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- 6 - 記憶と想いの池で 2


強烈な記憶の奔流から途絶えると同時にレンとネイトは、今は冷たく濡れた石畳の上で激しく喘ぎながら、しばし動けなかった。






そんな中でも先ほどの幻想的には舞う透明な泡が、光を受けて虹色にきらめき、記憶の池の水面は、何事もなかったかのように静かに揺らめいている。









「……はっ…はぁ……、今のは……」









レンは額に滲む冷や汗を拭い、荒い息を整えようとする。






あれは以前見た夢だ。それよりも鮮明になっていた。





他人の記憶、それも極めて過酷な運命を辿った男の最期を、まるで自分のことのように鮮明に追体験させられたのだ。





後味の悪さと、言いようのない疲労感が全身を襲う。








ネイトもまた、青ざめた顔で胸を押さえていた。







「…あまりにも、鮮明すぎる記憶でした…。



あの苦しみ、絶望、そして…家族への想い。




まるで、魂が直接触れ合ったかのようで…」







彼の瞳には、深い動揺と、そして男の運命に対する痛切な共感が浮かんでいた。



2人は湖の管理人になった男の絶望と愛情、そして人としての最期が、まだ生々しく魂に焼き付いている。








「……あれは…」





レンが掠れた声で呟く。




その顔には普段の皮肉な笑みはなく、深い疲労と、あの日見た夢と何かを悟ったような険しさが浮かんでいた。






ネイトもまた、青白い顔でゆっくりと身を起こした。






「あまりにも…あまりにも悲痛な…。





――彼が、あのティモシー殿の言っていた"モイラ"の核になった人物…管理人。いえ、ノルン殿なのですね」








「…どうやら、お目覚めのようね」









いつの間にか、ジルが二人の傍らに立っていた。


その表情は、先ほどの悪戯っぽいものではなく、どこか物悲しげだ。








ジルは、そんな二人に同情と、どこか共犯者のような複雑な眼差しを向けた。








「今のが、250年前、"モイラの厄災"が生まれた経緯の一端よ。



そして、あの記憶の主こそが、モイラの管理人となった人物…。




"モイラ"の核とは違うわ。


ただ"モイラ"の管理人に最後に任命されてしまった、本来はただの心優しい男だったノルンの人だった頃の最後の記憶で―――"モイラ"とはまた別というか…」









ティモシーも、少し離れた場所から静かに二人を見つめている。



その感情のない瞳の奥に、ほんのわずかな揺らぎが見えたような気がしたが、それはすぐに消えた。







そして、静かに口を開いた。







「これで理解できたかな。


君たちが接触していたものが、どれほど危険で、そして悲しい存在なのか」









その声は相変わらず平坦だったが、先ほどよりもわずかに感情の揺らぎが感じられるどこか遠い過去を悼むような響きを帯びていた。








「君たちが見たのは、ただの断片だ。


だが、あの時代を理解するには十分だったかもしれない。


……250年前、この世界は欲望と狂気に満ちていた」








ティモシーは、まるで遠い昔の絵物語を語るように、ゆっくりと話し始めた。








「当時、大陸には二つの大きな流れがあった。



一つは僕らの祖国、南の魔導大国レオントポディウム。







僕らは複数の天然の叡智の湖とも呼ばれる"記憶の湖"を持ち、その恩恵によって豊かな文化と高度な魔道具技術を築いていた。



表向きは穏やかで争いを好まなかったが、湖を守るための軍事力と、湖の秘密を守るための結界技術は他国を圧倒していた。



一部の魔道具使用者や研究者の入国を厳しく制限するほどにね」








ジルが、ティモシーの言葉を引き継ぐように補足する。








彼女の口調は、まるで昨日あったことを話すようにも聞こえた。







「そしてもう一つが、東の大国オルタンシア連邦国家。



彼らはレオントポディウムの地位を虎視眈々と狙っていた。



広大な国土と、僅かながら天然の記憶の湖も持ち、小国を併合しながら力をつけてきた国よ。



表向きは"お互いの文化を尊重する"なんて綺麗事を並べていたけれど、その実態は年々きな臭くなっていたわ。



近隣諸国との争いは絶えず、何より彼らは、一般に認められた方法ではない禁断の技術での…"人工の記憶の湖"の制作に手を染めていたの」








レンが眉をひそめる。








「禁断?人工の記憶の湖に種類があるのか…? そんなものが可能なのか」



「可能よ。でも、それは多大な犠牲を伴うものだった」








ジルは苦々しげに続けた。









「オルタンシアは、そのために様々な非人道的な方法を試し、結果として一部の土地は死の池と化し、砂漠が広がった。




そんな場所に住むのは貧しい人々ばかり。




上辺だけの政策で誤魔化し、根本的な解決など考えてもいなかった。




彼らにとって大事なのは、レオントポディウムから"叡智からできた記憶の湖"の情報を奪い取り、覇権を握ることだけだったから」









ティモシーが再び語り始める。









「その頃、オルタンシアの北にはイベリス、キルシュム、ローレル、セラタといった小国があった。





イベリスは君たちも知っているだろ?

優しい雨が降り注ぐ小国の別名だ。






小さな天然の記憶の湖を持ち、穏やかに発展していたが、新たな魔道具技術の流入が軍部の一部を増長させた。





イベリスは近隣諸国を飲み込み、領土拡大を目論んだ。それが当時の100年ぐらい前。君たちの感覚だと300年以上前の話になる。





だが、オルタンシアが開発したさらに強力な魔道具の前に無惨に敗れ、その支配下に置かれることになる。




かつて光の海の大陸と呼ばれたこの地も、オルタンシアの野望によって戦乱の渦に巻き込まれていったのだ。





君たちの国、アナベルも、その歴史の荒波の中でかろうじて存続してきたに過ぎない」








ネイトは息を呑んだ。




自分たちの知る歴史の裏に、これほど壮絶な物語が隠されていたとは。








「では…我々が見たノルン殿の記憶は、そのオルタンシアが起こしたの戦争の最中に…?」



「そうだね」








ティモシーは頷く。







「記憶の湖を巡る攻防は激化し、各国は湖の力を兵器として利用しようと躍起になっていた。




オルタンシアも例外ではなかった。




天然の湖とは別に、彼らもまた、レオントポディウムに対抗するために"兵器になる人工記憶の湖"の研究を進めていた。




その一つが、後に"モイラ"と呼ばれることになる湖だ。




当初、その湖の管理人はそこまで適性が高い者ではなく、時折起こす暴走も、まだテロとして処理できる範囲だった。








だが、戦況は混乱を極めて――――オルタンシアが思ったほど彼らが望む状態に進まなかった。





自分たちへの脅威が目前に迫る中で、オルタンシアはより効果がある方法として今までの軍人の中から選ぶ方法ではなく、国にいるすべての民からより適正の高い者を管理人として使う手に打って出た」







ジルが目を伏せる。








「それが、ノルンだったの。





彼は、誰よりも湖との適性が高かった。それに――――







いえ、だから国の…



いいえ、一部の権力者たちの傲慢さと欲望のために、彼は人工の記憶の湖の…"管理人"と言っても、もっと歪んだ形で湖そのものに組み込まれてしまった。





モイラという名は、その湖の名称であり、そして、人間としての全てを奪われ、湖の兵器と化した女性の名残でもあったのだけど、ノルンはあまりにも彼女と同調しすぎたの」









レンは、先ほど追体験したノルンの最後の記憶を思い出し、やりきれない思いに息を吐いた。








「……ふざけた話だ。



人間の尊厳を踏みにじって、国を守ったとでも言うつもりか」




「その結果が、世界を破滅寸前に導いたのだから、皮肉なものだね」








ティモシーは淡々と言葉を続ける。







「管理人になる時につけられた枷で自我を失ったノルンは、モイラの絶望と憤怒を増幅させ、オルタンシアを中心に世界の三分の一近くを破壊し、飲み込んだ。




それはもはやテロなどという生易しいものではなく、絶対的な厄災…"モイラ"として、世界を恐怖に陥れたのだ」








重い沈黙が、幻想的な湖底庭園を支配する。水中花が放つ淡い光だけが、ゆらゆらと揺れていた。








ネイトは、ようやく言葉を紡いだ。







「――我々が、古代文を抽出し、"記憶の湖"の情報を求める行為が…その、モイラやノルンを再び刺激する可能性があると…?」






「そうだ」









ティモシーは冷ややかに肯定する。








「君たちが何を目的としているにせよ、その行為は過去の過ちを繰り返す危険性を孕んでいる。




だから、僕たちは君たちをここに引きずり込んだ。





君たちの知識、技術、そして何よりもその"適性"が、再び悲劇を生まないという保証はない」








レンはティモシーを睨みつけた。








「俺たちは、そんな厄災を呼び起こすつもりなど毛頭ない。



ただ、失われた知識を取り戻したいだけだ。




管理人やノルンといった存在など、今日初めて聞いた」






「君たちが知っているかどうかは問題ではない、と先ほども言ったはずだ」








ティモシーの瞳から、感情の色が完全に消え失せる。








「モイラが再び動く理由になるのなら、君たちの存在そのものが危険因子だ。



知らないなら、知らないうちに処分した方が、世界のためには良いだろう」








ティモシーの手のひらに、再びあの不吉な光が集まり始めた。



それは、先ほどよりも強く、濃密な破壊の意思を秘めているように見えた。










「待ちなさい、ティモシー!」





ジルが叫び、ティモシーの前に立ちはだかる。





「まだ話は終わっていないわ!



彼らは、本当に何も知らなかったのかもしれないじゃない!




それに、彼らの適性がもしかしたら何か役に立つ鍵になる可能性だって…!」





「可能性に賭けて、世界を危険に晒すことはできない」









ティモシーの言葉は冷酷だった。








「だったら!」







ジルはティモシーの腕を掴み、そしてレンとネイトに向き直った。



その瞳には、強い決意が宿っている。








「だったら、もう一度だけ、彼らに記憶を見てもらうわ!





今度は、もっと深く…250年前の大戦がどのように始まり、モイラがどうやってノルンへと変貌していったのか、そして、私たちが…このセラフィナ、いいえ、クロノドクサがレオントポディウムだけじゃない世界が、あの時、何が起きて何をしたのか!




それを見れば、彼らもきっと理解するはずよ!





そして、その上で、彼らが本当に危険なのか、それとも…あるいは、私たちに協力してくれるのか、もう一度判断しましょうよ!」








ティモシーは、ジルの言葉にわずかに眉を動かしたが、反論はしなかった。






ジルは、レンとネイトの返事を待たずに、再び二人の背中を押した。







「さあ、覚悟はいいわね!?


今度のは、さっきよりもずっとキツイかもしれないけど、生き残りたかったら、しっかりと目を見開いて見てらっしゃい!」







再び、レンとネイトの体は、光と水の渦巻く「記憶の池」へと、抗う間もなく吸い込まれていった。










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