君になら、怖くない~甘く蕩ける血の香り~
吸血衝動。それはこれだけ技術の発展した現代になっても、未だ人類を支配する本能的欲求だ。
この世界にはドルチェとディアブロと呼ばれる二種類の人間がいる。
ドルチェ。それは名の通り甘美なる血を持つ存在。血液に特別な快楽物質を伴う彼らは、他者を狂わす『甘さ』を持つ人間だ。
そしてディアブロ。それは欲望に支配された捕食者。通常種よりも更に強い吸血衝動を保つ彼らは、ドルチェの血により一層狂わされる。
血が不足したディアブロは暴走し、ドルチェを壊すまでその本能を堪えることができない。
ならばなぜ、そんなディアブロの暴力的行為にドルチェはあらがえないのか。それはドルチェの持つもう一つの本能と吸血行為がもたらす快楽に原因があった。
ドルチェは、ディアブロの纏うフェロモンに逆らえない。そしてそのフェロモンはドルチェの性感を呼び覚まし、彼らを支配するのだ。
もちろん、それでも技術の発展はめざましい。
現代では既にディアブロに当てられたドルチェの症状を安定する薬もあれば、ディアブロがむやみにドルチェを襲わずに済むよう、一定の血液供給の仕組みだって作られている。そもそも互いの誘因しあうフェロモンを抑える薬だって十分に普及しているのだ。
ただ、それでも互いに依存し合い離れられなくなるドルチェとディアブロは後を絶たない。彼らの行く末が、血にまみれたバッドエンドしかないとしても。
それを『運命』だの『番』だの飾り立てて、憧れる人間はいつの時代も尽きはしないのだ。
そんなものクソ食らえ、と柊は吐き捨てた。思わずその記事を見ていたスマホを投げようとして、思いとどまる。
ドルチェ、なんてタイトルに惹かれてうっかり開いてしまったのがミスだった。
「緋咲君、ちょっと早いけどそろそろ戻れる? お客さん増えてきちゃって」
「あ、はい!」
貴重な休憩時間を費やしてしまったコンテンツへの不満を心の中でぶちまけながら、柊はバックヤードから表に出る。
柊の働いているこのコンビニは、立地の都合上、てっぺんを越えたこの時間がピークだった。
運命とか番とか。そんな言葉でごまかしてないで、もっと根本的にドルチェやディアブロを通常種に近づけられるような技術を研究すればいいのに。偉い人はいつだって口だけだ。
「お待たせいたしましたー、次どうぞ」
いらだちを隠して、笑顔を作る。これがコンビニ店員に身についた処世術だ。
同年代が大学へ行き、友情だの勉強だの恋だのにうつつを抜かしている間、柊はひたすらにここでのキャリアを駆け上がっていた。
何せ、柊には大学にいける環境がないので。
「あー、兄ちゃん。二十三番ね」
「こちらでよろしいでしょうか」
「ん、違うな。俺ぁ、メンソールが嫌いなんだよ。昔な、酷い目にあったことがあって……」
「ではこちらですね」
酔っ払いの相手だってなんのその。いつ社員になってもやっていけると柊は自負している。そしてこの店に骨をうずめるのも悪くはないかと思う程度には、柊はこの店を気に入っていた。
高校の頃から働いているこの店。ここの店長は柊のことをまるで弟を見るようにかわいがってくれた。
それは柊が十歳の頃から天涯孤独で、高校入学と同時に養護施設からも逃げるように飛び出した、無鉄砲な一人暮らしの少年だったからだ。
自分一人で生きていけると意地を張ってみても、法律的にも未成年な柊には社会の壁が圧し掛かる。結局は養護施設の院長先生を代理契約者として立てたことで、どうにか実現した一人暮らし。生きていくだけでも、柊には苦労が絶えなかった。
店長はそれを助けてくれた。冬の夜、家中の服を着込んで寒さに耐えていた柊のために、廃棄だからと嘘をついてカイロを山盛り分けてくれたこともある。
夏の朝、寝苦しくていつもより寝不足で出勤した柊のためにこっそりと休憩時間を融通してくれたこともあった。
柊は店長に頭が上がらない。ただ、いつか申し出てくれた養子縁組にだけは未だ頷けないでいた。
そこまで店長の善意に頼ってしまっては、柊はもう二度と一人で立てない気がしたから。
そして、もしもそうして店長を柊の人生に巻き込んでしまえば、彼が殺されてしまわないとも限らないから。
「ありがとうございましたー、お次どうぞー」
流れ作業的に、柊は客を捌いていく。脳みそを若干眠らせて、深く考えないことが接客のコツだ。
ドンッ。
「お預かりいたしますー」
「五番」
「こちらでよろしかったですか?」
「ちっ、二箱」
こうして終始不機嫌な客も、やや声高でマニュアル的にあしらえば問題無くお帰りいただけるのだから。
******
「柊くん今日もお疲れ様」
「はい、お疲れ様です!」
レジに立ち続けて五時間。朝の訪れを見届けたところで、柊のシフトは終わりだ。
ついでだからとバックヤードから出てきたゴミの袋を抱えて、柊はコンビニを後にする。
「うわ、まぶしっ」
従業員用の出入り口は裏路地の隅に繋がっている。朝になっても未だ仄暗い夜の湿り気を含んだそこに、空気を切り裂くような朝日が照りつけていた。
柊の退勤時間前後の僅か十分だけ見られるその光。少しだけ、柊はその光を気に入っていた。
「帰ったらとりあえず寝て……や、今日はあと七時間で次のバイトだっけ」
嫌なことがあろうと、この光を見ると少しだけ気分が晴れる。仕事場、という呪縛に縛られたコンビニを後にすると、自分がちょっとだけ自由になれた気がした。
だから夜勤明けの柊は比較的機嫌が良い。これが徹夜テンションというやつなのかも知れないが。
「――っ、ぁ……」
その時、声がした。朝に似つかわしくない、淀んだ声だ。
それは、最悪なことに柊の進もうとする先から聞こえてきた。ただ、室外機の陰に隠れていてその人間の全容はよく見えない。
ああ、こんなタイミングでやっかいごとか。柊は肩を落とす。
思ったよりも大事でなければいい。そう願いながらも、きっと実際に相手が本当に困っているならば、手を差し伸べずには居られない。
それが十九年間、なんだかんだと人に助けられて生きてきた柊の性格だった。
「あの、大丈夫です、か……!」
恐る恐る、そこをのぞき込む。と、瞬間柊はその男の肩を思い切り掴んで揺さぶった。
「大丈夫か!? 意識は? 身体は? まだ生きてるよな、これ! 早く飲め!」
そこに居たのは、青白い顔をした男だった。首からは二筋、血を流している。それはどう見ても牙が刺さった痕で。きっとこの男はディアブロに襲われたに違いなかった。
「これ……」
「ドルチェ用の緊急造血剤だ! 俺らには必須の薬だろ?」
「アンタ、ドルチェか――」
ぐったりとした男は、柊の言葉に大きくため息をつく。そして柊の身体を押しのけて立ち上がった。
その拍子に、柊が差し出していた薬が地面を転がっていく。しかし、それの行く末を気にするよりも先に、柊は男の腕を捕まえた。
「おい、どこ行くんだ!」
「どこでもいいだろ。薬も、俺には合わねえから」
「良くない。そんなふらふらの状態じゃ、いくら朝でもあぶねえ。薬が合わないってんなら……とりあえずこれ食べろ! そんでこっち来い!」
柊はカバンを漁り、底の方からチョコレート菓子を取り出し、男に押しつける。それは、柊が普段自身の血液量を調整するために食べている保存食だった。
これがないと、普段から不健康な生活を送っている柊はすぐに地面へへたり込んでしまう。そしてそうなれば、後ろ盾もない無力なドルチェはその場で食い物にされてしまうのだ。
半ば無理矢理、男をコンビニのバックヤードに連れ込む。店長はとうに店頭へ出ており、そこには誰も居なかった。
「座って。倒れて頭とか打ったら大惨事になる」
「だから、俺は――」
「俺は表でなんか血が増えそうなもん見繕ってくるから!」
ぎぎぎと悲鳴を上げる古びたパイプ椅子に無理矢理仕事をさせ、柊は男をそこに座らせる。
男はまだ柊へ反論しようとしていたが、血液が足りていないのは事実らしく、一度座ればもう一度立ち上がれない様子だった。
「聞けよ」
ため息と共に、男は吐き出す。その言葉も聞かずに、柊は店頭に顔を出した。
「あれ、柊くん? どうしたの、忘れ物?」
「うーん、どっちかと言えば拾い物ですかね。店長、血が増えそうなものってあります?」
「え」
柊の言葉に、店長は目を数度瞬かせる。それから、慌てて柊の身体を確認した。
「ど、どどどどうしたの!? もしかしてそこでディアブロにでも襲われた!?」
「俺は平気です。ただなんか、襲われたっぽい奴がいて……増血剤は合わないっていうから」
「そう」
心なしか安心した様子で、店長は柊の肩を離す。それから少し思案して、店内の数カ所を指さした。
「あっち側にD-6増血ゼリーとかのゼリー飲料や栄養ドリンクとかサプリがある。増血剤が合わないなら微妙かも知れないけど……あとはそっちかな。お菓子エリアの隅に鉄糖バー No.3とか鉄分系のバーが置いてあるよ」
「あざっす。どっちが良いかな……でもあの様子だと鉄分バーはちょっと重いか?」
「あとは――そうだね。まずいと評判のあのドリンク、うちにもまだあるよ」
「あ、はは」
通称、血だまりジュース。増血剤と同じぐらい即効性があり、身体の血を増やしてくれる飲み物。ただ、その欠点として血だまりジュースは死ぬほどまずかった。
どうやら甘いと評判のドルチェの血とやらの成分を参考に味を整えたらしいが、とにかく生臭い。その上、喉にも胃にも絡みつくほどの粘度を持って気持ちが悪い。それはまさに飲んだ分そのまま血を吐き出してしまいそうなまずさ。
まとめれば、とにかく人の飲むものではないドリンクだ。
「あれは流石に。いやでも、わがまま言ったアイツが悪いんだし……」
「柊くん?」
「店長、あれ買います。在庫、捌いてやりますよ!」
「柊くん!?」
店長の制止を振り切って、柊は店に残っていた血だまりジュースを三本購入する。正直、徹夜明けでハイになっている感も否めなかった。
両腕に抱えた120ml、一本税込み990円×3。かなり手痛い出費ではあるが、それでも人助けと八つ当たりと面白そうの気持ちで、柊はバックヤードに戻った。
「待たせたな」
「……それ」
手持ち無沙汰にチョコ菓子をかじりながら、柊を見上げた男は、血だまりジュースを見て目を見開く。やはり、このスカした男でもこのドリンクの衝撃は凄いみたいだった。
「増血剤を拒むお前にぴったりだろ? ほら、飲めよ」
「良いのか? これ結構高いし貴重だろ」
「貴重……? まあ、あんまり売れないから仕入れるところは少ないよな。うちの店のも売れ残りだし」
「そうかーーサンキュ」
「え」
さあ飲めるなら飲んでみろ。それぐらいの気持ちで、柊は男にドリンクを差し出した。むしろ拒まれることまで想定して、「死にたくなきゃ飲め!」と無理矢理飲ませてやるつもりすらあった。
しかし男は柊の想像を通り越し、平然とした表情で一本ぺろりと飲みきってしまう。
「は?」
「これ、全部飲んで良いのか?」
「あ、ああ。俺これ飲めないし、良いけど」
「じゃ、遠慮なく」
続けて一本、最後にもう一本とのみ干した男を、柊は信じられないものを見る目で見つめた。こんな劇物を一気飲みした挙げ句、嘔吐きもしないなんて化け物だろうか。
「アンタここの店員なんだっけ。ならさ、これ、今度からも定期的に仕入れてくんね?」
「や、売れないから……」
「俺が買いに来るよ」
血だまりジュースの効果か、すっかり貧血が治ったらしい男はあっさりと椅子から立ち上がり、伸びをする。
先程までかなり猫背だったから気が付かなかったが、彼は柊よりかなり身長が高かった。
「俺、朝霧洸牙。隣駅の大学に通ってる、十九歳。身分も明かしたし、ばっくれたりしないからさ。頼むよ」
「ほんとに来るなら構わないけど……っていうか同い年かよ」
「そうなん?」
柊がそう答えると、洸牙は上から下まで柊の姿を確認する。そして一つ頷いた。
「確かに、そんな感じ」
「お前今、小さいとか思ったか?」
「思ってない。被害妄想だ」
「くそ、好きで身長低いわけじゃないっての」
そう。ただ少し、栄養が必要だった幼少期に心やら環境やらの影響で多少栄養が不足していただけなのだから。
柊が歯を食いしばって怒りに耐えていれば、洸牙はふっと吹き出す。
「ごめんて。そんな気にしてるとは思わなかったんだ。っと、もうこんな時間か。悪い、俺行く。この菓子、今度来るときに新しいの返すから、次のシフト教えて」
「そんなの良いのに」
「良いから。こっちのドリンクのお礼もまだだし」
「それこそ良いのに……ま、次のシフトは明日の夜勤だよ」
「分かった」
自身が飲みきったドリンクと、菓子のゴミを律儀に持って洸牙はバックヤードを後にした。その姿を見送ってから、はっと柊も我に返った。
「最悪。仮眠の時間無くなったし」
ため息をついて、柊は洸牙がそのままにしていったパイプ椅子に腰かける。無理に帰るよりもここで数時間だけ仮眠を取らせてもらおう。
目を潰れば、すぐに眠気がやってくる。漏れ聞こえてくる店内の声も、心地よい子守歌の様で、柊はこれからもたまにはここで眠っても良いかもしれないと思った。
******
「緋咲、明日暇か?」
「バイト。はい、合計990円。今日も血だまりを買ってくのはお前だけだよ」
「美味いのに。まあいいや。なら次のいつ休み? なんなら講義サボるから」
「金かかってんだからちゃんと受けろよ。まあ……日曜ならたまたまシフト無いけど」
平日午後の昼下がり。仕事に疲れたサラリーマンも、夜に輝く仕事人たちも居ない、このコンビニが暇な時間。
少し前までは効率を考えてあまりシフトを入れていなかった時間に、近頃の柊のシフトは寄っていた。
きっかけはもちろん、目の前に立つこの男。洸牙の影響である。
「よし、そんじゃ日曜で」
「いや、待て。先に用件を告げろ。それ次第では俺の日曜は多忙になる」
「ただの嘘つきだろそれ」
数か月前、裏路地でフラフラになっていた洸牙を助けた柊。そして助けられた洸牙は、約束した通りに翌日もコンビニに顔を出した。
大あくびをかましながら夜中にやってきた彼の姿を見て、柊は思わず叫んだ。
ドルチェが一人でこんな時間に外をふらついてんじゃねえよ!!
柊の言葉に、洸牙は数回瞬きをして、吹き出した。
アンタがそれを言うんだ?
そんな劇的なアイスブレイクを乗り越えた二人は、気が付けば常連客と店員として仲良くなり、果てには連絡先を交換し同年代の友人にまで進化していた。
高校を卒業して以来、柊にとって久方ぶりとなる同年代との付き合い。
正直、嬉しくないと言えば嘘になる。そしてどうやら洸牙もあまり大学で友人を作る方ではないらしく。気が付けば二人は頻繁に連絡をとり、時には遊びに出掛ける仲にまでなっていた。
「映画の割引券、大学で貰ってさ。ドルチェに大人気っていうから一緒に行こうかなって」
「『ただ君だけに』……人気って、これドルチェの女の子に人気の奴だろ。流行の番ものじゃないか」
「あれ、もしかして緋咲はあんまり興味ない?」
「ない。よって、日曜は多忙だ」
苦しい中でも希望を見出すのが人間。現実では殆ど見られない、ディアブロとドルチェの番関係。そこに夢を求めて生み出された創作物は数知れず。
柊はそんな創作物が片っ端から大嫌いだった。
もちろん、それらを好きでそこに救いを見出している人間全てを否定するつもりはない。ただ、自分の立場に置き換えてみると、どれだけ絶世の美女が現われたとしてもその人がディアブロであるというだけで柊は受け入れることができそうになかった。
だって、彼らはあの日と同じ血の匂いがするから。
「そんなこと言わずに、行こうぜ? 俺のおごり。息抜きってことで」
「なんでそこまで俺と行きたいんだよ! 別に大学で適当な奴と行けば良いじゃないか」
「そこまで仲の良い奴はいないし……それに、緋咲だっていつかそういう番とやらに出会う可能性があるだろ。そのイメージトレーニングだと思ってさ」
「絶対にない」
柊の態度は頑なだ。洸牙はさて、どうせめたものかと逡巡する。
けれどそれよりも先に柊が「でも」と言葉を続けた。
「お前がそこまで行きたいなら行ってやらんこともない。こんな映画、一人で行くのも女の子誘うのも難しいだろうしな」
どうやら態度で示すよりも、柊はこの映画に興味を引かれているらしい。つい、からかいの言葉を出しそうになって、洸牙は言葉を飲み込む。ここでもう一度問答するのは賢くない。
「さっすが、話わかるね。血だまりジュース、奢ってやるよ」
「それは普通にいらない。買うなら自分で飲め」
洸牙が行きたいなら、仕方ないよな。柊は心の中でそう繰り返す。
彼と話す中で、柊は彼が番というものにとても肯定的な人間だと気がついていた。
洸牙は柊と同じドルチェ。だからドルチェの苦しみは分かっているつもりだ。
そんな中で、彼が番に救いを感じているならば。友人としてそれを否定はしたくないと、柊は思っていた。
「冗談だよ。んじゃ、時間とかはまた連絡するわ」
「おう。ありがとうございましたー」
「ははっ! めっちゃ機械的!」
洸牙の背中を見送るのも、もはや慣れきった今日この頃。ちらりと時計を確認した柊は、残りの二時間を如何に効率的に仕事するか、脳内で計算をする。
「よし」
そして小さく気合を入れると、レジを出て客のいない店内を歩き出す。第一目標は、ここ数ヶ月毎日補充されるようになった、血だまりジュースの棚だった。
******
感動的な音楽。運命的な言葉。
すれ違いと傷つきの末に結ばれたドルチェとディアブロ。
流行の映画は思っていた通り、柊には理解できない類のものだった。
「なかなかいい出来だったな。主役の二人、実際には通常種らしいけど、かなり研究したんじゃないか」
洸牙はつらつらと感想を並べる。こういった娯楽には詳しいのだろう、柊が気にも留めないような作品の出来を評価していた。
視聴経験の薄い柊には、なんか凄い、ちょっと気に食わないぐらいの感想しかないというのに。
「番の研究なんて何の役に立つんだか。でもお前が満足したならよかったよ」
かく言う柊だって、完全な時間の無駄だとは感じていなかった。
番に関しては相変わらず理解出来なかったけれど、それでも作品の出来は悪くないと思ったから。しかし、その満足感は直後の洸牙の言葉で霧散する。
「え? 俺は八割寝てたけど。エンディングだけ見た」
「は!?」
あっけらかんと言い放った洸牙に、柊は思わず胸ぐらを掴みたくなる。そして勢い余って映画に対する罵倒を洸牙にぶちまけようとした。
お前が! 見たいと! 言ったんだろ!
しかしその言葉はどうにか飲む込んだ。堪えられたのは、周囲の目があったからだ。
それにこの場に居る人間の殆どは先程の映画に好意的な様子で、ここであの映画の批判を話しては大ひんしゅく間違いなしだった。
すぐ側を通っていった男女カップルなど、女性の方が目を真っ赤にして彼氏に慰められている。
「むしろ緋咲のほうが楽しんでたんじゃない? 終盤、拳握って見入ってたでしょ。ほら、服が皺になってる」
「これは……憎しみで握ってただけだ!」
思い切り前後に揺さぶりたい気持ちを抑え、柊は拳を握りしめる。怒りでどうにかなりそうだった。
しかし、そんな柊の様子を洸牙は至極楽しそうに眺める。
「えぇ~? その割には目元赤いよ」
「これはゴミが入ったんだ!」
洸牙を見上げる様に睨み付ける柊。その姿が威嚇をしてくる子犬の様に見えて、洸牙は思わず吹き出した。
そして更に怒り狂いそうな柊の頭を撫でようとした――しかしその手が触れる直前、叫び声が上がる。
「いい加減にしてくれ!」
同時に、パシンと頬をはたく乾いた音が鳴った。黒髪の男が、連れらしい茶髪の男の頬を張った音だ。
「お前のそういう無神経なところが耐えられないって言ってるんだ!」
「おい、落ち着けって……今は頭に血が上ってるんだよ、な? 俺達は番なんだからーー」
「番、番って都合の良いときしかそんな事言わないくせに! 僕の言葉を真っ向から取り合っていないだけのくせにして、自分はあくまでも冷静ですよって態度も気に食わないんだ。ディアブロだからって偉そうにすんな!」
それは目を向ければすぐに、異質だと分かる状況だった。一見すれば叫んでいる黒髪男が何かのきっかけでパニックを起こしただけに見えるかも知れない。茶髪男の困惑したとでも言いたげな態度もそれを助長していた。
けれど、よく見れば違う。
「なあ、せめて話は二人きりで」
「嫌だ! そんなところで話なんてしても、無駄だって分かってる。だってお前は俺のこと、足の付いた血袋ぐらいにしか思っていないだろ!」
不自然なぐらいに引き伸ばされた洋服。その隙間から覗く黒髪の男の肌には、痛々しい痣が刻まれていた。
続けて確認をすれば、叫ぶ彼の顔色は立っていられるのが不思議なほど青白く、首筋からは未だ鮮血が伝っている。
あれはどう見ても、危ない状況だ。
「触るな! 僕はもう、お前なんて……!」
「ちっ、うぜえな。いいから帰るって言ってんだろ!」
どうにか丸め込もうとしていた茶髪の男も、思い通りにならないと理解したらしい。先程までとは一転、いらつきを露わにすると腕を振り上げた。
そのギラついた目と、殺意に満ちた表情。それを見た途端、柊の身体が凍りつく。
自分に向けられたわけでもないというのに、あのディアブロの表情は柊にあの日の惨劇を思い出させるには十分だった。
あの、血にまみれた悪夢の様な日の思い出を。柊が家族を失った悲劇の思い出を。
自然と、柊は自身の身体を抱きしめる。歯の根がかみ合わず、小さく音が鳴った。
「やめろ!」
鈍い音がなると、柊が身構えた瞬間。聞こえてきたのは洸牙の声だった。
恐る恐る柊が目を開けると、洸牙がディアブロの男の手を掴んでいる。
殺気を込めたディアブロの視線に怯むこともなく、洸牙は自身の身体をドルチェの盾にするように立ちはだかっていた。
「こんなところでダサい真似してんなよ、お兄さん」
「は? お前には関係ないだろ!」
「それがあるんだよなあ。こんなところでディアブロが殺気まき散らして怒鳴ってたら、皆おちおち映画も見られないだろ」
男の手を掴む洸牙の手には、ギリギリと力が込められていく。静かに、それでも確かな怒りを滾らせた洸牙の視線に、男は怯んだ。
「何だよ、アンタほんとに」
「弱者を力で従わせる。そんなのディアブロとしても男としても最低だと思わねえ?」
「偉そうに!」
周囲のドルチェ達は皆その空気に怯み、うずくまってさえ居る。だというのに洸牙は、毅然とした態度を崩さない。
そんな光景を、柊は呆然と眺めていた。
「や、やめ……」
喉の奥から、潰れた声が出る。しかし恐怖に押しつぶされた柊の声は二人には届かなかった。
そして追い詰められた男は、ついに洸牙にも手を上げる。
「っ!」
「お前、この匂い……!」
殴り付けられた反動で、洸牙の口から血が流れる。口内を切ったのだろう。
その匂いを嗅ぎつけた男が、困惑の表情を浮かべた。
「――どっち、だ?」
「どっちだとしても、アンタには関係ねえな。それにこれで傷害罪、確定だ」
ただ、怒りを込めた目で洸牙は男に笑ってみせる。それを気味悪げに見たディアブロは舌打ちを一つ残し走り去っていった。
それを見送り、洸牙はため息をつく。そして振り返ると、先程までの殺気を霧散させ、洸牙は庇っていたドルチェの男に声をかけた。
「アンタ大丈夫?」
「あ、ああ……ありがとう」
「多分家には帰らない方が良いぜ。ああいうの、しつこいから」
「うん……」
周囲の人間達も、我に返ったように動き出していて、中には洸牙達に声をかけている人も居る。
しかしその中で、柊は依然動けなかった。
「緋咲?」
柊がただその光景を眺めていれば、いつの間にか洸牙が柊の目の前にいた。様子のおかしい柊を心配するように、洸牙の眉が下がっている。
「よ、かった……」
「あ、おい!」
洸牙に声をかけられ、安堵した柊はその場に崩れ落ちる。身体はまだ、震えていた。
「大丈夫か?」
「はは、お前に心配されるのも変な話だな」
「緋咲?」
「お前、なんであんな危ないことしたんだよ!」
柊に視線を合わせるようにしゃがみ込んだ洸牙。その胸倉を柊は遠慮なくつかみ上げた。
しかし、その手にはほとんど力が入っておらず、まるで縋っているようで。
「馬鹿じゃねえのか。あんな状態のディアブロに向かっていくなんて」
「だって、危なかっただろ」
「だから!」
柊の叫び声に、再び周囲の注目が集まる。先ほどまでの騒ぎもあって、これ以上この場所で騒ぐのはあまり得策ではなかった。
「危ないからこそ、お前が向かっていくべきじゃないだろ……」
勢いを削がれ、八つ当たりみたいに柊の言葉が投げつけられる。その言葉に、洸牙は困ったように眉を寄せた。
柊もぐっと唇を噛み締め、それ以上は何も語らない。
「――俺の家、いったん行く? この近くなんだ」
ここでこれ以上の会話をすることは無理だと判断したのだろう。洸牙は柊へ向かってそう提案する。柊は小さくそれに頷く。
柊が洸牙の家に行くのはこれが初めてだった。学友でもなく、不思議なコンビニの友人。
たとえ外で多少遊ぶ機会があっても、互いの家に行く機会などない。
「そこまで歩けそう?」
「歩く」
柊は女ではない。そしてか弱いドルチェなんて枠に収まることも癪に障る。だから柊は張ってでも自分の足で彼の家に向かうつもりだった。
不安の残る立ち上がり方をした柊に、洸がは酷く心配そうな目を向ける。しかし、柊の頑固さを知っている洸牙は、ばれないようにそっとため息をついて歩き始めた。
「もっかい倒れたら運ぶから」
「歩く」
「はいはい」
もしも柊がその場で崩れ落ちてしまっても、腕が届くように。普段よりも一歩近い距離で洸牙は歩きだした。
******
俺は、昔。家族をディアブロに殺されたんだ。
洸牙の自宅に着いた後、柊はポツリとそう呟く。そして、淡々と過去を語り始めた。
十歳の秋のことだ。俺は父さんと三人で夕飯を食べていた。
いつも通りの時間だった。俺は嫌いなピーマンを父さんに食べてもらおうとして、母さんに怒られて。父さんはそんな母さんをたしなめて、ビールを没収されそうになって。
そんな普通の日。だけど、その時チャイムが鳴った。変な時間の来客に、母さんが眉をひそめる。
エプロンを外して、出ていこうとする母さんを父さんが止めた。怪しいから自分が出るって。
俺はなんだか無性に不安になって、母さんにくっついてた。そうしたら、叫び声が聞こえたんだ。
父さんのものじゃない。知らない男の声だ。
どきやがれ、俺が求めてんのはお前じゃねえ!
そしてドシャリと何かが崩れる音と、液体が流れる音がした。
わからなかったけど、怖くて。恐ろしくてたまらなくて、母さんにしがみついた。
すると母さんは俺をキッチンの戸棚に隠してくれて。
そこから先はあまり覚えてない。だけど、俺は、母さんが、母さんでなくなるまで……その場で覚えることしかできなかった。
それ以来、俺はディアブロが恐ろしくて仕方ないんだよ。
支離滅裂で、順番もぐちゃぐちゃ。ついには、泣き出してしまった柊の言葉を、洸牙は黙って聞いていた。
小さく嗚咽を上げながら涙を零す柊の背中を、洸牙はそっとさする。
「大丈夫、ではないよな」
「当たり前に最悪だ」
「だよな」
そしてそのまま洸牙は柊の身体を抱きしめた。同年代全員と比べても大きい方に分類される洸牙の腕に、小柄な柊はすっぽりと収まる。
普段ならばめちゃくちゃに暴れ、何があっても放させようとする柊も、今回ばかりは大人しくしていた。洸牙の行動が、自分を思ってのことだとも分かっていたし、何よりもとても安心したので。
「こんなこと、女の子にするなよ。勘違いされる」
「しねえって。そんなこと出来る女の子がいれば映画に誘ってる」
「それもそうだ」
いつも通りの軽口に、柊はふっと笑いを零す。けれど涙腺はすっかりバカになってしまったみたいで、涙が止まらない。
「うっ、ぐす。あー、情けねえ」
「いんじゃね。俺しか見てないし」
「お前に見られてんのが一番嫌だ」
「アンタ、つれないね」
口では小馬鹿にしながらも、洸牙はしばらく柊を抱きしめていた。そして時折、背中や髪を撫でる。
その手に、柊は妙な安心感を覚えていた。まるで目の前の男が己を全ての怖いものから守ってくれる様な、圧倒的な安心感。
小さく、柊の喉が鳴る。と、洸牙が柊を解放した。そのまま、柊の顔を見つめる。
ゼロ距離で密着しているよりも、身じろぎすれば触れてしまうほどの距離で見つめ合う方が恥ずかしい。柊は鼻を擦りながら目をそらした。
しかしそれは許されない。洸牙がまるでこちらを見ろとでも言うように、柊の目元に唇を寄せる。そして、ちゅうと小さく音を立てて涙を舐め取った。
瞬間、はじかれた様に柊は叫ぶ。
「はっ!? な、お、おま、お前!? ななな、何を……!?」
「あ? あー……わり、誘われた」
「ふざけんな!」
突然の行動に、柊はかあっと頭に血が上った。恥ずかしいのか気持ち悪いのか分からなくて、とにかく怒鳴りつけてしまう。
一方の洸牙も、自身がした行動に驚いているようで、幾度も唇を擦り、うそだろとか、あーとか呟いている。
「弱ってて、うっかり可愛いとか思っちまった」
「ば、バカ!」
「悪いって……ほんと、無意識だったんだよ。はあ、頭冷やしてくるわ」
頭を乱暴に掻いて、洸牙は立ち上がった。そして帰宅した際に投げ捨てた財布を手に取る。
「ついでになんか買ってきてやるよ。泣きすぎて、いろいろやべえだろ」
「やべえのはどっちだよ!」
柊の反論に、ひらひらと手を振って洸牙は家を出て行く。その後ろ姿に、柊は思わず枕を投げつけた。しかし奇跡のタイミングでしまった扉に、その攻撃は阻まれてしまう。
「なんだよ、ほんと」
小さく呟いて、柊は後ろに倒れ込んだ。情緒が、落ち着く暇が無い。
「誘われたって、なんだ」
思わず目尻を擦り、呟く。それと同時に、部屋の中から感じる洸牙の気配に気が付いてしまった。
目を閉じると、洸牙の気配にまた落ち着く。そんな自分に気が付いてしまい、柊は思わず首を振った。
「違うって。運命や番を信じないからって、流石にアイツはねえだろ」
柊は自身の胸に浮かんだ、どこか温かい感情を必死で否定する。この感情に、名前をつけてしまえばもう、後戻りは出来ない気がした。




