- 5 - 湖の庭園と 5
水と光の奔流に意識を奪われたレンとネイトが次に感じたのは、柔らかな浮遊感と、肌を撫でる清涼な空気だった。
ゆっくりと目を開けると、そこは先ほどまでの無機質な実験室とは似ても似つかない、幻想的な光景が広がっていた。
目の前には、どこまでも透き通った湖水が広がり、その水面には、美しい幾何学模様を描くように尖塔や浮遊橋が点在している。
それらはまるで、湖畔に佇む美術館のようにも、あるいは天上に浮かぶ空中庭園のようにも見えた。霧と柔らかな光がそれらを包み込み、現実感を曖昧にしている。
そして、自分たちが立っているのは、その湖の底。
しかし、水中であるはずなのに呼吸は苦しくなく、むしろ心地よい風さえ感じられた。
足元には、見たこともない色とりどりの水中花が咲き乱れ、それ自体が淡い光を放ち、周囲を優しく照らしている。
庭園のように整えられた空間を進むと、小さな噴水がリズミカルに水を噴き上げ、その水滴がきらきらと光の粒子となって舞っていた。
ガゼボのような優雅な休息所も見え、研究所とは全く異なる、どこか神聖で美しい場所だった。
「……ここは、どこだ?」
レンが最初に言葉を発した。
その声には、警戒と混乱が滲んでいる。
隣では、ネイトも言葉を失い、ただ目の前の光景を呆然と見つめていた。
その時、噴水の向こうから、二つの人影が静かに現れた。
一人は、色素の薄い髪を風になびかせ、どこか儚げな印象の青年。
年の頃は10代、いや20代前半だろうか。
優しい顔立ちをしているが、その瞳は感情の色を映さず、まるで磨かれたガラス玉のように冷ややかに二人を見据えている。
もう一人は、燃えるような赤い髪を高く結い上げた、快活な雰囲気の美女だった。
彼女もまた二十代前半ほどで、しなやかな肢体には騎士のような精悍さが宿っている。
その美女が、青年の隣に立ち、やや呆れたような、しかし面白がるような表情で二人を見ていた。
「目が覚めたようだね」
青年が口を開いた。
その声は、見た目の柔らかさとは裏腹に、感情の起伏を感じさせない平坦なものだった。
「遺物を介して、君たちは何を求めて彼らに接触しようとしていたのかな?
モイラやノルンに、何の用がある?」
レンは即座に警戒態勢を取った。
「……誰だ、お前たちは。
いきなり訳の分からないことを言っているが、俺たちはあんたたちの顔も名前も知らない。
説明してもらおうか。ここはどこで、何が起きている?」
ネイトも冷静さを取り戻し、青年の言葉の真意を探るように、鋭い視線を向ける。
「モイラにノルン…?
モイラとは過去の大戦の湖に起きた厄災、怪異のことですか?
ノルンに関しては何のことかは分かりかねますが、我々はただ研究所の実験室に居ただけで――――。
それに、彼らに接触とはどういうことでしょうか?
いま突然の地震と、あの水盤の暴走に巻き込まれ…気づけばここに――
あなた方が、何かご存知なのですか?」
赤い髪の美女が、青年の肩を軽く叩いた。
「ティモシー、あなた、いきなり尋問みたいになってるわ。
相手は混乱してるんだから、まずは自己紹介くらいしたらどうなの?」
その口調は貴族の娘らしい丁寧さを保ちつつも、どこか気さくで、威圧感はなかった。
ティモシーと呼ばれた青年は、わずかに眉を寄せたが、すぐに無表情に戻る。
「……失礼。僕はティモシー。
この"湖"の管理人をしている。
そしてこちらはジル。
僕の補佐、そして友人だ」
ジルは悪びれる様子もなく、にこやかに会釈した。
「よろしくね。ジルよ。
まあ、補佐っていうか、この朴念仁のお目付け役みたいなものかしら。
小難しい話は苦手だから、お手柔らかに願うわ」
ティモシーはジルの言葉を意に介さず、再びレンとネイトに向き直る。
「君たちが僕たちの名を知っているかどうかは重要ではない。
問題は、君たちの行為だ。
君たちは、過去の遺物を介して、この世界の深奥、すなわち君たちの世界から過去。
250年前に世界を恐怖に陥れた"モイラ"、そしてその"モイラ"を管理する存在…"ノルン"に接触しようとしていた。
だから、僕たちは君たちを警戒してね。
何のためにそんなことをしているのか聞きたくてここに来てもらったんだ」
その言葉に、レンとネイトは顔を見合わせた。
「モイラだと…?
まさか、本当にあのモイラ祭の元になった、伝説の災厄のことか?」
レンの声には、信じられないといった響きが混じる。
ネイトも驚きを隠せない。
「我々は、本当に古代文を抽出し、『記憶の湖』に眠る太古の情報を求めていただけです。
それが再現・復元できるかどうかの実験段階で、ましてやモイラや、その管理人に接触するなど――。
いえ、そもそも我々に残っている記録では、モイラの存在はともかく"管理人なる人物が存在する。"などといった情報は一切情報が引き継がれておらず、全く知りませんでした」
ティモシーの表情は変わらない。
その冷たい瞳が、二人を射抜く。
「そう。でも君たちが知っていたかどうかは、僕にとっては些細な問題だ。
君たちの行為が、モイラを再び動かす可能性を孕んでいるのなら、それは看過できない。
危険性があるのなら、芽のうちに摘み取る必要がある」
ティモシーの手のひらに、淡い光が集まり始める。
それは、美しいが、どこか不吉な輝きだった。
「知らないなら、知らないうちに処分した方が、後腐れがなくていいだろう?」
「なっ…!?」
「待て…!」
レンとネイトが身構えるより早く、ティモシーの周囲の空気が凍りつくような殺気を帯びた。
その瞬間、ジルがティモシーの腕を掴んで制止した。
「ちょっと、ティモシー!
早まらないで!
彼らが何も知らないのは本当かもしれないじゃないの!」
ジルはティモシーを睨みつけ、それからレンとネイトに向き直る。
その表情は、先ほどの気さくさとは打って変わって真剣だった。
「いい?
あなたたち、本当に何も知らないっていうなら、それを証明してもらうわ。
ティモシー、あなたもいいわね?
彼らに、250年前…大戦と、モイラが何だったのか、その記憶を見てもらう。
その上で、もう一度話し合いましょう。
もし、彼らだって事情を知れば余計な事をせずにこちらに協力してくれるかも知れないでしょ?
早まらないで」
ティモシーはしばらくジルを無言で見つめていたが、やがて小さく頷き、手のひらの光を消した。
「……分かった。ジルの言う通りにしよう。
だが、もし彼らが嘘をついているか、あるいはその記憶を見ても、なお危険だと判断したら、その時は容赦しない」
ジルはため息をつき、そして二人にウィンクした。
「そういうことだから、覚悟はいいかしら?
ちょっと乱暴だけど、一番手っ取り早い方法よ。
さあ、行くわよ!」
言うが早いか、ジルはレンとネイトの背中を強く押し、二人は為す術もなく、足元の輝く水面…
いや、それは水面のように見えて、もっと深く、濃密な何かに満たされた色とりどりの魔力とも抽出のための水盤とも異なる不思議な池とでも呼ぶべき場所へと、真っ逆さまに落ちていった。
――――――――――
ブックマークの追加やいいねやコメント貰えたらすごく喜びます。
物語を書く元気にもなるので応援してもらえると嬉しいです。




