- 10 - 現世に残った記憶 2話
――レンとネイトの意識が、ティモシーによって呼び出されていた頃。
現実世界のアナベルの研究所は、突如として、激しい揺れに見舞われた。
「なんだ、地揺れか!?」
「いや、違う! この揺れは魔力によるものだ!」
前触れもなく発生した地鳴りと振動に、研究所内は一瞬にしてパニックに陥った。
廊下の魔道具が激しく明滅し、棚から研究資料が雪崩のように滑り落ちる。
壁一面に設置された水盤。その鏡面のごとき水面に、けたたましい赤の警告灯が次々と反射し、研究室の白い空間を緊張と不協和で染めていった。
同時に、不可解なノイズが走り、凍りついたような空気の中、水盤には明らかに異常な映像が浮かび始める。
「――緊急警報。未確認の、極大魔力反応を感知」
「魔力波紋との照合中……該当なし……
これは……まさか、250年前の禁呪記録と波紋が類似している…?
ありえない…!」
声はざらつき、理性が打ち砕かれる寸前の困惑が混じっていた。
別の端末からは、冷静さを装いながらも焦りを隠せない声が飛ぶ。
「主回路が不安定です!
奥域の結界への魔力供給が急速に低下しています!」
その瞬間だった。
水盤に映し出されていた数値と映像は、まばゆい光に包まれて跡形もなく消えた。
そして、ただ情報を写すだけだったはずの静かな水面が、まるでそこに何か"目覚めたもの"がいるかのように、ざわり、と揺らいだ。
「……見て……水が、生きてる……?」
次の瞬間、光――いや、光であり水であり、生きもののように呼吸する粒子の奔流が、水盤から噴き上がった。
細やかな煌めきが空間を満たし、息を飲むほどの美しさが、研究員たちの瞳を強く引き寄せてゆく。
それは、幻想ではなかった。
水面から、信じがたい速度で、透明な蔦が伸び始める。
蔦は空間を這いながら、燐光をまとう花々を次々と咲かせていった。
蒼、金、月白、赤紫。
人が言葉で形容するにはあまりに美しく、まるで天上から零れ落ちた楽園のかけらのようだった。
「なんだこれは!」
やがて、香りが室内に満ちていく。
甘やかで、遠い記憶を呼び起こすような芳香。
それは月花に似ているようで違っていた――もっと深く、もっと原初的な、水の神殿に咲く、誰にも知られてはならぬ禁花のような匂いだった。
「研究所に……月花だと!? ……いや、違う……これは……!」
「全員、水盤から離れろ! 引きずり込まれるぞ!」
叫び声が響くなか、蔦は床を這い、壁を伝い、誰かを探すように静かに蠢いている。
その動きはまるで意志を持ち、心を読んでいるかのようだった。
美しすぎる――
それが、むしろ恐ろしい。
この世の生物が持つ気配ではない。
目を背けたくなるほどに神秘的で、けれど目を離せない。
誰かが息を呑んだ。
その音さえも、あの光の中では異物のように思えた。
あまりにも美しすぎる植物はこの世のものとは思えず、放つ光の粒子はますますその輝きを増し、研究所の至る所を咲き乱れるように浸食していく―――
・
「王子! レン殿!」
自室でこの異常事態に気づいたイーサンとテオは、真っ先に二人の安否を確認すべく、彼らの部屋へと駆け込んだ。
しかし、そこに二人の姿はなかった。
部屋はもぬけの殻で、まるでついさっきまでそこにいたかのような、わずかな香りだけが残っている。
「王子とレン殿の姿が見当たりません!
入口や部屋の魔道具を確認しても外へ出た記録は…ありません!」
イーサンは、血相を変えて局長に緊急連絡を入れる。
その声は、普段の冷静さを完全に失っていた。
「どういうことだ…
外部からの侵入の形跡もない。
まるで、部屋の中から蒸発したかのようだ…」
テオは、警護の責任者として、即座に状況を分析するが、その異常事態に、彼の表情もまた厳しくこわばっていた。
何者かによる、痕跡を残さない高度な転移魔術か、あるいは――。
二人は、二人が最後に接触した魔道具の情報から、レンにあてがわれた研究室に行ったことが判明し、パニックで混乱する廊下を折り返して人々をかき分けるようにして突き進んだ。
イーサンとテオが、勢いよく研究室のドアを開け放った時、彼らが目にしたのは、信じられない光景だった。
部屋の外は、警告音と人々の怒号が飛び交うパニック状態だというのに、研究室の中だけは、まるで時が止まったかのように静まり返っている。
そして、その中央の椅子に、彼らが必死で探していたレンとネイトが、呆然と座っていたのだ。
「王子! レン! ご無事でしたか!」
イーサンが、安堵と、そして詰問が入り混じった、悲鳴のような声を上げる。
「一体どこへ行っておられたのですか! 先ほどから、原因不明の地揺れと、大規模な魔力反応で、研究所中が大騒ぎになっているんですよ!」
テオも、息を切らしながら二人に駆け寄った。
しかし、当の本人たちは、血相を変えて飛び込んできたイーサンとテオを見て、逆にきょとんとした顔で、目を瞬かせている。
「…どうしたんですか? イーサン」
「何があったんだ、テオ。そんなに慌てて」
過去というあまりにも濃密な記憶の海に深く潜り込みすぎていた二人は、現実世界で起きていた大パニックに、全く気づいていなかったのだ。
その、あまりにも温度差のある反応に、イーサンとテオは、一瞬、言葉を失う。
そして、この不可解な状況の中心にいるのが、間違いなく目の前の二人なのだということを、改めて確信するのだった。
――イーサンとテオに半ば引きずられるようにして研究室を後にしたレンとネイトは、自分たちに与えられた区画の静かで格式のある応接間へと通された。
区画の外の廊下ではまだパニックの余韻が残り、空いた窓から研究員たちの慌ただしい声が遠くに聞こえるが、重厚な窓が閉ざされると、その喧騒は嘘のように遮断された。
イーサンは「王子とレン様のためにお部屋を準備してまいります」と言い残し、テオもまた「私は警護体制の再編と、今回の異常現象による内部被害の確認へ」と告げて、それぞれ足早に部屋を去っていった。
残されたのは、レンとネイト、そして、程なくして入室してきた局長の三人だけだった。
局長の表情は、鋼のように硬かった。
彼は、まず二人の前に立つと、報告を促す前に、懐から二つの腕輪型の魔道具を取り出した。
「まず、これを装着しなさい」
彼にしては珍しい口調と温度感にレンとネイトは驚く。
それは、精神と肉体の状態を簡易的に診断する魔道具だった。
有無を言わさぬ口調に、二人は黙って腕を差し出す。
魔道具が手首に装着されると、それは淡い緑色の光を放ち、身体的な異常がないことを示した。
「…ふむ。ひとまずは、安心した」
局長は、安堵のため息を一つ漏らすと、重厚なソファに腰を下ろし、二人に向き直った。
その瞳は、研究所、いや国の上層部としての鋭さと、保護者のような心配の色が混じり合っていた。
「さて…何があったのか、全て話してくれ」
レンとネイトは、顔を見合わせた。
何から話すべきか。あまりにも膨大で、あまりにも非現実的な体験。
ネイトが、まず口火を切った。
「…局長。僕たちは、見てきました。250年前に、この世界で起きた、真実の歴史を」
ネイトが論理的に、時系列に沿って出来事を説明し、レンが、その時々の感情や、肌で感じた空気感を、拙いながらも必死の言葉で補足していく。
モイラという人工の記憶の湖の暴走。
ノルンという男の悲劇。
ティモシーとジルという名の、250年の時を生きる"記憶の湖"の管理人。
そして、自分たちの血脈に隠された、驚くべき真実。
報告が進むにつれて、局長の表情から、みるみる色が失われていく。
最初は冷静に耳を傾けていたが、ノルンとレンたちの血縁関係の話に至る頃には、彼の顔には驚愕と苦悩の色が深く刻まれていた。
全てを聞き終えた時、局長は、ただ言葉を失っていた。
応接間に、重い沈黙が落ちる。
やがて、彼は、絞り出すような声で言った。
「…信じられん…。だが、お前たちが嘘を言っているようには、到底見えん。そして、先ほどの研究所での異常現象も、お前たちの話を聞けば、全て説明がついてしまう…」
局長は、立ち上がると、窓の外に広がる夜景を見つめた。
「しかし、そうなると、一つの巨大な矛盾が生じる。
君たちと同じ疑問だ。
…なぜ、“魔道大国レオントポディウム”は、我々の歴史から完全に姿を消しているのだ?」
彼の声は、新たな、そしてあまりにも巨大な謎に直面した者の、深い困惑に満ちていた。
「250年前に、世界の人口の多くが“記憶”になった…もしそれが真実なら、歴史に全く痕跡が残らないなど、あり得ない。何者かが、意図的に、そして極めて大規模に、歴史そのものを改竄、あるいは隠蔽したかお前たちが言う通りその管理人たちが意図的に先を見せなかったとしか考えられん…」
彼は、ゆっくりと二人に向き直った。その瞳には、もはや動揺はなく、この国家的な危機に立ち向かう、指導者としての決意が漲っていた。
「分かった。
お前たちの報告を、最重要機密事項として扱う。
そして、約束しよう。
250年前に多くの人々が“記憶”となったという事実について、我が国アナベルの歴史に、何らかの記録や伝承が残っていないか、国王陛下、そして情報部門のトップであるミレイアにも協力を要請し、徹底的に調査する。
これは、国家の最優先事項とする」
そして、局長は、厳しく、しかし二人を気遣う声で言った。
「だが、その前に、お前たちにはやってもらわなければならないことがある。お前たちの検査だ。
それじゃなくても問題があったんだ。
精神が、過去の記憶に、それもこれほど深く干渉して脳や魂に、どんな影響が出ているか、全く分からん。
すぐに優秀な医療班が到着する。
これは、私の命令として、必ず精密検査を受けるんだ」
その言葉に、二人は頷くしかなかった。
局長は、重い足取りで部屋を去っていく。
彼の背中には、この国の、いや、この世界の歪んだ歴史という、あまりにも巨大な謎を背負ったことによる重圧が、のしかかっているように見えた。
応接間に、再び二人きりになる。
国のトップに全てを報告し、事の重大さを共有できたことで、少しだけ安堵の息を漏らす。
「…本当に疲れた…。頭が思考停止しそうだ」
レンは、ソファにぐったりと身を預けた。
「ええ…。ですが、これで、僕たちだけの問題ではなくなりました」
ネイトもまた、深い疲労感と共に、ソファに身を沈める。
根本的な謎は、何も解決していない。むしろ、深まるばかりだ。
「なあ、王子。検査が終わる頃には、ケイリーや…エオスの奴らも、こっちに来るんだろ?」
「…おそらくは」
「だったらよ、まずは、俺たちに問題がないことを祈って、皆でメシでも食おうぜ。話は、それからだ」
レンは、そう言うと、わざと明るく笑ってみせた。
ネイトもまた、その言葉に、小さく、しかし確かな笑みを返した。
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ストック切れとリアルが忙しく続きをいま書いているところなので次の更新は少し先になると思います。
30話ぐらいで終わる話が終わらなく、50話くらいで終わるかと思ったけど全然終わりが見えずどんどん話が伸びてゆく…小説を書くってこんなに調整が難しいものと思いませんでした。
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