手は届かず
2012/05/28 改稿
檻の中にいる仙人掌の夢をよく見る。
鉄格子の中にいる、孤独な仙人掌。
棘だらけのそれは、徐々に育っていく。
そして、緑色の体に白い唇のような花をつける。
動けない仙人掌は、外に出たいと言い出す。だが出れるわけもなく、無残に枯れていく。
褪せていく白。「出して!」と何度も叫ぶが、その思いも空しく花は鉄格子の床に落ちる。
いつもそこで目が覚める。まったく、寝覚めの悪い夢だ。そして、溜息をついてからいつも気づく。
あの声を、どこかで聞いたことがあると。
「眠い?」立間さんが、前方を見ながら私に声をかけた。
「いえいえ、大丈夫です」と私は欠伸を噛み殺しながらそう言った。
「眠かったら寝ててもいいからな」車を左折させる為、立間さんはハンドルを左に回していく。その時、左手の薬指に嵌っている銀色のリングが光った。確かそのリングは、二個下の彼女さんとお揃いの物とか言う奴だったはずだ。その彼女さんとは付き合ってもう三年になるらしい。今、立間さんは大学三年なので、逆算すると高校三年の時に彼女さんと付き合い始めたことになる。親も公認というのだから、私が入れる隙なんて無い。心の中で溜息をついた。
赤信号で車が止まる。ウインカーの音が、車内に大きく響く。
ハンドルを掴んでいる彼の右手の人差し指の絆創膏に目が行く。確か立間さんの話では、仙人掌の棘が刺さったからということらしい。さっき車内で「だから仙人掌は嫌いなんだよね」と苦い顔をして言っていた。
「もう、気分は大丈夫か?」
そう言われ、私は先程倒れた時にぶつけた額の部分を触る。まだ痛みは少し残っている。
「あれはびっくりしたな。いきなり倒れてさ」
「私もびっくりでしたよ。気づいたらみんなが私を取り囲んでいるんですもん」
今日私たちのサークル『対人コミュニケーション考察同好会』――通称『TCK』は、『山登りに於ける人間関係の変動への考察』という活動をしに黄迅山へ来ていた。まあそんなのは名ばかりで、結局は男女で楽しくお喋りをしながら山登りをしようという、所謂合コンの様なものだ。
立間さんが参加する、という情報を耳にし私もその合コンに参加する事にした。どうせ叶わない恋だと分かっていても、やっぱり好きな人の近くにはいたい。
立間さんのことを知ったのは、友人の話だった。「うちのサークルにすごいイケメンがいるのよ!」と騒いでいたので、興味本意で見学に行くとそこに立間さんがいた。気が利いていて面白く、優しい声。そして端正な顔立ち。一目惚れだった。
本当は、今日は立間さんと色々と喋るつもりだった。だが、山を登り始めてから十分ほどで私は倒れてしまった。理由は貧血。この頃レポートが続いていて、あまり寝ていないからだろうか。少し気分も悪いという事で、立間さんに家まで送ってもらう事になった。そういう経緯があって、今に至る。
よく考えると、今立間さんと二人きりだ。ふと、私はその重大な事に気がつく。顔が熱くなり、心拍が加速する。ちらりと車のサイドミラーを伺うと、耳まで真っ赤になっていた。恥ずかしさの余り、私は目を閉じる。
寝たふりをしよう。きっと、ふりをしている内に寝てしまうはず。私は羊を数えることにした。
羊が一匹。
寝てしまえば顔色も元に戻るはず。うん、早く寝るんだ私。
羊が二匹。
でも、立間さんと喋りたい。乙女の恋心が、私の眠りを妨げる。
羊が三匹。
真っ赤になった顔を見られるのは流石に恥ずかしい。スッピンを見られる事並みに恥ずかしい。心の天秤は揺れ続ける。
羊が四匹。
上下の感覚が狂い、まどろみに浸る感覚。
鉄格子の中、孤独の仙人掌が叫んでいる。いつもの夢だ。
「出して! 出して!」
悲痛な声が聞こえ、私は目を覚ます。勢い良く起き上がった所為で、シートベルトが私の体の動きを抑制する。
また、あの夢か。私は深く溜息をつく。
そこで私は一つの違和感に気づく。車の走っている音が聞こえない。
外を、見た。
褪せた世界、動くのを止めた景色。手を上げて横断歩道を渡る少年。歩行者通行止めの標識。騒がしい街の音は皆無。まるで、やってくる何かに怯えているかの如く。
何だ、これは。思考は褪せた景色に追いつかず、ショートしそうになる。
とりあえず、立間さんに相談しよう。私はパンクしそうな思考回路の中で、考え付いた最善の策を実行に移すことにした。
「立間さん!」
運転席を、見た。
見開いたままの目、微動だにしないハンドルを握る手。
彼もまた、止まっていた。
瞬きを三回する。動きを止めたままの、先程と変わらない世界。
これは夢なのか? 夢じゃないのか?
だが、どちらにしろ彼と二人きりだという事に変わりは無い。引いていた顔の熱さが、戻ってくる。
ちらり、と彼の顔を伺う。誠実な顔つきに少し茶色がかった黒の短髪がよく似合っていて、格好良い。
どくんと心臓が鳴り、一つの考えが私の頭を過ぎる。
ふっくらとした唇に目が行く。――もしかしたら、このまま彼の唇を奪えるんじゃないのか。
緊張の余り、唾を飲み込む。そして周りを見渡す。――誰も、こちらを見ていない。というより、むしろ誰も動いていない。
シートベルトを恐る恐る外す。ここで大きな音を立てて立間さんが動き出したら、折角のチャンスが台無しだ。
彼の左肩に右手をかける。がっしりとしている。そしてその右手は、彼の髪の毛へと伸びて行く。まるで、磁石に引き寄せられるように。
左脚で彼の左脚をまたぐ。彼の左太腿に私の全体重をかけた。その時私は、思いの他下着が濡れている事を知った。
左手を彼の背中に回し、胸に顔を埋める。彼の香り。ずっと、このままでいたい。
彼で蕩けた体が我侭を言い出す。「早く、早く」と。
そんなことはわかっている。私は舌なめずりをして、目的の場所へ顔を近づけて行く。
加速し続ける鼓動。もう、我慢できない。左手を彼の右肩にかけて、一気に顔を近づけた。
接近する二つの唇。興奮に震える身体。目まぐるしく体内を駆ける心拍。真っ白になりそうな思考。
感覚、触れた。飛びそうな頭の中で、それが急に姿を現した。
甘く、熱いものが内でたぎる。もっと、欲しい。
渇いた喉が水を欲すように、二酸化炭素で満たされた肺が酸素を欲すように、今の私は生きる為に彼の唇を欲していた。
貪る、貪る、貪る。
――こんなんじゃ、足りない。
駄々をこねる舌を口の中へ滑り込ませる。彼の体へ侵食する、至福の一時。
火照る体。私は彼の舌を感じながら、ワイシャツのボタンを一つずつ外していく。内に秘めた欲望が「出して! 出して!」と叫んでいる。
ふとそこで、その声をどこかで聞いたことがあると気づいた。けど、それは私の淫らな思考回路によって隅へ追いやられる。
ワイシャツのボタンが、全て外れる。
「優しく、して下さいね?」彼の耳元で囁き、私は唇を重ねた。