまだ確かにある。だが、それを無視してエリスは左手をミユナに差し出した。

 ミユナも無茶をすることにしたのかもしれない。躊躇いもなくその手を握り返してくる。ミユナの体をベッドから引っ張りあげた。

 焦るわけではない。焦る必要はない。全ての答えは、この場所にある。

 焦らずとも、動き出せばいいだけだ。

 焦りを自制するのと、時間を無駄にするのは全くの別物だ。

「行こう、ミユナ」

「――ああ」

 ミユナが頷いた、その時だった。

 遠くから、重い何かが壊れる破壊音が聞こえてきた。


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