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- 9 - 願いと祈りと選択 1話


――移動日当日。



セラフィナ湖の畔は、しんと静まり返っていた。



西の空にはまだ名残の陽が淡く差し込み、湖面を金色に染めている。



その向こう、東の空には白く輪郭を帯びた月が静かに浮かび、柔らかな光が水面にそっと溶け込んでいた。



湖の奥深くからは、時折、湖に遺された記憶の断片が、光の粒子や、意味をなさない古代文字、そして誰かの思い出の映像となって水面に浮かび上がっては、泡のように消えていく。




それは、幻想的で、どこまでも美しく、そしてなぜかいまは物悲しい光景だった。






出発の時を前に、ティモシー、ジル、サーシャ、ミラ、そして他の研究員たちが、湖畔に集まっていた。



それぞれが、これから向かうべき湖…それぞれの戦場を前に、最後の言葉を交わすために。




最初に口を開いたのは、サーシャだった。



彼は、自身の担当となる祖国の方角を静かに見つめると、仲間たちに向き直った。




「では、私は先に行く。


 …あまり、待たせないでくれよ」




その言葉は、命令でも懇願でもなく、ただ、未来での再会を信じる者だけが発することができる、静かな響きを持っていた。





「ええ。すぐに追いつきますわ」





ミラの隣で、彼女の祖母が優しく微笑む。



ミラもまた、静かに頷いた。





サーシャが努めて明るい声で言う。





「ああ。向こうで会おう。



作戦が終わったら、皆で祝杯をあげるよう。



昨日言ったように、僕の彼女も…一緒にね」






彼の瞳には、恋人を救い出すという固い決意と、仲間たちとの未来への希望が燃えていた。





「いいわね、それ!


 その時は、とびきり美味しいお肉を私が用意してあげる!」




 

ジルが快活に笑い、皆の背中を叩くように言った。





それは、決して「別れ」の挨拶ではなかった。



それぞれの戦場へ向かう、「出発」の挨拶。



そして、全てが終わった後、この場所に、あるいは全く新しい世界で、再び集うことを約束する、誓いの言葉だった。




サーシャが、皆が、そしてミラと彼女の祖母が、それぞれの持ち場へと向かっていく。




ティモシーとジルは、その背中を、言葉なく見送った。






――――陽はすでに高く昇り、湖畔には柔らかな光が満ちていた。




空は雲ひとつない淡い青に染まり、湖面はその空をそのまま写し取ったように、静かで澄んでいた。




岸辺の草花は朝露を乾かしながら、光を受けて微かに揺れている。





ときおり吹き抜ける風が、水面に小さなさざ波を立て、木々の葉をさらさらと鳴らす。その音さえも、静けさの中では心の奥に染み込んでくるようだった。






やがて、湖畔にはティモシーが一人だけ残された。




仲間たちの気配が完全に消えたとき、張り詰めていたものがふっと緩み、抑えていた感情が、静かに彼を支配し始めた。







彼はゆっくりと目を上げ、湖面を見つめた。




そこにはまだ、薄く月の残像が浮かんでいた。





日差しの中にかろうじて残るその白い輪郭を見つめながら、彼の心は遠く離れた故郷へと向かっていく。




あの朝の匂い、笑い声、母の声。






それらが波紋のように胸の奥に広がり、やがて音もなく彼の瞳を潤ませた。





(母さん…ガイたち…手紙は、届いただろうか…)






平民の家に生まれた彼には、高価な映像通信の魔道具などない。




ダニエル所長が手配してくれた、最速の魔道具で送った手紙。



それが、彼が家族に伝えられる、最後の言葉だった。





この国の、いや世界の混乱の中で、無事に届くように手配して貰えただけでもありがたい。




ましてや、返信がもらえる可能性など、万に一つもないことは、彼自身が一番よく分かっていた。





それでも、想わずにはいられなかった。


最後に、もう一度だけ、顔が見たかった。声が、聞きたかった。






「…いつまで、そうやって黄昏ているつもり?



こら、なんて顔してるのよ。まだ世界の終わりは来てないわよ



私が来てびっくりした?みんなに託されたの。



ティモシーひとりじゃ不安だって。」





感傷に沈んでいたティモシーの背中に、聞き慣れた、あっけらかんとした声がかけられた。




ジルだった。



彼女は、ティモシーの隣に立つと、同じように湖を見つめた。




「風邪をひくわよ。さあ、私たちも戻りましょう。これからが本番なんだから」



「…うん。心配をかけてごめん」




ティモシーは、力なく頷き、ジルと共に、研究所の居住区へと続く小道を歩き始めた。








月明かりが照らす道を、二人はしばらく無言で歩く。





その沈黙を破ったのも、やはりジルだった。







「あっ、ティモシー違うわよ?



 役目を果たせないって心配してるわけじゃないわ



一番つらいところにティモシーが補うことになったでしょ?



だから、みんな罪悪感を持っただけよ」






「特にサーシャとミラが心配してたし、悪いって思ってたのよ。



ほら、サーシャなんて恋人に会いに行けるから浮足立ってたし。



ミラだってなんだかんだおばあちゃんとずっと一緒にいられるって安心してたからティモシーが一人ぼっちで寂しいんじゃないかって。



だからね、能天気で底抜けに明るい私が居たらあなたはひとりで泣かないでいられるだろうって



泣いてない?本当に?とっても死にそうな顔してたわよ」






ジルの言葉にティモシーは何と答えていいかわからなかった。


そんなティモシーの様子も気にせず、ジルは続けた。





「そういえば、うちの親から、さっき通信があったわ」



「え…?」




「『せいぜい国の、いいえ世界の役に立ってきなさい。


 それから、くれぐれも運動不足で体調を崩したり、ストレスで周りに迷惑をかけたりしないように』ですって。





最後まで、心配することがズレてるのよ。



悲壮感なんて、欠片もなかったわ」





ジルは、本当に心底呆れたというように、カラカラと笑った。




その、あまりにも悲壮感のない、いつも通りのジルの様子に、ティモシーの心に張り詰めていた糸が、ふっと緩んだ。





そうだ。




皆、それぞれの形で、それぞれの家族との関係の中で、この現実に立ち向かっているのだ。



自分だけが悲劇の主人公のように感傷に浸っている場合ではない。




ジルの、ある意味ドライで、しかし力強いその在り方が、ティモシーの肩から、余計な力を抜き去ってくれた。





「…ははっ。ジルのお父様と、お母様らしいや」






ティモシーの口から、久しぶりに、心からの笑みがこぼれた。





「でしょ? まあ、そんなものよ、家族なんて」







ジルは、にっと笑うと、ティモシーの背中を力強く叩いた。






「大丈夫。安心して。



 私がついてるのよ?失敗するわけないじゃない



 終わる迄引き込まれないように支えるんだから大船に乗った気でいていいのよ。




 まあ、終わったら引き込まれて飛ばされちゃってもいいし、そこから旅するのもいいと思わない?



たぶんベネットはいま旅していろんなものを見て…もしかしたら興味が向きすぎてこちらの事忘れて没頭してしまっているかも知れないでしょ?




彼女ならあり得ると思わない?




それに、向こうでみんなが何かやってるでしょ?



たぶん、クリスとかはお店を湖の中に作る方法とか考えてると思うのよね。




だから終わったら美味しいものを食べてもいいし、気楽に行きましょうよ。」






あまりの言い草にティモシーが驚いて思わず笑ってしまう。




「…うん。ありがとう、ジル」





ティモシーは、真っ直ぐに前を向いた。




その瞳には、もう迷いや感傷の色はなかった。



あるのは、世界の運命を、そして仲間たちの未来を背負う、強い覚悟だけだった。






「行こう。僕たちも準備を――」






二人は、これから始まる壮絶な戦いに向けて、気持ちを新たにする。




夜空の月だけが、その静かな決意を、いつまでも見守っているかのようだった。








――――――――――








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