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紅月は女神の祈り  作者: 中原まなみ
序章:『旅立ちの日 ―The Starting Day』
3/76

3

 ルナリット神殿。この旧神殿は、確かそんな名前だった。

 最もそんな名前で呼ぶ人間は、ほとんどいない。ここは旧神殿。それでいいじゃないかというのがたいていの人間の考え方だ。エリス自身含め。

 十数年前まで、ここは現役の神殿だったらしい。とはいえ新しい神殿が街中に出来てからは見向きもされなくなった。しかしそれが逆に、建物の頑丈さとあいまって『ひみつ基地』にはもってこいだったのだ。

 多分、探せばまだあちこちに隠した宝物だのなんだのが見つかるはずだ。

 なれた足取りで神殿内を進んでいく。ひんやりとした空気は、いつ来ても変わることがない。清浄なる神殿――ということなのだろうか。戦闘に疲れきった体には、心地よいことこの上なかった。

 エリスはふと顎を上げた。高い天井に描かれた神話。

 眉をしかめる。不愉快だった。

「なに、あんたまたぁ?」

 身じろぎしたのを見つけたのだろう、アンジェラが呆れたように言ってくる。

「仕方ないじゃん」

 嫌いなものは嫌いなのだ。この神話のせいで、何度不快な思いをしたことか。

 天井画には、真紅の月が描かれていた。フレスコ画――だろうか。ところどころ継ぎ目が見える。あまりこの絵の作者はフレスコ画に慣れていなかったらしい。

 真紅の月と、それに重なるように描かれている裸身の女性――いや、女神。このルナ大陸を治めし月と戦いの女神、ルナ。その腕の中にいるのは、赤ん坊だ。赤ん坊の手のひらには、何か赤いものが見えた。紅の石を握っているのだ。

「月の者、かぁ」

「……うん」

 エリスは小さく頷いた。剣を収め、手持ち無沙汰になっていた右手でそっと胸元のペンダントに触れる。

 月の石。

 今見上げていた、あの絵画の赤ん坊が握っているそれだ。紅の、ルビーにも似た色で、石の中に不思議な紋様が見える。

「紅き月、天<ソラ>に架かりし刻、証を持ちて生まれし者、汝、月の子也り――だってさ?」

 アンジェラが天井画を見上げながら呟く。天井画に書かれた句を読み上げたのだ。エリスはこれ見よがしに舌打ちをした。アンジェラが眉をひそめる。

「あんた……いくらなんでも神話絵に舌打ちは、バチがあたるわよ……?」

「イコン(聖像画)じゃないからいーの。てか、いくらでもバチもってこい。どうせ今とそんなにかわりゃしないよ」

「……そんなに嫌い?」

「嫌い。大っ嫌い。なんであんな神話のせいでただの人間じゃないなんていわれなきゃならないのよ」

「まぁ、わかんなくもないけどさ」

 アンジェラが肩をすくめて、さらに小声で続けた。

「世界に危機迫らんとするとき、女神は我が子を産み落とす――」

 アンジェラの小さな声が、それでもエリスの耳に飛び込んでくる。嫌な言葉として。

 この言葉で、何度からかわれたことだろう。逆に言えば、エリス自身が生まれたということは、世界が危機に瀕しているらしいということになる。

 月の者――女神ルナの使者=エリス・マグナータ。

「世界の危機とかいわれても、そんなもの知らないもん。あたし」

「まぁねー。ま、いいじゃん? ほっとけば。どーせ、セイドゥール出ればそんな大きな問題じゃないでしょ?」

「知らない。国教に指定してるのはこの国だけだけど、それでも『大陸の女神様』だもん。割と信仰はされてると思うし」

「……そんなものなのかなぁ」

 アンジェラがくいと首を傾げるが、エリス自身聞きかじりだ。そんなものかどうかは――今夜からきっと、嫌というほど判るはず。

 それから、会話が途切れる。お互い疲れていたし、何よりも今交わした言葉が、次の台詞を生み出せなくしていた。

 無言のまま、神殿の奥へ奥へと進み――そして。

 つとアンジェラが足を止めた。エリスもなんとなく同じように足を止める。

 旧神殿の最奥部。女神の間――

 


 嫌な感じがした。アンジェラはその感覚に理由をつけることはなかった。けれど、事実としてあった。嫌な感じがする――

 広間に目を滑らす。あの頃とそんなに変わっていない。多少埃っぽくなって、老朽化も進んでいるだろうが、見た目には変わりない。だとしたら、何がそんな嫌な感じを生み出しているのだ――?

 

 紅。


 フラッシュのように意識に飛び込んできたそれが、視界の片隅に映っていた彫刻像だと気付くのに、数秒を要した。

 アンジェラは反射的にそれをまっすぐと見つめた。

 紅い月の、彫刻。細かい細工の施された、芸術品。イコン――聖像画が現神殿に移されてからも、これだけは変わらずここにあった。昔からだ。それは変わらない、はずなのに――

(やだ。なんで……今日はこんなに気持ち悪く思うの?)

 知らず知らずのうちに、喉が上下して唾を飲み込んでいた。不快感。

 そして、見た。

(……!?)

 思わず息を呑み、隣に立っているエリスの服を引っ張る。

「……エリス……あれ、何!?」

「何って……彫刻でしょ? 前からあったじゃない」

「そうじゃない!」

 自分でも驚くほど、声音は悲鳴じみていた。

「ちゃんと見なさいよ!」

 半ば裏返った声で叫び、震える人差し指でそれをさした。

「……え?」

 エリスが戸惑いながらそれを見る。そして……息を、呑んだ。

 その横顔をちらりと視界に入れて、アンジェラは苦々しく思う。ああきっと、今同じ顔をしているわ、私たち。


 ――ッキィィィィィィッ――


「っ!?」

 唐突に響いた不協和音――そうとしか表現できない、耳鳴りではない何か――に思わずアンジェラは目を閉じた。

 耳が、脳が、心臓が、痛い。痛い。

 それでもよく判らない強迫観念に突き動かされるように、うっすらと目を開く。見たくない。けれど、見ないといけない。何故かは、判らないけれど。

 月の彫刻。女神ルナのイメージとして彫られたそれは、ただの彫刻ではなくなっていた。うすぼんやりとした紅の光を放出し、そこから――

「……何。何か、映ってる……!?」

 エリスが疑問符をあげる。アンジェラはかぶせるように悲鳴をはいた。

「ちょっと! 何か出てくるわよ!?」


 紅。


 今度は本当に閃いたその光は、瞬間その場を飲み込んだ。そして何事もなかったかのようにそれが収まると――月の彫刻の上には、人影があった。

 裸身の、女性。

 金色の髪はくるぶしまで届き、エリスと同じ真紅の目は、ただ真っ直ぐにこちらに向けられていた。眩しい――と思ったのは、光のせいなのか、それともその女性自身のせいなのか、それはアンジェラには想像すらつかないことだった。

 ただ、判る。見てはいけない。見てはいけなかったのだ。きっと。

 美しすぎるこの女性を視界に入れてはいけなかったのだ。もう、遅いけれど。

 その瞬間、運命の歯車は、回り始めてしまうから――


 その時、だった。

「……」

 エリスが無言のまま、一歩足を踏み出した。

「ちょ……エリス!?」

 一歩。二歩。三歩。――もっと。もっと。いつものように慣れた歩き方ではない、どことなくぎこちない人形のような歩みで、彫刻に近づいていく。いや、彫刻に、ではない。あの、裸身の女性の影に、だ。 

「やだ、ちょっと! エリスってば!」

 慌ててその腕をつかむ。だが、普段では考えられないような乱雑さで払われ、アンジェラはその場にしりもちをついた。

「エ……エリス……?」

 こちらの言葉は、エリスには届かなかったようだ。エリスはその女性の数歩手前で足を止めると、ひざを折った。臣下の礼のように、頭をたれる。

 ふいに気付く。エリスのペンダントが――あの、紅の月の石が、ぴかりぴかりと点滅している。まるで、何かに応えるかのように。

「……ルナよ」

「――!」

 凍ったエリスの声に、アンジェラは弾かれたように立ち上がった。

「エリスッ!」

 悲鳴が喉をついて出た。裏返ったその声にすら、エリスは全く反応しない。走り出し、エリスへと手を伸ばす――


 キィィン……


「……っあ!」

 アンジェラはその場に転がった。何故? 何故転がっているのだろう――? ただ、走っただけだ。エリスに近づこうと走って、それで――

(……壁!?)

 ふいにその考えに行き着く。そう、走って、それで――弾かれたのだ。何かに。見えない何かに。

 もう一度立ち上がり、今度はゆっくりとエリスの傍へ歩み寄る。けれど、やはり触れるか触れないかの位置になると、指先が何かに弾かれた。壁だ、壁がある。見えない、透明な壁が、そこにある。エリスとアンジェラの間に。

「やだ。やだ、やだやだやだ。何よこれ! これ以上いけないなんて、何でよ! やだ。エリス、エリスッ!」

 錯乱しかけている。自分でそう思った。けれどどうしようもない。傍にいるのに、おかしくなった親友に手も触れられない自分がもどかしくて、どうしようもなかった。

 けれど、目の前の、目の前にいる触れられないエリスは、変わらない調子で言葉を続けた。

「――我、此処に来たり」

「だめ! エリス、エリスってば、この馬鹿! 聞こえないの? ねえ!」

 見えない壁をバンバンとたたいてみる。ああ――パントマイムに見えるだろうか。パントマイムの大会があれば優勝だ、チクショウ。何で、とめられない?

 混乱した頭の中に、ふいに声が割り込んできた。


『――月の者よ』


 目を、見張る。誰の声だ――? この場には今、エリスとアンジェラ自身しかいない。そのどちらの声でもない。だとしたら、可能性はひとつ。

 アンジェラはぞっとした表情で人影を見た。月の彫刻の上に浮いている、裸身の女性。

「……はい」

 エリスが、しっかりと頷いた。ということは、この声はエリスを呼んだのだ。目の前のあの人影は、エリスに話し掛けている。

『時、来たれり。

 汝、我が元へ来る事を拒まぬか……?』

 淡々とした声。そこに意思などない。問いかけではない。確認でしかない。ひんやりとした、そう、この神殿内の空気のような声。

「拒みません。我が主、ルナよ」

(ル、ナ――!?)

 薄々感づいてはいた。けれど、エリスの口からその言葉が再び発せられたとき、アンジェラの体に衝撃が走った。

 大陸を治めし月と戦いの女神、ルナ。それが、そこに、いる――?

『なら、来たれよ。我が子よ。汝、月の子也り――』

 ぞくり。

 全身の毛が、粟立つ。何も考えられない、何も考えてはいけない。そんな気がした。震える指がカタカタと耳障りな音を発していた。それから気付く。いつのまにか、床にへたり込んでいたらしい。

 カタ。カタ。カタ、カタ、カタ……

 爪が、冷たい床を同じリズムで叩いていた。耳障りだった。けれど、願った。もっと、もっと大きな音なら良いのに! この声を掻き消してくれれば良いのに!

 しかし、そんなささやかな抵抗も願いも、意味はなさなかった。

 エリスの背中が、しっかりと、言葉を発した。


「――はい」


 紅。

 三度目の光が満ちた。それは、先ほどまでと違って、エリスのペンダントから発せられたものだった。

 そして、それが収まったとき――人影はもうそこにはなかった。

 沈黙。

「……え? あ、あれ?」

 その沈黙を割ったのは、なんとも間抜けな声だった。エリスだ。さっきまでのおかしなエリスではない。いつもの、エリスの声!

「エリス……!」

 アンジェラは立ち上がった。途中で一度かくんとひざが折れたが、無理やり立ち上がる。

 冷たい床を蹴って、ぼんやりとしたエリスの腕にしがみつく。しがみつけた。触れられる。大丈夫。

「エリス、エリスあんた、大丈夫!?」

「……何が?」

 訳が判らないと目を白黒させているエリスに――どっと力が抜けた。再び床にへたり込む。

「うわっ、ちょっとアンジェラ!? 何、どーしたってのよ。疲れたの!?」

「……」

 無言で首を振る。エリスは何も覚えていないのだ、きっと。

「……後で、話す。だからとりあえず、ここ、出よう」

 薄い息の間から言葉を吐き出すと、エリスは困惑した表情で頷いた。

 エリスに支えられて立ち上がりながら、アンジェラは混乱した頭を整理するのに必死だった。

 少しだけ、はっきりしていることはある。

 操られたのだ、エリスは。

 女神、ルナに。

 そして、女神は言った。


 時、来たれり――と。



 アンジェラの様子が、どうにもおかしい。

 拗ねているのかなんなのかは知らないが、無駄口ひとつ叩かずに、もくもくと前を歩いている。時折出てくるはずの魔物には、多分彼女自身の能力で先見したのだろうが、出てくる前に魔導を放っている。おかげで行きとは比べ物にならないほど、ラスタ・ミネアの道は楽に進めたが――なんだか怖い。それに、多少の不安感がある。

 アンジェラの使う火や土の魔導は、正確には確か法技と言う。それは魔導師としての能力だ。それはいい。使いすぎるとめまいや貧血に似た症状を起こすこともあるらしいが、そのあたりの加減はしているだろう。

 だが、先見の能力。これは、法技ではない。限られた能力者――魔女、特殊能力者――が扱える『魔法』だ。アンジェラもまた、ただの人間ではないのだ。

 その魔法は、アンジェラ自身そんなに操れるものではないらしい。自分自身によほどの危機が迫ったときや、身近な人間の身が危険に準じたとき――あるいは、神経が張り詰めているときに唐突に『見える』というのだ。行きはそれほどこの能力は発揮していない。それなのに、今は次々と『見て』いるのだろう。よくない兆候とも言えた。身の危険か、それとも、アンジェラの神経が過敏になっているのか――

 いいかげん黙っていることにも疲れて、エリスは口を開いた。

「ねぇ、アンジェラ。さっきからなに怖い顔してんの?」

「……知らないって気楽でいいわよね」

 刺々しい。振り返りもせずに言ってくるアンジェラに、エリスはさすがに苛立って声をあげた。

「ちょっとなによう、つっかかるなぁ。あたしが一体何したってのよ!?」

「……操られた」

 ぽそりと言ってくるアンジェラの言葉に、エリスは目を瞬かせた。

「……は?」

 ――その時、ふいに殺気がふってきた。

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