契約なき日々
「ねぇ、いま何が一番知りたい?」
そいつはそう言った。
サキュバスのような、扇情的な衣装に身を包んだ女。
いや、女じゃない。本人――本魔?――曰く、正真正銘の悪魔だ。
長い黒髪に赤い瞳、背中に小さなコウモリのような翼。そして腰からしなやかに揺れる尻尾の先はハート型。
悪魔だと名乗る以上、そうなんだろう。
「う〜ん、そうだな……自分の死亡年月日とか?」
オレの軽い冗談に、彼女は目を輝かせた。
「じゃ、教えてあげる代わりに、あたしと契約してくれる?」
「質問に要求で返すなよ……」
*
そう、オレとルナはまだ契約を結んでいない。
彼女は何かにつけて「契約、契約」と口にするが、魂を差し出すなんて冗談じゃない。ルナ曰く、彼女は『かけだしの悪魔』だ。
人間の年齢で300歳を超えるらしいが、悪魔としてはまだ新米で、人間との契約は一度も成功していないらしい。
「な、お前って今まで何人の人間に取り憑いてたんだ?」
「と、取り憑くってなによ!」
ルナが頬を膨らませる。
「だってオレ以外には見えないし、24時間張り付いてるじゃん。おかげでな〜んにもできないじゃないか」
「あー、あたしの身体見て、エッチなこととか?」
「う、うっさい!」
ルナはニヤニヤしながらオレをからかう。
「ぷ。そうねー、だいたい10人くらい? だって人間ってすぐ死んじゃうじゃん? 目を離したすきに事故にあったり、殺されたりするしさー。だから24時間監視してるんだー」
「それってさ、お前が監視してるせいで自殺したりしてるんじゃないか?」
「……!」
ルナの目が一瞬泳いだ。
図星だ。
*
それは一週間ほど前、薄ら寒い秋の夜だった。
オレは東京の片隅、雑居ビルの裏路地で酔っ払って寝転がっていた。
仕事をクビになった日で、コンビニの安酒を煽って自暴自棄になっていたときだ。
「ねぇ、こんなとこで寝てると死んじゃうよ?」
ふと声が聞こえて目を開けると、目の前に女が立っていた。
最初は酔っ払いの幻覚かと思ったが、彼女の赤い瞳があまりにも鮮やかで、背中の翼が微かに動くのを見たら、さすがに現実だと悟った。
「な、なんだお前?」
「ふふ、悪魔だよ。名前はルナ。キミ、面白そうだから契約してあげようかなって」
「け、契約? やめろよ、めんどくさい」
「ダーメ。キミ、死にそうな雰囲気プンプンしてるから、放っておけないの」
以来、ルナはオレの周りを離れない。
なんとか再就職ができた仕事場にまでついてくる。
家でも、風呂場でも、トイレでも、寝るときも、ずっとそばにいる。
見えるのはオレだけで、声も聞こえないらしいから、街中で話しかけられると周りから変な目で見られる。まじで最悪だ。
ある日、シャワーを浴びていると、ルナが風呂場のドア越しに話しかけてきた。
「ねぇ、キミってほんと地味な生活してるよね。女の人とか、最近どうなの?」
「うっさい! 風呂くらいゆっくり入らせてくれ」
「ふーん。ねぇ、キミってあたしのこの格好、どう思う?」
ガチャッ。
ドアが開いて、ルナがニヤニヤしながら立っている。
サキュバス風の露出度の高い衣装、胸元が大きく開いた革のコルセットに、太もも丸見えのスカート。
腰から伸びる尻尾が、チラリと揺れる。
悪魔らしいっちゃらしいけど、目のやり場に困る。
「お、お前、入ってくるなよ」
「えー、だってキミ、ちょっとドキドキしてるじゃん? ほら、心臓バクバクでしょ?」
ルナの尻尾がスッと伸び、オレの胸をチョンとつつく。
「そんなわけねぇだろ! 出ていけ!」
ルナは笑いながら消えたが、その後もやたらと「キミ、すべての欲に弱いよね?」と、からかってくる。
悪魔のくせに、からかうだけで何もしないのが逆にムカつく。
*
ルナが取り憑いてから、オレの恋愛運は壊滅的だった。
30歳を過ぎても独身、彼女なし。
いい感じになった女の子とデートしても、必ずルナが邪魔をする。
「ねぇ、キミ、この子と付き合う気? なんか合わない気がするなー」
デート中、隣でルナがそんなことを囁く。
女の子の肩を尻尾でチョンとつつき、「この子、キミのことATMって思ってるよ?」とか言い出す。
最初は無視してたけど、だんだん気になってきて、結局関係が壊れる。
何人もの女性が、こうやって遠ざかっていった。
「なんで毎回邪魔すんだよ! お前、嫉妬してんのか?」
「は? 嫉妬? あたしが? キミみたいな冴えない人間に?」
ルナは顔を真っ赤にして否定するけど、明らかに動揺してる。
数年も経つのに、彼女が他の人間と契約せずオレに付きまとっている理由が、気になりはじめていた。
普通の人間なら、もっと早く死んじゃうってのに。
*
「お前に聞く前に、自分の死亡年月がわかっちまったな」
あれから30年。
オレは末期の肺がんステージⅣと診断された。余命半年。
病院のベッドで、窓から差し込む夕陽を眺めながら、ルナと話す。
彼女はいつもの派手な衣装じゃなく、シンプルな黒いドレスを着ている。悪魔なのに、どこか神妙な顔だ。尻尾は、静かに床に垂れていた
「うん……でもさ、もっと早く契約してくれてたら、死亡年月日を教えてあげられたし……もしかしたら、もっと不摂生やめられたかもしれないよ?」
ルナの声は静かで、いつもみたいに茶化す感じがない。
「なんだよお前、悪魔のくせに優しいな……」
オレは笑ってみるけど、咳が止まらない。
ルナは黙ってオレの手を握る。冷たい手なのに、妙に温かい。
「うん、もう30年の付き合いじゃん。愛着だって湧くよ」
彼女はそう言って、かすかに微笑む。
「そんなもんなんだ。じゃ、オレはそろそろ逝くみたいだから……」
「うん」
「お前も早く一人前の悪魔になって、契約の一つでも取れよな」
「うん……。じゃ、あたし行くよ」
ルナの姿がゆっくり薄れていく。夕陽が部屋を赤く染める中、彼女の赤い瞳が最後までオレを見ていた。
「じゃな……またあっちでな」
「え、何それー。あたしまだ契約取れてないから、あっちには戻れないよー」
ルナの声が遠ざかる。オレは目を閉じた。
あのうるさくて、邪魔で、でもどこか居心地の良かった日々が、静かに終わった。
Fin.