- 6 - 記憶と想いの池で 3
レンとネイトの意識が、再び虹色の光の粒子に包まれた。
そこは、先ほどの湖底庭園とはまた趣が異なる、静謐な空間だった。
忘れられた古の庭園とでも言うべきだろうか、眠るように佇む水中花が水に揺れ、淡い光を宿す苔の小径が、どこまでも続いているように見える。
そして、ひび割れた石畳と朽ちかけたアーチの間を、音もなく漂う無数の透明な虹色の泡が、ゆっくりと水の中を舞っていた。
それらは何かを語りかけるように、しかし決して言葉にはならず、光の屈折に身を委ねては、虹のような輝きを一瞬だけ灯して舞うように移動していく。
「……また、別の記憶か。今度は何を見せられるんだか」
レンが疲労を含んだうんざりした声で吐き捨てると、ネイトも緊張した面持ちで周囲を見回した。
時が止まったような湖底の世界で、美しくも儚く、静かでありながら確かな重みを持つその光景は、まるで夢の欠片そのものだった。
その中の一つ、ひときょう大きな虹色の泡が、ふわりと二人の方へ近づき、まるで意志を持っているかのように目の前で揺らめいた。
抗う間もなく、泡は二人に触れ、パチンと音を立てて弾けた。
瞬間、再び強烈な光と情報の奔流が二人を襲い、―――ノルンという男の悲痛な記憶の残滓が薄れゆくとともに、意識は250年前の魔道大国レオントポディウムへと誘われる。
目の前にはまた異なる景色が広がり始める。
・
250年前の記憶――魔道大国レオントポディウム・クロノドクサ研究所 緊迫の会議室
レンとネイトが次に知覚したのは、
次にレンとネイトが意識を取り戻した時、彼らはレオントポディウムが誇る魔道具研究所「クロノドクサ」の会議室にいた。
高い天井、壁一面に並ぶ複雑な魔道具の制御盤、そして窓の外には、天然の記憶の湖が穏やかな陽光を反射してきらめいている。
しかし、その平和な光景とは裏腹に、研究所内には緊迫した重苦しい緊張感が漂っていた。
窓の外には、依然として穏やかな記憶の湖が広がっているが、室内に集うダニエル所長、ティモシー、ジル、サーシャ、ミラたちの表情は、ティモシーもジルも庭園であった時よりも格段に険しい。
中央の円卓には、大陸各地からもたらされた報告書が山積みになっている。
「――オルタンシアの動きが、ますます看過できなくなってきたな」
所長らしき壮年の男、ダニエルが、大きな円卓を囲む研究員たちに厳しさと疲労を滲ませた声で切り出した。
その顔には深い憂慮の色が浮かんでいた。
「各地の"記憶の湖"を巡る攻防は激化の一途を辿り、東の大国オルタンシアは周辺諸国を次々とその支配下に置こうとしている。
表向きの文化尊重とは裏腹に、侵略の手を緩めていない。
我が国への直接的な侵攻こそ、結界によって防げてはいるが、彼らが狙っているのは、我々の持つ叡智。 "記憶の湖"そのものだ。
我が国の結界維持は変わらず最優先事項だが、何かしら攻撃を仕掛けてくるのも時間の問題かもしれん」
研究員の一人、まだ若いが怜悧な瞳を持つ少女が手元の資料から顔を上げた。
「オルタンシアが開発を進めているという"兵器用"の人工記憶の湖…
その危険性については、依然として情報が錯綜しています。
ですが、一部の地域では、湖が死の池と化し、砂漠化が進行しているとの未確認情報も…」
隣に座る、まだあどけなさの残る青年――年齢などはほぼ変わらないのに別人と評しても過言がないような姿のティモシーが、心配そうに眉を寄せる。
「ミラ…それは本当なの?
兵器用の人工の湖なんて…?
そんなことが可能だとしても、自然の摂理に反するのでは…」
その声は、先ほどの彼からは想像もつかないほど、純粋な優しさに満ちていた。
ミラは、ティモシーに胡散臭げな目を向けつつも、厳しい現実を告げる。
「ティモシー、残念ながら、オルタンシアは手段を選ばないと思う。
彼らにとって、記憶の湖は支配のための道具でしかないのよ。
その過程で、どれだけの犠牲が出ようとも…」
その時、部屋の扉が慌ただしく開き、研究員のジルが息を切らして飛び込んできた。
「所長! 緊急報告です!
オルタンシア領内で、未確認の大規模な魔力反応を確認!
"テロ"との情報も流れていますが、その被害は甚大で、周辺の都市機能が麻痺している模様です!」
ダニエル所長は顔を険しくする。
「"テロ"だと?
オルタンシアめ、また何か良からぬ実験でも始めたか…サーシャ、ミラ、至急、オルタンシア方面の観測の記録を解析! 詳細な情報を!」
まだ研究所1,2と言われる穏やかだが手段を択ばないサーシャと、優秀過ぎて幼少期にここに連れてこられたミラの二人が、即座に指示を受けて飛び出していく。
その数日後、世界は更なる衝撃に見舞われる。
・
オルタンシア領内で発生したとされる"テロ"は、テロなどと呼ぶ規模ではなく、厄災、怪異と表現したほうが正しかった。
瞬く間にその規模を拡大させ、周辺国を――――いや、世界をも巻き込む未曾有の大破壊を引き起こしたのだ。
それは、先ほど見たノルンの記憶で垣間見た、黒い湖と炎の光景の始まりだった。
人々は原因も分からぬまま、突如として現れたその厄災を「モイラ」と呼び、恐怖に震えた。
クロノドクサの所長室では、ダニエルと現魔道大国の最大動力である記憶の湖の管理人たち、そしてティモシーたち研究員が、連日もたらされる断片的な情報に頭を抱えていた。
「これが…オルタンシアの言う"人工記憶の湖"のなれの果てだというのか…?」
ダニエルは苦渋に満ちた声で呟く。
ティモシーが、血の気の引いた顔をしている隣でサーシャが報告を続ける。
「それだけではありません、所長。
オルタンシア領内で発生していた原因不明の魔力暴走…当初"テロ"として処理されていたものが、ここ数日で急速にその規模を拡大させています。
もはや"テロ"などという生易しいものではなく、広範囲の他の湖まで取り込み、多くの街を飲み込んで行っているようです。
――都市機能が麻痺などという生易しい状態ではなく、全く連絡が途絶えて―――場所によっては土地ごと消えているなど甚大な被害が出ている模様です」
「私も確認しました」
ミラが同意する。
サーシャが、冷静な口調ながらもその声に隠せない動揺を滲ませて付け加える。
「観測魔道具の記録によれば、魔力反応の中心は、オルタンシアが極秘裏に研究を進めていたとされる"人工の記憶の湖"の位置と一致しました。
ですが、その魔力…と表していいのか、彼らが使っている動力の奔流は、もはや人間の手に負えるものではありません。
まるで…まるで、湖そのものが意志を持って暴れ狂っているかのようです」
皆が息を呑む。
ティモシーの純粋な瞳には、信じられないといった色が浮かんでいた。
ミラが腕を組み、忌々しげに吐き捨てる。
「だから言ったじゃないの!
オルタンシアの連中が、まともなものを作るわけがないって!
きっと、また何か禁断の技術に手を出したに決まってるわ!」
その言葉を裏付けるかのように、世界は絶望的なニュースに包まれた。
オルタンシア領で発生した厄災は「モイラ」と名付けられ、その圧倒的な破壊力でオルタンシア本国を蹂躙し尽くした後、さらにその触手を広げ、瞬く間に世界の三分の一近くを飲み込み、焦土へと変えたのだ。
大地は裂け、空は赤黒く染まり、かつて豊かな緑に覆われていた土地は、死の沈黙に支配された。
原因も分からぬまま、突如として現れたモイラの脅威に、人々はパニックに陥った。
「神の叡智を人間が欲張り欲したことへの天罰が下ったのだ」と、終末論を唱える者も現れ、世界は深い混乱と恐怖に包まれた。
そんな中、クロノドクサに、一縷の望みとも、更なる絶望の予兆とも言える情報がもたらされる。
そんな混乱の中、ある日、クロノドクサの門を叩く者が現れた。
やつれ果てた姿の、しかし瞳の奥に強い意志を宿した一人の研究者だった。
彼は、オルタンシアで人工の記憶の湖の研究に強制的に従事させられていたが、その非人道性とあまりにも危険な実態に気づき、命からがらレオントポディウムに亡命してきたのだという。
彼は、レオントポディウムに保護を求め、その見返りとして、知りうる限りの情報を提供することを約束した。
ダニエルとサーシャが、厳重な警戒のもと、その亡命研究者とクロノドクサの最深部にある尋問室で面会した。
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