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紅月は女神の祈り  作者: 中原まなみ
第五章:『Kiss is the color of blood――血色の口付け』
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4

 宵闇の中に溶け込んでしまうのではないかと、思わず危惧してしまうそんな黒髪が揺れて遠ざかっていく。

 年端もいかない少女の背が、思いがけず速く遠ざかっていき、彼は軽く舌打ちをした。

 スピードを上げ少女に追いつくと、ジークは左手で彼女の右腕を強く引く。

「アンジェラ!」

 さすがに、体格差は大きい。ほんの一瞬だけ抵抗らしい仕草を示したが、少女は手を引かれたその流れのまま、彼と向かい合った。

 向き合わせざるを得なかった――というのが正直なところではあるだろうが。

 アメジストの雫が、月光に跳ねた。

 ジークのワイン色の瞳が大きく見開かれる。驚きと戸惑いが、その中で揺れた。

「……お前」

「うるさいわねっ! 私は謝るつもりなんてないから!」

 何かを言いかけたジークを遮り、アンジェラは裏返った叫びを叩きつけた。その声が若干ひび割れていたことを自覚したのだろう、彼女の頬はさっと淡く色づいている。

「判った。判ったから。落ち着け」

 ジークは浅く嘆息すると、目の前のアメジストの輝きを持つ瞳に向かって苦笑を浮かべた。

「エリスがあれでお前がこれじゃ、おにーさん手におえない」

「子供扱いしないでよ!」

 アンジェラが、再度叫ぶ。ジークはうるさげに眉をしかめ、握っていたアンジェラの右手を離すと、空いた自らの手を彼女の頭に持っていった。

「判ってる。お前さんの言うこたぁ間違っちゃいねぇよ」

 ぽん、ぽん、と無造作に、少女の頭をなでる。その、指の皮が厚くなった褐色の手を、アンジェラはほんの一瞬呆けた顔で見上げた。

 見上げ――やがて、その顔が力なく歪む。

 アンジェラの頬を、いくつかの雫が滑り落ちていった。

「……て、だって、へんなんだもん。おかしいもん。エリスは、生きたかったからダリードを殺したんでしょ? 私を守ってくれたんでしょう?」

 上ずった声で、時折しゃくりあげながら、アンジェラの唇から言葉が漏れる。

 子供じみた仕草で必死に涙を拭うアンジェラを見下ろし、ジークは何も言わずにいた。

「あっちが、勝手に狙ってきたんでしょ? エリスは、降って来た火の粉を払っただけでしょ?」

 アンジェラは、しゃくりあげながらも訴えの言葉を吐いていた。

「なのに、なんでエリスがあんな風に傷つかなきゃいけないの? なんでエリスが泣かなきゃいけないの?」

 とうとう、堪えきれなくなったのだろう。アンジェラは泣き声を漏らした。

「そんなの……なんか、へんだもん……」

 開いた小さな唇から、嗚咽が漏れ出る。本格的に泣き始めてしまったその少女の頭を、ジークは無造作に抱き寄せた。

「ったく、だからって何でお前さんまで泣く必要があるんだよ」

 身長差は、四十センチほどある。少女のつむじを見下ろしながら、ジークは腕の中にすっぽりと収まった小さな背を軽く叩いた。

 まるきり、子をあやす親のような抱擁。

 少女は、その大男の腕の中で、暫く泣きつづけた。



 落ちていた木の枝と、自らの長い髪をまとめていた紐とで作った即席の十字架が、湖から吹く夜風に、力なく揺れている。

 ドゥールは、夜気を含み濡れた芝生に直に腰をおろし、その揺れる十字架を眺めつづけていた。小刻みに動くのは右目だけで、左目はほとんど動かない。

 その、揺れる十字架の下に弟が埋まっている――否。

 弟だったものが、埋まっている。

 ドゥールは右手で顔の半分を覆い、肺の中の空気を全て吐き出すように息をついた。

 爪を、額に立てる。その行為すら、彼にすれば現実へのすがりなのかもしれない。再度漏れ出た息は、先ほどよりは安堵の色が濃かった。

 ほとんど視力の利かない左目だけで、揺れる十字架を見ようとする。だが、月だけが光源では、何も見えなかった。


 からん。


 乾いた音がして、十字架が倒れたのだと理解する。

 ドゥールは、左目も閉じた。

 闇に閉ざされた視界の中で、思考する。

 虫の音だけが、耳障りなほど広がっていくその丘の夜の中、ドゥールは開いていた左手を拳の形に握った。

 震える拳が、地面にきつく叩きつけられる。

 だが、その音は土に吸収され、ドゥール自身の耳にも届かなかった。

 何も、聞こえなかった。



「落ち着いたか?」

 ミユナの言葉に、エリスは首を縦に振った。水筒の水を飲み、多少は落ち着きを取り戻していることを自覚したからだ。

 天高い月は、薄い影を生み出している。

 草場に映り、歪みながら揺れている自らの影を見つめながら、エリスはもう一度頷いた。

「落ち着いてるよ。大丈夫。……ごめんね」

 ふと、その言葉にミユナの動きが止まった。

「……ミユナ?」

「何故、謝る?」

 隣に座った彼女のその言葉に、落ち着いていた心臓が再度鼓動を速める。

 ダリードのあの言葉と同じだと。

 視線を落とす。セイドゥールを出るときにおろした靴は、すでにぼろぼろになり始めていた。表面に走った傷を指先でなぞる。

 ミユナの嘆息が、耳に響いた。

 ゆるりと顔を上げると、苦々しげな表情を貼り付けたミユナが、こちらを見下ろしていた。

「謝るな。謝るなら、後悔するなら、初めから剣なんて人に向けるな」

 淡白な言葉が、刺さった。

 事実だ。そう思う。

「剣は人を殺しえる道具だ。殺すための道具と言い換えてもいいよな。お前は確かに、死ぬ覚悟はあった。それは認めるよ。戦う時には、その覚悟だって必要だろうけど、だけど、お前には殺す覚悟がなさ過ぎた」

 ミユナの言葉を、きつく唇を噛み締めたまま聞き入れる。出来るならば、逃げ出したいとも思った。聞きたくなかった。だが、聞かなければならないということは判っていた。

「殺す覚悟も、殺した罪を背負う覚悟も、何もない奴が、剣なんて握るな。人間なんて、脆いよ。すぐに死ぬ。死んだら、終わりだ。輪廻転生なんて説もあるけど、あたしは信じてない。終わりなんだよ、死んだら。何もかも、全て。そこで途切れて、思いも、過去も、未来も断絶されて、取り残される。当人だけじゃない、周りの、全てがな。その時に取り残されて、囲われて、抜け出せなくなる」

 ミユナの横顔は、月光に照らされて淡い影を落としていた。銀髪が、肩口を滑る。

「――あたしも、たぶん、心のどこかがあの頃に取り残されたままだ。お父様とお母様を失った、あの頃に取り残されたままだ。家族を失う痛みは、判っているつもりだ」

 ミユナはそこでいったん言葉を切ると、こちらを見据えてきた。銀青色の瞳が、陰をきつく作り出しながら、見つめてくる。

「だけど、目の前で家族を殺された痛みは判らない」

 再度、胃が蠢いた。だが、必死に喉を上下させ、上がってきたものを嚥下(えんか)させる。

 それをしてはいけないような、そんな気がしたのだ。

「甘ったれるなよ、エリス。お前は、確かにあいつを殺した。あいつの全てはお前が途切れさせた。ゲイルやドゥールの『どこか』も、お前が今、この瞬間に取り残すことになる。その罪を、お前は背負っていかなきゃいけない。判るよな。それは」

 緩んできた涙腺を、叱咤する。そんな資格は、自分にはない。首を縦に振れば、涙が零れてしまいそうだったので、エリスは嗚咽を喉の奥で押し殺して唇を開いた。

「……はい」

「お前は、今までどれだけ殺してきた?」

 間髪入れず、畳み掛けるようにミユナが問うてくる。

 エリスは、左右に小さく首を振った。

「判りません。……見たのは、彼だけ」

「人間だけじゃない」

 ミユナのその言葉に、疑問符が浮かんだ。顔を上げる。

「――人間だけだと思うなよ。全ての生物だ。魔物も、もちろん含んでな。お前の手は、どれだけ血で汚れてる? どれだけの命を奪って、生きてきてる?」


 ――一体何匹目なのだろう――


 ふいに、ラスタ・ミネアでのことを思い出した。セイドゥールにいたあの日。旅立ちのあの日。あの森の中で、自分は確かにそう考えていたはずだ。

 失われていく命になんて、興味も示していなかった。ただ、気味の悪い生物を倒すだけだと思っていた。だが――

 エリスは、自らの手を見下ろした。

 酷く、汚れて見える。

 どれだけの血を吸って、生きてきたのだろう。そう思う。

 その中に、ダリードの血も含まれた。今夜、含まれた。そういうことなのだろう。

 今さらになって、今まで自分のしてきたことに酷く恐怖を覚えた。口中にも、鼻にも、血の臭いが充満している。髪にも、手にも、剣にも、顔にも、全身中に、染み付いている。

「アンジェラには、たぶん殺す覚悟がある」

 小刻みに震え始めてしまう自らの身体を、きつく両手で押さえつける。ミユナの台詞に、視線を彼女へと合わせた。

「例えば、今あたしがお前を殺そうとしたら、あいつは間違いなくあたしを殺すだろうよ。そのことも、罪としては受け取るだろうが、後悔はしないはずさ。それだけの覚悟が、あいつにはあるんだろうな。殺す覚悟が出来てる奴は、死ぬ覚悟も出来ている。――アンジェラは強いよ。お前なんかより、よっぽどな」

 ミユナの言葉に、エリスは軽く目を伏せた。アンジェラの先ほどの言葉が、耳に張り付いている。

 だが、彼女の言葉は、覚悟があったから紡げたそれなのだ。

「あたしは、アンジェラが間違っているとは思えない」

「……はい」

「いいか。エリス」

 ミユナが、こちらの肩を掴んで、覗き込んできた。

「二度と、謝るな。後悔するなとは言わないけどな、謝るな。殺したことを、謝るなよ。――それは、全てを侮辱する台詞だ。覚えて置け」

 エリスは、ミユナの目を真っ直ぐに見据えた。感情が追いついて来ていた訳ではなかったが、だが、理解は出来た。

 だからこそ、エリスは震えないように声を固め、唇を開いた。

「はい」

「――それでいい」

 そう言うと、ふとミユナは表情を和らげた。哀しげな笑みは、酷く美しく月光に映えた。

「きついこと、言って悪いな。アンジェラのこと、嫌うなよ。あいつはあいつなりに必死なんだと思う」

「判ってます」

 ふと、弱い笑みが漏れた。

「……判ってます。アンジェラのことは、誰よりも判ってるつもりだから」

「そりゃそうか」

 ミユナが苦笑を漏らした。それから、ふと思い出したように懐から何かを取り出してきた。

 差し出されたそれを受け取る。

「……短冊」

 ミユナが出してきたのは、ダリードがエリスに渡した短冊だった。

「お前、気を失ったあとも持ってたけどな。手当てに邪魔だってんで、ジークがはずしたんだよ。で、あたしが保管しといた。ああ、あとで礼言っとけよ。あのおじさんが手当てしてくれたんだからな」

「……判った」

 頷く。ミユナは、軽くこちらの頭の上に手を乗せると立ち上がった、

「今日は、ゆっくり休め。ただ、明日までに決めといてくれ。お前のこのあとの身の振り方をな。殺す覚悟も出来ないんだったら、とっとと故郷に帰れよ。四竜に会わないって言うなら、あたしは別行動になるから。な?」

「……判った、考えとく」

 エリスが再度頷くと、ミユナはこちらを振り返らないまま、歩いていった。

 ミユナの姿が、遠くなっていった後、エリスは空を見上げた。

 煌々と、黄色い月が揺れている。

 黒い布の中に、まるでぽっかりと開いた穴のようにも見えた。

 これから、どうするか考えなければいけない。

 ダリードが――死んだ今、ゲイルたちとの協定は途切れている。

 逃げるか、従うか――あるいは――

 三つ目の選択肢が、初めて脳裏に浮かんだ。エリスはそれを自覚して、また漏れかけるため息を深呼吸にかえた。

 殺した罪。

 そんなものを背負える自信は、正直に言えばなかった。

 出来る事ならば、一緒に死んでしまえばよかったのだ――そんなことも、ふと思った。

 だが、それこそ罪だと言うことには気付いていた。

 手の中にある、血のついた短冊。

 自由になる、と書かれたエリスの癖字。それを、何の気なしに裏返して――エリスは、思わず泣き出しそうな笑みを浮かべた。

 指でそれをなぞり、大切に懐にしまう。服の下に、かさり、と違和のある感触。

 目を細める。もう叶わない願い事が、そこにある。

 ゆっくりと、立ち上がった。

 全身の痛みのせいで、立ち上がるにも時間がかかった。貧血も起こしているらしく、眩暈もした。だが、立ち上がらずにはいられなかった。

 足を引き摺るように歩き出す。

 会いたかった。

 アンジェラに。

 そして、思いついた第三の選択肢を、伝えたかった。

 湖には、月が揺れている。それを一度視界に収め、アンジェラの去って行った方に身体を向ける。

 と、その時、ふいに誰かの後姿が目に入った。

 湖を――湖に揺れる月をじっと見つめているような、そんな背中。

 エリスは思わず再度振り返り、その背中に目を凝らした。

「……ゲイル……?」

 少し離れた場所でこちらに背を向けて座っているのは、彼だった。

 躊躇いが無かったと言えば嘘になる。

 だが、エリスは一度乾いた喉に唾を送り込んでから、ゆっくりとその背中に向けて歩を進めた。

「ゲイル」

 呼びかけると、ゲイルの背は軽く震えた。驚いたように、こちらを振り返ってくる。

 その彼の頬に、光るものを見止め、エリスは息を呑んでいた。

「ゲイル……」

 慌てたように、ゲイルは再度こちらに背を向けてきた。

 声音だけは普段と変わらず、高いトーンで言ってくる。

「こないでくれるかな。仕事をするかもしれないよ、おれは。――それに、君に近づいたら、おれたちはアンジェラちゃんに殺されるかもしれないしね」

「ゲイル。……泣いてるの?」

 こちらの言葉にも、軽い笑い声さえ伴った言葉が返ってくる。

「泣いてるはずないよ。なんで?」

「……」

 エリスは痛む身体に鞭を打って、少し早足でゲイルの元へと歩み寄った。

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