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紅月は女神の祈り  作者: 中原まなみ
第九章:『Eve's eye is skyblue――空の瞳を持つ少女』
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5

 ジークの言葉に、イヴのしゃくりあげがひときわ高くなる。

 抱きあう二人の間に割り込むのは、無粋なことだと判りきっていた。が、放っておいて事態が発展するとも思えず、エリスはバンダナ越しに頭をかきながら、小さく声を発した。

「あー……その。イヴ、さん?」

 躊躇いがちなこちらの声に、イヴが涙の残る顔で、それでも笑みを作りながら答えてきた。

「はい」

 ジークが体を放す。が、その手はイヴのそれと繋がったままだ。

 落ち着いた様子のイヴに、エリスは若干首を傾げた。

「その……お体は、大丈夫なのですか?」

「わたしは、生きてはいないから」

 その答えに、エリスは顔をしかめた。完全に失態だ。しかしこちらの様子には構わず、イヴは微笑む。

「お気になさらず。それはもう、仕方のないことだから……」

「けど」

 イヴの言葉に強めの声を発したのは、ミユナだった。視線をそちらにやると、ミユナは真剣な面持ちでイヴを見つめていた。

「お前は、今確かにジークと触れ合っている。ただの幻影じゃない。肉体がある。そうだろ?」

「肉体じゃないよ」

 イヴは、諦めたように笑った。自らの手のひらを見下ろし、その手で自分の肩を抱く。

「物質でしかない。物質ですらないのかな。粒子をちょっといじっただけって、アザレルは言ってたしね」

「粒子……?」

「物質はそれが集まってるんだって。空気中にある粒子を、人型に固めてみただけ、って感じかな」

 イヴの説明の十分の一もエリスには理解できなかったが、ミユナはある程度判ったらしく小さく頷いた。このあたりは教養の差、なのかもしれない。

「万物の根源は――か。外見的には、か?」

「と、いうより触覚的には、かな。視覚的にはむしろ、記憶だから」

 イヴが軽く首を傾げながら答えた。その動作が、どうにも落ち着いて見えてエリスは眉をしかめる。土壇場の度胸、というか開き直りにしか思えないが、その落ち着きはある種アンジェラに通じるものもあるのかもしれない。エリス自身は気づいていないが、それは彼女にも通じるものだ。追い詰められれば追い詰められるほど、腰を据えて物事と対峙する節がある。

「記憶、ですか?」

「そう。モノには全て記憶がある。わたしは、この島の出身だったから。この島がわたしを覚えてる。それにジークとゲイルがわたしを覚えてる。だからわたしの姿は、確かに『イヴ』なの。でも、ヒトもモノもわたしを知らない場所にいけば、わたしの記憶はない。わたしを姿どる要素はなくなるから、わたしはわたしではいられないの」

「……」

 黙りこんで眉間の皺をきつくしたエリスの頭を、ジークが無造作に叩いた。

「どうせお前は考えたところで判るわけねえんだし、難しく考えるな」

「……すっごい侮辱に聞こえるんだけど、反論する術がないからそうしとく」

「そうしとけ」

 頷き、ジークが快濶に笑う。その笑みが、今まで見たどの笑みより穏やかさを含んでいるようにエリスには思えた。

「イヴ」

 ふいに響いた泣き笑いのような声に、エリスは視線をそちらに向けた。ゲイルだ。

 いつもながらに幼さの残る顔が、いつも以上に幼く崩れている。

「イヴ……なんだな」

「うん」

 ゲイルの声に、イヴが目を細める。

「おっきくなったね」

「……二年、だからね」

 兄妹といっても、そう年は変わらなかったのだろう。同い年で、ただ誕生日がゲイルのほうが早いといった程度だったのかもしれない。

「一緒じゃ……ないの?」

 イヴの言葉がドゥールを指しているのだと、誰もが瞬時に理解した。エリスたちは、理解してから気付く。彼女がそういうからには、ドゥールとゲイルは、少なくとも彼女の生前からずっと一緒だったのだろう。ずっと傍にいる関係だったのだ。

(あたしと、アンジェラみたいに)

 だがその二人は、今は傍にいない。志は同じ所にあるのかもしれない。ただ、家族を救いたいという志は。だが手段が、真逆に位置している。

 答えられなかったのだろう。ゲイルが曖昧に口を半開きにし、そのまま噤んで下を向いた。答えを察知したのか、それとも明確ではないにしろ、訊かないほうが懸命だと判断したのか、それは判らなかったが、イヴは静かに微笑んで首を左右に振った。

 ゲイルが取り繕うように声のトーンをあげた。

「大丈夫かい?」

「え?」

「その……アザレルの、話だと。操られてると、取れたから……」

 その言葉に、エリスたちは顔を見合わせた。

 確かに、そうだ。その危険がある。さっと顔を強張らせたこちらを見て、イヴが苦笑を浮かべた。

「心配しないで。今は平気。でなけりゃ話さないし、ましてや目を合わすなんてしないよ」

 イヴの能力は視線を媒介にした傀儡だ。視線を合わせれば、それはその時点で危険を伴う――それがアザレルの操る人形であるなら、なおさらだ。

「さっき、ちょっとまえ、かな。……急に鎖が緩んだみたいな感覚があって。それまではぎりぎり、って言うか。わたしと、わたし以外の何かが同居していたような感覚だったんだけど……」

「エリスちゃんの攻撃……」

 イヴの言葉に、ゲイルがぽつりと漏らした。

 エリスははっと目を見開いた。身を苛んでいた疲労すら、一瞬だけ抜けるような覚醒。

 首にかけなおした石に触れ、呼吸を整える。アザレルに攻撃を与えたあれが、アザレルの手からイヴを解き放つきっかけになったのだろうか――たとえ一瞬だとしても。それなら良いと思えた。少しでも何かが好転すればよい。好転かどうかははっきりせずとも。

「貴女……」

 イヴがこちらを向いた。純度の高い宝玉のような瞳に射すくめられ、エリスはしらずに背筋を正していた。

「は、はい」

「貴女が、エリスさんね? アザレルが言っていた……」

 エリスはこくんと頷き、強張った顔に無理やり笑みを浮かべた。

 気がいっぱいになっているときほど、笑いはゆとりを生む。たとえそれが、自意識上の幻影だとしても、何もしないよりはましだ。

「はい。貴女が、イヴさん――ジークの、お手つきの」

 言うと同時に、頭に軽い衝撃がきた。ジークが顔をしかめて立っている。小突かれたようだ。

「てめぇ」

 低い声に、イヴが軽い笑い声を立てた。

「そう、イヴ・バージニア。能力は……ジークからきいてるかしら。視線を媒介にしての傀儡」

「伺ってます」

 エリスは小さく肯定の仕草を示す。ジークがイヴの肩を抱く。

 階段の上で背を丸めて眠っている白猫を見下ろし、息を吐いた。

「とりあえず――今は、平気なんだよ、な」

「今の所は、ね。信頼はしないで。この言葉さえ、アザレルが操っている台詞かもしれないわよ」

「そのくらいの覚悟はある」

 ジークはあっさりと言うと、顔を上げた。

 白い町に太陽光がきらリ反射する。

「とりあえず、蒼竜に逢いに行こう。そこからだ」



 蒼竜の遺跡は、二人がいたその場所からそう遠くなかった。二人のいた場所は、サンデス遺跡のすぐ傍であり、アザレルの言ったとおり、蒼竜の遺跡はサンデス遺跡のちょうど反対側――真裏にあったからだ。

 すぐにそれと判る場所でもなく、ぱっと見は幾つもあるサンデス遺跡の一つに過ぎなかった。古い建築物の、崩れかけた門があり、入り口は地に向かって開いている。

 その道を、イヴを入れて五人で歩みながら、ふとエリスは先ほど自分が口にした言葉を思い返した。

(悪夢、か)

 美しすぎる、悪夢。死んだはずの恋人と手を繋ぎ、歩を進めるジークを視界の片隅に入れ、エリスは嘆息を呑み込んだ。

 ジークのグローブに包まれた右手は、イヴと繋がっている。何度も感触を確かめるように指が動いているのを、エリスは見ていた。そこにあると、信じたいというように。

 足元がおぼつかない夢路のようだ。

 さながら、眠りについたこの島の住民たちが、そろって同じ夢を見、エリスたちはその夢の中を歩いているかのような居心地の悪さがある。

 だが、ジークの横顔を、イヴの若干俯きかげんの顔を見て、その言葉を口に出せるはずもなかった。

 しかしそれは、あくまでも幻影でしかないはずなのだ。ジークもイヴも、判っているだろう。少なくともエリスの知る限り、ジークは――エゼキエル・アハシェロスという男は馬鹿ではない。言動はともかくとして、頭の回転は異常なまでに良い。

 蒼竜の遺跡も、旧時代の魔術遺跡だったのかもしれない。そうと思しき鍵文字がそこかしこにある。だが、黒竜の遺跡のように手入れはされておらず、保存状態も最悪という言葉が一番似合うような有り様だ。当然、魔術は作動せず、奥に進めば進むほど暗くなる道のりに、先頭を行くゲイルが魔導――法技――で灯火を作り上げたところだった。

 魔導の灯火には、炎のような生きた揺らぎはない。無機質にたゆたう光が、蒼白く周囲を浮かび上がらせる。

 褪せた石畳の道は割れ、ひびが入り、島の赤褐色の大地が顔を覗かせている。石畳には細かな紋様と、幾つかの古代文字が見受けられたが、どれも長すぎる年月にさらされ、薄くなっていた。

 壁も同様だった。褪せた色の染みが時折見えることから、元々は壁画か何かがあったのかもしれないが、今は見る様もない。

 潮の匂いに混じり、かび臭ささえ漂ってきそうな遺跡だった。鼠やら百足やら蜘蛛やら――そう言った害虫も、壁をはっていたり、足元を駆けていったりする。アンジェラがこの場にいたら、さぞやうるさい事だったろう――と考え、エリスは嘆息した。耳障りな甲高い声でも、悲鳴でも、罵倒でも、この際構わない。あの声が聞きたい。

「エリス」

 ふいに背後からかけられた、労わるような声にエリスははっと息を呑んだ。振り返ると、最後尾をつとめていたミユナが顔をしかめている。

「大丈夫か?」

「え――あ、ああ。うん。疲労もだいぶマシだよ。回復が早いのだけは取り柄で――」

「そうじゃなくて」

 撫でるとも、小突くとも取れるような軽い仕草で、ミユナはエリスの頭に手を置いた。

 感づかれている。

 エリスが何を考えていたかなど、ミユナにはお見通しだったのだろう。苦笑がありありとそれを物語っている。エリスも頬を緩め、

「大丈夫。すぐ会える」

 無理やりにだが、笑ってみせた。そのために、今ここにいるのだから。

「そうだな」

 ミユナが頷いたその瞬間、視界の隅に青い光が反射した。

「!?」

 あわてて前方に視線をやる。それが何か、すぐには判らなかった。

 視界に飛び込んできたのは、遺跡の最奥部――暗闇の中に浮かび上がる青い乱射する光だけだった。

 闇に閉ざされたかのような遺跡の中で、そこだけが光を放つ宝石のように煌いている。

「あれは――」

「蒼水晶<クリスタル>の間」

 エリスの呟きに返って来たのは、凍りつくような冷たい声だった。

 その声の元に、エリスは目を剥いた。半ば以上反射的に、その声の主に一番近かった者の名を叫ぶ。逃げろと、警告の意をこめて。

「ジーク!」

 一瞬だけ、遅かった。

 驚愕の表情で手を繋いでいた主を振り向いたジークは、そのワイン色の瞳を彼女の空色の瞳と交差させていた。

 エリスは視界の中に彼女を入れないようにし、ジークの太い腕を掴んだ。彼の顔を、どうにか彼女から逸らさせようとしたのだ。だが、叶わなかった。

 絶望と困惑と驚愕と悔しさが混じりあった、血の滲むような悲痛の表情を浮かべながら――ジークの手はエリスの首にかけられる。

「――!」

 急激な力で締め上げられ、エリスの足は僅かに浮いた。

「か……はっ」

「エリス!」

 肺の息が搾り出される。ミユナの悲鳴が遠くなる。

 いつだったか、同じようにダリードに首を絞められたことがある。だが、あの時と比にならない。ダリードの体格とジークの体格は大差がありすぎる。腕の太さも、それに比例して力の強さもだ。

 視界が霞む。指先から、痺れが広がっていく。痺れはやがて感覚さえなくしていく。

 だが、殺すつもりではない。

 エリスには判った。締め上げる力は確かに強い。だが、意識が遠のき、消えかけると僅かながらに力が緩んだ。

 殺すつもりでは、ない。試している。

 そう――『実験』だ。

「くっ……お嬢ちゃん……!」

 首を締め上げるジークには、きちんと彼自身の意識はあるようだった。表情はもう見えない。声は遠い。だが、声音の持つ悲壮な響きは、それでもエリスの耳に届く。

「イヴ!」

 ゲイルの声。

 その瞬間、エリスの体は地に落ちた。逆流するように流れ込んできた空気に、今度は肺が悲鳴を上げて咳き込む。耳鳴りがした。

 何度も咳き込みながら、それでも酸素を求めて体が疼いた。その中で、エリスは滲んでいた視界を無理やり上げる。最初に見えたのは、地に手をつきうな垂れている大男で、その向こうには少女の目を後ろから羽交い絞めにするように覆っているゲイルの姿だった。

「お嬢ちゃ……」

「……」

 ジークの声に首を振り、彼の体に手をついた。指を立て、上体を起こす。ゲイルの碧色の瞳と目があった。

 ゲイルがイヴの体を後ろから抱きながら、吐き捨てるように言った。

「いるんだろう、アザレル」

「もちろん」

 笑みを含んだ声に、僅かに視線だけを動かす。すぐ傍にいた。遺跡の壁にある出っ張りに腰をかけるようにして、微笑んでいる。

 アザレル・ロード。

 彼女は笑いながら呟く。

「貴女方はもう判ってらっしゃいますよね。魔法の原理が『想い』だと」

 肩口に揺れるみつあみを弄りながら、さながら弁を執ることを楽しむように指を振る。

「想いの原点は、感情。どういった時に、どんな想いが生まれ、魔法が発動するのか――と思ったのだけれど」

 そこでアザレルはふうと息をついた。思うように動かない玩具に飽きた幼子のように、唇を突き出す。

「さすがに少し、時間を置かなさ過ぎたようですわね。エリスさん?」

「……」

 皮肉を言えるほど呼吸も回復しておらず、エリスはただ睨み上げた。

「魔法は、まぁ体力を使いますから。少し時間を差し上げましょう。ただ、蒼竜くらいはご自身で何とかなさってくださいな」

 アザレルはそういうなり、視線をイヴへと向けた。

「もうわたくしは操っていませんよ、ゲイル。さあ、行きましょうか、イヴ。お時間を差し上げましょう」

 その言葉と共に、イヴの姿が歪んだ。滲むように空へ溶け消えて――

「イヴッ!」

「ジ――」

 ジークの悲鳴は届かなかった。イヴの声も掻き消え、そう思ったときには、イヴもアザレルの姿もその場所にはない。

「……ッ!」

 鈍い音が響いた。ジークが地面を殴りつけたのだ。低い視点のままそれを見ていたエリスは、次の瞬間素っ頓狂な声をあげていた。

「ひゃうっ!?」

「悪かった」

 エリスを担ぎ上げた――文字通り、まるで荷物のようにだ。決して抱き上げたなどではなかった――ジークは、低い声で呟いた。

 淡白で単純な言葉ではあったが、深い後悔の色が滲んでいる。

 が、それはそれとして、急に視界が高くなったことに、エリスはジークの肩の上で訳も判らず目を瞬かせた。

 だが、そんな彼女にも、呆然としたままのゲイルやミユナにも構わず、ジークは足を踏み出す。

「蒼竜に会うぞ」

 低い決意の声に、エリスはジークの後頭部を見返すしか出来なかった。


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