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紅月は女神の祈り  作者: 中原まなみ
序章:『旅立ちの日 ―The Starting Day』
6/76

6

 月は満ちていた。

 中天にある、黄色い月。

 春先の空にかかる月に、想いなどはない。あるとすれば、それはただ無理やりこじつけただけの、感傷に過ぎない。それは判っていた。けれど。

 エリスは真夜中の空を見上げ、小さく口を開いた。

「――あんたなんかのために、あたしはあるんじゃない」

 誰に向けていっているのか、自分でもよく判らなかった。だが、言わずにはいられなかった。

 月は何も言わず、ただ雲間に揺れていた。

 嘆息を、ひとつ。

 エリスはむりやり月から目を離すと、自室に向き直る。

 ぬいぐるみやら、本やら、絵画やら、そういったものが適度に置かれてある部屋。だがいつもより、幾分簡素に見えた。ベッドの上に乗っかっている大きなバックパックが、それらを簡素に見せている原因なのかもしれない。

 ぬいぐるみが一体と、服が何枚か。寝袋に、お気に入りの詩集が一冊、あとは救急セットやお金やなんかの小物類。それらがぎゅうぎゅうに詰め込まれている。

 それらを目で確認してから、エリスは窓際の椅子から立ち上がった。物書きデスクへと移動し、デスクの上に広げてあったバンダナを手に取る。

 青い、バンダナ。

 今日、アンジェラと別れた後、手に入れたものだった。

 アンジェラの『言いつけ』通り、エリスは少ない友人達に『挨拶』をしてまわった。

 ばれないようにするのはなかなか難しく、たいていの人々には『いきなり何いってんの? おかしな奴』というありがたくもない感想をもらってしまった。だが、一人だけ違った。

 カイリだ。

 カイリは――気付いていたのだろうか。もしかしたら。そう思う。

 エリスはカイリの家へ行き、だが何を言えばいいか判らずにぼんやりとしていただけなのだ。だが、カイリはしばらくの沈黙のあと、苦笑した。

『そうそう、渡そうと思って、ずっと忘れていた物があるんですよ』

 そういって、青いバンダナを渡してくれた。青という色彩の物をプレゼントにもらうのは、実を言うとはじめてだった。たいていの友人は、エリスには赤い色が似合うとプレゼントも赤いものをくれる。

 それなのに、カイリは青いバンダナを渡してきた。

『青だね?』

『青ですよ』

 くすくすと笑うカイリの表情は、柔らかかった。

『赤ばっかりだと、だれるでしょうから。こういう色を入れると、また気持ちも引き締まるでしょう? 似合うと思ったんですよ、逆に』

 答えに窮したエリスにはかまわず、カイリはこうも言った。

『無茶、しないでくださいね』

 その台詞を思い出し、エリスは苦笑を漏らした。

(ていうか、絶対気付いてるよね、あいつ)

 昔から勘が良かった。誰よりも。だからきっと、気付いている。

 デスクの上の真新しいバンダナを手にとって、エリスはそれを頭に巻きつけた。鏡を見て、自分でも驚いた。確かにカイリの言うとおり、ただ赤いだけよりもずっと引き締まって見える。

(ありがと)

 口には出さず、呟く。カイリに。アンジェラに。心配してくれていたパズーに。友人達がこの街にいる。きっとここで頑張って生きていくのだろう。それは、エリスにとって寂しいことでもあり、けれど絆として残していける強い思いでもある。

 あいつらが頑張っている。だから、あたしも頑張らなきゃいけない。そう思える。

 壁にかけてあった剣を手に取る。バックパックを背負い、顎を上げた。

 

 十四年間過ごしてきた、自室。


 十四年間過ごしてきた、家。


 きっと二度と戻らない、場所。


「さよなら」

 呟く。

「――もう、戻らない」

 戒めの言葉のように、呟く。

 ここからは、誰のためでもない。自分のために、自分の足で、歩く。

 板張りの床を踏みしめ、最後になるだろうその感触に目を細め、けれど、顎は上げたまま、エリスは歩いた。

 さようなら、ともう一度呟いて。

 自らの意思で、エリスは住み慣れた家を出た。



 セイドゥール・シティの大通り、サンラバーズ・サリッザーダを辿っていく。街灯の明かりより、頭上から降る月明かりのほうが眩しいくらいだった。影が二つ、街灯と月明かりとに照らされて違った方向に伸びている。

 さらさらとした水路の音が、昼間はあんなに耳に触っていたというのに、夜の今は心地よかった。

 はっきりと判る。それ以外に音はしない。

 静かだった。静かすぎた。

 おかしなくらいに。

 ――虫の音すら、しない。

「――……」

 鼻から小さく息を漏らし、エリスは足を止めた。セイドゥール・シティの入り口に程近い、アグライア・カンポ(輝き乙女の広場)。

 色煉瓦で造られた、幾何学模様の地面。深い緑の街灯と、同じ色のベンチ。広場の中央にはアグライア――裸身の童女の石像と、噴水がある。比較的大きな広場だ。

 そしてここは、カナーレ・ローダという大きな運河が近く、ある意味で隠れやすい場所とも言えた。水音が、僅かな音ならかき消してしまう。

 だが、エリスの肌はそこにいる何者かの気配をしっかりと捕らえていた。

「――出てきなさい」

 我ながらシャープな声だと思った。感情が入り込んでいない、高い位置からの音。

 エリスはどさりとバックパックを地面に放り出した。文字通り肩の荷を下ろしたあと、軽く体をゆする。腰につけた剣の鞘を左手で握り、右手で引き抜く。僅かに刀身が光を反射した。我知らず、柄の傷を探して指が動く。

「ばれてるって言ってるのよ。早く出てきなさい」

 二度目の呼びかけに、今度ははっきりと気配が動いた。ぴんと張り詰めた夜の風が、エリスの真新しいバンダナを揺らした。

 左だ。

 煉瓦で作られた、低い花壇の後ろ、幾本か並んでいる植木。そこだ。エリスは視線だけをそちらに飛ばした。

 闇が、現れる。人影となって。

 中肉中背、と言っていいだろう。とどのつまり、小柄なエリス自身から見れば、僅かに顎を上げないと向かい合えないということだが。ゆっくりと、体全てをそちらに向ける。

 全身を闇色の衣装で包んでおり、顔すらもはっきりとは判らない。僅かに、黒い鋭い目と、いびつに歪んだ鼻が覗いているだけだ。武器らしい武器も持っていない。暗器の類なら、いくらでも持っていそうではあるが。

「かくれんぼなら、もう少し子供の頃に誘ってほしかったね」

 この手の物言いは、相手のレベルを探るときにエリスがよく用いるものだ。昼間の男は感情を剥き出しにしてきた。だが、プロと呼ばれるレベルに達したものだと、感情を見せてくることはない。

「そこ、あたしも昔かくれんぼのとき、よく使ったんだ。同レベルだね?」

「――エリス・マグナータ、だな」

 プロだ。

 瞬間、それだけを理解した。先ほど自分が発した声もシャープだと思ったが、それとは比べ物にならないほど、男の声は鋭かった。

 鋭利すぎて、触れてもいないのに斬られてしまいそうな、そんな声だ。肌が粟立つ。

「そうだよ。いちいち訊くんじゃないっての。下調べぐらいしてきなよ」

 震えないように、張り詰めた声で応じた。気を抜けば殺られる。まず、間違いなく。不安を見せたら、その時点で終わりだ。街を出る前に、あの世へ行ってしまう。

 そんな気がした。

 エリスの内心を知ってか知らずか、男が声を発した。

「アンジェラ・ライジネスは一緒ではないのか」

「――!?」

 衝撃が走った。

 その名前を聞くとは、思わなかったのだ。

 狙われているのはエリス自身のはずだ。事情は判らないが、月の石を狙う者がいる。それがエリスが狙われる理由のはずだ。だったら、何故、アンジェラの名前がでる――?

「アンジェラが、どうしたのよ」

 かすれた声は、感情を抑えきることが出来なかった。

 はじける。

「あいつになんかしたら、あたしが許さないわよ!」

 それは、一瞬だった。

「――ダリード様の命令により、貴様を殺す」

 景色が流れた。

 いや、正確に言うならば、自らの動きに視覚神経が一瞬追いついてこなかっただけだ。

 エリス自身よく判らないままに、地面を蹴って後方に跳んでいた。そのとたんに理解する。太い錐のような武器が、喉もとめがけて伸びていた。体が避けるためにとっさに反応したのだろう。だが――早い。

「っ……!?」

 一度きりのとっさの跳躍では、逃れきれない。右足が地面に触れた。もう一度、跳ぶ。水路が近いせいだろう、湿った空気が肌にまとわりついた。

 再び、足の裏に地面の感触。いや、かかとには、僅かに感触がない。肩越しに視線だけで振り返る。

(カナーレ・ローダ!)

 真後ろに、運河が迫っていた。跳びすぎたのだろう。かかとはすでに地面からはずれ、水の上にあった。逃げられない。

「くそっ!」

 膝を緩め、追いすがる武器から逃れるために、体を右へ傾ける。反動で地面の煉瓦が崩れ落ちたのだろう、静かな水音が響いた。

 緩んだ左膝のバネを使い、すくい上げるように右手の剣を振るった。手ごたえはない。間合いが広がる。

 僅かに息をつく。時間にして、僅か数瞬の出来事。速い。

 エリスは剣を構えた。右肩を小さくひき、見据える。

 間合いを外されては敵わない。腹筋に力を入れ、今度はエリスから飛び出した。

「――ヒュッ」

 口から漏れた呼気は、ほんの少しだけ音になったが、あとはただの空気でしかなかった。黒ずくめの人影の気配が、揺らぐ。こちらのスピードに、一瞬反応が遅れたらしい。跳ばれたが、追いすがる。間合いはこちらにある。あらなければならない。

 湿った空気を薙ぐ。小さな手ごたえが、今度はあった。だが、意味はない。服を僅かに裂いただけでしかない。

 その瞬間だった。

「……っあ!?」

 激痛。

 脳に飛び込んできた情報はそれだけだった。何処にそれが起きたのか、何が自分の身に降りかかったのか、エリスはよく判らなかった。慌てて左に跳ぶ。

 青臭い水の匂いしかしなかったセイドゥール・シティの空気に、鉄の臭いが混じった。血だ。

 そこまできて、ようやっと理解した。怪我をしたらしい。

(……どこ……)

 痛みにかすむ脳をだましだまし回転させる。痛みの箇所が、ゆっくりと明らかになった。腹部。ちょうど、右わき腹のあたりだ。視線を落とすと、黒い液体で濡れているのが判った。黒い――いや、もっと光のある場所では、それは赤に見えるはずだろう。

(なんで? いつ、怪我した?)

 あの瞬間、間合いはエリスにあったはずだ。相手の武器の間合いではなかった。なのに、何故?

 疑問は途切れざるを得なかった。

 黒い風が流れた。

 跳ぼうとして、カナーレ・ローダの事を思い出した。跳びすぎると、落ちかねない。逃げるかわりに、防御すればいい。吹き付けた風に剣を向ける。

 ジャリ、と妙な音がした。風が正体をあらわす。

(……チェーン?)

 黒光りする、ぎざぎざと小さな刃のくっついたチェーンだ。それが、剣にまきついていた。

 思い当たる。

「邪道だね。暗器なんて」

 エリスは唾とともに吐き出した。これだ。自分を傷つけた武器だろう。出血の量と痛みは、この妙な形の刃のせいだ。肉が真っ直ぐ切れなかったその分、痛みは強い。

 やはり、持っていたのだ。暗器。邪道な武器だ。うかつだった。初めに思ったはずなのに。暗器なら、いくらでも持っていそうだ、と。

 出血個所を左手でかばい、ゆっくりと後退した。怪我はそう酷くはない。深い傷ではない。だが、痛みは激しい。治りも遅いだろう。それこそが暗器の特徴でもあるといえたが。

 勝率は五分だった。けれど今は――判らない。

(くそっ!)

 内心毒づき、チェーンを振りほどくために剣を引っ張った。するりとチェーンが解ける。いや、違う。相手がそう仕向けたのだ。再び、まるで使い手に操られた蛇のような動きで、そのチェーンが襲い掛かってくる。弾けば、また巻きつかれる。そして動きが止まってしまったら――別の暗器が襲ってくるのだろう。

(どうすりゃいいってのよ!)

 対処法がわからず、エリスは胸中で悲鳴をあげた。

 その瞬間、場違いな可愛らしい声が響いた。


「炎を司りし者よ。我が前にありし者に裁きを!」


 声は可愛らしかったが、内容はやたら物騒だった。攻撃系の呪文。

(え……!?)

 エリスは思わず我が耳を疑った。と、轟音が耳をつんざく。目を焼くような紅い炎が膨れ上がり、熱風が吹き荒れた。肌がちりちりと音を立てる。

 しばらくして炎が静まり、エリスは目を見開いた。

「ア……ン、ジェラ……?」

 別れたはずの親友の姿が、そこにあった。アグライア・カンポの模様付けられた地面に、挑むように仁王立ちしている。細い体を包む洋服は、普段と何ら変わりない。紫を基調とした、シンプルなデザイン。こんな現場に居合わせているのが妙としか思えないような、スカート姿。その中で、月明かりをあびたゆるいウェーブの髪が、静かに流れていた。

 その彼女は、一度にこりと笑った。そして、とたた、と幼稚な足取りでこちらに歩いてくると、あっけらかんと言ってのけた。

「夜は静かにしなくっちゃ、ご近所迷惑よ。だから、とっとと片付けるわよ、エリス」

 ぴっと、アンジェラが細い指を伸ばした。黒ずくめの人影が、炎にあぶられた姿で呆然と立ち尽くしている。

 その姿を見ながら、アンジェラがにっと笑った。

 低い、けれどどこか楽しげな声で、告げる。

「私の親友いじめたら、殺すわよ?」



 どうしてこうもあっさり、片がついてしまうのだろう。

 痛みに揺れる意識の中で、それでもエリスは苦笑を漏らさずにはいられなかった。

 戦いの過程そのものは、とりたてて単純だったわけでもない。ただ、決定的に違ったのはエリスの心理状態だった。負ける気がしなかった。

 それがよかったのだろう。アンジェラと一緒に戦う機会はさほど多かったわけでもないが、それでも親友の呼吸は熟知している。戦闘の場と日常と、状況は違えど、それは変わらない。アンジェラの呼吸なら判る。彼女が今何をしたいのかは、理解できる。それが、とても戦いやすかった。

 結果――これだ。

 エリスは小さな嘆息とともに、地面に転がった男をつま先で蹴り上げた。ごろんと男が仰向けになる。息は浅いが、途絶えてはいない。まだ生きている。

 が、放っておけばいずれ死ぬだろう。致命的とも言える傷を負っている。手加減をする余裕がエリスにはなかったのだ。左胸から袈裟ぎりに、一直線、赤い線が引かれている。その上からアンジェラの魔導という、ありがたくもないおまけつきだ。こちらは手加減できなかった、というよりはなから手加減するつもりはなかったらしい。

 すぐにでも治療するべきだろうが、そこまでしてやる義理はない。明日の朝までもてば、誰かに見つけられるだろう。治療されるかどうかはまた別の問題だが、知ったことではない。

 エリスはその男を放ったまま、アンジェラに向き直った。

 右わき腹が、熱を持って痛みを脳裏に直接訴えかけていたが、それにかまうよりもまず、訊きたかった。

「アンジェラ……」

 男を見下ろしていたアンジェラが、迷うような動作の後こちらを向いてきた。

「なによ? 怪我なら、私はどうしようもないわよ? 自分で何とかしてね」

「そうじゃなくて。……なんで?」

 訊ねると、アンジェラはまた瞳を揺るがせた。それから、小さな苦笑を頬に浮かべ、

「エリス。あんたなんか、勘違いしてるわよ」

「え……?」

 彼女はそのまま、落ちかけたショールを肩に戻しながら、笑った。

「昼間の話よ。ラスタ・ミネアであった男。あんたと――私の名前、確認していたじゃない?」

 ぎゅっと、心臓が痛んだ。そう、聞きたくはなかったが、今倒れているこの男も、アンジェラの名前を告げていた。

「……そういえば、そうだったね」

「でしょ? てことは、よ?」

 アンジェラは腰に手を当てて、簡単な方程式でも解くような口調で続けた。

「――私も狙われているってことになるわ、そうでしょう?」

(気付かなくてもいいことに気付くんだから……)

 全く、勘がいいというか頭の回転が速いというか、なんとも複雑な気持ちで、エリスは押し黙った。アンジェラは気にせず、かぶせるように言った。

「ってことは。あんただけ逃げるなんてずるいわよ」

「いや、ずるいって……」

 そういう問題ではない、と続けようとしたが、それをさえぎってアンジェラが軽い笑い声を上げた。屈託のない笑み。

「――だから、私も付いて行く。今さっき、決めたの」

 どうとも表現の仕様のない思いが、浮かんだ。アンジェラが一緒だったら、どれだけ心強いことだろう。だが、それはアンジェラを巻き込むことになる。彼女を危険にさらすことになる。

「……駄目、だって、アンジェラ。あんたはあたしに付き合うこと、ない」

「ばっかねー! エリス」

 アンジェラは大げさに溜息をついてみせた。頬に貼り付けた笑みはそのままで、告げてくる。

「人の話は聞きなさいよ。いーい? 私は私の意思で、そうするって決めたの。私の意思で、よ。それをあんたに止める権利はない――違う?」

 自らの顔に苦笑が浮かぶのを、エリスは自覚した。『約束』だ。

 お互いが決めたことに対して、干渉はしない。

「……アンジェラ」

 思わず、その名をもう一度呟いた。親しみなれた名前。

 アンジェラは答えず、地面に放ってあったらしい自分のバッグを拾い上げると、エリスに背を向け、そのまますたすたと歩いていった。

「さーさー、とっとと行くわよ、エリス! 夜のうちに街は出たいものね!」

 その後姿を見つめ――結局、こうなったアンジェラを止める術はないことを理解して、エリスは苦笑を漏らした。苦笑――いや、どうだろうか。本当はどこかで、こうなることを望んでいたはずだ、きっと。

 アンジェラが、振り返って呼んで来た。

「エリス!」

 ほんの少しだけ、遠くなって、けれどずっと近くなった親友は、満面の笑みを向けてきている。

 その笑顔に促されるように、エリスは自らのバックパックを背負った。わき腹の傷の痛みは、なんだか知らないが薄く感じた。一応の手当てとして、バックパックから引っ張り出した包帯をきつく巻いておく。傷自体はさほど深くはないから、これで何とかなるはずだ。

 そして――ふと、振り返る。

 深夜のセイドゥール・シティ。

 水路に覆われた、水に浮かぶ都。

 空には月が浮かんでいる。月はたった一つだけなのに、セイドゥール・シティの水路には、同時にいくつもの月が揺れているのが、エリスにはなんとなく不思議に思えた。

(――ばいばい。セイドゥール・シティ)

 一言、胸中で告げ、エリスはアンジェラのほうを再び振り返った。遅い、とでも言うように、ぷっと頬を膨らませたアンジェラが立っている。

「――早く、エリス!」

「……うん!」

 エリスは地面を蹴って、アンジェラに駆け寄った。アンジェラがその名のとおり、天使の笑みで答えた。

 空には月が浮かんでいた。水路にはいくつもの月が揺れていた。

 月は満ちていた。

 

 そして、時も満ちた。

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