微笑みの檻
第1章:透明な少女
天宮莉奈が芸能界の扉を叩いたのは、十四歳の春だった。
中学の制服を着たまま、母と一緒に訪れた小さな芸能事務所。白く透き通るような肌と、伏し目がちな瞳の奥に宿る静かな光が、マネージャーの目を引いた。
「清楚系、いけるな。最近、こういうタイプが求められてる」
そう呟いたのを、莉奈は聞き取っていなかった。ただ、母がうなずき、「お願いします」と頭を下げる姿を横目に、胸の奥が少しだけ熱くなるのを感じていた。
最初の仕事は制服姿でのCM撮影だった。校舎の屋上で風に吹かれながら笑う──それだけのシーン。
「笑顔、上手だね」
そう褒められたのが嬉しくて、莉奈は家に帰ってからも鏡の前で何度も笑顔を練習した。
やがて雑誌の表紙、バラエティ番組への出演、そしてグラビア。
いつも「清楚」「純粋」「癒し系」という言葉が彼女に添えられた。
けれどその“言葉”が、莉奈自身の意思とは関係のない“型”として定着していくことに、彼女はまだ気づいていなかった。
彼女はただ、その場その場で「期待される顔」を演じ続けた。無垢なまま、透明なまま。
──この世界の“優しさ”が、まだ毒になる前だった。
---
第2章:夏のワンピース
最初のグラビアは、海辺の撮影だった。白いワンピース型の水着。肌を隠すには充分で、風にたなびく布の動きさえも美しかった。
「莉奈ちゃん、立ち姿がきれいだね。ちょっとだけ笑ってみようか」
シャッターの音に合わせて微笑みを作る。カメラマンは満足げに頷き、「その透明感、最高だよ」と言った。
その日は、どこか遊びの延長線にあるような、安心した仕事だった。
けれど、二度目の撮影ではワンピースが少し短くなっていた。三度目には、背中が大きく開いていた。
「夏だからね、爽やかな感じで」
そんな一言で、布の面積は減っていく。
最初は違和感を覚えながらも、「プロなら応えなきゃ」と自分に言い聞かせた。
ファンの声援が、それを正当化するように莉奈の耳に届いた。
──応援されることは、断れなくなることと似ていた。
---
第3章:セパレートの境界線
次の衣装は、セパレートタイプの水着だった。上下に分かれているだけで、露出が格段に増えたように感じた。
控室で衣装を手に取った瞬間、指先がわずかに震えた。けれど誰にも気づかれてはいけない。
「莉奈ちゃんなら絶対似合うよ」
スタイリストが明るく言ったその言葉に、莉奈は微笑み返すしかなかった。
撮影が始まると、風が容赦なく肌を撫でた。
「ちょっとだけポーズ変えて。腰に手を……そうそう、もう少し反って」
シャッター音が重なり、視線が肌に突き刺さるように感じた。
けれど、笑顔を崩してはいけない。
──これは仕事、だから。
彼女はそう自分に言い聞かせるしかなかった。
終わったあと、帰り道の電車で、スカートの裾を握りしめていた。
その時、初めて「もう戻れない」と思った。
---
第4章:ギリギリの笑顔
雑誌の見出しに「ギリギリまで攻めた一冊」と書かれていた。
水着はもはや布というより、飾りのようだった。胸元を覆う面積は指の幅ほど。下も細いリボンがあるだけ。
「ファンが喜んでるよ。すごく売れてる」
マネージャーの言葉に、莉奈は笑って頷いた。
けれど、カメラの前で微笑むたびに、心のどこかが少しずつ削られていくのがわかった。
『私は、どう見られてるんだろう』
画面に映る自分が、自分ではないようだった。
もはや演技ではなかった。
媚びることが日常になり、自分の輪郭が曖昧になっていく。
笑うことが仕事であり、存在証明であり、檻でもあった。
---
第5章:終わりの予感
ある日、ヌードDVDの企画が持ち上がった。
莉奈は、その話を聞いてももう驚かなかった。ただ、何も言わずに頷いた。
反対する気力もなかった。
「限界までやってるんだから、次は一線越えるだけでしょ」
スタッフの軽い一言。
その瞬間、莉奈は完全に“選べる側”ではなくなっていた。
笑顔で肯定してきた過去が、今の自分を縛っていた。
撮影は淡々と進んだ。照明の熱、カメラの音、誰かの指示。
すべてが無音に思えた。
そして次に提示されたのは、アダルト作品への出演。
「人気あるから、話が来てる。強制じゃないけど、考えてみて」
そう言われて、莉奈は首を横に振ることも、頷くこともできなかった。
ただ、静かに目を閉じた。
何かが完全に壊れた気がした。
---
第6章:無音の深海
撮影を終えた夜、莉奈はホテルの部屋に一人でいた。
カーテンも閉めず、テレビもつけず、ベッドの隅で丸くなっていた。
──私は、何をしてきたんだろう。
問いかける相手もいない。
応援の声も、シャッター音も、今はただ遠い幻のようだった。
“誰も傷つけたくなかった” “だから、笑ってきた” “でも、それは自分を守るためでもあった”
心の底に沈んでいく意識のなかで、ふいにスマートフォンが震えた。
高校時代の旧友からだった。
『久しぶり。元気してる?』
その一文が、深海の底でふと泡のように浮かび上がる。
──まだ、繋がれる場所があるのかもしれない。
そう思った瞬間、莉奈の頬を涙が伝った。
何かを望むことさえ、久しく忘れていた。
---
第7章:静かな夜明け
夜明け前の空は、どこまでも深い青だった。
莉奈は久しぶりに外の空気を吸った。長く閉じこもっていた部屋の重さから、一歩だけ抜け出したような気がした。
街はまだ眠っていて、誰の視線も感じなかった。その静けさが、今の彼女にはちょうどよかった。
──もう、戻れない。
心のどこかでそう感じていた。過去に戻ることも、あの笑顔を再び取り戻すことも。
けれど、戻れないなら──進むしかない。
目の前の道が見えなくても、歩くしかない。
莉奈は、スマートフォンの画面を開いた。スケジュールアプリは空白のままだ。
だけど、それが少しだけ自由にも思えた。
「これからどうするの?」
ふいに届いた旧友からのメッセージ。
──わからない。でも、もう“笑顔”を売るだけの自分には戻らない。
莉奈はそう決めて、ゆっくりと返信を打った。
『少し休んで、それから考える。今度、会えたら嬉しいな』
送信ボタンを押すと、ほんの少し胸が軽くなった。
夜明けの空に、一筋の光が差し込んでいた。
それが夜の終わりか、まだ続く闇の錯覚かは、まだわからない。
けれど、今の莉奈には、それだけで十分だった。
──ここから、自分で選ぶ。
静かな夜明けに、彼女の小さな第一歩が重なっていた。