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紅月は女神の祈り  作者: 中原まなみ
第六章:『Azrael spins death――死を紡ぐ天使』
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2

「あ。はぁ……平気です。こちらこそ、ぼーっとしてて」

「本当ネ? 怪我、ないネ?」

 ややぼんやりと言葉を交わす。と、少女は不安げな顔のまま、エリスの手足に無遠慮に触れてきた。その小さな手が、ふと止まる。

「怪我あるネ!」

 二の腕の包帯だ。

 反射的に隠しながら、エリスは首を振る。

「あ。いや、これは……違うから」

「ちゃんとお医者様いったネ?」

 幼いながらも真面目な瞳でそう言われ、ややたじろぎながら、エリスはジークに視線を送った。その視線を受け、ジークが軽く肩をすくめる。意味をなんとなくは察したのだろう。その少女はほうっと息をつき、手を離した。

「なら、大丈夫ネ」

「……そう、ですね。えーと」

 ともすれば、意味が聞き取れないほどのアクセントのため、自然による眉根を自覚しつつ、エリスはゆっくりと呟いた。

「何でいきなりぶつかってきたの?」

「あーっ! 大変ネッ! 桜春<オウチュン>急いでたのネ!」

 いきなりそう叫ぶと、少女はぴょこんと立ち上がった。見慣れない服を身につけている。クロスした襟元に、胴回りにはベルトのような、太い布がまかれており、それは後でリボンのように結ばれているらしい。袖口が、変わっている。下半分が、やたらと長いのだ。その、長い袖下に、艶やかな蝶の刺繍が入っている。

「ごめんネ! もう行くネ!」

 ぱんぱん、と服のほこりを払う。上下一体のその服の下に、短いパンツをはいていた。その髪型と服装と、アクセント。全てが、どこか、おかしい。

「あっ! えっと、あなた、お名前は?」

 少女がいきなりそう問うてきたので、エリスは二、三度目をしばたかせ、躊躇ったまま口を開いた。

「エリス……です。あなたは?」

「鈴・桜春<リン・オウチュン>ネ!」

「……は?」

 思わず、間の抜けた声をあげる。名前の響きが聞きなれないのはジークも同じだが――フルネームは未だに上手く発音できない。エゼキエル・アハシェロス、なのだが――彼女については、それを上回っている。

 聞きなれない、というよりははっきりと、聞き取れない。

「リン・エウグ……え?」

「オ・ウ・チュン。それより、エリスさん、旅人さん?」

 強引に話を進める少女――桜春に、エリスは曖昧に頷いた。桜春は、それを見て少しだけ緊張の面持ちを見せてきた。

「だったら、言っておくネ。はやく、この町から出るほうがいいネ! それじゃあネ!」

 言うなり、桜春は身を翻した。呆然としているエリスたちを振り返りもせず、霧に霞む町をかけていく。その背が小さくなっていった。

 ややもしないうちに、小さな背は、霧に隠れ見えなくなる。

 何が起こったのか、判らなかった。

 状況を理解する間もなく訪れた、唐突な出会い――というか、その少女というか、その別れ方というか――に、エリスたちはしばし呆然としたまま立ち尽くすしかなかった。

 しばらくして、ミユナが呆けたような声でぽつりと漏らす。

「突撃おかしな娘さん」

「馬鹿なことを言っているんじゃない」

 ドゥールが静かに嘆息を漏らした。



 霧に霞む町を歩く。

 鼻をつくのは、何かが腐ったような異臭だ。腐臭――だろうか。食物が腐ったときの臭いに似ている。

 とりあえず、状況を把握しなければ何も始まらない。

 霧の町にともる街灯と、それによって映される影は、ゆらゆらとゆれていた。

 人々も、あまり外にはでていない。その数少ない通行人を何人か捕まえ、エリスたちは町長の家を聞き出した。何かある場合は、この方法が一番早い。

 教えられた通り道を進み、一軒の家に辿り着いた。

「……この町なら、迷わないですみそうだ」

「え? なんで?」

 家を見上げて呟くエリスに、アンジェラが疑問符を投げてくる。

 壁面に描かれた童話のワンシーンをみて、エリスは答えた。

「壁が目印。さすがに間違わない。これ」

「シティの家にもつけてもらおっか、こういうの」

「アンジェラ」

 軽い口調で言ったアンジェラを、遮る。その自分の声の低さに、思わずエリス自身舌打ちをした。嘆息を飲み込み、告げる。

「あたしはもう、シティには戻らないんだよ」

「……ごめんなさい」

 居心地の悪い沈黙。珍しく素直に謝ったアンジェラに、エリスは視線を投げることができず小さく首を振った。

 ドアノッカーに手をかけ、扉をたたく。少しの間のあとに、すぐ中からぱたぱたと小さな足音が聞こえてきた。扉が、開かれる。

「はいはーい! どちらさまネ!」

「……」

 間違えようもない奇妙なアクセントのその言葉に、エリスは思わず肩を落としていた。

「あれぇ?」

 扉を開いた体勢のまま、少女――桜春はきょとんと目を瞬かせた。



「ほんとは、来て欲しくなかったネ。桜春言ったこと、どうして守らなかったのネ?」

 桃色の頬を膨らませたまま、桜春はそれでも応接室にエリスたちを通してくれ、香茶を出してくれた。

 カップを受け取り、その漂う清涼な香りに、エリスは思わず笑みを浮かべる。

 隣でアンジェラも、ほっとしたようにその香茶に舌鼓をうっている。

「いい香り。ハーブ?」

「ウン。飲んでおいたほうがいいネ。気持ち、すっとするネ。霧、気持ち悪いでしょ?」

 言われて、苦笑しながら頷く。手の中にあるカップには、透明な香茶。鼻をくすぐる湯気に、目を細める。

「ありがとう。その――リン・エウグ……エウ」

 日常生活で使わない舌の動きなので、上手く発音できない。僅かに眉をしかめていると、桜春が笑ってきた。

「オ・ウ・チュン。桜春ネ。言いにくかったら、鈴<リン>でかまわないネ」

「ごめんなさい。鈴<リン>ちゃん……でいいのかな。あなたは、ここの娘さん?」

 問うと、向かいのチェアに座った桜春は、足をぶらぶらとあそばせながら答えてきた。

「ウン。正確には、養女。パパは、お医者様もしてるから、桜春、お手伝いもするのネ」

 養女――その言葉に、何故かふとプレシアの姿が思い出された。立場的には、近い物があるかもしれない。言動が奇妙という点でも、ある意味似ているが。

「手伝い? 君がかい?」

「そうネ! さっき急いでたのも、お使いの途中だったからネ」

 ゲイルの驚いたような声に、桜春が満面の笑みを浮かべて頷いた。小さな胸を自慢気にはっている。

「ほう。おちびちゃんがねぇ」

 感心したように、ジークが笑った。

「桜春、ちびじゃないネ!」

「いや、俺から見ればかなり小さいぞ。視界にはいらねぇ」

「それはキミが大きすぎるネ! 桜春、君と話すととっても首痛いネ」

「確かに」

 ミユナが小さく笑いながら頷く。エリスにしても同感だった。ジークと並んで話すと、見上げるのが億劫になり、そのうち肩の印象しかなくなっていたりもする。

 と、ふと気付く。こんな話をしていれば、真っ先にのってきそうなアンジェラが一言も喋っていない。

「アンジェラ?」

 俯いたままカップに口をつけているアンジェラの顔を覗き込む。彼女は一拍遅れて、驚いたように顔を上げた。

「え、なによ、エリス?」

 その顔色が、蒼白い。エリスは、手にしていたカップをテーブルの上にソーサーとともにおき、アンジェラの肩に触れた。

「アンジェラ。顔色、ホンキで悪いわよ」

「やだな。平気よ。ちょっと臭いにやられただけ」

 取り繕うように、笑ってくる。力のない笑みで。不安感が、彼女に触れた手から広がっていく。

「お嬢ちゃん。大丈夫かよ。こっち見てみろ」

 ジークが、やや強張った声で言った。アンジェラはそのジークを、軽く手で払い、

「おおげさね。すぐ治るわよ」

「アンジェラさん」

 ふいに、甲高い声がすぐ傍でした。桜春だ。向かいのチェアから、こちらに寄ってきていた。座っているアンジェラを見つめている。

「それは、この町に来てから?」

「……え、ええ。まぁ」

 ぎゅっと、桜春が唇を噛んだ。幼い顔立ちが、緊張に色付けられる。

「だから、言ったネ。早くこの町でたほうが良いネ。そっちの、お兄ちゃんも。手遅れにならないうちに」

 そっち、と桜春が視線で指した方向を見やる。

 視線を受けたドゥールが、ゆるりと首を上げた。

「平気だ」

「ドゥール」

 あからさまに動揺した響きで、ゲイルが名を呼んだ。軽く、その肩を揺さぶっている。

 ドゥールは、首を振る。

「平気だ。構うな」

「けど、お前」

 ゲイルの心配も、もっともだった。アンジェラ以上に、ドゥールの顔色は悪い。唇はすでに色がないほどだ。

「駄目ネ! これ以上この町に長居したら、二人とも具合本当に悪くしちゃうネ! はやく出て行って!」

「鈴ちゃん……?」

 叫び声に、焦燥感が詰まっていた。アンジェラの冷たい手を握ったまま、エリスは桜春の幼い丸い瞳を見つめる。

 桜春は、しばらく、迷うような素振りをみせた。幾度か目を伏せ、再びまぶたを上げ、揺らぐ瞳をアンジェラに向けていた。それから、桜春は、その小さな手のひらを、アンジェラの額にかざした。

「え……?」

「少し、じっとしておいて」

 囁き。

「――アイテールの名の元に、我、鈴・桜春が命ずる。暗き流れは清く。澱み水は清く。闇は光へ」

 何が起こったわけでもなかった。ただ、詩吟を読むようなその流れの音は、アクセントは違えど美しく感じた。それだけだった。エリスにしては。

 一瞬だった。

 ふいに、アンジェラの目が驚きに見開かれる。

「貴女。今、何をしたの?」

「……おまじない、ネ。少しは、マシ?」

 言うなり、桜春はその場に座り込んだ。

「ちょっと!」

「大丈夫ネ。数分すれば、すぐ元に戻る。桜春より、アンジェラさんと、そっちのお兄ちゃんのほうが、危なそうだったから。お兄さんは、少し待って。すぐに、もう一回するネ」

 よく判らずに、混乱したままアンジェラを見る。アンジェラ自身も理解はしていないようだったが、軽く手のひらで口を抑え、首を振った。

「少し、だけど。気分が良くなったの。法技……?」

「神聖法技だとしても。精霊の気配が何もないこの町でそれをやるのは不可能なはずだ」

 否定したのは、ミユナだった。

「――今この町で、法技を使用するのは不可能に近いはずだ。使えるとしたら、魔法」

「……そんな大した物じゃないネ。ただの、おまじない」

「鈴ちゃん」

 ミユナの言葉に、ひとつの結論が導き出される。不快感に疼き始める胃を自覚しつつ、エリスはそれを抑えようと、胸元のペンダントを握った。

 少しの沈黙が落ちた。桜春のため息が、広がる。

「大したことじゃないネ。桜春の力は。それよりも――あなた達は、どうしてこの町に来たネ? こんなことになっている、今」

「赤竜」

 ぽつりと落ちた低い呟き。声の主は、ドゥールだった。蒼褪めた顔のまま、呟きを漏らしてくる。

「この町に。レジックにいるだろう」

「……なんなの」

 幼い声音が、震えた。と、思った次の瞬間には、桜春は弾かれたように立ち上がり、甲高い叫びを上げていた。

「なんなの! 判らないネ! どうして、いきなりこんな事になるネ! いきなりネ!」

「鈴ちゃん!」

 エリスは思わず立ち上がり、その小さな少女の方に手を置いた。びくり、と桜春の身体が震える。

 小さな身体を、抱きしめる。震えていた。小刻みに、弱々しく。

「どうしたの。なにが、いきなり?」

 腕のなかの桜春が、左右に首を振る。震えと、アクセントのせいで、上手く聞き取れない言葉が、漏れでてくる。

「霧、赤竜のせいネ。あなたたちが、関係しているの?」

「え……?」

「あなたたち」

 桜春が、顔をあげた。見上げてくる黒瞳が、濡れている。

「みんな、特殊能力者ネ?」

 思わず、桜春の背に回していた手がきつくなる。自覚して、指の力を抜いた。その反動だろうか、肩が震える。深く、息を吐いた。

「そう。あなたも、だよね」

「……桜春は、ちょっと、違う」

「違う?」

 疑問符を口にした。その時、だった。


 嘔吐感が、音となって襲ってくる。


 形容し難い、音だった。音――声、あるいは、咆哮?

 咆哮――そうだ。咆哮。その単語にいきつき、すとんと胸に納得がいく。

 それ以外に、どう表現しようもない。いきついてみれば、それ以外の単語は当てはまらない。

 嘔吐を呼ぶ咆哮だった。

 強烈な異臭が、脳髄に染み込んできて、胃をかき乱す。こらえるため、奥歯をかんだ。こめかみが痛い。

 また、咆哮が上がる。響いている――のか。町中に?

 地面が揺れた。否、眩暈だ。平衡感覚を失い、膝をつく。

 エリスはきつくかみ合わせた歯の間から、声を漏らした。ひしゃげた声は、とても自分のものとは思えなかったが。

「な、に……」

「……赤竜!」

 小さな悲鳴が、耳のすぐ傍でした。息がかかり、熱い。

 知らず閉じていた目を開けると、桜春が、蒼褪めた顔で立っていた。呼びかけようとした。だが、次の瞬間、少女は走り出していた。背が見えなくなり、すぐ、扉が乱暴に開かれる音が聞こえてきた。外へ出たのだ。

(追わなきゃ……)

 理屈ではなく、感情がそう吐いた。嘔吐感を意思の力で抑え、力の入らない膝を嫉妬し、立ち上がる。

 それから、名を呼ぶ。

「アンジェラ」

 何よりも、彼女が無事かどうか、確かめたかった。まだ不安定に揺れる視界をだましだまし、アンジェラのいた方向を見やる。

 そして、息を呑んだ。

「……アンジェラッ!」

 床に倒れたままの彼女は、変色した唇で、小さく笑みを作ってきた。身体を震わせている。

 背後で、まるきり自分と同じ音の響きで、ゲイルがドゥールの名を呼んだのが判った。彼もまた、同じような状態なのだろう。だが、振り返る余裕すらなく、エリスはアンジェラの手を握った。冷たい。指先が、ひどく冷たい。

「お嬢ちゃん」

 すぐ傍で声がした。顔をあげる余裕はなかったが、それがジークだということはすぐに判った。

「ジーク。ジークお願い。癒してよ。できるよね。アンジェラ、こんな」

「できない」

 否定の言葉が、耳に痛い。

「……なんで」

「俺ができる法技は、あくまでもただの法技だ。怪我には利く。だが、病気は無理だ」

「なんでよ!」

 理不尽な怒りが、喉をついた。

 きつくアンジェラの手を握る。返って来る反応は弱い。アンジェラの声は、弱い。

 頭が、熱かった。痺れていた。

 エリスはきつくまぶたを閉じた。混乱している。その自覚はある。まだ。

「零れていく」

 だが、口をついて出た言葉は、自身の声とは思えなかった。何を言っているのかも、よく判らなかった。

「零れていくよ。どうしてみんな。嫌だ。なんで。助けてよ……! あの時だって、助けてくれなかった! 彼を、助けてくれなかった!」

「……エリス……っ!」

 涼やかな、声。冷水を浴びせられたように、エリスは動きを止めた。

 声の主――アンジェラを、見下ろす。

 荒い呼気の合間から、言葉を紡いでくる。紫の瞳は、この状況においても、輝きを失ってはいなかった。

「彼を殺したのは、あんたよ。それでジークを責めるのは不当よ。人には、出来ることと出来ないことがあるの」

「嫌だ……」

「聞きなさい!」

 きつく、手を握られる。アンジェラの爪は、いつも丁寧に磨かれていた。かすかな痛みは、そのせいだろう。

 蒼褪めた顔で、アンジェラは口を開いた。

「あんたが今出来るのは、人を責めることじゃないわ。自覚すること。私は、彼とは違う。死なないわよ、これくらいじゃね」

 蒼褪めてはいたが、アンジェラは笑っていた。

 エリスは、きつく唇を引き結んで、彼女を見下ろしていた。

「悪いけど、私、助けられるなら、ジークよりあんたがいいわ」

「アンジェラ……」

「行きなさい。行きたいんでしょ? 約束、したんでしょ?」

 震えながら、エリスは首を縦に振った。

「私は、大丈夫だから。ゲイルも、ミユナも……行って。行くわ」

 言葉尻がおかしいと思った。だが、気付く。――『見ている』のだろう。

 まだどこか、混乱したまま、エリスはゆっくりと立ち上がった。

「すぐ、戻るから」

「約束よ、エリス」

 アンジェラの頬が、笑みの形に歪んだ。少しばかり、影が落ちた、そんな顔で。


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