- 7 - 深淵と魂の叫び 3
――レンとネイトの周囲の景色が再びゆっくりと歪み始める。
今までと異なり移動させられるのではなく、彼らの前後にティモシーたちがベネットの準備を待つ湖畔と、ベネットがモイラへと湖の深淵へと引きずり込まれていく様子が展開された―――
・
湖の深淵へと意識を沈めたベネットは、まず自身が管理するレオントポディウムの広大な天然の記憶の湖の回路に接触した。
それは、無数の知識と記憶が複雑に絡み合い、さながら神経網のようにレオントポディウム全土に張り巡らされた、巨大な情報網だった。
彼女はその回路を慎重に辿り、遥か東方に位置する「モイラ」…
そのおぞましい魔力の奔流へと、意識の触手を伸ばし始めた。
それは、嵐の海に小舟で漕ぎ出すような、あまりにも無謀な試みだった。
モイラから発せられる負の魔力は、レオントポディウムの湖の清浄な水とは比較にならないほど濃密で、ベネットの精神に直接的な圧力をかけてくる。
頭痛、吐き気、そして言いようのない不安感。
だが、ベネットは持ち前のマイペースさ…あるいは、管理人業務で培われた精神的な強靭さで、それらを冷静に分析し、自身の意識を保ちながら、慎重にモイラの深層へと潜っていく。
湖の外、水盤にはモザイク状のノイズが激しく明滅し、時折、断片的な映像や、意味をなさない音声がティモシーとジルの元へと流れ込み始める。
それは、ベネットがモイラの浅瀬で感知している、無数の魂の叫びの断片だった。
『返せ…!』
『見てたくせに…!』
『痛い…助けて…!』
『どうして…どうして私たちが…!』
「ベネット…!」
ティモシーが、水盤に映し出されるおぞましい光景と、そこから響いてくる怨嗟の声に耐えきれず叫ぶ。
「ティモシー、しっかりしなさい! ベネットを信じるのよ!」
ジルが彼の肩を掴み、叱咤する。彼女自身も顔面蒼白だったが、気丈に振る舞っていた。
ベネットの意識は、さらに深くモイラの中心へと進んでいく。
そこは、まさに魂の墓場、あるいは地獄そのものだった。
無数の魂が、黒い乾留液のような負の感情に囚われ、互いに絡み合い、苦しみ、叫び続けている。
それがモイラの力の源泉であり、そして、世界を侵食する呪詛そのものだった。
(――これが、モイラ…。なんておぞましい―――
取り込まれた魂たちの怨嗟が、湖そのものになっているかのようね。
まるで、巨大な生きている墓場のようだわ…)
ベネットは冷静に分析しようとするが、その情報量と負の魔力は想像を絶していた。
彼女の精神が、少しずつだが確実に摩耗していくのを感じる。
『お母さん…どこ…?』
『寒いよ…暗いよ…』
『嘘だったんだ…全部…!』
『まだ足りないのか…? これ以上、何を奪う気だ…!』
『苦しめばいい…お前たちも…!』
その混沌とした意識の奔流の中に、ひときわ強く、しかしどこか儚い光を放つ意識の断片を感じ取る。
彼女の精神がそれに触れた瞬間、記憶と感情が泡のようにガラス玉のような状態で様々な姿を映し出している。
それは、怒りや憎しみといった負の感情だけでなく、深い悲しみと、そして微かな…しかし確かな愛情の光も宿していた。
それが、モイラの管理人である「ノルン」の意識だった。
ベネットは、全神経を集中させ、そのノルンの意識へと慎重に接触を試みる。
まるで、嵐の中で小さな灯火を守るように。
(――見つけた…。これが、ノルン殿の意識。
――― でも、あまりにも多くの魂の叫びに埋もれて…)
彼女がノルンの意識の表層に触れた瞬間、彼の記憶と感情が、濁流のようにベネットの精神へと流れ込んできた。
破壊と殺戮、悲しみ、そして激しい憎悪と後悔――。
そして、レンたちも追憶したノルンの記憶で見た最後の瞬間の絶望の瞬間も―――
・
ノルンの意識は、まるで水底を漂いガラスのような泡を見続けているだった。
その表面には、断片的な映像が次々と映し出されては消えていく。
美しい妻の微笑み、無邪気な子供たちの寝顔、故郷の穏やかな風景。
それらは、水面の揺らぎのように儚く、触れようとすれば霧散してしまう。
『…ああ…まただ…この、悪夢のような光景の中で…』
ノルンの混濁した声が、水底から響いてくる。
ガラス玉の表面に、黒と赤の奔流が渦巻き、家族の幻影を飲み込もうとする。
『一瞬だけ…妻の顔が見える…息子の…娘の小さな手が…
ああ会いたい。抱きしめたい…』
彼は、自分が守りたかったはずの者たちが、今や自分自身が成り果てたこの地獄のような湖の中にいるという事実に、まだ完全には気づいていないようだった。
ただ、言いようのない喪失感と、胸を締め付けるような苦しみが、彼の意識を支配している。
・
ガラスのように冷たい光が、またノルンの視界の奥にひび割れながら広がっていく。
それは誰かの記憶。
既に名を持たぬ、けれど強烈に焼きついた「かつて」の光景。
燃えていた。
夕暮れではなかった。街が、燃えていた。
石造りの路地が、崩れたアーチが、逃げ惑う人々の叫びが、すべて、朱に染まっていく。
空に向かって崩れ落ちる尖塔。広がる黒煙。
湖のような巨大な魔力汚染――その中心に、震える魂の叫びがあった。
ノルンはそれを、風のように通り抜けながら見ていた。
痛みが、直接、彼の精神に叩きつけられる。
感情ではなく、毒のような震え。記憶が剥き出しの棘となって刺さる。
その映像は、ベネットの精神にも直接的な痛みとして伝わってくる。
かつて、オルタンシアの上層部が行ったこと。
天然の湖では足りぬと、魔道の力に適した人工湖を次々と犠牲にし、
遥かなる木の実を宿したモイラに"飲ませて"いった。
意図的な暴走。
意図的な供犠。
巨大な霊脈を繋ぎ、怒りの根を張らせるように。
ノルンは一歩踏み込む。
そのとき、記憶の中に"彼女"がいた。
かつて"モイラ"だったもの。
制御不可能な存在へと変質し、全てを恨み湖に沈められた女性。
……敬虔な女性だったと。
誰よりも優しかったと。
ただ遥かなる樹の実との相性が良かっただけ。
自分と同じような理由でこの湖に囚われた女性。
ノルンの胸が軋む。
湖底のような感情。怒りとも悲しみともつかぬ、重く濁った深淵。
ノルンとて管理人と言いながらも管理される側である。
魔道回路の異常というその特異性を利用され、管理人となる精神体となり、
意識を封じられ、道具として枷を嵌められた存在でしかない。
ノルンの彼の意識が途切れるたび、
モイラを中心に構成する怨嗟たち――歪んだ花のような、魂の残滓が、暴力的な色を帯びて咲き誇る。
モイラの、死者たちの怒りが、ノルンの魔力を媒介に、外界へと溢れていた。
それは、もはや彼の意志ではなかった。
モイラそのものが動いていた。
憎しみで染まった湖が、すべてを飲み込み、焼き尽くそうとしていた。
ノルンは、深く息を吐く。
ノルン自体も気を抜くと意識が怒りに飲まれてしまうことはわかっていた。
身を業火で焼かれ続けるような痛みと身体に張り付く茨に理性など忘れてしまったかのように憤怒に取りつかれる。
ノルンの、モイラの怒りと絶望が、ベネットの精神を直接揺さぶる。
ノルンの精神体を囲う魔法陣が、ゆっくりと明滅を繰り返す。
淡く灯る輪の内側に、形を歪めた魂の残滓たちが、毒に似た色を纏って蠢いていた。
花のようでいて、花ではない。
人の形を模しながら、どこかが欠けていた。目が、口が、名前がない。
それらはただ、ひとつのことを求めていた。
届かぬ声。訴え。怨嗟。
けれどその声は、魔法陣の内には届かず、揺れる光の外側で、影のように滲んでいく。
ベネットの精神にも、その震えが響いていた。
ノルンの怒りと絶望は、言葉にすらならぬうねりとなって、彼の奥底を揺らしていた。
ベネットは、幾重にも編まれた痛みの層を突き抜けながら、自らを保つための淡い光の魔法陣を展開しながら、さらにノルンへと近づき自分たちの領域に近づけないようにしながら、必死に彼の意識に呼びかける。
そして――
その最奥に浮かぶ"ガラス玉"が、微かに揺れる。
歪んでいた映像が、ふと、一瞬だけ透明になる。
そこにあったのは、戦場ではなかった。
火の手も、血の跡も、なかった。
あたたかな陽だまりの下、誰かが笑っていた。
机の上の皿、編みかけの毛糸、壁にかかる季節の飾り。
小さな声。かすれた歌。木の床を歩く足音。
それは、ただの「日常」だった。誰かが守りたかった光景。
ノルンの魔法陣が一瞬、微かに脈打つ。
彼の表情にはまだ変化はない。けれど、
深い水底で、ひび割れるような音がした。
魂たちの咆哮の中に、それはあった。
何かを呼ぶ声。懐かしい音。
耳ではなく、心の奥底に滲んでくるもの。
それは狂気の色に染まった意識の中に、
細い、けれど確かな亀裂を刻んだ。
“なぜ……ここに……”
“なぜ……外ではなく、中に……?”
言葉ではない。
ただ震える感覚。
痛みではない苦しみ。怒りではない哀しみ。
ベネットは息を飲む。
ノルンの指先が、わずかに揺れた。
――揺らいでいる。
意識の断層の向こうで、何かが今、目を覚ましかけている。
魔力の流れがわずかに変わる。
その一瞬を、ベネットは、微かな揺らぎの変化――モイラの侵食が一時的に緩んでいることに気づき見逃さなかった。
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