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紅月は女神の祈り  作者: 中原まなみ
第五章:『Kiss is the color of blood――血色の口付け』
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「プレシア。食器を並べてくれるかい?」

 養母の言葉に、少女――プレシアは大きく頷いた。

「うん、おばあちゃん」

 夕食の準備はいつも二人ですることになっている。プレシアがこの家に引き取られて以来、ほぼ毎日変わらずに続いている慣習のようなものだ。

 それ自体には大して意味はない。あるとするならば、ずっと続くというその結果に対してだ。

 養母は年のため、準備にも時間がかかる。毎日、夕方すぎには食事の準備を始める事になっている。

 そう、毎日――だ。その日に何か、特別変わったことがあったわけではなかった。

 ただ、いつものとおり、お気に入りのマグカップを食卓に並べようとしたときに――聞こえたのだ。


 パリィィンッ!


「プレシア?」

 驚いたような養母の声に、だが少女は暫く動かなかった。手のひらから滑り落ち、床に叩きつけられたマグカップは鋭い断面を少女に向けている。

 プレシアはそれを凝視したまま、息を呑んでいた。

 血液が体中を巡る音が、聞こえる。

 その音の中で、聞こえた――気がした。

「……ダリードくん……?」

 ぽつりと、プレシアの唇からその名が漏れた。

 そしてその次の瞬間には、少女は割れたマグカップをそのままに、自室へと駆けていった。

「ちょ、どうしたんだね、プレシア!」

「聞こえたの! 声!」

 後ろからの養母の声に、ただプレシアは一声だけ叫んだ。

 強烈な不安感が、足元から這いずり昇ってくる。

 自室の扉を閉め、そのまま背を扉に預けてプレシアはくずおれた。

 家族の声が、急に聞こえたのなんて初めてだった。能力は常に自分でコントロールできるというわけでもない。だが、傍にいない誰かの声を聞くなんて、意識をしてでないと出来ないはずだった。それなのに。

「ダリードくん……?」

  


 なだらかな丘は、青空に抱かれて広がっていた。

 髪を撫ぜて過ぎて行く風は、久方ぶりに季節らしさを取り戻した涼やかな初夏の薫りだ。

 エリスは、肺にその空気を送り込み、目を細めた。

 丘の下には、湖が広がっている。淡水湖だ。名を、生命の湖。

 止まることなく水が沸きつづけるというそこは、いつしかそんな名で呼ばれるようになったという。

 生命の湖――ルナ大陸最大の湖は、そうと知らずに見れば、海と勘違いしてもおかしくない広さは持ち合わせていた。

 今日は良く晴れている。

 透き通った青空の色を映しこみ、水が輝いていた。煌く湖の向こう側に、かすむ街並みが見える。地理的に考えようとしたが、いまいち脳裏の地図と合致しなかったため、エリスは首を回して隣に座ったアンジェラに問い掛けた。

「あっち側に見える街って、どこになるの?」

「ラポルシェル共和国内の……どっか」

「ラポルシェルなんだ?」

「生命の湖は、ラポルシェル共和国が所有してるもん。地理的に考えてもそうでしょ」

「ふーん」

 太陽は、天頂よりもやや西よりに傾いている。柔らかな草場に腰をおろし、エリスはアンジェラと二人ぼんやりと湖を見下ろしていた。

「エリスちゃん」

 ふいに、横手から声をかけられて、エリスはすっと視線を落とした。

「何」

「ジークが水を汲んできてくれてさ。どうせなら火も熾すから、簡単だけど料理しようと思って。ほら、今日はまだお昼食べてないだろう? 何か、食べたいものはあるかい? おれ、案外料理得意だからさ、言ってくれれば」

「いらない」

 無理やりトーンを上げたかのようなゲイルの声に、エリスはただ淡白にそうかぶせた。

「ごめん。欲しくないから。アンジェラに聞いて」

「エリスちゃん」

 再び名を呼ばれる。その時になってようやっと、エリスは顔をゲイルに向けた。

 柔らかな太陽光を集めたかのような金髪。温和な――温和に見える碧の瞳。青空の中に、彼はとてもよく映えていた。だが、もしエリスが画家ならば彼をモデルにしようとは思わなかっただろう。――表情が、厳しすぎた。

「エリスちゃん、いいかげんに食べないと。昨日から何も食べてないだろう?」

「おなかすいてないから」

「エリスちゃん!」

 やや、苛立ちさえ含んだ声に、エリスは嘆息を付いた。

「食べられないんだよ――食べる気分になれない。理由なら判るでしょ」

「エリスちゃん……」

 右隣のアンジェラは、身じろぎすらせずにアメジストの瞳で湖を見下ろしている。

 背後には、大きな一本の樹。年輪を重ねたそれは、この間目にした精霊樹よりは小さかったが、それでも目印にはなりえる程度の大きさだった。

 背を預け、その幹の感触に息を吐く。

「ゲイル」

「……なんだい?」

 戸惑ったようなゲイルを、片目で見上げ、告げる。

「止めないでね」

「それは」

「止めないで」

 何かを言いかけたゲイルを遮り、エリスは再度言い切った。

 自分でも驚くほどに、落ち着いていた。完全な覚醒状態が数日続いている――ここまで来ると、あるいは過度の興奮状態と言っても違いはないかもしれないが。

 だが、思考ははっきりとしていた。

 全ての物事が、クリアに見える。冷静に考えられる。

「あんたの考えてること、判るよ。ごめんね、確かにこれは『協定違反』だね。でも、こうするしかできないから」

「それは、エリスちゃんは、だろう」

「そうね。あんたは違う」

 頬筋に力をいれ、苦笑を浮かべてみせる。

「あんたの『仕事』だと、あたしが殺されるのを見て見ぬふりは出来ないだろし……逆なら、心理的な問題になるね。ダリード……『弟』が殺されるのは、見たくないよね」

「前者は、そのとおりだよ。後者は少し違う。ダリードをもし殺すことになったら、その役目はおれだから」

「何故?」

 そう問い掛ける自分の声が、いつもよりフラットだと自覚はしていた。音に高さの変化がない。だからと言って、どうと言うこともなかったが。

 ゲイルはやや躊躇うような素振りを見せ、

「それは、やっぱり兄だから、さ」

「あんたたちは、何で仕事をするの?」

 畳み掛けるように呟いたその言葉に、ゲイルが目をしばたかせる。

「何でって、それは」

「何故?」

 再度、問う。暫くの沈黙の後、ゲイルは苦笑いを浮かべた。

「守りたいものが、あるから。だから……ごめん。しなきゃいけないんだ」

 その言葉に、エリスはゆっくりと鼻から息を吐いた。長く、長く、細く。まぶたが半分おち、視界が薄暗くなる。膝を抱き寄せ、手持ち無沙汰な心地で、胸元のペンダントをいじる。

 ――誰もがみな矛盾している。矛盾して生きている。

 いつかの少年の言葉が、内耳に痛い。

 それは、事実だ。だが、事実だとしても、認められなかった。

「互いに、守るために、家族同士で戦うのなんて認められないよ。その事に、あたしが関わっているなら、なおさらね」

「え? エリスちゃん、それはどういう――」

「ごめん」

 ゲイルの言葉を遮り、エリスは立ち上がった。じっと、何も言わずに視線を前方に投げているアンジェラに一度だけ視線を落とし、呟く。

「あたしも、守りたいものがあるから。あたしも、守るために戦う。それだけなんだよ」



 ゲイルと、アンジェラ――そして、そこから少し距離をとったところで立ち尽くしていたドゥール。その三人から充分に距離が離れた場所に、ミユナがいた。

 エリスはそっとミユナに近づき、恐る恐るその名を口にする。

「ミユナ?」

「エリスか。どうした?」

 火を熾し、お湯を沸かしていたミユナが屈託のない、いつもの笑みで答えてくれた。その表情にほっとして、エリスは彼女の横に座る。

「んー。ちょっと。ミユナ、話きいたのかなぁって思って」

「全然。誰も口きかねぇでぴりぴりしてやがんだぜ? いつ訊けってんだよ」

 そのあっけらかんとした口調に、エリスは思わず笑っていた。

「そりゃそうだ。ごめん」

「別にいいけどな。話したくないこと無理に聞きだすほど、あたし悪趣味じゃねえし」

 ミユナの、風になびく銀色の髪を目で追いながら、エリスは首をかしげた。

「話したいことなら聞いてくれんの?」

「話したいのか?」

「んー。……ちょっと」

 肯定すると、ミユナは苦笑して、手のひらを向けてきた。

「ありがと」

 エリスは小さく笑い、事のあらましをかいつまんで説明した。



 話し終えてから、自分で思う――全く、この短い期間になんともややこしい事態になっているものだな、と。どうやらそれは、聞いたミユナも同じだったらしく、ほぼ似たような感想を告げられてしまった。

 苦笑を浮かべ――というか、苦笑を浮かべる以外にどうすればいいのか判らず――エリスは頭をかいた。バンダナが少しずれたので、それを直しながら、呟く。

「全部話したのはさ、ミユナにお願いがあったからなんだ」

「お願い?」

「うん」

 頷く。

 視線だけで疑問符を投げてくるミユナに、エリスはどう言えば良いのか暫く思案してから、ゆっくりと言葉を選びながら口を開いた。

「ダリードと、これから……たぶん、今日のうちに、戦うことになるよ」

「……ああ」

 ミユナが頷く。エリスも頷き返してから、続けた。

「あたしは、一人でやるつもり。誰にも手出しはさせないよ。――悪いけど、ゲイルも、ドゥールも、ね」

「手をだしそうになったら、止めろってか?」

「いや。まぁ、やってくれるならありがたいけど。その後」

「後?」

 言葉を反復してくるミユナの、銀青色の瞳を見つめる。

「あいつ、強いから。結果がどっちに転ぶか判らない」

「……ああ」

「あたしが死んだらさ」

 そう告げると、ミユナが眉をしかめた。やはり、な――とは思ったが、気付かないふりをして、エリスは言葉を続けた。

「あたしが死んだらさ。逃げて欲しいの」

「……え?」

 間の抜けた声。軽く笑いながら、エリスは視界を空に移した。

「どーなるか、ほんっと、判んないから。保険ね。あたしが死んだら、逃げて。できるだけすぐに。あたしの死体は……」

 言ってから、妙な感触に捕らわれて、唇が震えた。自分の死体――口に出すと、なんとも狂言のように聞こえてしまう。

「――あたしの死体は、放っておいてかまわないから。アンジェラを連れて、逃げて。たぶん、ジークが手伝ってくれる」

「……誰からだ。ダリードからか?」

 エリスは、ゆっくりと首を振った。左右に。

「確かに、ダリードはアンジェラを狙うと思う。でも、それよりもある意味危険だからさ。あの二人は」

 雲が、空を泳いでいく。

「ゲイルとドゥール。二人から逃げて」

「……エリス」

「ミユナ。勘違いしないでね。あの二人は味方じゃないよ。今のところは敵じゃない、ただそれだけ。それに、ダリードならアンジェラを狙うだけだけど、あの二人はミユナを狙うわよ」

 さらりといったその言葉に、さすがにミユナの気配が緊張に固まった。それを確認して、エリスは視線を空から少女へと移す。

「なん……だって?」

「ミユナ、特殊能力者だからね。ラボはプトネッド中の特殊能力者を集めている――ドゥールはそう言っていた。いつ矛先がミユナに向くか判らない、今はそんな状態なの。自覚してね」

 絶句したように、ミユナはただ黙っていた。

「ゲイルとドゥールは、あたしがこのことに気付いているってのは、知らないと思う。だから、逃げる余裕はあるはず。――ジークなら気付いているはずだから、手伝ってくれると思う。そんな気がするからさ」

「俺がなんだって?」

 ふいに苦笑を含んだ声が聞こえ、エリスは背後を向いた。気配なら少し前から気付いていた。

「ジークなら、助けてくれるよねって話」

「……たく。人のいねぇところで」

 どうやら、薪をとってきていたらしい。適当に火にくべながら、苦笑を浮かべてくる。

「そいつは何だい? ミユナとアンジェラのお嬢ちゃんをってことかい?」

「あ。やっぱ気付いてる」

「当然だ」

 どことなく憮然とした表情で肯定してくる。

「――で? それは、お嬢ちゃんがもし死んだらってことか?」

「そ。お願いね、ジーク? 可愛い女の子の頼みは断らないんでしょ?」

「可愛い『生きた』女の子の頼みはな。死体になった後は、しらねぇよ」

「……」

 あっさりと言われ、思わず視線を落として頭を垂れた。と、ふいに頭をごつい手で乱暴に撫でられる。

「死ぬなよ」

「……がんばる」



 気付くと、陽は随分西に傾いていた。

 高度が低くなった太陽は、夕闇の赤い腕を空に広げている。

 赤褐色の、むせ返るような太陽が、ちょうど生命の湖へと沈もうとしていた。

 天頂付近の空は、薄墨を広げたように淡く闇に抱かれ、グラデーションを描きながら西の太陽へと続いている。

 溶け込むような夕陽は、なぜかいつもより薄暗く感じた。彩度を落とした夕焼け、といった感じだろうか。

 ただ、鑑賞のための場所なら、ここほど良い場所は大陸中を探してもそうないかもしれない。

 だが、そうではなかった。

「エリス」

 甘ったるい、鼻にかかった声は、アンジェラだ。彼女はゆっくりと歩き、こちらの隣に並んできた。

「来たわ」

 断言。――『見た』のだろう。

 一、二、三、四、五、六――

 心中で数を数え始め、そこで途切れる。

 薄闇の中、夕陽がぐにゃりと歪んだ。――いや、夕陽を映す、エリスの視界、その間の空間が。

 歪み、空間が戻る。だが、元のように夕陽を描くことはなかった。

 綺麗な真円はそこにはない。

 人型の影が、ひとつ、生まれていた。

「ダリード・ズロデアフ」

 エリスはその人影の名を、ぽつりと漏らした。

「ああ」

 人影は、肯定の仕草を見せ、一歩前に歩いてきた。その手に、抜き身の剣を下げている。

「来たね」

 エリスは、少年と対峙したまま、夕陽と同じ色の瞳を揺らがせることなく呟いた。

「ああ。来た」

 風が、一陣吹き抜ける。

 夕陽が、世界を赤く染め変えていた。

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