- 7 - 深淵と魂の叫び 1
――レンとネイトの周囲の景色が、再び虹色の光の粒子に包まれ、揺らぎ始める。のだった。
彼らは、魔道大国レオントポディウムが下した苦渋の決断と、その背景にある深い葛藤を、まざまざと見せつけられたと思えば、再びベネットのいる湖の畔へと戻された。
そこではティモシーが、世界の危機とオルタンシアの狂気、そしてモイラという人工の湖の恐るべき実態を、途切れ途切れに、しかし必死にベネットに伝えようとしていた、まさにその時だった。
ティモシーの手にしていた通信魔道具が、静かに振動を始めた。
ダニエル所長からの緊急連絡だった。
『ティモシーか? 聞こえるか』
魔道具から、ダニエルの疲労と緊迫感を滲ませた声が響く。
ジルもティモシーも、そして精神体としてそこに佇むベネットも、息を詰めてその言葉に耳を傾けた。
『――先ほどの最高評議会で、方針が決定された。
詳細は追って送るが、概要を伝える。
我々レオントポディウムは、全力を以てモイラの脅威に対処する。
ベネット、君の管理する湖の力を中核とし、国内の全ての天然の記憶の湖を接続、モイラを包囲し、その活動を完全に停止させる。
これは、我々に残された最後の手段だ』
ベネットは、そのあまりにも重大な報告を、いつものようにどこか眠たげな、マイペースな表情で聞いていた。
世界の命運を左右する作戦の中心に据えられたというのに、その様子に焦りや動揺の色は見えない。
『だが、モイラへの直接的な攻撃は、更なる暴走を招く危険性も否定できない。
ゆえに、まずはモイラへの接近と調査を最優先とする。
ベネット、君にはその調査チームの指揮を執ってもらうことになる。
同時に、万が一の事態に備え、協力可能な他の湖の管理人、そしてモイラに乗っ取られそうになっている人工の湖に、新たな管理人を送り込む準備も進める。
…一つの湖に複数の管理人を配置するという案も出たが、それは最終手段として保留となった』
ティモシーとジルは、驚くに目を見開き喉を鳴らした。
亡命研究者の告白と、刻一刻と悪化する世界の状況、そして今ダニエル所長から伝えられた作戦の壮大さと危険性に、改めて身が震える思いだった。
しかし、ベネットはのほほんとした口調で答えた。
「あら、そんなことになっていたのねぇ。
わたくし、ここ数日、500年くらい前のどこかの国の研究者の記憶を読んでいて、最近はあまり外の様子を見ていなかったから、全然気づかなかったわ」
その言葉に、ティモシーとジルは驚きに思わず声をあげそうになる。
「ベネット…! 世界が滅ぶかもしれないという時に、何を呑気な…!」
ティモシーが悲痛な声を上げる。
「あら、ティモシー。慌てても仕方ないでしょう?
それよりダニエル、その作戦、わたくしに必要なものは何かしら?
それと、準備期間はどのくらいいただけるのかしら?
あまり急かされるのは好きじゃないのよ」
ベネットは、まるでピクニックの準備でもするかのように、落ち着き払った様子でダニエルに必要な情報を確認していく。
『…ベネット、君のその平常心にはいつも救われるよ。
必要な人員、資材は全てクロノドクサが手配する。
準備期間は…正直、あまり残されていない。
可能な限り迅速に頼む。
詳細は今から送る。
ティモシー、ジル。
君たちはベネットの指示に従い、作戦の準備を全力で補佐するように』
ダニエルの声には、安堵と、そして変わらぬ緊張感が混じっていた。
「はいっ!」
「承知いたしました!」
ティモシーとジルは、背筋を伸ばして返事をした。
ダニエルとの通信が切れると、湖畔には再び静寂が戻った。
しかし、その静寂は、先ほどまでのものとは異なり、これから始まるであろう壮絶な戦いを前にした、嵐の前の静けさのようだった――――
ティモシーとジルは、不安と緊張でこわばった表情でベネットを見つめていた。
そんな二人に対し、ベネットは、まるでお茶会にでも誘うような気軽さで言った。
「さて、と。それじゃあ、わたくしも少し準備をしないといけないわね。
少し時間がかかるから、ティモシーとジルは、そこで待っていてちょうだい」
そう言うと、ベネットはふわりと宙に浮き、湖の中心へと戻ろうとする。
「あ、そうだわ」
ベネットは何かを思い出したように振り返ると、ティモシーに向かってにっこりと微笑んだ。
「ティモシー、あなた、昔から魔道列車が好きだったでしょう?
この間、湖の記憶を整理していたら、大昔の魔道列車の模型の設計図を見つけたのよ。
とても精巧で、きっとあなたなら喜ぶと思って。
準備ができるまで、これを読んで待っていてちょうだい」
「えっ?」
ベネットがそう言うと、彼女の足元の水面から、輝く水盤がゆっくりと浮かび上がり、ティモシーの手元へと滑るように移動した。
水盤には、古びた羊皮紙に描かれた、複雑で美しい魔道列車の設計図が映し出されている。
「これは…!」
ティモシーは目を輝かせた。
彼の数少ない、そして純粋な趣味の一つが、魔道列車だったのだ。
この緊迫した状況の中で、叔母が自分のことを覚えていてくれたこと、そしてこんなプレゼントを用意してくれたことに、彼の心は温かいもので満たされた。
「でも、ベネット!緊急事態です! 僕たちも準備の手伝いを!」
焦るティモシーにベネットがおおらかに答える。
「あら、ティモシー。
準備って心を穏やかにするのも準備の一つよ?
あなた、疲れているのではないかしら?
顔色が悪いわ。
だめよ?焦っては。うまくいくこともうまくいかなくなってしまうわ。
だから、いまあなたがすべきことをその設計図を見て心のゆとりを取り戻すことよ?わかったかしら?
そうね。ジルは、どうしようかしらねぇ」
ベネットはティモシーからの返事も待たず、今度はジルに向き直る。
「あなたは、じっとしているのは苦手でしょう?
隣の庭園なら、少し走るくらいのスペースはあると思うわ。
準備ができるまで、軽く運動でもしてきたらどうかしら?
きっと気分も晴れるわよ」
「え…あ、はい! そうさせていただきますわ!」
ジルは、一瞬戸惑ったものの、すぐにいつもの快活な笑顔を取り戻した。
確かに、この重苦しい空気の中でじっとしているよりは、身体を動かした方が気分転換になるだろう。
ベネットの、あまりにもいつも通りなマイペースさに、緊張でこわばっていたティモシーとジルの心も、少しだけ解きほぐされたようだった。
「わかりました。ベネット、言葉に甘えさせていただきます」
「ベネット、ありがとうございます!」
ティモシーは、受け取った魔道列車の設計図が描かれた水盤を手に、近くのガゼボへと向かった。
ジルは、軽く準備運動をすると、隣接する幻想的な水中庭園へと駆け出していった。
ベネットは、そんな二人を優しい目で見送ると、再び湖の中心へと意識を沈めていった。
彼女の周囲を、湖に住む記憶達が笑いながら走り抜けていく。
そんな記憶達の姿を笑顔で見送りながら、これから始まるであろう戦いに備えるかのように、静かで、しかし強大な魔力が渦巻き始めていた。
・
「――人というのは数百年くらいではあまり変わらないのですね」
ネイトが口を開く。
「ああ、そうだな。
魔道具の種類の豊富さや生活に関しては格段に過去の方が豊かだが――
人が人を思う気持ちは変わらないものだな―――良い面でも悪い面でも」
レンがティモシーや走って行ったジルに視線を送る。
絶望的な状況の中にも、確かな絆と、そして一筋の希望を見出すレオントポディウムの人々の姿を垣間見た。
「誰かが、欲を持ちすぎなければこんなことには――――」
そう、どちらでもなく口にすると、レンとネイトの周囲の景色が、再びゆっくりと歪み、虹色の光の粒子が舞い踊る。
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